軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第162話 見えない命を抱いて

扉の板が背中で軋み、船室の空気が喉の奥に貼りついたまま、俺はアインの前に膝をついた。

灯りを絞ったランタンの炎が、床に置いたアストラルフレイムの鞘を細くなぞり、刃を抜いていないはずの剣から、熱だけが布越しに滲んできた。ミユウは寝台の端で両手を握り、指の骨が白く浮くほど力を込めていたが、声を出さずに唇を噛み、ジュリアはその膝にしがみついたまま、俺とアインの顔を交互に見ていた。

「目を閉じろ。俺の声だけ聞け」

アインのまつげが震え、膝の上に置いた小さな拳が、服の布をぎゅっと掴んだ。船底を叩く波の音が一拍遅れて腹に響き、天井の梁から落ちた細い埃が、ランタンの光の中でゆっくり沈んでいく。

「パパ」

呼ばれた瞬間、胸の奥に熱いものが引っかかった。

俺はアインの肩へ手を伸ばしかけ、指を止めた。触れれば、この子はきっとこちらへ戻ってくる。戻ってきてしまう。俺がいちばん望んでいることを、俺の手で選ばせてしまう。

「ここにいる」

それだけ言うと、アインは小さく息を吸い、目を閉じた。

船室の温度が、一枚ずつ剥がれていくように下がった。ランタンの炎が横へ潰れ、壁に映った俺たちの影が細長く伸びる。アインの足元から、黒い霧が水のように這い出し、板の隙間へ沈むことなく、膝の高さまでゆっくり持ち上がった。

ミユウの喉が小さく鳴った。

「あなた……」

「声を出すな」

短く返した俺の声が、自分のものに聞こえなかった。

アインの肩が跳ねた。閉じた瞼の下で目が激しく動き、額に浮いた汗がこめかみを伝って落ちる。小さな喉が息を押し返し、唇の端が震えた。

見えているのは、俺たちじゃない。

この船室でもない。

試練は、アインの目を閉じさせたまま、あの小さな身体の中へ刃を入れている。

「パパ……やだ……」

絞れた声が床に落ちた。

ミユウが立ち上がりかけ、俺は片手を横に出して止めた。触れてやりたい。抱きしめて終わらせたい。今すぐ、こんなものは修行じゃないと言って、剣ごと窓の外へ投げ捨てたい。

だが、俺の手が動けば、アインの中に残るのは、父親の腕に引き戻された温度だけになる。

俺がいなくなった時、ミユウの手が届かない時、ジュリアが泣きながら袖を掴む時、この子は自分の足で立たされる。

そんな日を、俺は来てほしくないと願いながら、来るかもしれない場所へこの子を押している。

アインの指が床を引っかいた。爪が木に当たり、乾いた音がした。息が浅くなり、胸が小刻みに上下する。霧の中で、黒い羽のようなものが一瞬浮かび、次の瞬間にはほどけて消えた。

「アイン」

俺は低く呼んだ。

「聞け。そこにあるものを斬ろうとするな。逃げようとするな。見ろ」

アインの唇が開いた。声にはならず、息だけがこぼれた。

「見て、戻ってこい」

その言葉を吐いた俺の腹の奥で、別の声が叫んだ。

見なくていい。

戻ってこい。

頼むから、そこから戻ってこい。

ミユウの頬に、一筋、光が落ちた。彼女は拭わなかった。涙は顎まで伝い、白い指の上に落ちたが、それでもミユウはアインへ手を伸ばさなかった。母親の手が、いちばん先に動くはずの手が、膝の上で縫い止められたように震えていた。

ジュリアがミユウの服を握った。

「ママ」

ミユウは返事の代わりに、ジュリアの頭を抱き寄せた。ジュリアの頬が母親の胸に押しつけられ、そこから片目だけが俺を見た。

「パパ、やめないの」

小さな声だった。

俺は息を飲み、首を横へ振る代わりに、アインから目を離さなかった。

「アインが戻るまで、ここにいる」

ジュリアの指が、ミユウの服をさらに強く掴んだ。泣き出す寸前の口元が歪み、けれど声は続かなかった。

アインの背中が反った。

「パパっ!」

叫びが船室の天井にぶつかり、ランタンの炎が大きく揺れた。

俺は動かなかった。

アインの手が空を掴む。俺の服を探すように、何度も、何度も。指先は何も掴めず、冷えた空気だけを裂いた。

「ここだ」

言葉を置いた。

「パパは、ここだ」

アインの呼吸が荒くなり、喉の奥で何かを飲み込む音がした。汗は顎から落ち、胸元の布を濡らしていく。小さな膝が床を叩き、足の指が丸まった。

ミユウが両手で口元を覆った。涙が指の隙間を抜け、手首まで濡らした。

「あなた……あの子、もう……」

「見てろ」

俺の声は掠れていた。

「俺たちが目を逸らしたら、あいつは一人になる」

ミユウの肩が細かく震えた。頷くこともできず、ただアインを見つめたまま、唇だけが何度も動いた。

祈りの形をした声は、俺の耳まで届かなかった。

霧がアインの胸まで上がった。黒い水面に似たそれが、肌には触れていないのに、船室の板を湿らせ、俺の膝の布まで冷たくした。アストラルフレイムの鞘が、低く唸る。抜け、と剣が言っているようだった。

違う。

これは俺の戦いじゃない。

俺が刃を向ければ、アインは父親の後ろに隠れる。そうなれば、この子の中に残るのは、また俺の背中だ。

守るために鍛えているはずなのに、守りたいものをわざと傷に近づけている。その矛盾が、肋骨の内側で軋んだ。

「アイン、手を見ろ」

俺は、できるだけ低く、まっすぐ声を落とした。

「何かを掴んでいるなら、離すな」

アインの眉が寄った。瞼は閉じたまま、右手だけがゆっくり曲がる。さっきまで空を探っていた指が、胸の前で何かを抱え込む形になった。

ミユウが息を止めた。

ジュリアも顔を上げた。

アインの腕の中には、何もない。

けれど、あの小さな肘の角度と、肩の力の入り方を見た瞬間、俺の背中に冷えが走った。何かを落とさないように、何かを包むように、アインは見えない重みを抱いていた。

「……ちいさい」

アインが、途切れる息の隙間から言った。

俺は動けなかった。

「すごく、ちいさい」

ミユウの口元が震えた。

霧が一瞬、薄くなった。アインの閉じた瞼に、ランタンの色ではない淡い金がかすかに触れた。そこに何があるのか、俺には見えない。見えないからこそ、アインの腕の中に入っている力だけが、胸に突き刺さった。

「おにぃちゃん」

ジュリアが、か細く呼んだ。

アインの指がぴくりと動いた。

「ジュリア……ないてる」

「ここにいる」

ジュリアはミユウの膝から半分身を乗り出した。

「ここ」

ミユウがジュリアの腰を抱き、止める。ジュリアは小さな足を床につけようとして、すぐに引っ込めた。霧が足元へ近づいていた。

アインはまだ、何もない腕の中を抱いている。

「パパも……たおれた」

その言葉が、俺の胸を貫いた。

ミユウが短く息を漏らした。

「ママも……羽、黒く……」

「アイン」

俺は名を呼んだ。喉が焼ける。

「見たままを飲み込むな」

アインの口元が歪んだ。歯を食いしばろうとして、うまく噛み合わない。涙が閉じた瞼の端から押し出され、汗と混ざって頬を濡らした。

「やだ……やだ……」

「俺たちはここだ」

「パパ、いない」

「ここだ」

「ママ、いない」

「ここにいる」

「ジュリア……いない」

ジュリアが、堪えきれずに声を上げた。

「いる!」

ミユウの腕の中で泣きながら、ジュリアは足をばたつかせた。

「おにぃちゃん、ここ! いる!」

その声が霧を叩いた。

黒い膜が船室の床で波打ち、アインの膝まで落ちる。アインの指が、見えない何かを抱いたまま、ぐっと胸に近づいた。

「こわい」

短い言葉が、アインの喉から落ちた。

俺は頷いた。

「言えたな」

アインの肩が震える。

「こわい……でも」

俺はそこで、続きを待った。長い言葉はいらない。立派な言葉もいらない。この小さな口から、大人のような答えが出たら、それは試練が押し込んだ偽物だ。

アインは何度も息を吸い損ねた。鼻を鳴らし、涙を飲み込み、抱え込んだ腕の中を見下ろすように顎を下げる。

「だっこ、する」

俺の喉が詰まった。

「おとさない」

ミユウが顔を伏せ、声を殺したまま泣いた。肩が大きく揺れ、白い髪が頬に張りつく。ジュリアはその腕の中から両手を伸ばし、霧の向こうにいるアインへ届かない手を開いた。

「おにぃちゃん」

「おとさない」

アインはもう一度言った。

さっきより小さな声だった。けれど、その声を聞いた瞬間、船室の空気に入っていた刃が、わずかに鈍った。

霧の奥で、何かが立った。

俺には形が見えなかった。見せられているのはアインだけだ。だが、床板を伝う冷気が変わった。濡れた墓石に触れたような温度が、足首から膝へ這い上がってくる。

死を嗅がせるものが、そこにいる。

俺はアストラルフレイムへ手を伸ばさないよう、拳を握った。爪が掌に食い込み、痛みで腕を止める。

アインの呼吸が、また乱れた。

「こっち、くる」

「見ろ」

「黒い」

「見ろ」

「手、つめたい」

「離すな」

アインの腕が震えた。見えない重みを抱いたまま、身体を丸める。額が床に落ちそうになり、俺は膝を浮かせた。

動くな。

俺は自分の太腿を掴んだ。

アインの背中に汗が滲み、服が肌に貼りついていた。小さな肩甲骨が布越しに浮き、呼吸のたびに上下する。あの身体の中で、何度、俺たちは倒されているのか。何度、ミユウの羽が落とされ、何度、ジュリアの声が途切れているのか。

見えないから、余計に耳が拾う。

アインの歯が鳴る音。

ミユウが息を殺す音。

ジュリアが鼻をすすり、母親の服を握り直す音。

船底へ波が当たり、木が鳴る音。

その全部の上に、アインの小さな声が乗った。

「パパ」

「いる」

「ママ」

「いる」

「ジュリア」

「いる」

「ちいさい子」

ミユウが顔を上げた。

アインの腕に、さらに力が入った。見えない何かを胸に押し当て、顎を引く。頬に落ちた涙が、首筋まで伝った。

「いる」

俺は答えた。

誰なのか、俺には分からない。

まだ生まれてもいないものなのか、試練が作った影なのか、アインの中にだけ触れられる温度なのか。

それでも、アインの腕が確かに抱いているなら、俺は否定しない。

「抱いていろ」

アインの唇が震えた。

「おとしたら、なくなる」

「なら、落とすな」

「手、いたい」

「痛いまま、抱け」

ミユウが小さく首を振った。耐えきれない目で俺を見る。

俺も耐えられていない。

だが、ここで柔らかい言葉を渡せば、試練はその隙間からアインを奪う。優しさの形をした穴に、この子は落ちる。

俺は父親の顔を保ったまま、腹の中で膝をついていた。

アインが床に片手をついた。もう片方の腕は、見えない重みを抱いたままだ。指の付け根が白くなり、肘が震え、肩が落ちる。

霧の中から、細い音がした。

骨を撫でるような、乾いた音。

ジュリアが耳を塞ごうとして、片手を止めた。ミユウの服を掴む手を離したくないのだろう。結局、片方の手だけで耳を押さえ、もう片方は母親の胸元に残した。

「パパ、こわいかお、やだ」

ジュリアの声が刺さった。

俺は瞬きした。

顔が強張っていたことに、そこで気づいた。俺は息を吐き、顎の力を抜く。笑えはしない。ただ、アインを見る目だけは、刃にしないようにした。

「悪い」

ジュリアは小さく頷き、またアインを見た。

アインの口が開いた。

「いかないで」

誰に向けた言葉なのか、俺には分からなかった。

俺か。

ミユウか。

ジュリアか。

腕の中の小さな重みか。

それとも、アイン自身か。

「いかないで」

もう一度。

アインの膝が床から滑り、身体が前へ崩れた。俺は反射で動いた。だが、手が届く寸前、アインの足が踏み止まった。

細い足指が床板を掴み、膝が震えながらも戻る。

アインは、見えないものを抱いたまま、倒れなかった。

船室の霧が引いた。

水が割れるように、黒が床へ沈んでいく。アストラルフレイムの鞘から漏れていた熱がふっと弱まり、ランタンの炎が縦に戻った。

アインの瞼が、ゆっくり開いた。

焦点の合わない目が、まず俺を通り過ぎた。次にミユウ、ジュリアへ向き、最後に、自分の腕の中へ落ちた。

何もない。

アインの腕の中には、何もない。

それでもアインはしばらく、抱く形を解かなかった。指を少しずつ緩めるたび、何かを置いてしまうのが嫌なように、唇を噛んだ。

「アイン」

俺が呼ぶと、アインの目が俺を見た。

濡れた瞳の奥に、試練の影がまだ残っていた。けれど、そこに大人の答えはなかった。強い言葉も、立派な顔もない。ただ、汗で髪を額に貼りつかせた五歳の子が、泣くのを堪えそこねた顔で、俺を見ていた。

「パパ」

「戻ったな」

アインは頷こうとして、うまく動けず、代わりに腕を俺へ伸ばした。

俺は、今度は止めなかった。

膝をついたまま抱き寄せると、アインの身体は濡れた布みたいに重く、熱く、震えていた。小さな手が俺の服を掴み、爪が胸に食い込む。顔を肩に押しつけ、息を詰まらせていた喉が、そこでようやく崩れた。

「パパ、いた」

「ああ」

「ママ、いた」

「ああ」

「ジュリア、いた」

「いた」

アインの腕が、俺の首に強く回った。

「ちいさい子も、いた」

俺はアインの背中を支えたまま、ミユウを見た。

ミユウは涙で濡れた顔を隠さず、ただアインを見ていた。白い羽が背中で小さく震え、光を出すことも忘れたように畳まれている。

「抱いていたの?」

ミユウの声は、息の形に近かった。

アインは俺の肩に顔を埋めたまま、小さく頷いた。

「おとさなかった」

その一言で、ミユウの膝が崩れた。

彼女は床に座り込み、ジュリアを抱いたまま泣いた。声を押さえようとしても押さえきれず、喉の奥で震えが割れた。ジュリアはミユウの腕から抜け出し、霧の残りを避けるように小さな足でこちらへ来る。

「おにぃちゃん」

アインは俺の服を掴んだまま、顔を少しだけ上げた。

ジュリアの目も濡れていた。けれど、泣きながらも、手を伸ばした。

「て」

アインは片手を離すのに時間がかかった。俺の服を握っていた指を一本ずつ剥がし、ジュリアの手に触れる。二人の小さな指が、うまく絡まらずに何度か滑り、最後にぎゅっと重なった。

ジュリアは何も言わず、アインの手を自分の胸の前へ引き寄せた。

ミユウが這うように近づき、二人ごと俺の腕の中へ包んだ。彼女の髪が俺の頬に触れ、涙の湿りが肌に移る。

「あなた」

「終わった」

言いながら、俺の声はひどく低かった。

終わった、などと簡単に言えるものではない。アインの中には、今見せられたものが残る。眠るたびに、あの黒い手が戻る夜もあるかもしれない。俺やミユウが隣にいても、目を閉じた先ではまた奪われるかもしれない。

それでも、アインは落とさなかった。

見えない重みを、空っぽの腕で、最後まで抱いた。

ミユウの手がアインの髪を撫でた。何度も、何度も。指が震えて、髪を梳くたびに引っかかる。

「よかった……」

その言葉のあと、ミユウは唇を噛み、続きを飲み込んだ。

俺はアインの背中に手を置いた。小さな身体の震えは、まだ止まらない。熱い汗が手のひらに移り、薄い布越しに肋骨の上下が伝わってくる。

「水を」

ミユウが頷き、棚へ手を伸ばした。木の杯に水を注ぐ音が、船室に戻った。いつもの船の音が戻ってきているのに、俺の耳にはまだ、霧の奥の乾いた音が残っていた。

杯を受け取り、アインの口元へ運ぶ。アインは少し飲んで、むせた。俺は背中を支え、ミユウが布で口元を拭く。

ジュリアはアインの手を離さなかった。

「おにぃちゃん、ねない?」

アインは濡れた目でジュリアを見た。

「ねる」

「て、つなぐ」

アインは小さく頷いた。

ジュリアはそれでやっと、顔をくしゃくしゃにして泣いた。声を上げる前に、ミユウが二人を抱き寄せる。アインもジュリアも、その腕の中で額を寄せた。

俺は床に置いたアストラルフレイムへ目を落とした。

鞘はもう鳴っていない。黒い霧も消えた。床板には湿った跡だけが残り、ランタンの光を鈍く返している。

俺は剣を手に取り、立ち上がろうとして、膝に力が入らないことに気づいた。掌を床につく。木の冷たさが皮膚に入り、爪の跡からじんわり痛みが上がった。

ミユウが俺を見た。

「あなたも、座って」

「大丈夫だ」

「座って」

今度の声には、涙とは別の硬さがあった。

俺は逆らわず、壁にもたれた。剣を膝の上に置き、アインとジュリアとミユウを見る。三人は寝台の下の毛布に寄り添い、ミユウの羽が二人の背を包んでいた。

アインの目は半分閉じている。けれど、眠りへ落ちる寸前で、何度も目を開けた。

俺がいるか確かめるように。

ミユウがいるか確かめるように。

ジュリアの手がまだ繋がっているか確かめるように。

「パパ」

「いる」

「ママ」

「いるわ」

「ジュリア」

「いる」

三つの返事を聞くと、アインはまた目を閉じる。けれど、少し経つと、また呼ぶ。

「パパ」

「いる」

何度でも答えた。

そのたびに、アインの指から力が抜けていく。ジュリアも眠気に瞼を落としながら、アインの手だけは離さない。ミユウは二人の間に手を置き、涙の跡が乾かない頬で、俺を見た。

「あなた」

「なんだ」

「わたし、見ているだけだった」

その声は、床に触れた羽よりも薄かった。

俺は首を横に振った。

「手を出さなかった」

ミユウの瞳が揺れた。

「それが、どれだけ痛いか知ってる」

ミユウは何も返さなかった。アインの髪に指を置き、泣き腫らした目を伏せる。母親の手は、今度こそ動いていた。試練の間、縫い止められていたぶんまで、何度も、何度も、髪を撫でていた。

「あなたは」

ミユウが言いかけて、止めた。

俺は続きを聞かなかった。

父親として正しかったのか、と問われても、答えられない。勇者として必要だったのか、と問われても、頷ききれない。

ただ、アインの小さな腕が、見えない重みを落とさなかった。その事実だけが、今の俺をこの床に繋ぎ止めている。

やがて、アインの呼吸が深くなった。ジュリアも手を繋いだまま眠り、ミユウは二人の間に頬を寄せた。船室のランタンが、油を減らしながら細く燃えている。

俺は膝の上のアストラルフレイムに手を置いた。

熱はない。

さっきまであれほど鳴っていた剣が、今はただの重い鉄に戻っている。だが、掌の下に残る冷えは消えなかった。アインの汗、霧の湿り、床に爪を立てた音。全部が手のひらの皮膚に入り込んでいた。

寝台の下で、アインが小さく身じろぎした。

「おとさない……」

寝言だった。

ミユウの肩が震え、彼女は目を閉じたまま、アインの手を包んだ。

俺は立ち上がらず、壁にもたれたまま、その小さな声を胸の奥へ沈めた。船が波に揺れ、床板が低く軋む。

アインの指が、何もない空気を抱くように、ゆっくり丸まった。