作品タイトル不明
第166話 虚空国へ、ただひとり
喉の奥に、黒い砂が詰まっていた。
息を吸おうとしても、肺の底まで冷えた潮の匂いしか入ってこない。まぶたの裏で、白い羽が千切れ、銀の髪が闇に沈み、俺の伸ばした手の先で、ミユウの指がひとつずつほどけていった。
アインが泣き声を噛み殺し、ジュリアが小さな両手で床を掻いた。その背後で、王冠の影だけが揺れ、闇の中から濡れた声が落ちた。
「遅かったな、勇者」
胸の奥で、何かが折れた。
俺は上体を跳ね起こし、寝台の縁を掴んだ。指先が板に食い込み、汗で濡れた手のひらが滑る。船室の天井は低く、梁に吊るされた小さな灯りが、波に合わせてゆっくり揺れていた。
息が噛み合わない。
喉を通る空気がざらつき、舌の上に鉄の味が残る。夢の中で聞いた声が、まだ耳の奥にへばりついていた。
「……っ」
隣で、ミユウが眠っていた。
銀の髪が枕に広がり、白い指が胸元の布を軽く握っている。長いまつげは下りたまま、呼吸のたびに肩がほんの少し上下した。その向こうで、アインとジュリアが寄り添うように丸まり、同じ毛布の端を小さな手で握っていた。
俺は、寝台から足を下ろした。
床板の冷たさが足裏から膝まで上がり、波を受けた船体が低く軋む。窓の外には、夜が張りついていた。月の光は雲に裂かれ、遠くの海面だけが、刃を伏せたように鈍く光っている。
悪夢の名残が、指の節を締めつけていた。
俺は立ち上がり、壁に立てかけていた剣帯へ手を伸ばした。革の感触が汗ばんだ指に沈み、アストラルフレイムの柄が、薄暗がりの中でかすかに熱を持った。
抜かない。
今は、まだ抜かない。
鞘ごと腰へ留めると、金具が小さく鳴った。その音に、ミユウのまぶたがわずかに震えた。俺は息を止め、しばらくその場に立ったまま、揺れる灯りの下で彼女の横顔を見ていた。
夢の中のミユウは、俺を呼ばなかった。
手を伸ばしたまま、声も出さずに消えた。その沈黙が、目の前の寝息と重なって、胸の奥に爪を立てる。
俺は膝をつき、ミユウの頬にかかった髪を指で避けた。触れた髪は、夜気を含んで冷たく、指の腹にさらりと流れた。
「ミユウ」
声は、灯りの揺れに紛れるほど低かった。
「少しだけ、行ってくる」
答えはない。
ミユウの唇が、眠りの中で小さく開く。俺の呼び名がそこに乗りかけたように見えて、俺は顔を伏せた。
起こせば、止められる。
彼女は、俺の腕を掴む。銀の瞳で俺を見る。あなた、と呼ぶ。その一言だけで、俺は膝をつく。
だから、起こさない。
俺は彼女の手に触れた。細い指の隙間に自分の指を入れかけ、途中で止める。握れば、離せなくなる。指先だけを重ね、ぬくもりをひとつ受け取ってから、そっと離した。
次に、毛布の向こうを見た。
アインは横向きに眠り、小さな白い羽を背中に畳んでいた。昼間、何度も転び、歯を食いしばって立ち上がった身体が、今は力を抜いて丸くなっている。頬にはまだ乾ききらない汗の跡が残り、黒い髪が額に貼りついていた。
俺は手を伸ばし、額の髪を避けた。
「アイン」
小さな眉が動いた。
俺は指を止める。
起きるな。
頼むから、今だけは眠っていろ。
そんな言葉を喉の奥で噛み砕き、代わりに、乱れた毛布を肩まで上げた。アインの指が毛布を掴み直す。小さな爪が布に食い込み、口元がかすかに動いた。
「……パパ」
寝言だった。
俺の胸に、鈍い熱が落ちた。
返事をすれば、足が止まる。分かっているのに、喉が勝手に動きかける。俺は唇を噛み、息だけを鼻から抜いた。
ジュリアは、アインの背中にくっつくように眠っていた。銀の髪が頬にかかり、小さな手がアインの服を握っている。昼間は何度もその手で俺の袖を掴み、何度も「パパ」と呼んだ。
その声が、耳の奥で揺れる。
俺はジュリアの髪を整え、毛布の端を小さな肩にかけた。指先が羽の付け根に触れ、彼女の身体がぴくりと動く。俺は手を引き、床に膝をついたまま、三人を見た。
船室の空気は薄く、潮と木材と灯油の匂いが混ざっている。
この狭い箱の中に、俺の全部が眠っていた。
ミユウの手。
アインの寝息。
ジュリアの指。
どれかひとつでも失えば、俺の中で何かが二度と戻らない。
魔王の声が、また耳元に落ちた。
遅かったな、勇者。
俺は奥歯を噛みしめた。顎に力が入り、こめかみが脈を打つ。腰のアストラルフレイムが、鞘の内側で低く熱を返した。
遅れない。
今度は、待たない。
誰かが奪いに来る前に、俺が闇の喉元へ入る。
俺は立ち上がった。膝が少し鳴り、船が大きく傾く。ミユウの髪が枕の上で揺れ、アインの手が毛布を引き寄せ、ジュリアの唇が小さくむずかる。
足を止めるな。
俺は扉へ向かった。
取っ手に触れると、金属の冷たさが掌に刺さった。ゆっくり回し、軋みを殺しながら隙間を開ける。外の闇が細く入り、灯りの色を奪った。
最後に、振り返った。
ミユウの銀髪が、薄い光を拾っていた。
アインの小さな背中が、毛布の下で上下していた。
ジュリアの手は、まだアインの服を握っていた。
「……必ず、戻る」
声にすると、嘘のように軽くなりそうで、俺は唇だけを動かした。
扉を閉めた。
細い隙間が消え、船室の灯りも消えた。廊下には、夜の湿気が溜まっていた。壁板を伝う水滴が足元に落ち、裸足の指に冷たく弾ける。
俺は歩き出した。
船は、すでに止まっていた。
危険な海域を越えたあとの海は、妙に音が少ない。波はある。風もある。帆を縛る縄も鳴っている。それなのに、空気の奥に、ひとつ大きな穴が開いているようだった。
甲板へ出る階段を上るたび、潮の匂いが濃くなる。木の段差が足裏に食い込み、上から吹き込む風が汗を冷やした。扉を押し開けると、真夜中の甲板が俺を飲み込んだ。
虚空国が、そこにあった。
海の向こうに、黒い大地が浮かんでいた。島と呼ぶには輪郭が歪み、国と呼ぶには灯りがない。切り立った岸壁が夜空へ突き出し、その上に、崩れた塔の影や、骨のように曲がった門が重なっている。
空には星がなかった。
黒い雲が低く垂れ、雲の腹に、紫の筋が走っては消える。風が岩肌を撫でるたび、どこか深い穴から、息を吸うような音が返ってきた。
俺は甲板の端へ進んだ。
船縁に手を置くと、湿った木が掌に沈む。すぐ下の海は黒く、波頭だけが灰色に砕けていた。岸へ渡すための細い板が、甲板から岩場へ伸びている。板の先は、 虚空国(まかい) の影に食われて見えなかった。
背中に、船室の灯りの名残があった。
振り返れば、戻れる。
ミユウの隣へ横になることもできる。アインとジュリアのあいだに手を置き、朝まで息を数えることもできる。
けれど、朝が来る保証を、俺は持っていない。
夢の中で見た白い羽が、まだ目の底に焼きついている。ミユウの手がほどける感触。アインの泣き声を飲み込む喉。ジュリアの小さな爪が床を掻く音。
俺は腰の剣帯を締め直した。
革が腹に食い込み、呼吸が浅くなる。アストラルフレイムの柄に指をかけると、熱が骨まで伝わった。抜かないまま、俺はその熱を握りしめた。
「俺だけでいい」
風が言葉を攫った。
「俺が、先に行く」
誰に聞かせる声でもなかった。
船板が小さく鳴る。俺は一歩を踏み出し、渡し板の上に足を置いた。板は体重を受けて沈み、黒い海がすぐ横で口を開ける。
冷たい風が頬を打った。
二歩目。
板の下で波が砕け、細かい飛沫が足首に散る。
三歩目。
虚空国(まかい) の匂いがした。
焦げた土と、湿った石と、長く閉じ込められた闇の匂い。鼻の奥が痺れ、舌の裏に苦みが広がる。船の匂いが少しずつ遠のき、背中のぬくもりが薄くなる。
俺は足を止めなかった。
岩場に降りた瞬間、靴裏に伝わる感触が変わった。石は冷えきっていて、表面にぬめりがある。踏み締めるたび、足元の隙間から細い風が抜け、膝の裏を撫でた。
振り返る。
船は、夜の中に浮かぶ小さな影になっていた。甲板の灯りは布をかぶせられたように弱く、船室の窓から漏れる色も、波に揺れてすぐに崩れる。
あそこに、三人がいる。
俺は右手を胸元へ上げかけ、途中で止めた。
届かない場所で祈るような真似をするより、足を動かせ。
岩場の先に、黒い門があった。
門柱は傾き、表面には欠けた紋様が刻まれている。近づくほど、紋様の隙間から冷たい光が滲み、見たことのない形の線が、石の奥で脈を打つように揺れた。
俺は門の前に立った。
喉が乾く。
背後で船が軋んだ。風に押された帆の音か、寝返りを打つ船体の音か、分からない。分からないまま、胸の奥が跳ねた。
俺は振り返らない。
振り返れば、戻る理由を探す。
アインの顔が浮かんだ。何度も転んだ膝。剣を握る小さな手。俺の袖を掴んだ指。
ジュリアの顔が浮かんだ。眠る前に俺の手を握った小さな手。口を尖らせて、離さなかった指。
ミユウの顔が浮かんだ。俺の背を撫でる白い手。目を閉じても、呼吸の温度だけでそこにいると分かる人。
門の内側から、闇が揺れた。
俺は一歩、踏み込んだ。
音が消えた。
海の音も、船の軋みも、風のうなりも、背後で切り落とされた。耳の奥に、自分の血の音だけが残る。足元の石はさらに冷たく、踏むたびに熱を奪っていく。
虚空国の中は、夜より黒かった。
遠くに道らしきものが伸びている。崩れた壁、倒れた柱、半分だけ残った階段。どれも闇に沈み、輪郭だけが薄く浮かぶ。頭上では、雲の隙間から紫の光が落ち、地面に細い傷を作っては消えた。
俺は呼吸を整えた。
胸の奥の震えを押さえつけ、肩の力を抜く。アストラルフレイムの柄に手を置いたまま、鞘の重さを腰で受ける。
戦いに来たわけじゃない。
まだ、戦わない。
見る。
踏む。
進む。
この国の闇が、どこから俺たちを狙っているのか。魔王の息が、どの方角から吹いてくるのか。俺がこの足で確かめる。
石畳に一歩を置いた。
足音は返ってこなかった。地面が音を吸い、闇の奥へ沈める。二歩目を置くと、背後の門がわずかに鳴った。
俺は振り返った。
船は見えない。
門の向こうには、ただ黒い幕が垂れている。さっきまで確かにあった海も、灯りも、渡し板も、全部が闇に塗り込められていた。
胸の奥が、急に空いた。
俺は歯を食いしばり、息を吸う。
戻る道が消えたのか、見えなくなっただけか。
今は、確かめない。
確かめれば、足がそちらを向く。
俺は前を向いた。
そのとき、胸の奥を、細い針のような感覚が刺した。
船室に置いてきたはずの小さなぬくもりが、背中のずっと遠くで揺れた気がした。俺が触れた額。毛布を掴み直した指。寝言のように落ちた声。
パパ。
俺は立ち止まった。
闇の中で、指が柄を締める。
気のせいであってくれ。
眠っていてくれ。
俺の足音も、門の音も、何も届かない場所で。
背後の黒い幕の向こうから、かすかな音がした。
木がきしむ音。
小さな足が、床をこする音。
そして、夜を裂けないほど細い声。
「……パパ」
俺は目を閉じた。
まぶたの裏に、アインの顔が浮かんだ。眠りから抜けきらない目で、毛布を握り、俺の匂いが消えた場所を探す顔。
船室の扉に、小さな手が触れる音がしたような気がした。
「パパ……?」
俺は、振り返らなかった。