作品タイトル不明
第168話 黒門はまだ開かない
黒い砂が、膝の下で鳴った。
踏み込んだ足裏から、冷えた刃を押し当てられたような感触が這い上がり、俺は肩に食い込む外套の端を握り潰した。虚空国の空は星を呑んだまま沈み、地平の向こうでは、城塞の輪郭だけが骨のように白く浮かんでいた。
その城へ続く一本道の真ん中で、最後の上級悪魔が待っていた。
山のような背中ではなかった。
山なら、まだ自然の形をしている。
そいつは、崩れた塔と腐った獣を、無理やり一つの肉に縫い込めたような姿で、黒い皮膚の下に石の角を何本も沈め、呼吸のたびに胸の裂け目から濁った光を漏らしていた。頭の位置が定まらない。首らしいものが三つも四つも盛り上がり、目玉だけがそれぞれ違う方向を向いているのに、俺が剣を下げた指先だけは、全部の瞳が追っていた。
ぬるい風が、足首を撫でた。
地面に転がっていた骨が、風ではなく、そいつの吐息でずれた。
俺はアストラルフレイムの柄に指をかけ、半歩だけ前へ出た。鞘の内側で炎が低く唸り、掌に熱が灯る。虚空国の冷気がその熱に触れて白くほどけ、俺の袖口から上がった光が、黒い砂に細い筋を刻んだ。
悪魔の腹が裂けた。
口だった。
縦に開いたその奥で、歯が何列も回り、噛み損ねた獲物を探すように空気を削った。喉の奥から響いた音は言葉の形を持たず、石臼で濡れた骨を挽くような重さだけを持って、俺の胸骨を内側から叩いた。
俺は息を吐いた。
熱い。
手の中だけが、やけに熱い。
「退け」
声は、黒い砂に吸われた。
悪魔の右腕が持ち上がった。腕というより、城壁からもぎ取った柱に爪を生やしたものだった。肘の節が逆に曲がり、皮膚の割れ目から細い腕が何本も垂れ、それぞれが俺を掴もうと震えている。
柱が落ちた。
俺は前へ滑った。
背後で地面が爆ぜ、砂と石片が首筋を打った瞬間、アストラルフレイムを抜いた。炎は刃の形にまとまりきる前に、横薙ぎの軌跡で悪魔の垂れた腕をまとめて焼き払う。切断面から噴いた黒い血が、空中で火花になって弾け、焦げた臭いが舌に乗った。
悪魔が傾く。
俺は止まらない。
一歩目で膝の腱を狙い、二歩目で足首の石甲を削り、三歩目で爪の間に身体をねじ込んだ。巨体は大きい。腕も脚も、ただ振るだけで地形を変える重さがある。けれど、重さは遅さを連れてくる。見上げるほどの胴体が揺れるたび、影の底に隙間が生まれる。
そこを通ればいい。
悪魔の足が横に払われた。砂丘が丸ごと移動するような圧が迫り、俺は剣先を地面に刺して身体を伏せた。頭上を黒い爪が抜け、髪の先が数本持っていかれる。風圧で頬の皮膚が引きつれ、耳の奥が一瞬詰まった。
すぐに跳ね上がる。
左の脇腹。
肉の継ぎ目。
鼓動のない場所。
アストラルフレイムを逆手に握り、悪魔の腹を縦に裂いた。刃が入った瞬間、粘った抵抗が腕に絡み、押し返す力が肩を軋ませる。俺は奥歯を噛み、腰を落としてさらに押し込んだ。白い炎が肉の内側を走り、裂け目から濁った光がいくつも零れる。
腹の口が閉じた。
俺の刃ごと噛み砕くつもりで、歯の列が内側から迫った。
「遅い」
柄を捻った。
炎が刃から外へ噴き、噛み合う歯の根元をまとめて焼いた。硬いものが砕ける感触が手首に返り、悪魔の体がびくりと跳ねる。俺は剣を引き抜かず、そのまま横へ走った。裂け目が広がり、腹の口が途中で千切れて、黒い肉片が砂に落ちた。
悪魔の全身から、目が開いた。
肩に、膝に、背中に、指の節に。
黒い皮膚の隙間から白濁した球が押し出され、俺を囲むように向きを変える。瞼のない目が一斉に見開かれた瞬間、空気が曲がった。
足元の砂が沈む。
重い。
膝の中に鉛を流し込まれたように、身体が落ちる。
悪魔の視線が鎖になる。見られている場所から血の巡りが鈍り、指先の感覚が削られていく。アストラルフレイムの炎も、刃の表面で小さく縮んだ。
俺は膝を曲げたまま、砂を掴んだ。
黒い粒が爪の間に入り、冷えた痛みが掌に走る。
その痛みを掴んだまま、俺は顔を上げた。
悪魔の目が増える。
視線が重なる。
身体の奥が鳴る。
俺は、足の親指に力を入れた。
まずそこからだった。
爪先が砂を噛み、ふくらはぎが軋み、膝が震えを殺した。視線の重さが肩に積もるたび、俺は息を短く切り、柄を握る指を一本ずつ戻した。炎が、掌の皺に沿って再び伸びる。
立つ。
ただ、それだけでいい。
悪魔の目玉が細かく震えた。
俺は左足を前に出した。
視線の鎖が、足首で弾けた。
もう一歩。
膝の重さが剥がれた。
さらに一歩。
肩を押さえていた圧が砕け、アストラルフレイムの火が刃全体へ噛みついた。白く、薄く、けれど芯に金を宿した炎が、虚空国の黒を押し返す。
悪魔が後ずさった。
その巨体で。
俺は笑わなかった。
笑う暇があるなら、斬る。
低く沈み、正面へ突っ込む。
悪魔の目から黒い針が飛んだ。一本一本が濡れた影のように伸び、砂を貫き、俺の軌道を塞ぐ。俺は剣を縦に振り上げ、最初の針を割った。二本目は肩を掠め、布が裂けて熱い線が走る。三本目は刃の腹で弾き、四本目は踏み台にした。
足裏が針の上を踏んだ瞬間、影が靴底へ絡みつく。
構わず蹴った。
靴底の革が焼ける臭いを残し、俺の身体は悪魔の胸元まで跳ね上がった。顔と呼べる場所が、真正面に来る。目玉が七つ。裂けた鼻孔。縦に割れた歯列。喉の奥で回る石の輪。
刃を引いた。
悪魔の首の一つが俺を噛もうと伸びる。顎の内側から細い舌が何本も出て、腕に絡みついた。ぬめった感触が袖を越え、皮膚に吸いつく。
俺は左手でその舌を掴んだ。
焼ける。
掌の肉がじゅっと鳴った。
それでも離さない。
引き寄せた。
悪魔の頭が、わずかに前へ落ちる。
アストラルフレイムを真横に走らせた。
首が飛んだ。
飛んだ首は地面に落ちる前に燃え、骨の角だけを残して崩れた。残った首が怒り狂い、巨体をひねる。俺は空中で悪魔の肩の角を蹴り、反動で背中側へ回った。着地した場所は、硬い皮膚と石の棘が混じる歪な斜面だった。
すぐに足を取られる。
背中の皮膚が生き物のようにうねり、俺を振り落とそうとした。
膝をつき、剣を突き刺す。
炎が皮膚の下を走った。
悪魔の背中に、白い筋が広がる。
叫びが虚空国を揺らした。足元の肉が波を打ち、棘が次々に生える。俺は柄を軸に身体を回し、生えた棘を避けながら背骨の盛り上がりへ移動した。巨体の上で走るたび、足裏に硬い節と柔らかい肉が交互に触れ、吐き気を呼ぶ臭いが鼻の奥に張りつく。
中央。
背骨の一番太いところ。
そこだけ、黒い皮膚の下で脈があった。
悪魔が身をよじる。
俺は身体を浮かされ、片手一本で柄にぶら下がった。下では砂地が遠く、悪魔の腕がいくつも伸び、落ちてくる俺を待っている。指に力を込める。柄が汗で滑る。掌の火傷が開き、熱と痛みが混ざった。
俺は足を振り上げ、もう一度背中に乗った。
剣を抜く。
炎が一瞬だけ細くなる。
悪魔の背骨が膨れた。
肉の内側から、別の顔が押し出される。口を持たない顔。鼻もなく、目の穴だけが深い。そいつが俺の方を向いた瞬間、穴の奥から冷たい息が吹きつけ、剣の火がさらに沈んだ。
俺の袖に霜がついた。
皮膚が縮む。
息が白くなる。
悪魔の背中から出た顔が、ゆっくりと口のないまま歪んだ。
俺は剣を両手で握り直した。
「俺の火を、勝手に消すな」
喉を通った声が、自分でもざらついて聞こえた。
胸の奥で、アストラルフレイムが応えた。
火は大きくならない。
派手に燃え上がりもしない。
ただ、刃の内側に残った白い芯が、折れずに光った。冷気に削られながら、それでも細く尖り、刃の輪郭を取り戻す。
俺は、その細い火を信じて振り下ろした。
顔が裂ける。
口のない顔は声を出さず、裂け目から白い霜を噴いた。霜が頬を切り、まつ毛に貼りつく。視界の端が白く濁る。俺は瞬きを一度だけして、さらに刃を押し込んだ。
背骨まで届いた。
硬い。
普通の骨ではない。
石でも鉄でもない、呪いを固めた芯のような感触が、刃を止める。腕の筋が鳴った。肩が抜けそうになる。悪魔が身を反らし、俺の身体を背中ごと空へ投げた。
刃が抜ける。
俺は放り出された。
黒い空が回り、城塞の白い輪郭が逆さに浮かぶ。悪魔の腕が下から迫る。爪の先に目玉があり、それぞれが俺を待っていた。
空中で身体を丸める。
外套を掴まれた。
裂ける音。
俺は外套を捨てた。
爪が布だけを握り潰し、俺の身体はその横を落ちる。砂に背中から叩きつけられる前に、剣を地面へ突き刺して勢いを殺した。腕に衝撃が抜け、肩から指先まで痺れが走る。
膝が砂に沈む。
すぐに立つ。
悪魔が正面へ向き直る。
削った首はまだ戻らない。腹の口は半分潰れ、背中の顔も裂けている。それでも巨体は揺らぎ、目は増え続けていた。倒れない。崩れない。虚空国の地面から黒い筋が何本も伸び、悪魔の足へ絡み、傷口を塞ごうとしている。
なら、地面ごと切る。
俺は剣を下げ、深く息を吸った。
肺に入った空気が冷たい。血の臭いと焦げた肉の臭いが混じり、喉を荒らす。足元の砂を踏み締めると、黒い筋が靴の周りへ寄ってきた。生きた糸のように震え、俺の足首へ巻きつこうとする。
アストラルフレイムの切っ先を砂に当てた。
火が、地面へ入る。
黒い砂の下で、白い線が走った。
悪魔の足元まで一直線に。
地面に潜っていた筋が、火に触れて跳ねた。黒い糸が次々と浮き上がり、焼け焦げ、乾いた音を立てて千切れる。悪魔の巨体が初めて片膝をついた。城壁の一部が落ちるような重さで、砂が波を打つ。
その揺れに合わせて、俺は走った。
低く。
まっすぐ。
悪魔が腕を振り下ろす。俺の頭上ではなく、前方の地面を潰し、砂の壁を作るつもりだった。爪が落ちる寸前、俺は剣を横へ払った。炎が地面を削り、足元の砂を爆ぜさせる。跳ね上がった黒い砂を踏み、俺は腕の上へ乗った。
悪魔の腕を駆け上がる。
爪から手首へ、手首から肘へ。
皮膚の割れ目から細い牙が生え、足を噛もうとした。俺は踏み潰し、進む。肘が折れ曲がり、俺を振り落とそうとする。膝を沈め、角を掴み、身体を引き上げる。
肩まで来た。
悪魔の残った首が一斉にこちらを向く。
喉が膨らむ。
黒い息が吐かれる前に、俺は剣を投げた。
アストラルフレイムは悪魔の口の一つへ深く突き刺さり、内側から火を噴いた。首が爆ぜる。肉片と骨片が飛び散り、熱い液が頬を打った。剣から離れた右手が空を掴む。俺はそのまま悪魔の胸元へ飛び込んだ。
素手で、胸の裂け目に指をかけた。
ぬるい。
奥で何かが動く。
悪魔の胸の中に、濁った光の塊があった。心臓に似ているが、鼓動はない。代わりに、無数の小さな目が表面を覆い、俺の指を見ていた。
悪魔の腕が戻ってくる。
背後から爪が迫る。
俺は胸の裂け目に片足を突っ込み、身体を固定した。腕に絡む肉を引き剥がし、奥へ手を伸ばす。指先が光の塊に触れた瞬間、冷たい針が爪の下へ入り、肘まで突き抜けた。
歯を食いしばる。
握る。
引く。
光の塊は抜けない。
根が張っている。
何本もの黒い腱が胸の奥へ繋がり、俺の手首に絡みつく。悪魔の爪が背中に届く。布が裂ける。皮膚が浅く割れ、熱い線が背骨の横を流れた。
俺は空いた左手を伸ばした。
口に刺さったアストラルフレイムの柄を掴む。
遠い。
指先が届かない。
悪魔が身体を捻る。胸の裂け目が閉じようとし、俺の腕を挟み潰す。骨が鳴った。肘の内側に鈍い圧が集まる。
俺は、胸の奥の光を握ったまま、足で悪魔の肋を蹴った。
一度。
二度。
三度目で身体がわずかに伸びた。
左手が柄に届く。
掴んだ。
その瞬間、アストラルフレイムの炎が俺の腕を伝って、胸の中へ流れ込んだ。
悪魔の目が、全部見開かれる。
俺は光の塊を握り潰した。
硬い殻が割れる感触。
中から黒い液が溢れ、掌を焼く。焼けるのに冷たい。皮膚の奥にまで染み込む嫌な冷たさを、炎が追いかけて噛み千切る。
悪魔の巨体が仰け反った。
胸の裂け目が大きく開き、俺の身体が外へ投げ出される。だが、俺は柄を離さなかった。アストラルフレイムを引き抜きながら、胸から腹まで一気に斬り下ろす。
白い炎が、巨体を縦に走った。
悪魔の体内に残っていた黒い筋が、内側から燃える。
首が落ちた。
腕が崩れた。
膝から下が砂へ沈む。
それでも悪魔は、最後の首を持ち上げた。顔の半分が焼け、目玉は溶けている。口だけがまだ動き、俺を噛み砕こうと前へ突き出された。
俺は砂を蹴った。
真正面から、首の下へ入る。
悪魔の牙が肩先を掠め、皮膚を裂いた。痛みが走るより先に、俺は刃を下から突き上げる。顎を抜け、頭蓋の奥へ、刃が通った。
炎を絞る。
大きく燃やさない。
内側だけを焼く。
悪魔の頭が膨らみ、裂け目から白い光が漏れた。次の瞬間、首の上半分が灰になって消えた。残った巨体は、支えを失った塔のように傾き、俺の横をかすめて地面へ落ちた。
砂が跳ねる。
衝撃で膝が揺れた。
俺は剣を地面に突き、倒れかけた身体を支えた。舞い上がった黒い砂が頬に貼りつき、口の中でじゃり、と鳴る。肩の傷から流れた血が袖を濡らし、指先まで伝って柄を赤くした。
悪魔の残骸は、まだ動いていた。
指が震え、裂けた腹の奥で歯が噛み合い、背中の棘が一本ずつ抜け落ちる。けれど、地面から伸びていた黒い筋は戻らない。焼け焦げたまま、細い煙を上げている。
俺は一歩近づいた。
悪魔の胸の奥、潰した光の残りが、小さく脈を打った。
まだ残すな。
剣を逆手に持ち替え、胸の中心へ突き立てる。
炎を流す。
白い火が残骸の奥へ沈み、黒い肉の隙間から光が漏れ、やがて骨の形だけを残して崩れた。巨大だった影は砂に沈み、虚空国の風が灰をさらっていく。足元に残ったのは、割れた角と、焼けた鎖のような筋だけだった。
俺は剣を抜いた。
刃についた黒い液が、炎に舐められて消える。
呼吸を整える間もなく、城塞へ続く道が開いた。
さっきまで悪魔の影に隠れていた先に、黒い門が見えた。左右に伸びる壁は空まで届くように高く、門の表面には、内側から押された手形が無数についている。開いてはいない。だが、閉ざされているというより、こちらが近づくのを待っているように見えた。
門の前までの道に、灯りはない。
砂の上には、巨大悪魔の灰が細く流れている。
俺は外套の残った布を肩から剥がし、傷口に貼りついた破れを指でほどいた。血がまた滲む。冷たい風に触れ、皮膚が縮んだ。痛みは邪魔にならない。まだ動く。剣も握れる。足も前へ出る。
なら、止まる理由はない。
アストラルフレイムを肩に担ぎ、俺は門へ向かって歩いた。
一歩進むたび、砂の下で何かが逃げるようにざわめいた。黒い筋の残りか、灰に混じった悪魔の欠片か、それともこの国そのものが足音を嫌がっているのか。確かめるために立ち止まる気はなかった。
門が近づく。
表面の手形が、ぼこりと浮き上がった。
内側から叩く音がした。
一度。
二度。
三度目で、門の隙間から黒い霧が漏れた。
俺は剣を下ろし、切っ先を門の中央へ向けた。
霧の向こうから、冷えた息が頬を撫でる。
指先の血が、柄の上で固まり始めていた。