軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第161話 崩れる塔を超えて

船板の下で波が腹を打ち、薄い木壁が低く軋むたび、ランタンの火が細く傾いた。

俺は船室の床に膝をつき、正座したアインの向かいで、剣を腰から外して横へ置いた。

アストラルフレイムの鞘が床板に触れた音に、ジュリアの指がミユウの袖をきゅっと掴み、アインの小さな膝が一度だけ跳ねた。

「目を閉じろ。足はそのまま。手は膝の上だ」

アインは唇を結び、両手を膝に置いた。まだ指先は丸く、爪の白いところにランタンの光が乗っている。

戦場で剣を握る手ではなく、朝にパンを掴み、ジュリアと同じ皿を取り合い、ミユウの服の裾を握る手だった。

その手に、俺は崩れる塔を渡らせようとしていた。

「パパ……」

「俺の声だけ聞け」

返事はなかった。小さな喉が上下し、息が鼻から浅く抜ける。ミユウが一歩寄り、床板がかすかに鳴った。

俺は手のひらを上げた。

ミユウの足が止まる。白い羽が肩の後ろで揺れ、口元に当てた指が、ゆっくりと下がった。

「目の前に塔がある。石でできた細い塔だ。足元は濡れている。風が下から吹いてくる。上へ行け」

アインの眉が寄った。閉じたまぶたの下で瞳が動き、膝に置いた両手の指が床を探すように曲がる。正座したままの身体が、左へほんの少し傾いた。

「足を置け。逃げるな。今、石が割れた」

アインの喉から、短い息が漏れた。

「パパ……っ」

「声を出すな。落ちると思ったら、足を出せ」

小さな肩が上がり、下がりきらないうちにまた震えた。俺の中で、アルカヌム島の塔が目を覚ます。濡れた石の匂い、指の皮を剥ぐ角、足裏を奪う段差、下から吹き上げる風の冷たさ。あの塔は、俺が見たものだけを飲み込み、俺が握れなかったものまで底へ連れていこうとした。

それを、五歳のアインのまぶたの裏へ置いている。

奥歯が鳴りそうになり、俺は舌を上顎に押しつけた。

「右だ。そこは砕ける。左へ行け」

アインの両手が膝の上で跳ねた。指が着物の布を掴み、爪が食い込む。額に汗が浮かび、こめかみを伝って、顎の先で止まった。

ジュリアがミユウの後ろから半歩だけ顔を出した。

「おにぃちゃん……」

その声に、アインの肩が揺れた。閉じたまぶたが開きかける。

「開けるな」

俺の声が船室の壁に当たり、ランタンの火がまた細くなった。

アインは唇を噛み、目を閉じ直した。噛んだところが白くなり、息が一つ、喉で詰まる。ジュリアはミユウの腰に顔を押しつけ、片方の目だけこちらへ向けていた。

「あなた」

ミユウの声が落ちた。俺を呼ぶだけで、船室の空気が揺れる。

俺はアインから目を離さない。

「まだだ」

「あなた、顔が……」

言葉の続きを、ミユウは飲み込んだ。俺の手は、いつの間にか膝の上で拳になっていた。爪が掌に沈み、皮膚の下で熱を持つ。

アインの身体が前へ倒れかけた。

俺は動かなかった。

ミユウが踏み出した。

俺は手を横へ出し、彼女を止めた。

「やめさせてあげて」

細い声が、刃より深く入った。

アインの膝は床から離れていない。だが上半身は見えない風に叩かれるみたいに揺れ、肩で息をしていた。目の端から落ちた雫が頬を滑り、口元まで届く前に顎から落ちる。

「あなた、もう……」

「今、手を伸ばしたら、あいつは落ちたままになる」

俺の声は、俺のものじゃないくらい低かった。

ミユウの指が俺の腕に触れた。震えていた。俺を止めたい手が、俺にしがみつく手にもなっていた。

「でも、アインが……」

「見てる」

俺は手を下ろさない。目も逸らさない。息だけを細く削った。

「俺が、見てる」

アインの足先が床板を押した。正座の形が崩れそうになり、膝が左右に揺れる。小さな歯が噛み合う音が、波音の隙間に混じった。

「石が消える。次の足場は遠い」

俺は言った。

アインの指が膝から離れ、空を掴んだ。見えない壁に爪を立てるように、指が開いて、閉じる。身体が後ろへ反り、肩甲骨のあたりで服が張った。

ミユウの羽が広がった。

「ミユウ」

俺は彼女の名だけを落とした。

羽の先が止まる。光の粒がこぼれ、床板の隙間に消えた。

アインの口が開いた。

「パパ、むり……」

喉の奥で潰れた声だった。短くて、幼くて、もう一度言わせたくない声だった。

俺は拳を解き、掌を床へ置いた。冷たい木のざらつきが、皮膚の熱を奪う。

「無理なら、止まれ。止まったまま、足を見る。まだ残ってる」

アインの呼吸が乱れた。吸う音と吐く音の間が詰まり、胸が小刻みに上下する。額の汗が鼻筋へ落ち、唇の端で光った。

「そこに置け。小さくていい。足を乗せろ」

アインの右足の指が曲がった。床板を押す。膝が擦れ、着物の布が軋む。閉じた目からまた雫がこぼれた。

「そうだ」

俺は言った。

その一言だけで、喉が焼けた。

アインはまだ塔の中にいる。俺の前に座っているのに、手の届かない場所で、足場を探している。俺が作った塔ではない。俺が通った塔でもない。アインの小さな身体が、俺の声を頼りに組み上げた塔だ。

壊しているのは俺だった。

「次、風が来る。身体を低くしろ」

アインの背が丸くなった。正座したまま、両手がまた膝を掴む。爪が布に沈み、腕が震える。ジュリアが小さく鼻をすすり、ミユウの背中に隠れた。

「パパ、やだ……」

ジュリアの声が聞こえた。

俺は返事をしなかった。返事をすれば、止めてしまう。止めて、抱き上げて、もう剣なんて握らせず、眠るまで背中を撫でてやりたくなる。

それで済む世界なら、俺は剣を置いていた。

船室の外で帆が鳴り、船が大きく傾いた。床に置いたアストラルフレイムの鞘がわずかに滑る。金具が板を擦り、細い音を立てた。

アインの身体がその音に反応し、右肩が跳ねた。

「塔が崩れる。上へ行け」

俺は声を落とした。

アインの息が止まった。

ほんの一瞬、船室から波音が消えた気がした。

次に聞こえたのは、アインの吐いた息だった。荒く、熱を帯び、喉の奥を擦る音。膝に置いた手が少しずつ開く。指一本ずつ、布から離れる。小さな掌が膝の上で震えたまま、逃げる形をやめた。

「パパ……」

「いる」

「ここ……?」

「いる。前を見ろ」

アインは目を閉じたまま、顎をほんの少し上げた。涙で濡れた睫毛がランタンの光を拾う。

「こわい」

「足を置け」

「こわい……」

「足を置け。俺の声が聞こえる場所に、戻ってこい」

ミユウの指が俺の腕に強く食い込んだ。爪が布越しに皮膚へ届く。俺はその痛みを受けたまま、アインだけを見た。

アインの唇が動いた。

声にはならなかった。

それでも、右手が膝から離れた。空中で何かを押すように前へ出る。次に左手。小さな掌が二つ、見えない石の縁を掴む形になった。

身体が前へ倒れる。

ミユウが息を吸った。

俺は彼女を止めた手を下ろし、床を掴んだ。動くな、と自分の腕に命じる。動けば、アインが積み上げたものを俺が折る。

「登れ」

アインの喉から、擦れた音が出た。

膝が床板を押し、身体がほんの少しだけ持ち上がる。正座の形が崩れ、足首が痛む角度に曲がった。それでもアインは目を開けない。涙で濡れた頬のまま、前へ、前へと上体を押し出した。

「あと一つ」

俺は言った。

「パパ……」

「あと一つだ」

「て……」

ミユウが前へ出かける。

俺は、今度は止めなかった。

ただし、手は出させない。俺は視線だけでミユウを止めた。彼女の目が俺を射抜き、唇が震えた。金の光が羽の根元で揺れ、今にもアインを包もうとしている。

俺は首を横に振った。

ミユウは両手を胸の前で握った。指が白くなる。母の腕が、目の前で子を抱けずに凍る。俺はその横顔を見たら崩れるから、アインへ戻った。

「最後の石は、狭い」

アインの呼吸がまた乱れる。だが、さっきよりも逃げる音ではなかった。浅く、切れ切れで、けれど一つずつ前へ押す息だった。

「両足は置けない。片足でいい」

アインの右足が床を押した。小さな身体が傾き、左肩が下がる。倒れる。俺の腕が反射で動きかけ、肘の内側が軋んだ。

止めた。

アインの左手が空を掴む。指が震える。顔が歪み、唇から細い声が漏れた。

「パパ、みて……」

「見てる」

「みて……」

「見てる。ずっと見てる」

アインの右手が膝に戻った。掌で布を押し、身体を支える。背中が丸まり、額の汗が一気に顎へ落ちた。床に小さな丸い跡ができる。

その跡を、俺は見た。

昔、塔の上で俺が落とした汗と同じ場所に見えた。違う。違うのに、同じ熱を持っていた。

「立て」

俺は言った。

「立たなくていい。身体の中で、立て」

アインの肩が止まった。

船室の空気が詰まる。ミユウも、ジュリアも、息を細くしている。ランタンの火だけが揺れ、壁に俺たちの影を貼りつけた。

アインの背中が、ほんの少し伸びた。

ほんの少しだけ。

けれど、その動きは俺の胸の奥を殴った。幼い肩、細い首、涙で濡れた顔。どこから見ても五歳の子どもで、今すぐ毛布で包んで眠らせなきゃいけない身体が、見えない塔の上で足を踏ん張っていた。

「上だ」

俺は声を絞った。

「手を伸ばせ」

アインの右手が、ゆっくり上がった。天井には低い梁しかない。そこに届くはずもない。けれどアインの指は、何かを掴もうとしていた。小さな爪、濡れた掌、震える手首。

「掴め」

指が閉じた。

アインの身体から、力が抜けた。

同時に、閉じたまぶたが開いた。瞳は焦点を結ばず、ランタンの光を受けたまま揺れている。唇が震え、息が一つ、胸の奥からこぼれた。

「パパ……」

「終わりだ」

俺がそう言った瞬間、アインの身体が横へ崩れた。

ミユウが飛び込んだ。白い羽が船室いっぱいに広がり、金の光が床板を撫でる。アインの額が床に触れる前に、ミユウの腕が包んだ。小さな身体は彼女の胸へ倒れ込み、膝の上で布人形みたいに力を失った。

「アイン、アイン……」

ミユウの声がほどける。彼女はアインの後頭部を支え、汗で濡れた髪を頬に押し当てた。癒やしの光が薄く広がり、アインのこめかみに触れる。

ジュリアが泣き声をこらえたまま近づき、アインの袖をつまんだ。

「おにぃちゃん……おにぃちゃん」

アインは返事をしない。胸だけが上下している。息は荒いが、途切れていない。俺は膝をついたまま、床に置いた手を動かせなかった。

ミユウが俺を見た。

濡れた瞳に、ランタンの火と俺の影が入っていた。

「あなた……」

責める声ではなかった。だから余計に、胸の奥が裂けた。

俺はアインへ手を伸ばした。途中で止まる。触れていいのか、触れたら壊れるのか、掌が迷った。

アインの指が、ミユウの服を掴んだ。

「ママ……」

「いるわ。ここにいるわ」

ミユウはアインを抱きしめた。羽が二人を覆い、床に落ちた汗の跡が金の光で薄くにじむ。ジュリアがその横から腕を回し、届くところだけを抱いた。

「パパ、こっち」

ジュリアが俺を呼んだ。

短い声だった。泣きすぎて鼻にかかり、怒っているのか、来てほしいのか、どちらにも聞こえた。

俺は膝で近づいた。床板の木目が掌に引っかかり、爪の跡が残る。ミユウの腕の中で、アインが薄く目を開けた。

「パパ……」

「いる」

俺は今度こそ、アインの濡れた髪に触れた。

熱い。

戦いの熱じゃない。命が逃げずに残っている熱だった。

アインの指が、俺の袖を探した。力はほとんどない。布をつまむだけで、また落ちる。それでも何度も探す。

俺は自分の袖を、その小さな手の下へ差し出した。

指が掴んだ。

「おち……なかった?」

俺は喉の奥で息を止めた。

ミユウがアインを抱く腕に力を込める。ジュリアが「おにぃちゃん」と何度も小さく呼ぶ。船が波を越え、床板が一度大きく持ち上がった。

「落ちなかった」

俺は言った。

アインの瞼が下がる。けれど袖を掴む指だけは、離れない。

「パパ、いた?」

「いた」

「ママも?」

「いたわ」

ミユウが答え、アインの額に頬を寄せた。

「ジュリアも……」

ジュリアは言葉の代わりに、アインの袖を両手で握った。小さな肩が震え、涙がぽたぽた落ちる。アインの指がわずかに動き、ジュリアの手に触れた。

それだけで、ジュリアは声を詰まらせた。

俺はアインの髪を撫でた。汗で指が濡れる。額からこめかみへ、こめかみから耳の横へ。何度も撫でるうち、俺の掌まで熱くなった。

「よく戻った」

その言葉を出すのに、息が削れた。

アインの唇が少しだけ動く。

「つかれた……」

「寝ていい」

「パパ……こわいかお、やだ」

俺の手が止まった。

ミユウが顔を上げる。ジュリアも涙の隙間から俺を見る。

俺は息を吐いた。胸の奥に残っていた塔の石が、一つずつ落ちるようだった。

「悪かった」

アインはもう半分眠っていた。それでも袖を掴む指は緩まない。

「やだ……」

「もうしない顔にする」

そう言うと、ミユウの目元が崩れた。彼女はアインを抱いたまま、俺の肩に額を寄せた。銀の髪が俺の首に触れ、羽の端が床を撫でる。

「あなたも、戻ってきて」

ミユウの声は、俺の服の中へ染みた。

俺は返事の代わりに、アインとミユウごと腕を回した。ジュリアが遅れて胸に飛び込んでくる。小さな手が俺の服を掴み、泣き濡れた頬が肋骨のあたりに押しつけられた。

「パパ、もう、こわいの、だめ」

「わかった」

「おにぃちゃん、ねんね」

「そうだな」

俺はアインの背中を支えた。ミユウの腕の中で眠りに落ちかけた身体は、驚くほど軽い。さっきまで塔を登っていたとは思えないほど、膝も、肩も、指も、全部が小さい。

こんな身体に、俺は上を向かせた。

けれど、落ちなかった。

落とさなかったのではない。

アインが、戻ってきた。

その違いが、掌の熱でわかった。

船室のランタンが揺れ、壁に映った四つの影が重なった。アストラルフレイムは床の上で鞘を濡らす光だけを受けていた。剣は何も言わない。ただ、木の床に置かれたまま、次の波でわずかに音を立てた。

俺はその音を聞きながら、アインの手を袖ごと握り返した。

小さな指はまだ震えていた。