作品タイトル不明
第164話 新たな勇者の誕生
船室の床板が、波を受けるたびに低く鳴った。ランプの火は天井の梁へ細い影を押し上げ、揺れるたびに、正座したアインの小さな肩へ光と影を交互に落とした。
俺は膝の上で拳を握り、目の前に置いたアストラルフレイムへ指を添えた。鞘越しに伝わる熱は、これまで何度も俺を戦場へ立たせてきたものと同じなのに、今だけは、五歳の息子を試練へ送り込む扉の留め金みたいに重かった。
アインは「パパ」と呼びかけかけて唇を閉じ、俺の言葉を待つように背すじを伸ばした。褒められたあとの頬のゆるみが、まだ少しだけ残っていて、その幼い丸みを見た瞬間、俺の喉の奥で、言わずに飲み込んだ声が熱を持った。
「アイン。目を閉じろ」
小さなまつ毛が伏せられた。
膝に置かれた手は、指先までそろえようとしているのに、船の揺れに合わせて少しずつずれていく。俺はその一本一本を見ないように、床板の節へ視線を落とし、そこに刻まれた細い傷を数えた。
「息を吐いて、俺の声だけ聞け」
アインの胸が上下した。吸い込む息は短く、吐く息は途中で引っかかり、唇の隙間からかすれた音になってこぼれた。
ミユウは船室の壁際で両手を重ねていた。白い羽が肩の後ろで小さく震え、ランプの光を受けた髪が胸元へ流れている。ジュリアはそのスカートを両手で握り、アインの顔を見つめたまま、足の指を床へ押しつけていた。
「おにぃちゃん……」
ジュリアの声は、布の端でこすれたみたいに小さかった。
アインのまぶたは動かなかった。けれど、膝の上の指が一度だけ跳ね、爪が自分の手の甲へ浅く食い込んだ。
俺はアストラルフレイムから手を離し、アインの正面に座り直した。船室の空気が、針を含んだ布みたいに肌へ張りつく。窓の外で波が船腹を叩き、その音が遠くへ引いていったあと、俺の声だけが狭い室内に残った。
「今から、最後の修行を始める」
アインの喉が小さく鳴った。
「体を動かすな。剣も抜くな。ここで見えるもの、聞こえるものに、手を伸ばすな」
小さな眉の間にしわが寄った。幼い顔の中に、これまでの修行で何度も浮かんだ歯を食いしばる癖が出る。俺はその癖を見つけるたびに、やめさせたくなる手を膝へ押しつけた。
「パパ、そこにいる?」
「ああ」
「ママも?」
「いる」
「ジュリアも?」
ジュリアがミユウのスカートを握ったまま、前へ半歩出た。
「いる。ここ」
アインの肩から、ほんの少し力が抜けた。
その瞬間を狙うように、アストラルフレイムの鞘が低く鳴った。刃は抜いていない。けれど、床へ置いた剣の下から黄金の光が薄く広がり、アインの膝の周りを円に囲んだ。
俺は奥歯を噛んだ。
ここから先は、俺が代わってやれない。
「アイン」
名前を呼ぶと、小さな背中がぴんと伸びた。
「お前は、守られていた」
アインの唇が動いた。声にはならない。
「俺が前に立ち、ミユウが傷を癒やし、ジュリアがそばで待っていた。お前は俺の背中の後ろにいた」
膝の上の手が丸まった。指先の色が白くなる。
「その場所を、忘れるな」
アインの呼吸が乱れた。吸う音が細くなり、吐く音が船室の板壁にぶつかって戻ってくる。額に汗がにじみ、こめかみを伝った一筋が頬の丸みに沿って落ちた。
ミユウの指が胸元で組み直される。薄い爪が自分の手を押し、白い肌に跡を残した。
「あなた……」
俺は返事をしなかった。返事をすれば、声の形が崩れそうだった。
アインの周りの光が、円から柱へ変わった。床の木目をなぞるように走った黄金は、アインの膝、胸、閉じたまぶたへ順に上がり、その小さな体を船室の中央へ縫い留める。
どこか遠くで、 喇叭(らっぱ) が鳴った。
それは金属の音なのに、耳だけで聞こえるものではなかった。床板の裏、壁の釘、俺の肋骨の隙間、ミユウの羽の先、ジュリアの握った布のしわまで、同じ震えで鳴った。
アインの肩が跳ねた。
「パパ……っ」
「目を開けるな」
俺は膝の上の拳を押さえた。爪が掌へ沈む。ここで抱き上げれば、アインは泣きながら俺の首にしがみついてくる。俺はその重さを知っている。眠くなると頬を肩に押しつけ、片手で俺の服を握ったまま離さなくなる、その熱を知っている。
だから、口を開いた。
「聞け。今、お前に問われている」
アインの口が震えた。
「どれだけ走った。どれだけ転んだ。どれだけ剣を握った。どれだけ泣くのをこらえた」
汗が顎の先から落ち、膝の上で小さく弾けた。
「それでも、まだ足りないと言われたら、お前はどうする」
アインの息が止まった。
ランプの火が細くなり、船室の隅が濃く沈んだ。黄金の光はアインの背後へ広がり、そこに何かを立たせるように、壁の影を高く引き延ばした。俺には何も見えない。ただ、アインの閉じた目の奥で、幼い体に抱えきれないものが押し寄せていることだけが、汗と呼吸で伝わってくる。
「パパ……」
声が割れた。
ジュリアが一歩出ようとして、ミユウに肩を抱かれた。
「おにぃちゃん……」
ミユウは唇を噛み、ジュリアを抱き寄せた。止めているのはジュリアだけじゃない。自分の足も、自分の声も、全部そこに縫い止めている。
俺はアインを見た。
あの子の手は、小さすぎる。剣の柄を握れば指が余り、踏み込めば床板に足音が軽く響く。食事の途中で眠くなれば、匙を持ったままこくりと揺れる。ジュリアと取り合いになった布切れ一枚で頬をふくらませ、ミユウに撫でられれば、すぐに目の端を柔らかくする。
その小さな手が、今、自分の膝の上で震えながら、逃げない形を作っていた。
「アイン」
俺の声は、 喇叭(らっぱ) の残響に削られながらも届いた。
「守られていた場所へ戻りたいか」
アインの肩が強く震えた。
「パパの後ろに隠れたいか」
閉じたまぶたの下で、目が忙しく動いた。唇が開き、息だけが漏れる。声にならない音がいくつも生まれて、喉の奥でぶつかって消えた。
「戻ってもいい」
ミユウが息を呑んだ。
俺は膝の拳をさらに強く握った。
「パパの後ろにいてもいい。ママの腕の中にいてもいい。ジュリアと一緒に泣いてもいい。お前は、まだ小さい」
アインの頬を伝う汗に、涙が混じった。落ちる速さが変わり、顎の下で一度止まってから、ぽたりと床へ落ちた。
「それでも、前へ出るのか」
喇叭(らっぱ) が、もう一度鳴った。
アインの体が後ろへ倒れかけた。俺の手が動きそうになり、膝の上で止まった。ミユウの羽がばさりと揺れ、ジュリアが小さく声を上げる。
「おにぃちゃん!」
アインは倒れなかった。
膝が床を押し、背中が震え、歯の隙間から息が漏れた。小さな手が膝をつかみ、布を握りしめる。指の節が浮き、腕がぷるぷると揺れている。
「……まもる」
声は、船の軋みに紛れそうなほど小さかった。
俺は息を止めた。
アインの唇が、もう一度動く。
「パパ……ママ……ジュリア……まもる」
長い言葉じゃない。理屈でもない。小さな口が、知っている名前を一つずつ掴み、転びそうな足で並べただけの声だった。
けれど、 喇叭(らっぱ) の音が止まった。
黄金の光が、アインの背後で砕けた。眩しさは刃にならず、粉になって船室へ降り、床板の傷、ミユウの羽、ジュリアの髪、俺の手の甲へ、細かな熱を残した。
アインはまだ目を閉じていた。呼吸は荒い。肩は上下し、膝の上の手は震えたまま戻らない。唇の端に残った涙が、光を受けて小さく揺れた。
「アイン」
俺が呼ぶと、まぶたがゆっくり開いた。
焦点の合わない瞳が、俺を探して揺れる。やがて俺の顔に止まると、アインは口を開いたまま、何かを言おうとして失敗した。
「パパ……いた」
「ああ。ずっといた」
その返事を聞いた瞬間、アインの体から力が抜けた。正座の形が崩れ、横へ傾く。俺は今度こそ手を伸ばし、倒れる前に小さな体を受け止めた。
軽い。
熱い。
汗で湿った髪が俺の手首に貼りつき、荒い息が胸元へぶつかる。アインは俺の服を両手でつかみ、指先に力を入れたまま、顔を押しつけた。
「パパ、こわかった」
「よく戻ってきた」
「パパ、いた」
「いた。ここにいる」
俺は片腕でアインの背を支え、もう片方の手で頭を覆った。五歳の頭は、掌の中に収まりそうなほど小さい。あの光の中で問われていたものが、この小さな頭と胸に降りかかっていたのかと思うと、呼吸をするたびに肋骨の内側が擦れた。
アストラルフレイムの鞘から、最後の光が消えた。
船室に波の音が戻る。ランプの火がいつもの揺れに戻り、梁の影が低くなった。試練の輪は床から消え、そこにはアインの膝が押しつけた跡と、汗の小さな染みだけが残っていた。
ミユウが近づいてきた。
足音はほとんどなかった。けれど、床板が彼女の重みを受けるたび、俺の腕の中のアインがぴくりと動いた。
「アイン」
ミユウの声に、アインが顔を上げた。
「ママ……」
その一言で、ミユウの顔が崩れた。涙はこぼれたのに、声は出さなかった。白い羽がアインを包むように前へ傾き、彼女は膝をついて、俺の腕ごとアインを抱きしめた。
「よく、帰ってきたわ」
アインの手が、俺の服からミユウの袖へ移った。小さな指が布を握り、すぐにまた俺の服もつかむ。どちらか一つを選べず、両方にしがみつくその動きに、俺は目を閉じかけた。
「ママ、あったかい」
「うん」
「パパも」
「ああ」
ミユウはアインの髪へ頬を寄せた。汗で湿った黒髪が彼女の頬に触れ、白い肌へ細い筋を残す。彼女はそれを拭わず、アインの背を何度も撫でた。
ジュリアがそろそろと近づいてきた。
途中で足を止め、俺の顔を見た。泣きそうにゆがんだ口で、何かを言おうとして、言葉が見つからないまま、両手を前へ伸ばす。
「パパ……」
俺は片手を差し出した。
ジュリアはその手を握ると、すぐにアインの袖をつまんだ。強く引っ張るわけではない。ただ、そこにいるか確かめるみたいに、布の端を小さく握っている。
「おにぃちゃん、いた」
アインがミユウの腕の中から、少しだけ顔を向けた。
「いた」
「こわかった?」
アインは少し黙った。唇を結び、目を伏せ、俺の服をもう一度握る。
「こわかった」
ジュリアの目から涙が落ちた。
「もう、いかないで」
アインは答えず、ミユウの袖を握ったまま、ジュリアの指に自分の指を重ねた。ぎこちない。握る力も弱い。けれど、その小さな手の重なりを見た瞬間、俺の中で、剣を振る時とは違う熱が広がった。
俺はアインの顔を見た。
涙と汗で濡れて、頬は赤く、呼吸はまだ整わない。強い戦士の顔じゃない。勝利を誇る顔でもない。泣いて、震えて、母の袖と父の服を握り、妹の指に触れている、五歳の子どもの顔だった。
それでも。
あの子は、戻る場所を知ったまま、前へ出た。
俺はアストラルフレイムを手に取り、鞘の先を床へ立てた。乾いた音が船室に響く。アインが俺を見上げ、ミユウが手を止め、ジュリアが袖を握ったまま息を止めた。
俺は剣を抜かなかった。
刃を見せる必要はなかった。
「アイン」
小さな瞳が俺へ向いた。
「最後の修行は、終わりだ」
アインの口が、ぽかんと開いた。
「おわり?」
「ああ」
「もう、すわらない?」
「ああ。今日はもう、座らなくていい」
アインの体から、また力が抜けた。ミユウの腕に沈み込み、目をこすろうとして、途中で手を止める。俺の服を握ったまま離さないから、動かせなかったらしい。
ミユウがその手を両手で包んだ。
「離さなくていいわ」
アインは小さく頷いた。
俺は鞘を床へ置き、息を吸った。喇叭の残響はもうない。船室にあるのは、波の音、ランプの火、ミユウの衣擦れ、ジュリアの鼻をすする音、アインの荒い息だけだった。
その全部が、俺の胸の中でひとつずつ場所を持った。
「新たな勇者の誕生だ」
呟いた声は、大きくなかった。
けれど、アインは聞いていた。意味を全部わかっていなくても、その言葉に含まれた俺の声の重さだけは、受け取ったのかもしれない。目を丸くして、俺を見上げ、すぐに首を傾げた。
「ゆうしゃ?」
「ああ」
「パパも?」
「パパもだ」
「いっしょ?」
俺は喉の奥で詰まったものを押し返し、アインの額へ自分の額を軽く寄せた。
「一緒だ」
アインは目を閉じた。眠る前のように、まつ毛が頬へ落ちる。けれど、すぐにまた開けて、俺の服を握る指に力を入れた。
「パパ、て」
俺は手を差し出した。
アインの手は汗で湿り、指先が冷えていた。俺が包むと、その小さな指が内側から弱く動き、確かめるように俺の掌を押した。
「ママも」
ミユウが反対の手を握った。
「ジュリアも」
ジュリアが慌てて袖から手を離し、アインの指に自分の指をくっつけた。握るというより、重ねるだけの形になった。アインはそれを見て、小さく息を吐いた。
「いる」
「ああ。みんないる」
言った瞬間、俺の声が少しだけ低くなった。守ると誓った家族が、こんな狭い船室の真ん中で、互いの手に触れている。剣も、魔法も、試練も、 喇叭(らっぱ) も、その輪の外側へ置かれていた。
ミユウがアインを抱きしめる腕に力を込めた。
「あなた」
俺は顔を上げた。
ミユウの瞳は濡れていた。けれど、俺を責める色はなかった。止めなかった痛みも、見守った時間も、全部を胸に押し込んだまま、彼女はアインの背を撫でている。
「終わったのね」
「ああ」
「本当に?」
「ああ。全部、終わった」
ミユウの肩が落ちた。羽の先が床に触れ、白い羽毛が一枚、アインの膝へ落ちる。アインはそれを見つけ、震える指でつまもうとして失敗した。
ジュリアが拾った。
「はい」
アインは受け取ると、羽を両手で持った。軽すぎるそれを、まるで折ってしまわないように、息まで小さくして見つめている。
「ママの」
「うん。ママの羽」
ミユウが微笑む代わりに、アインの額へ唇を寄せた。
「がんばったわ」
アインは目を閉じた。褒められたときの、あの少し気が抜けた顔が戻ってくる。さっきまで 喇叭(らっぱ) の音に体を震わせていたのに、今は母の腕の中で、羽を握ったまま舟をこぐように頭を揺らしている。
俺はその姿を見て、胸の奥で何かがほどける音を聞いた気がした。
戦わせたくなかった。
何度もそう思った。剣を握らせるたび、転ばせるたび、起き上がれと言うたび、俺の中のどこかが刃に削られていった。父親の手で鍛えているのに、父親の手で傷つけているみたいで、何度も喉元まで止める言葉が上がってきた。
それでも、アインはここまで来た。
五歳の足で、何度もつまずきながら。
五歳の手で、何度も剣を落としながら。
五歳の声で、俺たちの名前を呼びながら。
俺はアインの髪を撫でた。汗で指が湿り、幼い頭の熱が掌に残る。
「アイン」
半分眠りかけていた目が、薄く開いた。
「よくやった」
アインは返事をしようとして、口を開けたまま小さくあくびをした。ジュリアがそれを見て、自分もつられたように口を開け、慌てて両手で押さえる。
ミユウが肩を震わせた。
声は出さない。けれど、船室の空気が少しだけ軽くなった。
「パパ」
アインが眠たげに呼んだ。
「なんだ」
「だっこ」
俺はミユウを見た。ミユウはアインを抱いたまま、少しだけ俺へ体を寄せる。
「三人で抱けばいいわ」
「それは、重くないか」
「あなたもいるでしょう」
ミユウの声に、俺は返事の代わりに腕を伸ばした。
アインの体を、ミユウの腕ごと抱き寄せる。ジュリアが置いていかれたと思ったのか、慌てて俺の膝へよじ登ろうとして、途中で足を滑らせた。
俺は片腕を伸ばし、ジュリアの背を支えた。
「ゆっくりでいい」
「パパ、ここ」
「ああ、ここだ」
ジュリアは俺の膝に体を預け、アインの横へぴたりとくっついた。アインは眠たげな顔のまま、ジュリアの手を探し、指先が触れると、そのまま握った。
ミユウの羽が、俺たちの上へそっとかかった。
白い羽の下で、アインの呼吸が少しずつ深くなる。ジュリアはアインの手を握ったまま、俺の袖に頬を押しつけている。ミユウの髪が俺の腕に触れ、汗と涙と潮の匂いが混じった船室の中で、家族の体温だけが確かに重なっていた。
「あなた」
ミユウが、アインを起こさないくらいの声で呼んだ。
「無理をしていたのは、アインだけじゃないわ」
俺は何も言えなかった。
ミユウの指が、俺の手の甲へ触れた。さっきまで爪を立てていた場所に、薄く跡が残っている。彼女はそこをなぞり、力を入れずに包んだ。
「あなたの手も、休ませて」
俺は視線を落とした。
アストラルフレイムは床の上にある。鞘に収まったまま、もう光は放っていない。長く握ってきた剣が、今だけ少し遠くに見えた。
「休ませ方を、忘れていたかもしれない」
ミユウは答えず、俺の手を包んだまま、アインの背を撫でた。
アインが寝息に近い息を吐いた。けれど、完全には眠っていないのか、俺の服を握る指はまだ離れない。
「パパ、いる?」
「ああ」
「ママ」
「いるわ」
「ジュリア」
「いる」
ジュリアは目をこすりながら答え、アインの手をもう少し強く握った。
アインは薄く目を開け、俺たちを順番に見た。眠たさで焦点が揺れ、最後にミユウの羽へ視線が止まる。白い羽毛を握った手を胸に寄せ、息を吐いた。
「みんな、いる」
「ああ」
その声を聞いて、俺はやっと背中を壁へ預けた。船室の木が、汗ばんだ背に硬く触れる。外の波が船を押し、床がゆっくり傾いた。腕の中の小さな重みが少しずつ沈み、ミユウの肩が俺の肩に触れ、ジュリアの額が俺の膝に当たった。
厳しい修行は終わった。
けれど、俺の手の中に残ったのは、勝利の手応えじゃない。汗で湿った小さな髪、泣き疲れた頬の熱、握られた服のしわ、ミユウの指の温度、ジュリアの袖の引っ張り癖。
勇者の誕生は、 喇叭(らっぱ) の音よりもずっと近い場所で起きていた。
俺はアインの手を包んだまま、目を閉じた。掌の中で、五歳の指が小さく動いた。