作品タイトル不明
第163話 空っぽの手で、掴んだもの
船室の床板が、波を受けて低く鳴った。俺の膝の前で、アインは小さな足を折りたたみ、かかとの上に尻を乗せたまま、ぎゅっと両手を握っていた。褒めたばかりの頬にはまだ熱が残っていて、けれど瞼を閉じる前のまつ毛は、次に来るものを察したように何度も震えた。
壁の灯りが揺れるたび、ミユウの白い指が胸元で重なり、ジュリアの小さな手がその袖を掴み直した。ジュリアは声を出さず、唇だけを丸く結んで、アインの横顔から目を離さない。俺はその二人を見ないようにしながら、喉の奥に引っかかった息を飲み下ろした。
ここで止めれば、アインは泣かずに済む。ここで抱き上げれば、ミユウの指も、ジュリアの肩も、もう震えなくて済む。けれど俺は、床に置いたアストラルフレイムの柄へ触れず、アインの前に片膝をついたまま、短く息を吐いた。
「アイン。目を閉じろ」
アインの睫毛が伏せられ、頬の熱が灯りを受けて薄く浮いた。小さな背中はまっすぐ伸びているのに、肩だけがかすかに上下している。
「パパ……」
「耳だけ、こっちに向けていろ」
俺の声が船室の板に吸われた。外では帆綱が軋み、波の音が壁の向こうを擦っていく。
アインは膝の上で手を開き、また握った。指先の爪が、柔らかい手のひらへ白く沈む。
「これから、お前は試される」
ミユウが息を止めた気配がした。ジュリアの裸足が、床板の上で小さく擦れる。
「欲しいものを、全部差し出される。斬らなくても勝てる力。願えば、敵も、道も、痛みも、消せる力。何でも思い通りに出来る力だ」
アインの眉が寄った。閉じた瞼の下で、目が動く。喉が小さく鳴り、胸が一度、大きく膨らんだ。
「……なんでも?」
「ああ」
俺は指を伸ばしそうになり、膝の上で握り潰した。
「欲しいなら、手を伸ばせばいい。お前が泣くものはなくなる。お前が嫌なものは来なくなる。お前が守りたいものは、全部、お前の前で止まる」
ミユウの袖を掴んでいたジュリアの手が、くしゃりと縮んだ。
「パパ、やだ……」
小さな声だった。俺の耳に届いて、胸の奥へ落ちた。けれど俺は振り向かなかった。振り向けば、そこで終わる。
アインの額に、汗が一粒浮いた。灯りの揺れに合わせて、それは眉の上をゆっくり滑り、こめかみへ流れた。
「アイン」
「……うん」
「その力を取れば、楽になる」
アインの膝が、床の上でわずかにずれた。正座の形が崩れかけ、すぐに戻る。まだ小さい足の甲が、床板に押しつけられて赤くなっていた。
「みんなを、守れる?」
アインの声は細く、息の隙間からこぼれた。俺は頷かなかった。頷いてしまえば、嘘になる。
「守った形には、できる」
アインの喉が上下した。
「かたち……?」
「誰も傷つかないように見える。誰も泣かないように見える。けれど、お前の手で選ぶものは、なくなる」
床板がまた鳴った。船が波を越えた揺れで、吊るした灯りの火が傾き、アインの影が壁に伸びる。その影は細く揺れながら、俺の膝に重なった。
アインの呼吸が荒くなった。吸う息が短く、吐く息が熱い。閉じた瞼の端がぴくりと跳ね、眉間に深い皺が寄る。
目の前に何が見えているのか、俺には分からない。俺が見えるのは、汗で額に貼りついた髪と、膝の上で震える小さな拳と、噛み締めすぎて白くなった唇だけだった。
「パパ……」
ジュリアがミユウの後ろから一歩出た。すぐにミユウの手が、その肩にそっと触れる。止める力は弱く、抱き寄せるほど強くもない。二人とも、声を飲み込んでいた。
俺はアインの真正面で、声を低くした。
「取るか」
アインの肩が跳ねた。
「取れば、お前は今、苦しまなくて済む」
汗が顎へ落ちた。アインの口が開き、ひゅっと空気を吸う音が聞こえた。
「パパ……いる?」
「いる」
「ママ……いる?」
「いる」
「ジュリア……」
「いる」
ジュリアが小さく頷いた。音にならない返事が、唇だけで動く。
アインの指が開いた。膝の上に置かれた手のひらが、何かを受け取るみたいに上を向く。俺の背中を冷たいものがなぞった。まだ五歳の手だ。粘土を握り、木の実を拾い、妹の袖を引く手だ。その手の中に、世界を折り曲げるものを乗せろと言われている。
俺は歯の裏に舌を押しつけた。声が震えないように、腹に力を入れる。
「楽だぞ」
アインの手が震えた。
「剣を振らなくていい。転ばなくていい。息が苦しくなるまで立たなくていい。誰かに勝てなくても、お前の前で道が開く」
アインの首筋に汗が伝った。小さな喉が鳴り、胸が早く上下する。閉じた目の下で、何度も何度も眼球が動く。
ミユウの指が、ジュリアの肩から滑り落ちかけた。白い指先が震え、すぐに袖を掴み直す。ジュリアはそこに両手を重ね、ミユウの衣を丸めて握った。
「あなた……」
ミユウの声は、俺の背中に触れて消えた。
止めたいのは俺だ。
今すぐアインの額の汗を拭って、抱き上げて、もういいと言いたい。お前はまだ剣より木の枝が似合う。試練より、母親の膝で眠る時間のほうが必要だ。そう喉の奥で何度も形になった言葉を、俺は噛み潰した。
「アイン。選べ」
アインの手が上がった。ほんの少し、胸の高さまで。何かに引っ張られるみたいに、指が前へ伸びる。
ジュリアが一歩踏み出した。
「おにぃちゃん……」
ミユウが抱きとめた。ジュリアの小さな足が床板を擦り、すぐに止まる。丸い目に灯りが揺れ、口元が歪んだ。
「いかないで……」
アインの指が止まった。
船室の空気が、ぴんと張った布みたいに硬くなった。外の波音が遠ざかり、俺の耳にはアインの呼吸だけが残る。吸って、吐いて、また吸って、どこかで詰まる。
「……パパ」
「聞いてる」
「これ、取ったら」
アインの指が空中で丸まった。そこには何もない。けれどその小さな手は、重いものを持たされているように下がっていく。
「おれの、剣……いらない?」
胸の奥で、何かが音を立てた。
アインの自分の呼び方は、まだたどたどしい。大人の言葉を背伸びして使うでもなく、ただ自分の胸を指すために落とした音だった。それが床に落ちて、俺の膝元へ転がってきた。
「お前が決めろ」
俺はそれだけ返した。
アインの唇が震えた。閉じた瞼の端から汗が落ちる。涙か汗か、灯りでは判らない。だが頬を通った線は、顎の下で途切れず、首へ吸い込まれた。
「パパ、こわいかお……」
ジュリアの声がかすれた。
俺は動かなかった。目の前のアインだけを見た。俺が一瞬でも顔を逸らせば、この試練はアインではなく俺の負けになる。
アインの手が、また前へ伸びた。指先が何もない空間を掴みかける。肩が大きく震え、膝が床に押しつけられて、足の甲の赤みが濃くなる。
その瞬間、アインの口から、荒い息がこぼれた。
「や……」
指が折れた。
「やだ……」
手が胸の前まで戻った。
「いらない」
小さな拳が、自分の服を掴んだ。布が皺になり、肩が丸くなる。それでも瞼は閉じたまま、アインは首を横に振った。
「いらない!」
船室の灯りが強く揺れた。壁の影が跳ね、床板が低く唸る。アインの全身から汗が噴き出し、呼吸が乱れ、正座の膝が崩れかける。
「アイン!」
ミユウの声が走った。だが俺は片手を横に出し、彼女を止めた。止めた手の指先まで、俺自身が震えている。
アインは床に手をつきかけた。掌が板に触れる寸前、膝の上へ戻る。ぎゅっと拳を作り、また服を掴む。
「じぶんの……」
声がひび割れた。
アインは息を吸った。上手く吸えず、喉が鳴る。もう一度吸って、首筋に汗を流しながら、閉じた目のまま叫んだ。
「じぶんの力で、試練、切り抜ける!」
音が船室にぶつかった。
灯りが一度、大きく傾き、壁に映った影が粉々に割れるように揺れた。床の下から響いていた波音が止まったように感じた直後、アインの周りの空気が薄く震え、見えない輪がほどけるみたいに俺の頬を撫でた。
アインの身体が前へ倒れた。
俺は反射で腕を伸ばし、小さな肩を抱き止めた。汗で濡れた髪が俺の手首に貼りつき、熱い息が胸元へぶつかる。アインの膝はまだ正座の形を残したまま崩れ、足先が床板に擦れた。
「アイン」
返事はない。だが細い呼吸は続いている。俺の腕の中で、胸が小さく上下した。
ミユウがすぐそばに膝をついた。白い髪が肩からこぼれ、アインの額へ影を落とす。彼女の指は触れようとして止まり、俺の顔を見た。
「あなた……」
「終わった」
俺の声は、思ったより低く出た。
ジュリアがミユウの横から這うように近づいた。床に膝をつき、アインの袖をそっと掴む。引っ張らない。ただ、布の端を指先で摘まんでいる。
「おにぃちゃん……」
アインの瞼がわずかに動いた。汗で濡れた睫毛がくっつき、ゆっくり開く。焦点の合わない目が俺の胸元を彷徨い、やがて俺の顔へ上がった。
「パパ……」
「ここにいる」
「とらなかった……」
「ああ」
アインの唇が開いた。息だけが出て、言葉は続かなかった。俺は肩を抱く腕に少しだけ力を込めた。小さな骨の感触が、濡れた服越しに掌へ伝わる。
「よく、戻ってきた」
アインの目が瞬いた。言葉の意味を全部拾えたのかは分からない。ただ、俺の声に反応して、服を掴んでいた指がゆるんだ。
「……パパ、みてた?」
「見てた」
「ママも?」
「見てた」
ミユウが頷いた。頷くだけで、声を出せない。唇を噛み、アインの濡れた前髪を指でそっと分けた。
「ジュリアも……?」
ジュリアは袖を掴んだまま、こくこくと何度も頷いた。
「みてた」
それだけ言って、ジュリアはアインの手に自分の指を押し込んだ。アインの指は力なく開いていたが、ジュリアが入れた指を逃がさなかった。
俺はアインの額に貼りついた髪を払った。熱い。試練の熱なのか、身体に残った力の暴れなのか、判断するにはまだ早い。けれど、今この腕の中にいるアインは、何でも思い通りにする力を握っていない。小さな拳を空にして、汗だくのまま戻ってきた。
「アイン」
「……ん」
「お前は、楽なほうを選ばなかった」
アインの瞼が重そうに下がる。だが眠らず、俺の声を拾おうとしている。
「ほしいものを、取らなかった。泣きそうでも、手を伸ばしきらなかった」
ミユウの指が、アインの頬をかすめた。彼女の手も汗で湿っている。ずっと握り締めていたのだろう。
「それでいい」
アインの眉がほんの少し動いた。
「いい……?」
「ああ」
俺は喉の奥に残っていた息を吐いた。胸の内側に溜まっていた硬いものが、まだ全部は砕けない。それでも、アインの背中を支える掌だけは離さなかった。
「力は、何でも思い通りにするためのものじゃない。欲しいものを全部掴むためのものでもない」
アインは難しい顔をしない。ただ、まばたきをして、俺の口元を見ている。分からなくていい。今は音だけが残ればいい。
「お前が今、空っぽの手で戻ってきた。それが、強い」
アインの唇が少しだけ動いた。
「からっぽ……」
「そうだ」
俺はアインの手を取った。小さな手のひらは汗で濡れ、指先は冷え始めている。何も握っていないその手を、俺は自分の両手で包んだ。
「この手で、また剣を握ればいい。転んだら、起きればいい。届かなかったら、もう一度伸ばせばいい」
アインの指が、俺の親指を弱く掴んだ。
「パパ……おこってない?」
「怒ってない」
「ほんと?」
「ほんとだ」
アインの目が、やっと俺の顔に留まった。汗で濡れた頬に、灯りが細く伸びる。試練の中で何を見たのか、その奥に残ったものまでは見えない。けれど俺の声は届いている。
「よくやった、アイン」
その言葉を口にした瞬間、ミユウの肩が小さく沈んだ。息を吐いたのだと、少し遅れて分かった。ジュリアはアインの手を握ったまま、もう片方の手で俺の袖を掴んだ。
「パパ、こっちみて」
俺が視線を落とすと、ジュリアは唇を尖らせたまま、俺の袖をさらに握った。
「こわいかお、やだ」
胸の奥を刺していたものが、ゆっくり抜けた。俺は片手を伸ばし、ジュリアの頭に触れた。銀の髪が指の間を滑る。
「悪かった」
「やだ」
「ああ」
「ぎゅってして」
俺はアインを片腕に支えたまま、ジュリアを引き寄せた。小さな身体が胸にぶつかり、袖を掴む手が背中へ回る。ミユウも、アインの肩に手を添えたまま近づき、俺たちの輪の外側から包むように腕を回した。
船が揺れた。誰の身体も少し傾き、すぐに互いの重みで戻った。汗の匂い、灯りの油の匂い、潮を含んだ木の匂いが重なる。アインの呼吸はまだ荒い。ジュリアの鼻先が俺の服に押しつけられ、ミユウの指が俺の背に触れていた。
「あなた」
「分かってる」
ミユウが何を言いたかったのか、最後まで聞かなくても分かった。やり過ぎたのではないか。これでよかったのか。まだ小さな子に、ここまで背負わせる必要があったのか。
その問いは、俺の中にもある。今も消えていない。これからも消えない。アインが剣を持つたび、俺は同じ問いを噛むのだろう。
けれど、皇帝の試練は、甘い顔をした力を差し出してきた。受け取れば、剣を振る意味が奪われる。努力も、失敗も、誰かに手を伸ばす時間も、全部いらなくなる。そんなものを掴んだ手で、アインに守りたいものを抱かせるわけにはいかなかった。
アインが俺の親指を握り直した。
「パパ」
「ん」
「ねむい」
「寝ていい」
「ここ?」
「ああ」
アインの頭が俺の胸に預けられた。汗で濡れた髪が服に染みを作る。ジュリアはそれを見て、自分も負けないように俺の脇腹へ額を押しつけた。
「ジュリアも」
「おい、二人ともそこで寝るな」
「やだ」
短い返事が同時に近い場所から返ってきて、ミユウの喉が小さく震えた。笑ったのか、泣きそうになったのか、俺は見なかった。ただ、彼女の手が俺の腕に重なり、爪先ほどの力で握ってきた。
「あなたも、座って」
「座ってる」
「ちゃんと」
ミユウの声が少しだけ硬い。俺は逆らわず、背を壁に預ける形で腰を下ろした。アインを膝に乗せ、ジュリアを横に抱き寄せる。ミユウはその前に膝をつき、アインの足のしびれを確かめるように、赤くなった足の甲へそっと手を添えた。
アインが小さく身じろぎした。
「いたい」
「正座したからな」
「パパが、した」
「俺が言った」
「いたい」
「悪かった」
アインはそれで納得したのか、俺の胸元を掴んだまま目を閉じた。眠りに落ちるには呼吸がまだ早い。けれど、さっきまで身体を裂くように暴れていた息ではない。小さな胸が上下し、そのたびに俺の服が湿った肌へ貼りつく。
ミユウがアインの足を手のひらで温めながら、俺を見上げた。
「本当に、終わったのね」
「ああ。皇帝の試練は越えた」
言葉にしてから、ようやく実感が遅れて来た。アインは勝った。剣を振らず、敵も斬らず、ただ差し出されたものを取らずに帰ってきた。
俺はアインの手を見た。
何もない。指の間にも、掌にも、余計な光は残っていない。あるのは汗と、握りしめた跡と、五歳の子どもの小さな爪だけだ。
「アイン」
眠りかけていた目が薄く開いた。
「なに……」
「今日のことは、忘れてもいい」
アインの眉が寄った。分からない、という顔だ。俺はそのまま続けた。
「でも、手が空っぽだったことだけは、身体が覚えていればいい」
「からっぽ……」
「そうだ」
アインは自分の手を少し持ち上げた。指を開き、何もない掌を見たあと、俺の服をまた掴む。
「パパの、ここ」
「そこは俺の服だ」
「ここ、もつ」
「いい」
ジュリアも反対側の袖を掴んだ。
「こっちも」
「俺の服が伸びる」
「やだ」
「やだじゃない」
「やだ」
ミユウがアインの足から手を離し、ジュリアの髪を撫でた。彼女の指先がまだかすかに震えているのを、俺は見逃さなかった。俺は空いている手を伸ばし、ミユウの手首に触れた。
冷えていた。
「ミユウ」
「大丈夫」
その言葉だけは、俺のほうが受け取れなかった。大丈夫な手ではない。アインを見守る間、ずっと何かを掴み潰していた手だ。俺は彼女の指を取り、自分の掌の中へ入れた。
「悪かった」
ミユウは首を横に振った。白い髪が頬にかかり、灯りを受けて金色に滲む。
「あなたが止めたら、アインは戻れなかった」
「そう言ってくれるのか」
「言わないと、あなたは自分で自分を斬るもの」
俺は返せなかった。アストラルフレイムの柄が、床の上で灯りを受けて鈍く光る。あれを握るより、この小さな手を離さないほうが、今は難しい。
アインの呼吸が、少しずつ長くなった。ジュリアはまだ眠らず、アインの顔を覗きこんでいる。目元に溜まった雫を袖で乱暴にこすり、また俺の袖を握る。
「おにぃちゃん、ねた?」
「まだだ」
「ねてる」
「半分な」
「はんぶん?」
「こっちに半分いる」
ジュリアは真剣にアインの頭と俺の胸元を見比べ、それからアインの手を握り直した。
「こっち、いる」
「ああ」
アインの口元が少しだけ動いた。
「いる……」
寝ぼけた声だった。試練を越えた勇者の声ではない。膝のしびれを痛がり、父親の服を掴み、妹の指を握ったまま眠りかける、五歳の子の声だ。
それでいい。
俺はアインの背中をゆっくり撫でた。濡れた服の下で、薄い肩甲骨が手のひらに当たる。こんな小さな背に何を背負わせているのかと、また胸の奥が軋んだ。けれど、アインは何もかもを掴める手を拒んだ。空いた手で、俺の服とジュリアの指を選んだ。
船室の外で、波が船腹を叩いた。
灯りが揺れ、四人分の影が床の上で重なった。ミユウの手は俺の掌の中で少しずつ温まり、ジュリアの額は俺の脇腹に押しつけられたまま動かない。アインの指は緩みかけ、また思い出したように服を掴む。
「パパ……」
「いる」
「また、やる?」
俺はすぐに答えられなかった。次の試練がないとは言えない。この先、アインの前に何が立つのか、俺が全部止められるわけではない。
それでも、今は。
「今日は、終わりだ」
「ほんと?」
「ほんとだ」
アインは細く息を吐いた。顎が俺の胸に沈み、握っていた指の力が抜ける。
ジュリアが小さく顔を上げた。
「パパも、おわり?」
「ああ」
「こわいかお、おわり?」
俺は目を閉じ、額をアインの濡れた髪に近づけた。汗の熱が鼻先に触れる。
「終わりにする」
ジュリアの手が、俺の袖から指一本分だけ離れた。完全には離さない。まだ信用されていないらしい。
ミユウが俺の手を握り返した。
「あなた」
「ん」
「今は、そのままでいて」
俺は頷いた。
船室の床は硬く、膝の下から冷えが上がってくる。アインの汗は俺の服を濡らし、ジュリアの髪は腕にくすぐったく絡む。ミユウの指はまだ細く震えている。俺はその全部を抱えたまま、アストラルフレイムへ手を伸ばさず、ただ小さな背中を支え続けた。