作品タイトル不明
第160話 小さな刃が届いた日
甲板を蹴った小さな足音が、帆柱を伝う風の唸りに混じった。
俺はアストラルフレイムの柄を握り直し、濡れた板目の上を半歩だけ退いた。潮を含んだ風が頬を叩き、剣の腹に反射した日差しが、目の奥へ白く刺さる。その白の向こうで、アインの黒髪が跳ねた。
右手の短剣が下から来る。受ければ、左が首筋を狙う。さっきまでなら腕ごと止められた軌道が、今は帆の影に紛れ、呼吸の隙間へ潜り込んでくる。小さな手首はまだ細い。けれど、その刃先だけは俺の甘さを許さなかった。
「っ……!」
アストラルフレイムを横に倒し、右の短剣を刃の根で受けた。金属が噛み合う音が甲板に跳ね、すぐ脇を左の短剣がかすめる。髪の先が数本、風に巻かれて飛んだ。
アインは踏み込んだ足を止めない。
五歳の足幅では、俺の間合いを食い破るには足りない。そう思っていた場所へ、あの小さな体は身体ごと飛び込んできた。腰の高さにも届かない影が、帆柱から落ちる暗がりを踏み、俺の剣の下をくぐる。
「パパ!」
短い声と一緒に、左の短剣が跳ね上がった。
俺は柄頭でそれを払った。軽い。軽いはずなのに、腕の芯に痺れが残る。刃を押し返した瞬間、アインの右足が濡れた板に滑りかけた。
反射で手を伸ばしかける。
その一瞬、アインの目が俺を捉えた。
転ぶと見せて、膝を落としただけだった。低くなった体から、右の短剣がまっすぐ腹へ伸びる。俺は息を詰め、半身をひねった。切っ先が服を裂き、布の端が海風に震える。
危うさを利用したのか。
いや、そんな理屈はまだアインの中にはない。
ただ、倒れたくない。止まりたくない。俺の剣の向こうまで行きたい。その体の動きだけが、刃の形になっている。
「もう一回!」
アインは短剣を握り直し、濡れた唇を腕でこすった。額には汗が浮かび、頬には潮の粒がついている。呼吸は荒い。けれど、足は甲板から離れない。
「足を見ろ。刃だけ見たら遅れる」
「うん!」
返事はすぐに返ってきた。
俺はアストラルフレイムを下げ、わざと右側を空けた。さっきからアインは、そこへ来たがっている。俺の腕の外、剣の届きにくい場所。何度も弾かれ、何度も甲板に膝をつき、それでも同じ場所へ目を向けている。
また来る。
帆が大きく膨らみ、船が波を越えた。足元が沈む。アインの体もわずかに傾いた。
今なら止められる。
剣の腹で押し返せば、それで終わる。
けれど、アインの左手が先に動いた。短剣を投げるでも、振るでもない。俺の剣の側面へ、刃ではなく鍔をぶつけた。軽い衝撃。剣の向きが指一本分だけ外れる。
その指一本分の空きへ、アインの右の短剣が入った。
「くっ……!」
俺は後ろへ退いた。かかとが巻いたロープに触れる。足場が狭い。甲板の端、手すりまで数歩。潮風が背中へ回り、首筋を冷やした。
アインは追ってくる。
速さではない。重さでもない。小さな足で一歩ずつ、俺が退いた跡を踏んでくる。短剣を振るたび、肩が上がりすぎる。息を吸うたび、胸が大きく揺れる。それでも、次の一振りだけは必ず前へ出る。
「パパ、まだ!」
「来い」
声を返した瞬間、胸の奥で古い熱が軋んだ。
この子の手に、いつか本物の戦いが触れる。
魔王を本当の意味で倒すには、勇者の血が必要になる。俺がどれだけ剣を振っても、どれだけ闇を焼いても、最後の扉だけは俺一人の腕でこじ開けられない。血が、名が、受け継がれた光が、闇の根に届く日が来る。
そんな日を遠ざけたくて、俺は何度も剣を握った。
ミユウの笑顔を、ジュリアの小さな手を、アインが眠る時に俺の服を掴む指を、あの闇から遠い場所に置きたかった。俺一人の命で足りるなら、何度でも差し出す。骨が砕けても、血が尽きても、這ってでも戻る。
けれど、勇者の血は俺で終わらない。
アインの中にも流れている。
その事実が、刃より深く胸に入った。
「パパ!」
呼ばれて、俺は目を戻した。
アインが真下にいた。いつの間にか剣の影へ入り、両手の短剣を交差させて、アストラルフレイムの刃を受け止めている。小さな腕が震え、靴の底が板をこする。押せば終わる。今なら、まだ俺の力で止められる。
俺は押した。
アインの膝が曲がる。顔が歪み、歯が見えた。それでも、短剣は落ちない。刃と刃の間から、青い光の粉が散り、風に流される。
「やだ……!」
その一言で、俺の手の力がわずかに抜けた。
アインはそこを逃さなかった。
交差した短剣を外へ開き、俺の剣を左右へ弾く。軽い体がそのまま前へ転がるように入り、肩が俺の腹にぶつかった。息が詰まる。俺は一歩下がり、ロープを踏む。足首に絡む感触。
次の瞬間、アインの右の短剣が俺の胸元へ伸びた。
俺は腕で払う。左の短剣が来る。受ける。右が戻る。小さな連撃が、雨の粒みたいに休まず降る。ひとつひとつは軽い。だが、間がない。俺の呼吸より、アインの必死な息のほうが速く、甲板を叩く足音が剣の拍子をずらしていく。
「はっ……」
肩で息をしながら、アインがまた踏み込む。
俺は受ける。
刃の角度が甘い。手首が外へ流れる。けれど、その甘さの隣に、俺の癖を覚えた動きがある。俺が剣を上げる時、左肩がわずかに開く。俺が退く時、右足から下がる。さっき何度も繰り返したそれを、アインは目で拾い、体で追っている。
教えた覚えはない。
見ていたのだ。
俺の背中を。俺の剣を。俺がミユウを守る時の腕の置き方を。ジュリアを抱き上げる時に、どちらの足で踏ん張るかまで。
胸の奥が熱くなり、喉の奥に潮とは別の苦さが絡んだ。
「アイン、そこで止まるな」
「うん!」
答えた声は揺れていた。
それでも来る。
俺は剣を振り下ろした。もちろん刃は返している。だが、風を裂く音は本物だ。アインの目が一瞬だけ大きく開く。小さな足が甲板を掴み、体が横へ跳ねた。短剣の片方で受け、もう片方で俺の手首を狙う。
受け流しに来た。
俺は剣を引いた。
アインの短剣が空を切る。体が流れる。そこへ俺は剣の腹を当て、胸元を押した。
「あっ」
アインは後ろへ転がった。
板に肩が当たり、小さな体が一度跳ねる。短剣の片方が手から離れ、甲板を滑って帆柱の近くで止まった。
俺の足が勝手に動きかけた。
けれど、アインは泣かなかった。
唇を噛み、空いた手で甲板を掴む。指の腹に木くずが刺さったのか、眉が寄る。それでも、短剣を握った右手は離さない。膝をつき、片足を立て、震える肩で息を吸う。
「パパ……」
小さな声が風に擦れた。
「まだ、やる」
俺はアストラルフレイムを下げたまま、足元のロープを蹴ってほどいた。
「なら、拾え」
アインは頷き、片方の短剣へ手を伸ばした。途中で膝が滑る。手が甲板を叩く。痛みで息を詰めた顔のまま、それでも短剣の柄を掴む。
血が出ていないか。
俺の目は、どうしてもその小さな手に吸い寄せられる。
指は赤い。だが切れてはいない。木のささくれが皮膚を擦っただけだ。そう確かめた瞬間、全身の力が抜けかけた。
駄目だ。
俺が先に父親へ戻れば、この修行はそこで折れる。
アインは俺の息を見ていた。剣より、足より、俺の迷いを見ていた。短剣を拾ったまま、立ち上がるまでの数秒、あの小さな目は俺の顔から離れない。
「パパ、手、やめないで」
胸に刺さった。
アインは難しいことなど言っていない。ただ、俺が途中で刃を引くのを嫌がっただけだ。守られていることに甘えたくないのではなく、今、この場所で、俺と向き合っていたいのだ。
俺は奥歯を噛んだ。
「分かった」
アストラルフレイムを構える。
青白い炎が刃の内側で揺れ、潮風に散りかけて、また戻る。燃え上がらせすぎれば、アインは近づけない。弱めすぎれば、剣の重みを学べない。俺の手の中で、炎の量を削る。刃の光が細くなる。
アインが走った。
右、左、右。
短剣が弾かれ、また戻る。肩が上がり、呼吸が乱れ、足がもつれる。それでも、転ぶ直前に踏み直し、俺の腕の内側へ潜る。小さな額が俺の胸元に近づいた。
近い。
俺は柄で押し返そうとした。
アインは頭を下げ、俺の腕の下をすり抜けた。背中の小さな羽が帆の影を横切り、白い羽先に日差しが散る。俺は振り返る。遅い。
背後から短剣の刃が来る。
俺は身を沈めてかわした。だが、もう片方が膝へ触れた。斬るための力ではない。止めるための、軽い接触。それでも俺の体は反射で止まる。
アインはそのまま俺の横へ回り込み、短剣を交差させた。
俺の剣を封じる角度。
まだ五歳の腕で、俺の剣を完全に止められるはずがない。だが、狭い甲板とロープと手すりが、アインの小ささを味方にしていた。俺が大きく振れば、アインに当たる。下へ払えば、甲板に刃が噛む。上へ逃がせば、喉元が空く。
追い込まれた。
その事実が、波音よりもはっきり耳に残った。
「アイン……」
名前を呼ぶ前に、短剣が跳ねた。
右の刃が俺の剣を上へ押し、左の刃が喉元へ伸びる。俺は後ろへ引く。手すりが背中に当たった。木の硬さが肩甲骨に食い込む。
潮風が止まったように感じた。
アインの短剣の切っ先が、俺の喉のすぐ前で止まっている。
小さな手が震えていた。息が荒く、頬は赤い。汗が顎から落ち、甲板に小さな丸を作る。短剣を持つ指は白くなり、でも下がらない。
「おれはパパをこえてみせる!」
声が甲板にぶつかり、帆の上へ抜けた。
俺は刃の冷たさを喉の皮膚で感じながら、ゆっくり息を吐いた。胸の奥で、何かが折れる音ではなく、古い鎖が外れる音がした。
この子は俺を倒したいのではない。
俺が立っている場所まで来たいのだ。
そして、その先にある闇を、俺一人に背負わせたくないのだろう。言葉にできるはずがない。理屈で掴んでいるはずもない。ただ、俺の背中が遠いと嫌で、俺がどこかへ行くのが嫌で、だから短剣を握ってここまで来た。
五歳の手が、俺の未来を突きつけている。
「……届いたな」
俺が言うと、アインの眉が小さく揺れた。勝ったと笑う余裕もなく、息を吸うたび肩が上下している。刃先がわずかに震え、喉の皮膚に冷たい線を置いた。
「パパ、まけた?」
「今の一手は、俺の負けだ」
アインの目が丸くなる。すぐに口を結び、短剣を下ろさないまま、何度も息を吸った。
「でも、まだ終わりじゃない」
俺は喉元の刃を指先でそっと押し下げ、アインの短剣ごと小さな手を包んだ。汗と潮で湿った指が、柄に張りついている。
「強さだけが力じゃない。どんな試練にあっても絶対に折れない心の強さも必要だ」
アインは俺の顔を見上げた。
分かった、と言わせてはいけない。そんな重い言葉を、この小さな喉に乗せてはいけない。今はただ、音として残ればいい。いつか風の匂いと、手の痛みと、短剣の重さが一緒に戻ってくればいい。
「おれ、つよくなる」
短い言葉だった。
それだけで充分だった。
「なる。けど、急がなくていい」
「やだ」
「やだ、か」
「パパ、いなくなるの、やだ」
刃より鋭いものが胸を貫いた。
アインの手から力が抜ける。短剣の切っ先が下がり、甲板に触れて小さく鳴った。さっきまで俺を追い詰めていた体が、急に軽く見える。汗で額に張りついた髪。擦れた膝。握りすぎて赤くなった指。
俺は膝をついた。
目の高さが近づくと、アインの口が震えた。泣くのをこらえる顔ではない。もう泣き方も忘れたみたいに、息だけが喉で引っかかっている。
「俺は戻る」
声が、自分のものではないくらい低く出た。
俺が死んでも。
その言葉は、口には出さない。アインの耳に置くには、あまりに冷たすぎる。
けれど胸の奥では、はっきり燃えていた。
もし俺の体が闇に裂かれても、骨が海の底へ落ちても、血が魔王の根に吸われても、俺は必ず戻る。アインの小さな手が俺の服を探すなら、その手の中へ戻る。ジュリアが「パパ」と泣くなら、その声のする場所へ戻る。ミユウが羽を震わせて待つなら、どんな闇の底からでも、俺は彼女の光まで這い上がる。
死んで終わる命なら、勇者など名乗らない。
守ると決めた場所へ帰るまで、俺は俺であり続ける。
「パパ?」
アインが短剣を落とし、俺の袖を掴んだ。
小さな指が布を握る。戦いの手ではない。いつもの、離れたくない時の手だ。
「戻る。必ず」
「ほんと?」
「ああ」
「やくそく」
アインが小指を出した。
短剣を握っていた指は赤く、節のところに白い跡が残っている。俺はその小指に自分の小指を絡めた。大人の指と子どもの指では、輪の形が歪む。それでも、アインはぎゅっと力を込めた。
「いたいくらいでいい」
「いたい?」
「忘れないからな」
アインは小指を見て、少しだけ眉を寄せた。
「パパ、へんなの」
「よく言われる」
「ママにも?」
「たぶん、言われてる」
アインの口元がわずかに緩んだ。すぐに風が吹き、濡れた髪が頬に張りつく。俺は袖でそれを拭おうとして、血がついていないか自分の手を確かめた。
アインが先に俺の手を掴んだ。
「て、あつい」
「剣を握ったからな」
「パパのて」
その言葉で、俺は自分の手の熱を知った。さっきまで刃を受け、短剣を弾き、魔王の影を胸の中で睨んでいた手が、今は五歳の指に捕まっている。
これが戻る場所だ。
闇の根を焼く力よりも、魔王の喉元へ届く刃よりも、俺を立たせるものはここにある。
アインは短剣を拾おうとして、ふらついた。
俺は腕を伸ばし、脇の下を支える。軽い体が俺の腕に乗った瞬間、汗と潮と木の匂いが混ざって鼻をついた。アインの胸はまだ速く動いている。無理をさせすぎた。だが、途中で止めなかったことを後悔するには、あの喉元の刃が鮮やかすぎた。
「今日はここまでだ」
「まだ」
「足が震えてる」
「まだ、できる」
「できるのと、続けていいのは違う」
アインは口を尖らせた。短剣を抱え込むように胸へ寄せ、俺から目を逸らす。子どもの拗ねた顔そのものなのに、その手だけはまだ柄を離さない。
俺は笑いそうになる喉を押さえ、アストラルフレイムを鞘へ戻した。
刃が収まる音が、甲板の空気を変えた。帆が鳴り、波が船腹を叩く。修行の熱が少しずつ潮に流されていく中で、アインの呼吸だけがまだ近くに残っている。
「明日もやる」
アインが俺を見た。
「明日、手の皮がむけてなかったらな」
「むけない」
「見せてみろ」
「やだ」
「やだが多いな」
「だって、やだ」
俺は膝をついたまま、アインの手を取った。逃げようとした小さな指を、無理に開かせない。手のひらへ自分の親指を添え、握り込んだ力が抜けるのを待つ。
少しして、アインの指がほどけた。
赤い跡。擦れた皮膚。血はない。
俺は息を吐き、手のひらに軽く唇を寄せた。アインがくすぐったそうに肩を跳ねさせる。
「パパ、やめて」
「手当ての代わりだ」
「へんなの」
「二回目だな」
「パパ、へんなの」
今度ははっきり言った。
その声が、胸の奥に置かれた刃を少しだけ温めた。俺はアインの手を包んだまま、手すりの向こうへ目を向ける。海は光を砕き、遠くの水平線を白く滲ませている。
あの向こうに、まだ闇がある。
俺の剣では届かない根がある。
勇者の血を求める扉が、いつかこの子の前にも口を開ける。
その日が来た時、俺はアインの前に立つ。立てなければ、倒れた場所から腕を伸ばす。腕がなければ、声だけでも戻る。声が焼かれても、ミユウの光の中に、ジュリアの涙の中に、アインの握る柄の熱の中に、俺は残る。
父親としてでは足りない。
勇者としてでも足りない。
ただ、帰る者として、何度でもこの甲板へ戻ってくる。
「パパ」
アインが俺の袖を引いた。
「なんだ」
「つぎ、まけないで」
俺は喉の奥で息を止めた。
短い言葉だった。難しい意味などない。さっき俺が負けたから、次はもっと強い俺と戦いたい。それだけの顔で、アインは俺を見ている。
だからこそ、胸に残った。
「分かった」
俺は立ち上がり、アインの短剣を二本とも受け取った。小さな刃は日差しを受け、まだ微かに震えているように見えた。
「次は、俺も逃げない」
アインの目がまた大きくなった。
「ほんと?」
「ああ」
「パパ、つよい?」
「強いぞ」
「じゃあ、こえる」
アインは俺の服を掴んだまま、そう言って笑った。
潮風がその笑い声をさらい、帆の白へ溶かしていく。俺は短剣を腰の革紐へ差し、もう片方の手でアインを抱き上げた。汗で湿った小さな体が腕の中に収まり、膝の擦れた場所が俺の服に触れる。
「歩ける」
「知ってる」
「おろして」
「あとで」
「パパ」
「今だけだ」
アインは少しもがいたあと、俺の肩に額を押しつけた。短い息が首筋にかかる。さっき喉元へ刃を突きつけた手が、今は俺の襟を握っている。
俺はその重さを抱え直し、甲板の中央へ戻った。
帆柱の影が伸び、二本の短剣が腰で小さく鳴る。アストラルフレイムは鞘の中で熱を残し、俺の背中には手すりの硬さがまだ残っている。
喉元には、あの冷たい線。
腕の中には、帰る場所の熱。
俺は海へ向かって一歩踏み出し、アインの指が襟を握る力を、皮膚の奥まで覚え込ませた。