軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第165話 休むことも、修行だ

甲板に残った剣の跡を、波の照り返しが白く舐めていった。俺の握るアストラルフレイムは熱を失いかけているのに、掌の皮だけがまだ焼けたように脈を打ち、足元では細かな木片が靴底に引っかかって乾いた音を立てていた。

アインは俺から三歩離れた場所で膝をつき、肩で息をしながら、両手で握った小さな剣をまだ離そうとしなかった。額に張りついた黒髪の隙間から、丸い目が俺の腕を追い、汗で濡れた頬を袖でこすったあと、また剣先を持ち上げようとする。

帆が風を受けて大きく膨らみ、船体がゆっくり傾いた瞬間、アインの小さな足が甲板を擦った。俺はアストラルフレイムを鞘へ戻し、まだ立とうとする息子の前へ歩いていって、その剣を握る手の上から自分の手を重ねた。

「アイン、今日はここまでだ」

小さな指が、俺の手の下でぎゅっと固まった。

「まだ、やる」

息の間に混じった声はかすれていた。さっきまで何度も転び、何度も立ち上がった体は、もう膝に力が残っていない。それでもアインは唇を結び、俺の顔を見上げたまま、剣を手放さなかった。

俺は片膝をつき、アインの目の高さまで下りた。汗と潮が混ざった匂いが近くなり、細い肩が上下するたび、服の布が胸に張りついていた。

「休むことも修行だ。剣を振るだけじゃ、強くなれない」

アインは俺の言葉をすぐには飲み込まず、剣の柄を見下ろした。濡れた睫毛が影を落とし、小さな指先が一度だけ震える。

「やすむのも?」

「ああ。倒れるまでやったら、明日、ミユウもジュリアも困る」

アインの目が、ぴくりと動いた。剣の力が抜け、柄が俺の掌に重く沈む。

「ママ、こまる?」

「困る。ジュリアも、アインが寝てばかりだったら、きっと服を引っぱって起こしにくる」

アインは口を少し開け、何か言いかけてから、こくんと小さく頷いた。俺は剣を受け取り、甲板の端に置いてあった布でアインの掌を包んだ。豆の潰れかけた指は熱を持ち、握るたびに皮膚が薄く張った。

痛いか、と聞きそうになって、言葉を止めた。アインは俺の顔を見ていた。答えを求める目ではなく、俺が次に何をするのかを待つ目だった。

俺は布の上から指を軽く押さえ、ほどけかけた巻きを整えた。

「よく握ったな」

アインの鼻が小さく鳴った。

「パパ、つよい」

「アインも、最後まで手を離さなかった」

「ころんだ」

「転んでも、剣を捨てなかった」

その言葉に、アインは自分の膝を見た。擦りむいたところに薄く血が滲み、潮風が触れるたびに足先が小さく動く。俺は腰の袋から水を含ませた布を取り出し、傷の周りについた木屑を拭った。

アインは歯を食いしばっていた。泣き声は出さない。ただ、空いた手が俺の袖を掴み、布がぎゅっと伸びた。

「しみる」

「ああ。すぐ終わる」

「パパ、ゆっくり」

「わかった」

布を当てる力を弱めると、アインの肩から少しだけ力が抜けた。膝の汚れを落とし、乾いた布で押さえてから、俺は自分の外套を脱いで甲板に敷いた。

「座ろう」

アインはまだ剣の方を見ていたが、俺が手を差し出すと、その手に小さな指を絡めてきた。立ち上がる時、膝が揺れ、俺の腕に体重がかかる。五歳の体は汗で熱く、背中を支えると骨の細さが掌に触れた。

外套の上に座らせると、アインは足を投げ出し、かかとを甲板にとんと落とした。膝の傷を気にして、片方だけ少し浮かせている。その横に俺も腰を下ろし、海の向こうへ目を向けた。

波は船体に当たって砕け、細かな飛沫が光を受けて散った。帆綱が軋み、遠くで誰かが荷を動かす鈍い音が響いたが、甲板のこの場所だけは、俺とアインの呼吸が近くにあった。

「パパ」

「ん?」

「もう、おこらない?」

俺は横を見る。アインは膝の布を見つめたまま、足の指を丸めていた。

「修行の時の顔か?」

こくん、と頷く。

「こわいかお、やだ」

胸の奥を、鈍いものが押した。俺は何度も剣を振り下ろし、受け止め、弾き、倒れたアインの前で待った。手加減しなかったわけじゃない。けれど、目の前にいたのは敵ではなく、俺の息子だった。

俺は自分の膝に肘を乗せ、指を組んだ。アストラルフレイムの熱が抜けた手は、潮風に冷えはじめている。

「ごめんな。怖い顔になってた」

アインの手が、俺の袖から離れずに揺れた。

「パパ、パパでいて」

短い声が、風に乗らず、俺の胸の前で落ちた。

俺はアインの頭に手を置いた。汗で湿った黒髪が指に絡み、さっきまで戦っていた小さな体が、俺の膝に寄ってくる。抱き寄せると、アインの額が俺の脇腹に当たった。

「ここにいる」

「いかないで」

「行く時は、ちゃんと戻ってくる」

アインは答えず、俺の服を掴んだ。指の力は弱いのに、離れない。俺はその手を上から包み、骨の細い指を一本ずつ温めるように握った。

魔王の影は、まだこの海の向こうにある。俺の剣も、体も、そこへ向かうために削られていく。けれど、今この腕の中にある重さは、どんな鎧よりも俺を縫い止めた。逃げるなと叫ぶのではなく、戻れと引く小さな重さだった。

アインが顔を上げた。

「ママ、まってる?」

「ああ。ミユウも、ジュリアも待ってる」

「ジュリア、ないてる?」

「きっと、アインが帰ったら一番に走ってくる」

アインの口元が少し緩み、またすぐに引っ込んだ。

「ころんだの、いわない」

「膝を見たら、たぶんすぐ分かる」

「だめ」

「じゃあ、アインから言うか?」

アインは首を横に振り、俺の腰に額を押しつけた。小さな頭が、外套の布を擦る。

「パパ、いう」

「俺が?」

「うん」

「なんて言えばいい?」

アインは少し考えるように口を尖らせた。難しい言葉を探す顔ではなく、転んだことをどう隠すか迷う顔だった。

「アイン、がんばったって」

「それなら言える」

「ころんだは、ちょっと」

「ちょっとか」

「ちょっと」

膝には、どう見ても一度では済まない擦り跡があった。俺は笑いそうになった口元を、アインの髪に隠した。笑えばすねる。すねたら、また剣を握ろうとする。俺はその小さな負けん気ごと、腕にしまい込んだ。

しばらく、二人で海を見た。

アインの息が少しずつ整い、肩の上下が浅くなっていく。俺の外套の端をつまんだまま、足の指で甲板をなぞり、時々、膝の布を気にして触ろうとするたび、俺はその手をそっと戻した。

「さわらない」

「ん」

「あとでミユウに見てもらおう」

「ママ、いたいの、なおす?」

「治してくれる。でも、頑張った膝だって、先に見せよう」

アインは布の上から膝を見下ろし、鼻先を少し赤くした。

「ママ、わらう?」

「笑わない。きっと、ぎゅっと抱っこする」

「ジュリアも?」

「ジュリアは、アインの膝より先に、アインの服を掴む」

アインは俺の袖を掴む手に力を入れた。

「おにぃちゃんって、くる」

「ああ。走ってくる」

そこまで言って、俺は胸の奥に浮かんだもう一つの気配を、言葉にするか迷った。

ミユウの手が、最近よく腹の前で止まる。誰かに見せるためではなく、ふとした拍子にそこへ戻る指先。風に揺れる髪を押さえるより先に、階段を上る時に裾を持つより先に、あの手は腹に触れていた。

まだ本人の口から聞いたわけではない。俺も、急かすつもりはなかった。けれど、朝の光の中で見た服の布は、ほんの少しだけ丸みを帯びていた。ミユウが茶を飲む時、器を持たない手が、そこを覆うように当てられていた。

俺はアインの髪から手を離し、海の向こうを見たまま言った。

「アイン」

「なに?」

「家に帰ったら、ミユウのお腹を、そっと見てみるか」

アインが顔を上げた。丸い目が俺の横顔を覗き込む。

「おなか?」

「ああ。最近、少しだけ膨らんできた」

アインは俺の服を掴んでいた手を離し、自分の両手を腹の前に丸く置いた。小さな掌で作った形はすぐに崩れ、指がばらばらに開く。

「たべすぎ?」

俺は息を噛み、喉の奥で笑いを止めた。

「違うと思う」

「ちがう?」

「ミユウが、時々そこに手を当ててる。大事なものを包むみたいに」

アインの目が、俺の手から自分の腹へ戻った。小さな眉が寄り、次にぱっとほどける。

「あかちゃん?」

声は風より軽かった。俺は頷いた。

「まだ、はっきり聞いたわけじゃない。でも、俺はそう思ってる」

アインはしばらく動かなかった。足の指も、外套をつまんでいた手も止まり、潮風だけが黒髪を揺らした。

次の瞬間、アインは俺の腕にしがみついた。

「ちいさい?」

「まだ、きっとすごく小さい」

「て、ある?」

「今は、ミユウのお腹の中で、ゆっくり育ってる」

「ジュリアより、ちいさい?」

「うん。ずっと小さい」

アインは自分の掌を広げ、そこに何かを乗せるように見つめた。指の間に光が落ち、さっき剣を握って赤くなった皮膚が、震えるように動いた。

「だっこ、できる?」

「生まれてからだな」

「おとすの、だめ」

「俺が一緒に持つ」

アインは真剣に頷いた。難しいことを考えている顔ではない。ただ、小さなものを落としたくない時の顔だった。

「ミルク、いる?」

「いるかもしれない」

「ジュリア、あげる?」

「ジュリアは、きっと隣で見たがる」

「アインも、みる」

「ああ。一緒に見よう」

アインは俺の腕に頬を押しつけ、海の方へ目を向けた。頬の熱が布越しに伝わってくる。さっきまで剣を構えていた手は、今は俺の袖口を丸めて遊んでいた。

「おうち、いっぱい?」

「五人になる」

「ごにん」

アインは指を折ろうとして、途中で止まった。親指を立て、人差し指を立て、そこで首を傾げる。

「パパ」

「一人」

「ママ」

「二人」

「ジュリア」

「三人」

「アイン」

「四人」

アインは最後の指をゆっくり立てた。

「あかちゃん」

「五人」

小さな掌が開き、光を受けた。アインはその手を見つめたまま、指を全部曲げたり開いたりした。

「いっぱい」

「ああ。賑やかになる」

「ごはん、いっぱい」

「皿も増えるな」

「ねるとこも」

「寝る場所も、毛布も、服も増える」

「パパ、たいへん?」

その声に、俺はアインの横顔を見た。五歳の頬はまだ丸く、汗の跡も涙の跡も残っている。けれど、俺の袖を掴む手には、さっき剣を離さなかった力が残っていた。

俺はアインの肩を抱き直した。

「大変でも、欲しい未来だ」

アインは俺の言葉の半分も飲み込んでいないかもしれない。ただ、俺の声の低さに反応して、膝を寄せた。

「パパ、いたいの、だめ」

「痛くても、戻る」

「パパだけ、だめ」

短い言葉が、俺の腕に引っかかった。

アインは俺を見上げ、もう片方の手で自分の胸をぽんと叩いた。

「いっしょ」

それだけ言って、また俺の服を掴む。自分が何を背負うのかも、魔王がどれほど遠いのかも、分かっていない。それでいい。分からないまま、俺の隣に立とうとしている。その小さな体が、今は膝を擦りむいただけで涙を堪え、俺の外套の上に座っている。

俺はアインの額に手を当てた。熱はあるが、修行で上がった熱だ。指先で髪をかき分けると、アインはくすぐったそうに目を細める。

「今は、休む。食べる。寝る。ミユウに膝を見せる。それがアインの修行だ」

「ねるのも?」

「寝るのも」

「ごはんも?」

「ごはんも」

「おかわりも?」

「それは腹と相談だ」

アインは少しだけ口を尖らせた。

「おかわり、する」

「じゃあ、今日は肉を多めに頼もう」

「ジュリアのも?」

「ジュリアの分もある」

「あかちゃんは?」

「まだミユウからもらってる」

アインはまた両手を腹の前に置いた。今度はさっきより小さな丸を作り、その中を覗き込む。

「ママ、すごい」

「ああ。すごい」

「パパも?」

「俺は……守るだけだ」

言った瞬間、アインの手が伸びて、俺の口元をぺち、と叩いた。痛くはない。けれど、指先の熱が唇に残った。

「だけ、だめ」

俺は目を瞬かせた。

アインは眉を寄せ、俺の袖をまた掴む。

「パパ、かえって」

その言葉は、叱るものではなかった。五歳の口から出た、ただの願いだった。魔王を倒すとか、世界を救うとか、そういう重いものを知らないまま、俺の服を掴んで離さない声だった。

俺はその手を包み、ゆっくり頷いた。

「帰る。必ず」

「ママのとこ」

「ああ」

「ジュリアのとこ」

「ああ」

「あかちゃんも」

「五人で暮らす」

アインは満足したように、俺の腕に頭を預けた。

俺は海の向こうを見た。雲の切れ間から光が落ち、波の筋が剣の刃みたいに白く走る。その先に、魔王がいる。俺の命を削るものがある。けれど、その先だけを見ていたら、足元に座るこの小さな熱を踏み外す。

俺はアストラルフレイムを見た。鞘に収まった剣は黙っている。さっきまで火を纏い、アインの剣を受け止め、何度も甲板に火花を散らした剣だ。あの炎で斬るべきものは、俺の前にある闇だけじゃない。帰る道を塞ぐもの全部だ。

ミユウの腹に触れる手。ジュリアが走ってくる足音。アインが今日、転んでも離さなかった剣。まだ名前も知らない小さな命。

それらを、魔王の影に預けるつもりはなかった。

「アイン」

「ん」

「俺は魔王を倒す」

アインの頭が、俺の腕の中で少し動いた。顔を上げ、俺を見る。

「こわいやつ?」

「ああ。怖いやつだ」

「パパ、こわいかお?」

「なるかもしれない」

アインの指が、俺の頬に触れた。汗と土で汚れた小さな手だった。

「こっちみて」

俺はアインを見る。

丸い目が、俺の顔を逃がさないように見ていた。鋭い言葉はない。立派な約束もない。ただ、頬に触れた指が、俺をこの甲板へ戻していた。

「これでいいか」

アインは頷いた。

「パパ」

「ん」

「かえってね」

「帰る」

「ぜったい?」

「絶対だ」

アインは俺の胸に額を押しつけ、両腕を回した。小さな腕では俺の体を囲みきれず、指先が背中の布を掴むだけで精一杯だった。

俺はその背を抱いた。剣を握ったあとで強張った肩、転んだ時に汚れた服、潮に濡れた髪。全部が腕の中にあった。

「魔王を倒して、家に帰る。ミユウと、アインと、ジュリアと、生まれてくる子と、五人で朝を迎える」

アインは何も言わず、俺の胸に耳を押しつけた。

「朝になったら、ジュリアが先に起きて、アインの布団を引っぱる。ミユウは赤ん坊を抱いて、俺は台所で皿を並べる。アインは寝ぼけたまま歩いてきて、椅子に座る前に俺の足にぶつかる」

アインの肩が、ほんの少し揺れた。

「ぶつからない」

「今日も甲板の箱にぶつかった」

「あれ、箱がきた」

「箱は歩かない」

「きた」

「そうか。箱が来たなら仕方ない」

アインは俺の服の中で、声を漏らした。笑い声は小さく、すぐに風へほどけた。

俺はその音を胸に受けながら、続きを口にした。

「ご飯を食べて、ミユウが赤ん坊を寝かせて、ジュリアがそっと覗いて、アインは近づきすぎて俺に止められる」

「みるだけ」

「見るだけならいい」

「さわるの、ちょっと」

「手を洗ってからだ」

「パパも」

「俺も洗う」

アインは満足したように頷き、俺の腕の中から海を見た。

「おうち、かえる」

「ああ」

「ごにん」

「五人だ」

言葉にすると、胸の奥に形ができた。まだ届かない場所にあるはずなのに、アインの小さな指が数えたせいで、もう俺の掌の中に置かれたようだった。

魔王を倒す。家族を守る。未来を手に入れる。

そんな言葉は、何度も胸の中で繰り返してきた。けれど今は、それよりもずっと小さなものが俺を動かしていた。皿が五枚並ぶ音。毛布が一枚増える重さ。ミユウの手が腹に触れる仕草。ジュリアが廊下を走る足音。アインが寝ぼけた目で俺を探す朝。

それを失わないために、俺は剣を握る。

アインが俺の腕から少し離れた。眠気が滲んできたのか、瞬きが遅い。それでも、俺の手を探して指を絡めてくる。

「パパ」

「どうした」

「ひとり、だめ」

俺は絡められた指を見た。小さな手は、まだ俺の剣を支えられない。魔王の前に立たせるには細すぎる。けれど、その手は俺が一人で沈んでいかないように、今ここで服を掴んでいる。

「そうだな。一人で背負わない」

「いっしょ」

「今は、隣で休んでくれ」

「うん」

アインは俺の太腿に頭を乗せた。硬い甲板の上に敷いた外套は薄く、風が吹くたび端が揺れる。俺は外套の余った部分をアインの肩にかけ、膝の布がずれないように押さえた。

「さむい?」

「ちょっと」

俺は自分の腕を回し、アインの背中を覆った。五歳の体温が、剣を握って冷えはじめた腕に戻ってくる。

「パパ、あったかい」

「アインも熱い」

「がんばった」

「ああ。頑張った」

「ママに、いう」

「俺が言うんじゃなかったのか?」

「いっしょに、いう」

「わかった。一緒に言おう」

アインは目を閉じかけ、また薄く開いた。

「ころんだの、ちょっと」

「そこも一緒に言う」

「ちょっと」

「ちょっとな」

俺は膝の布を見て、もう一度頷いた。アインはそれで納得したのか、俺の指を握ったまま、息を深く吐いた。眠りに落ちるには甲板の音が多すぎる。けれど、体は休みを欲しがっている。

遠くで帆が鳴った。船が波を越え、アインの頭が俺の太腿の上でわずかに跳ねる。俺はそのたびに手を添え、首が揺れすぎないよう支えた。

この子は、今日、何度も俺に向かってきた。

剣を弾かれて、転んで、膝を打って、それでも俺を見るたびに立とうとした。強くなりたい理由を、長く語ることはない。ただ、俺が剣を握ると、小さな手も剣を握った。俺が立っている場所へ来ようとして、何度も甲板に手をついた。

それで十分だった。

アインは俺の代わりに戦うためにいるんじゃない。俺が帰る場所を、まだ温かい形で教えてくれるために、ここにいる。

俺は空いた手でアストラルフレイムの鞘に触れた。冷えた金具が指に当たり、潮で湿った革がざらつく。

「必ず倒す」

声は風の中に落とした。アインに聞かせるためではなく、俺の中で剣を握り直すための声だった。

アインの睫毛が動く。

「パパ?」

「いる」

「かえろ」

「ああ。もう少ししたら、戻ろう」

「ママのとこ」

「ミユウのところへ」

「ジュリアのとこ」

「ジュリアのところへ」

「あかちゃんも」

「赤ん坊のところへ」

アインの指が、俺の指を握り直した。眠気に負けかけているのに、その力だけは残っていた。

俺は海へ顔を向けた。光は傾き、甲板の傷跡を斜めに照らしている。今日、アインがつけた小さな剣の跡も、俺が踏み込んだ深い跡も、同じ木の上に刻まれていた。

やがて波に濡れ、乾き、また誰かの足に踏まれる。それでも、今この場所で俺たちは剣を置き、家族の話をした。

魔王の闇がどれほど深くても、俺はこの時間を忘れない。アインの汗の匂いも、膝の布の湿りも、五本の指で数えた未来も、全部持っていく。

俺はアインの肩にかけた外套を引き寄せ、風が入らないよう端を押さえた。

「パパ」

「ん?」

「て、はなさないで」

「離さない」

アインの手は、俺の指を包みきれない。けれど、俺はその小さな手の内側に、自分の指を預けた。

船がまた波を越えた。甲板の影が揺れ、鞘の金具が短く鳴る。アインの頬が俺の膝に触れ、潮風で冷えた布の上に、子どもの熱がじわりと広がっていった。