作品タイトル不明
第167話 黒砂の上に立つ勇者
灰を吸った風が、喉の奥に薄い刃を立てた。
足裏に沈む黒い砂は、踏むたび水を含んだ革のように鳴り、遠くで崩れた塔の影が斜めに伸びて、俺の膝まで這い上がってくる。空は昼でも夜でもなく、煤けた紫の雲が傷口のように割れ、その向こうから赤黒い光だけが脈を打っていた。
腰の高さまで積もった骨片の間を進むと、砕けた角、裂けた翼膜、祈る形で固まった手首が黒砂に半分埋もれ、城壁にも見える巨大な岩肌には、文字とも爪痕ともつかない溝が無数に刻まれていた。そこへ一歩踏み込んだ瞬間、地面の下から、何かが俺の名を噛み砕いた。
「……来い」
声は低く置いたつもりだったが、虚空国の空気はそれを飲み込まず、刃物で削ったように反響させた。
黒砂が波打った。
最初に出てきたのは、腕だった。肘から先だけで俺の胴ほどある黒い腕が、砂の中から突き出し、五本の爪で地面を掴んだ。次に背骨のような尾がしなり、二枚の翼が裂けた布みたいに広がる。顔に当たる場所には目が三つ、縦に並んで燃えていた。
一体ではない。
骨片の丘が割れ、塔の残骸の陰から、井戸の底みたいな穴から、上級悪魔が這い出てくる。角の形も、翼の枚数も、体の軋む音も違う。だが、こちらを見る目だけは同じだった。
喰うものを見つけた獣の目。
俺はアストラルフレイムの柄を握り、鞘の中で震えた熱を掌に受けた。脈と刃の熱が重なり、指の骨まで火が通る。
一体目が跳んだ。
風を切る音より早く、黒い爪が横から来た。俺は身を低く滑らせ、爪が髪の上を削っていく間に、膝で砂を噛ませて踏み込み、鞘から抜いたアストラルフレイムを逆袈裟に振り上げた。
青白い炎が、悪魔の腹を割った。
肉ではなく、黒い煙と骨の粉が裂け、三つの目が縦にずれて宙を舞う。落ちる前に、背後から別の影が被さった。
俺は振り返らなかった。
左足を半歩ずらし、背中に来た熱を肩越しに感じた瞬間、アストラルフレイムを後ろへ突き出す。刃先が硬いものを貫き、腕に重さが乗った。柄を捻ると、背後の悪魔が喉を潰したような音を漏らし、俺の肩に黒い唾を散らした。
臭いが皮膚に食い込む。
鉄でも腐肉でもない。長く閉じた棺の中で、火だけが腐らず燃え残ったような臭いだった。
「邪魔だ」
刃を引き抜くと同時に、前へ出る。
左右から翼が来た。厚い膜に刃のような骨が走り、空気を叩くたび砂が爆ぜる。俺は一枚目を腰の高さで斬り落とし、返す刃で二枚目の根元を断つ。落ちた翼が地面に触れる前に、悪魔の首筋へ踏み込んだ。
首を狙った刃を、悪魔は牙で受けた。
火花が散り、牙の隙間から黒い舌が伸びる。
舌の先が俺の頬を掠めた。
薄く切れた皮膚から血が出るより早く、舌がその血を吸おうと蠢いた。俺は奥歯を噛み、左手で舌を掴んだ。ぬるい粘液が指の間を這う。引き寄せ、膝を悪魔の顔面に叩き込み、開いた顎へアストラルフレイムを突き上げた。
炎が頭蓋を抜けた。
黒い体が痙攣し、砂へ崩れる。煙が靴に絡みついたが、払う暇はなかった。
上から来る。
俺は横へ跳んだ。さっきまで立っていた場所に、槍の束みたいな棘が降り、地面を深く抉った。棘を伸ばした悪魔は、塔の壁に逆さで張りついていた。細長い四肢、背中から生えた無数の骨針、顔の中央に裂けた大きな口。
口が開く。
音が出た。
耳の奥を直接かき回すような、濁った高音。骨片が震え、黒砂が輪になって跳ね、胸の内側に爪を立てられたような圧が走る。
俺は足元の骨を蹴り上げた。
白く乾いた骨が音の波に当たり、粉になって弾ける。その粉の幕を抜け、俺は塔の残骸へ向かって走った。棘が次々と落ち、肩を掠め、脇腹を裂き、外套の裾を地面へ縫い止める。
布を斬って抜けた。
塔の壁を蹴り、ひび割れた石に指を掛け、二歩で高さを取る。壁に張りついた悪魔が首を曲げた時には、俺はその真下にいた。
アストラルフレイムを縦に振る。
炎の刃が、悪魔の腹から喉まで走った。骨針が一斉に開き、槍の檻のように俺を囲む。俺は刃を抜かず、そのまま柄を押し込み、悪魔の体を壁へ縫いつけた。
「そこで燃えてろ」
柄から炎を流し込む。
悪魔の体内で青白い火が膨れ、裂け目から噴き出した。骨針が熱で反り、口から濁った声が漏れ、壁ごと砕けて落ちる。
俺も落ちた。
黒砂の上に膝から着地し、痛みが骨を叩いた。立ち上がる前に、右の足首へ冷たいものが巻きついた。
砂の中から出た鎖だった。
鎖は鉄ではなく、黒い背骨を繋げたような形で、節ごとに小さな牙が生えていた。牙が足首の革を破り、肉へ食い込む。引かれる。地面が斜めに滑った。
俺は剣を地面へ突き立てた。
火が砂に走り、鎖を焼く。だが鎖は燃えながら増えた。一本が二本に裂け、二本が四本になり、足首から膝、腰、左腕へ巻き上がる。
砂の下に、巨大な影がいた。
ゆっくりと持ち上がる地面。黒砂が滝のように落ち、そこから牛の頭蓋に似た顔が現れる。両角は折れ、折れ口から黒い炎が垂れ、肩幅は小さな門ほどある。鎖はその背中から生えていた。
俺は息を吐き、腕に巻いた鎖を握った。
牙が掌へ食い込む。
「引くなら、最後まで引け」
鎖の向こうで、悪魔の目が細くなる。
次の瞬間、足元が消えた。鎖に引かれ、俺の体は砂の上を叩きつけられながら滑った。骨片が背中に刺さり、肩が岩にぶつかり、肺から息が抜ける。悪魔の巨大な掌が上がり、俺の頭上へ影を落とした。
潰される前に、俺は鎖を逆に引いた。
右足で地面を削り、左腕に巻いた鎖を肘へ絡め、全身の重さを柄に預ける。アストラルフレイムが砂の中で低く唸った。炎が鎖を伝う。青白い筋が一本、また一本と悪魔の背へ走る。
巨体が止まった。
俺は鎖をさらに引いた。
足首から血が流れ、革靴の中が熱を持つ。構わず踏み込む。悪魔の腕が振り下ろされる。俺は鎖に体を預け、横へ飛ばされるように避け、砂を擦って回転した勢いのまま、巨体の膝裏へ刃を叩き込んだ。
硬い。
刃が骨に噛み、火花が顔に散った。
悪魔の膝が沈む。俺は刃を抜き、すぐにもう一撃を重ねた。膝裏が割れ、黒い火が噴く。巨体が片膝をついた瞬間、俺は鎖を踏みつけて駆け上がった。
背中へ。
肩へ。
角へ。
折れた角の根元を掴み、悪魔の顔の前に回り込む。巨大な眼窩の中で、赤黒い光が揺れた。悪魔の口が開き、奥から無数の手が伸びてくる。小さな手、太い手、爪だけの手。どれも俺の腕を掴もうと蠢く。
アストラルフレイムを両手で握り直した。
刃が震える。
俺の腕も震えた。
疲労が肩を食い、足首の鎖が肉を裂き、脇腹の傷から熱が流れる。それでも、刃の火は鈍らなかった。
「俺を止めるには、足りない」
悪魔の口へ飛び込むように、剣を突き入れた。
青白い炎が喉の奥で爆ぜ、巨大な頭蓋を内側から照らす。伸びてきた手が燃え、牙が砕け、眼窩の光が歪む。俺は柄を押し込み、肩まで力を入れ、体ごと捻った。
頭蓋が割れた。
黒砂が噴水みたいに舞い上がり、巨体が崩れる。鎖が千切れ、足首から離れた牙が肉を引っかいて落ちた。
俺は着地したが、片膝が砂に沈んだ。
呼吸が荒い。
吐く息に黒い粉が混じり、舌の上で苦く溶ける。頬の傷から垂れた血が顎を伝い、襟の内側へ入った。
立て。
砂を掴んだ手に力を込める。指の間で骨片が折れた。膝を伸ばし、剣を杖にする寸前で、俺は柄から手を離し、背筋を戻した。
杖にするな。
ここでは、少しでも膝を折った形を見せれば、地面そのものが喉に食らいついてくる。
周囲の悪魔が動きを止めていた。
数は減っていない。むしろ増えている。遠くの塔の影、骨の丘、裂けた岩の隙間。そのすべてから上級悪魔が顔を出し、こちらを囲んでいた。
だが、踏み込んでこない。
俺は剣を低く構え、視線だけで輪をなぞった。角の長いもの。翼が六枚あるもの。人の胴に獣の脚を継いだもの。胸に顔が埋まっているもの。どれも上級悪魔。どれも、さっきまでなら群れで押し潰すだけの力を持っていた。
その群れが、俺との距離を測っている。
黒い空の奥で、脈打つ光が一つ大きくなった。
風が止まる。
虚空国全体が、息を吸う直前の胸みたいに膨らんだ。岩肌の溝が赤黒く灯り、骨片の山が細かく震える。喉の奥に、甘い鉄の味が広がった。
誰かが見ている。
姿はない。声もない。だが、塔の影が伸びる方向が変わり、悪魔たちの背中が一斉に硬くなった。俺に向けられていた殺気の奥に、別の圧が混じる。
深い。
重い。
この国の底に沈んだ玉座から、まぶた一枚だけが開いたような圧。
俺は歯の裏についた血を舌で拭い、剣先を地面から少し上げた。
「まだ見てるだけか」
返事はなかった。
代わりに、砂の海が割れた。
今度は悪魔が這い出るのではない。地面そのものが裂け、黒い溝が走る。溝の奥から、赤い霧が吹き上がった。霧に触れた骨片が泡立ち、形を失い、白い泥になって崩れる。
悪魔たちが動いた。
俺を恐れたわけではない。背後の圧に押されたように、輪が一斉に狭まる。牙が鳴り、翼が開き、爪が砂を掻く。数十の目が、俺の腕、首、腹、足首に狙いを定める。
俺は呼吸を一つに絞った。
最初の三体が同時に来る。
左から大鎌の腕。正面から牙。右の上空から骨針。
俺は正面へ出た。
牙の悪魔が一瞬、動きを詰まらせる。獲物が逃げずに来たからだ。俺はその隙に体を沈め、悪魔の胸下へ潜り、腹を横に割った。返す刃で左の大鎌を受けずに逸らし、手首だけを切り落とす。上から降る骨針は、牙の悪魔の体を盾にした。
骨針が肉を貫く。
俺は盾にした悪魔を蹴り飛ばし、右上へ跳んだ骨針の主へ、炎を飛ばした。
刃から離れた火が弧を描き、空中の翼を焼く。悪魔が落ちる。落下地点へ走る前に、背後から鎌が来た。切り落としたはずの腕が、砂の中で再生していた。
俺は低く笑う息を漏らした。
「便利だな」
鎌が首を狙う。
俺は一歩だけ踏み込み、柄頭を悪魔の顔面へ叩き込んだ。骨が潰れる感触が掌に返る。悪魔の顎が跳ね上がり、喉が開く。そこへ刃を入れ、上へ抜いた。
首が飛ぶ。
飛んだ首を、別の悪魔が空中で噛み砕いた。仲間の残骸を飲み込み、その体が膨れる。背中から新しい腕が四本生え、腹が裂け、そこから別の顔が覗いた。
上級悪魔同士が、互いを喰って増していく。
「そう来るか」
足元の砂が粘り始めた。
踏み込むたび、靴底を引く。赤い霧が膝下を流れ、傷口に触れると、熱ではなく冷えが走った。肉の奥の感覚だけを奪い、動きを鈍らせる霧。
長引かせるための場。
俺の体を削り、悪魔を増し、あの奥にいる何かが飽きるまで見物するための地面。
俺はアストラルフレイムを逆手に持ち替え、刃先を自分の足元へ向けた。
「なら、床ごと斬る」
剣を突き立てた。
炎が地中へ潜り、黒砂の下で青白い筋になって広がる。赤い霧が一瞬だけ押し返され、足元の粘りが焼けた臭いを上げる。俺は剣を抜かず、柄に手を置いたまま、迫る悪魔を待った。
一体目が踏み込む。
地面から炎の杭が突き上がり、悪魔の腹を貫いた。二体目、三体目、四体目。俺を囲む輪の内側で炎が連続して噴き、悪魔たちの足を止める。
完全には倒れない。
だが、一瞬止まれば十分だった。
俺は剣を引き抜き、炎の杭を足場にするように前へ飛んだ。燃える悪魔の肩を踏み、次の角を蹴り、さらに奥へ入る。群れの外へ逃げるのではなく、群れの中心へ。
そこが、一番広い。
全方向から敵が来るなら、全方向を斬れる。
アストラルフレイムを振った。
横薙ぎ。
斜め下。
突き。
引き戻しながら肘。
肩を入れて縦。
呼吸を挟まず、足を止めず、刃と体を一つの輪にする。飛び散る黒い血が頬に当たり、熱いものと冷たいものが交互に皮膚を叩く。爪が腕を裂き、牙が外套を噛み、翼の骨が背中を打つ。
一つずつ返す。
首を落とし、脚を払う。目を潰し、喉を焼く。腕を斬らせて踏み込み、肩を掠めさせて腹を裂く。避けきれない傷は浅く受け、受けた分だけ距離を詰める。
剣の炎が太くなる。
俺の血を吸ったわけではない。虚空国の空気そのものを燃やしている。黒砂の上に青白い火の線が残り、俺が走った跡だけが、この国に傷を刻んでいく。
悪魔の一体が、背後から俺の両肩を掴んだ。
爪が鎖骨の下へ食い込む。別の二体が正面から腹を狙う。俺は肩を掴んだ腕を振りほどかず、逆に背中を預けた。
正面の悪魔が躊躇なく爪を突き出す。
俺は上体を捻った。
爪は俺の脇を抜け、背後の悪魔の胸を貫いた。肩を掴む力が緩む。俺はその腕を掴み、背負うように前へ投げ、正面の二体へ叩きつけた。
三体が絡まる。
そこへ、上から踏み込む。
アストラルフレイムを両手で振り下ろし、絡まった胴ごと斬った。青白い火が黒い肉を裂き、砂の上に三つの影が転がる。
息を吸う。
肺に入った空気が針の束みたいに痛む。
まだ来る。
今度は小さい。
膝ほどの高さしかない悪魔が、砂から無数に湧いた。上級悪魔の欠片が形を変えたものだ。小さいが、角、牙、翼を持ち、地面を這う速さは大蛇より速い。足元へ群がり、傷口へ入り込もうと跳ねる。
俺は足を止めなかった。
踏み潰す。斬る。焼く。蹴る。
一匹が足首の傷に噛みついた。痛みが視界の端を白く削る。俺はそのまま足を振り抜き、噛みついた悪魔ごと岩へ叩きつけた。別の一匹が脇腹へ飛ぶ。左手で掴み、握り潰す。掌の中で硬い殻が割れ、ぬめった熱が手首を伝った。
遠くで、塔が一本倒れた。
倒れた塔の影から、さらに大きな悪魔が出てくる。四足。背中に人の上半身がいくつも生え、それぞれが違う方向へ首を振る。腹の下には、釣鐘に似た器官が揺れていた。
その器官が鳴る。
ごん、と低い音。
膝の力が抜けかけた。
音が骨に入る。耳ではなく、背骨の内側から揺さぶられる。視界の輪郭が滲み、剣を握る指が一瞬だけ遅れる。
そこへ群れが来た。
俺は舌を噛んだ。
血の味で意識を繋ぎ、最初の爪を肩で受ける。肉が裂ける。構わず、相手の肘を斬り落とす。次の牙は剣の腹で弾き、喉へ蹴りを入れる。釣鐘の音がまた鳴る。
ごん。
今度は心臓を掴まれたように、胸の奥が詰まった。
四足の悪魔が、ゆっくり近づいてくる。背中の人影たちが口を開け、声にならない息を吐く。その息が赤い霧に混じると、周囲の悪魔の傷が塞がっていく。
支える役か。
なら、最初に潰す。
俺は群れを突っ切った。
前に立つ悪魔の膝を斬り、倒れた体を踏み台にする。横から来た牙を肘で弾き、肩に刺さった爪をそのまま折って進む。釣鐘が鳴る。足がもつれる。黒砂に指が触れた。
倒れる前に、地面を掴んだ手で砂を投げた。
黒砂が四足の悪魔の顔へかかる。効くはずもない。だが、視線が一瞬だけ上がった。
俺は低く滑り込んだ。
腹の下へ。
釣鐘が頭上で揺れる。表面には、古い傷跡のような紋がびっしり走っていた。触れれば骨ごと砕かれそうな音を溜めている。
アストラルフレイムを横に構えた。
鳴る前に、斬る。
刃が釣鐘を裂いた。
音ではなく、黒い液が溢れた。熱い。肩に浴びた瞬間、皮膚が焼け、肉の表面が縮む。俺は歯を食いしばり、剣をさらに押した。釣鐘が半分に割れ、内側から赤黒い火が噴く。
四足の悪魔が暴れた。
脚が地面を蹴り、腹の下にいる俺を潰そうと跳ねる。俺は裂いた釣鐘の縁を掴み、体を引き上げた。ぬめる縁に爪を立て、腹の側面へ足を掛け、背中へ出る。
人の上半身たちが、いっせいにこちらを向いた。
顔はない。
口だけがある。
それぞれの口が開き、俺の腕、首、顔に噛みつこうと伸びる。俺は一番近い喉へ剣を突き込み、横へ薙いだ。三つの胴がまとめて裂ける。残りが背中に吸いつく。歯が外套を破り、皮膚に届く。
痛みを置いていく。
一つずつ斬っていたら間に合わない。
俺はアストラルフレイムを逆手に持ち、四足の悪魔の背中へ深く突き立てた。刃が背骨を捉える。硬い抵抗。さらに押す。骨が割れる感触。
「沈め」
炎を流す。
四足の悪魔の背中に、青白い亀裂が走る。人影の口が開き、声のない絶叫が赤い霧を震わせた。巨体が後ろ脚から崩れ、塔の残骸へ横倒しになる。
俺は飛び降りた。
着地と同時に、膝が折れかける。踏みとどまる。剣を振り、追ってきた小型の悪魔を焼く。背後で四足の悪魔が燃えながら痙攣し、釣鐘の残骸が最後に一度だけ、濁った音を漏らした。
ご、ん。
音が消えると、虚空国の空が少しだけ低くなった。
いや、違う。
何かが、上から覗き込んでいる。
雲の裂け目の奥で、赤黒い光が縦に細く絞られた。目の形ではない。だが、見られている感覚だけが、皮膚の上を這う虫みたいに残る。
悪魔たちが、また距離を取った。
俺の周りには、燃えた肉と砕けた骨と黒砂が積もっていた。剣の炎が照らす範囲だけ、地面の色が違う。そこに立つ俺の影は、悪魔たちの足元まで長く伸び、踏まれても消えない。
俺は息を整えようとして、うまくいかなかった。
喉が焼け、肺が拒む。肩の傷から血が流れ、袖の内側で固まりかける。足首の肉は深く裂け、踏むたび革の中でぬるりと滑る。
それでも、手は剣を離さない。
虚空国の奥へ続く道が、黒砂の向こうに見えた。
道とは呼べない。裂けた大地の縁に、骨と岩を積んだだけの細い稜線。その先は赤い霧に沈み、さらに奥には、城の影ではない巨大な何かが横たわっている。そこから漂う圧が、さっきより濃くなっていた。
魔王城へ続く方角。
今は、まだ行かない。
行けないのではない。ここで群れを削らずに奥へ入れば、背中を喰われる。あの圧の主が姿を見せる前に、こちらの息を使い切らせるための地形。なら、踏む順番を間違えない。
一歩。
黒砂が靴の下で鳴る。
悪魔の輪が揺れた。
二歩。
赤い霧が足首にまとわり、傷口へ冷えを流し込む。
三歩。
塔の影から、次の上級悪魔が出てきた。
細い。
人に近い形をしているが、腕が六本あり、それぞれに違う武器のような骨を持っていた。槍。斧。鉤。鞭。盾。刃のない長い棒。顔は布を被ったように滑らかで、目だけが横一列に七つ並ぶ。
その一体が前に出ると、周囲の悪魔が道を空けた。
群れの中でも格が違う。
足音がしない。砂を踏んでいるはずなのに、黒い裾のような影だけが地面を撫でる。六本の腕がゆっくり持ち上がり、骨の武器が俺へ向く。
俺は剣を構え直した。
腕が重い。
だが、刃先は下がらなかった。
七つの目が細くなる。
その背後で、赤い霧が濃く渦を巻いた。奥の圧が、わずかに笑ったように空気を歪める。姿のない気配だけで、上級悪魔の背筋が伸びた。
試されている。
俺がどれだけ斬れるか。
どこで膝をつくか。
どの傷から崩れるか。
俺は喉の奥に残った黒い粉を吐き捨てた。唾は砂に落ちる前に乾き、赤い霧に呑まれる。
「見物料は高くつくぞ」
六本腕の悪魔が動いた。
最初の槍が、目に映るより早く胸元へ来る。俺は剣で弾かず、体を半分ずらした。槍先が外套を裂き、肩口を掠める。その隙に踏み込もうとした足元へ、鞭の骨が絡む。
読まれていた。
俺は踏み込む力を止めず、足に絡んだ鞭ごと前へ出た。骨鞭が足首の傷を抉る。痛みで視界が揺れる。そこへ斧が落ちる。
受ける。
アストラルフレイムの刃と骨斧が噛み合い、火花ではなく黒い霜が散った。斧の冷気が剣を伝い、指の感覚を奪おうとする。俺は左手を柄から離し、相手の槍腕を掴んだ。
細いのに硬い。
石柱を掴んだような感触。
俺は肩を入れて引き寄せ、額を滑らかな顔面へ叩きつけた。七つの目のうち一つが潰れる。悪魔の動きがわずかに乱れた。
その一瞬で、俺は鞭を斬った。
足が自由になる。後ろへ引かず、さらに内側へ入る。六本腕は近距離でも速い。鉤が脇腹を狙い、盾が俺の剣を押さえ、長い棒が膝を払う。
膝を狙われた瞬間、俺は跳ばなかった。
逆に膝を落とした。
棒が太腿の上を擦り抜ける。皮膚が裂ける。だが骨は持っていかれない。低くなった姿勢から、俺は悪魔の腹へ柄頭を突き上げ、盾の内側に隙間を作った。
そこへ刃を入れる。
六本腕の悪魔が初めて後ろへ下がった。
浅い。
腹の表面を裂いただけ。だが、青白い火が傷口に残り、黒い体表をじりじり焼く。
悪魔の七つの目が、潰れた一つを除いて俺を見た。
次の動きで、空気が変わる。
六本の腕が、それぞれ別々の拍子で動き始めた。一つの体なのに、六体を相手にしているような間合い。槍が誘い、斧が遅れて落ち、鉤が逃げ道を塞ぎ、鞭が足元を奪い、盾が刃の軌道を押し、棒が呼吸の隙を叩く。
俺は一つずつ見なかった。
見れば遅れる。
足裏の砂。腕に触れる風。骨武器が空気を裂く圧。剣を握る指の震え。その全部をまとめて、体の内側へ沈める。
槍を肩で避ける。
斧を刃で滑らせる。
鉤は腕に浅く受け、逆に引かせて距離を潰す。
鞭は踏む。
盾は殴る。
棒は、膝ではなく柄で受ける。
一つ返すたび、別の一つが肉を削る。頬、肩、肘、脇腹、太腿。傷が増え、血が線を作る。だが、俺も削る。腕の付け根、手首、腹、首筋。小さな傷を積み、炎を残す。
六本腕の動きが、わずかに重くなった。
俺はそこへ踏み込んだ。
槍腕を斬る。
一本落ちた。
落ちた腕が砂に触れる前に、悪魔の腹から新しい腕が生えかける。俺はその芽を蹴り潰し、斧腕の肘へ刃を返す。二本目が半分裂けた。
悪魔が後退する。
周囲の上級悪魔が、ざわめくように爪を鳴らした。
俺は追った。
追う足が沈む。赤い霧が濃い。地面の下から、さっき焼いたはずの鎖の欠片が伸びる。足首へ絡む寸前、俺は剣の炎を足元へ落とし、鎖を焼き切った。
その遅れを、六本腕は逃さなかった。
盾が顔面に来る。
避けきれず、側頭部に衝撃が入った。視界が横へ飛び、口の中を噛む。膝が砂に触れかける。そこへ斧。首を狙って落ちる。
俺は倒れる力を利用した。
地面へ落ちる途中で体を捻り、斧の下を潜る。肩が砂を擦り、黒い粒が傷に入る。痛みが火花みたいに散る。だが、悪魔の懐は開いた。
寝た姿勢のまま、俺は剣を突き出した。
刃が悪魔の足首を貫く。
炎を流す。
六本腕の悪魔が体勢を崩した。俺は片手で地面を押し、跳ね起きる。起き上がる勢いで、裂けかけた斧腕を斬り落とした。
二本目が落ちた。
悪魔の七つの目の奥で、初めて揺らぎが走った。
俺は息を吸う。
黒い粉が喉に刺さる。
それでも、踏み込む。
残る腕は四本。槍、鉤、鞭、盾。さっきより少ない。だが、動きは鋭くなった。不要な腕を捨て、間合いが研ぎ澄まされていく。上級悪魔はただの怪物ではない。斬られながら、こちらの癖を覚える。
なら、癖ごと壊す。
俺は剣を右手から左手へ渡した。
悪魔の目が一斉に細まる。
左で構え、右足を前へ。普段と逆。肩の傷が引きつり、腕の力も落ちる。だが、その違和感が間合いをずらす。
槍が来る。
俺は左手の剣で受けるふりをし、右手で槍の柄を掴んだ。悪魔が引くより早く、俺は体を回し、槍ごと相手の体をこちらへ引き込む。鉤が腹へ来る。避けずに、外套を噛ませる。
布が裂ける。
その裂ける抵抗だけで、鉤の軌道がわずかに遅れる。
俺は左の刃を、悪魔の胸へ入れた。
深い。
初めて、芯に届いた感触があった。
六本腕の悪魔が、滑らかな顔を俺の額に近づけた。七つの目のうち、残る六つが一斉に開く。瞳の奥に、赤黒い光ではなく、奥の圧と同じ色が宿る。
来る。
胸に刺さったままの剣を、悪魔の体が締めつけた。抜けない。盾腕が俺の左腕を押さえ、鞭が右腕に絡む。鉤が、ゆっくりと喉へ向けられる。
周囲の悪魔が止まった。
見ている。
赤い霧の奥の気配も、濃くなる。
俺は剣を抜こうとしなかった。
柄を握ったまま、さらに押した。
刃が胸を突き抜け、悪魔の背中へ出る。青白い炎が背後へ噴いた。だが悪魔は崩れない。鉤が近づく。喉の皮膚に冷たい先端が触れた。
俺は空いている右足を、悪魔の膝へ置いた。
押す。
刺した剣を支点に、体を無理やり斜めにずらす。鉤が喉を外れ、首筋を裂いた。熱い線が走る。血が襟へ落ちる。
そのまま、俺は柄を捻った。
胸の中で、刃が横を向く。
悪魔の胴が内側から裂けた。
盾腕の力が緩む。鞭の締めつけも弱まる。俺は左腕を引き抜き、アストラルフレイムを胸から抜きながら、喉元へ斬り上げた。
滑らかな顔が縦に割れる。
七つの目が、ばらばらに光を失った。
六本腕の悪魔は膝をつき、崩れなかった。胸の裂け目から青白い火を吹きながら、まだ俺へ手を伸ばす。残った腕の一本が、俺の外套の端を掴んだ。
俺はその腕を見下ろした。
「しつこいな」
刃を下ろす。
腕が落ちた。
今度こそ、悪魔の体が黒砂へ沈んだ。燃えながら、砂の中へ吸い込まれていく。最後に残った七つの目の欠片が、俺の靴先で砕けた。
虚空国が、沈黙ではない何かに包まれた。
音が消えたのではない。悪魔の呼吸も、砂の擦れる音も、遠くの塔が軋む音もある。ただ、その奥で、もっと大きなものが息を止めている。
俺は剣を下げず、奥の赤い霧を見た。
霧の向こうで、道が開いた。
さっきまで骨と岩が塞いでいた稜線が、ゆっくり左右へ割れていく。その先に黒い階段が現れた。城へ続く階段ではない。地面の下へ降りる階段。段の一つ一つが濡れたように光り、側面には、爪で刻んだ螺旋の傷が続いている。
誘っている。
奥へ来いと。
俺の傷が開くのを待ち、息が荒くなるのを数え、剣を握る指が痺れるところまで見届けてから、次の場所へ進ませるつもりだ。
俺は一歩、階段へ向けて足を出した。
その瞬間、背後の黒砂が盛り上がった。
振り返るより早く、空気が裂ける。
今まで倒した悪魔の残骸が、砂の中で混ざり合っていた。角、牙、翼、鎖、釣鐘の欠片、六本腕の骨。それらが黒い泥に包まれ、一つの巨大な塊になって起き上がる。
まだ終わっていない。
俺は階段から足を引いた。
奥の圧が、ほんのわずかに遠のく。行かせる気がないのか、行かせる前にもっと削る気なのか。
どちらでもいい。
目の前の塊が、複数の喉で息を吐いた。赤い霧がその体に吸い込まれ、表面の傷が塞がる。胴の中央に、六本腕の悪魔の七つの目が並び、その下に釣鐘の割れた口がぶら下がっている。背中から鎖が何十本も垂れ、翼の骨が槍のように開く。
俺はアストラルフレイムを握り直した。
掌の皮が剥け、柄に血が付く。刃の炎が、その血を照らす。
悪魔の塊が、一歩踏み出した。
地面が沈む。
俺の足元まで、黒い波が走る。
二歩目。
骨片が跳ね、赤い霧が渦を巻く。
三歩目。
胸の奥に、あの見えない圧が再び重なる。
俺は剣先を上げた。
体のあちこちが軋む。息は深く入らない。傷は塞がらない。血も止まらない。
だが、ここで止まれば、奥へ続く道は閉じる。
俺は黒砂を踏みしめ、迫る巨大な影へ向けて走り出した。