作品タイトル不明
第159話 帰るために、剣を取る
甲板を蹴った小さな足音が、波を割る船の軋みに混じって俺の胸まで届いた。
潮を含んだ風が頬を打ち、白い帆が頭上で大きく鳴る。俺は抜き身のアストラルフレイムを下ろしたまま振り返り、短い剣を両手で抱えたアインの肩が、薄い服の下で小刻みに上下しているのを見た。
五歳の指には、実剣の柄が大きすぎた。それでもアインは、剣先を甲板に擦らせながら俺の前まで来て、唇を噛み、涙で光る目を俺から逸らさなかった。
「アイン」
呼んでも、返事はない。
小さな手が柄を握り直す。革の巻かれた柄に爪が沈み、剣先が甲板の板目を削った。
俺はアストラルフレイムを鞘へ戻さず、ただ握る力だけを緩めた。帆柱の影が、アインの足元で揺れる。船は大きな波を越え、俺たちの間に落ちていた陽の筋が一度途切れた。
「パパ」
細い声だった。
けれど、風には消えなかった。
「たたかって」
喉の奥が詰まった。俺は柄に添えた親指を動かし、刃をわずかに下げる。
「今は駄目だ」
「やだ」
アインは首を振った。黒い髪が額に張りつき、涙が頬の汚れを細く割って落ちる。
「パパ、たたかって」
小さな剣先が持ち上がる。震えていた。怖さで、重さで、風で、全部に押されていた。それでも、俺の胸へ向けられていた。
俺は一歩も動けなかった。
魔王を倒す。
そのために俺が捨てるものは、もう決めていた。息も、血も、この腕も、この体も、俺の中に残ったすべてを差し出して、それでミユウとアインとジュリアが朝を迎えられるなら、迷う余地などないと、何度も剣の中で呟いてきた。
だが、目の前の小さな手は、その答えを許してくれなかった。
アインの剣が、ひゅっと空気を切った。
俺は半身を引き、刃を袖一枚のところで避ける。剣先は俺の脇を抜け、勢いを止められなかったアインの体が前へ傾いた。俺は左手を伸ばしかけ、途中で止めた。
アインは膝を甲板についた。鈍い音が鳴り、短い息が漏れる。
「もう終わりだ」
「やだ!」
アインは立った。片膝に木屑がつき、手のひらに赤い筋が浮いている。剣を持つ手が滑り、すぐに両手で抱え直す。
「パパ、もういっかい」
「アイン」
「もういっかい!」
泣き声が混じっていた。けれど、背中は逃げなかった。
俺は奥歯を噛み、アストラルフレイムを横へ構えた。刃に宿る光を抑え、熱を沈める。甲板を焼くほどの力はいらない。命を奪う剣ではなく、受け止める剣でなければならない。
アインが走った。
歩幅は短く、足音はばらばらだった。船が揺れるたびに体が横へ振られ、それでも剣を抱えたまま俺に向かってくる。俺は刃の腹で受けた。小さな剣が弾かれ、甲高い音が海へ散った。
アインの腕が跳ね上がる。
「うっ……!」
俺はすぐに剣を引いた。だが、アインは弾かれた腕を胸に押しつけ、泣きそうな顔でまた踏み込んできた。
「パパ!」
今度は真下からの斬り上げだった。重さに負けた剣筋は曲がり、俺の腕までは届かない。それでも、俺は受けた。刃と刃が触れた瞬間、小さな体が押し返され、アインは尻餅をついた。
短い剣が甲板を転がった。
アインはそれを見た。次に、自分の手を見た。指の間に小さな擦り傷があり、潮風が触れたのか、肩がびくりと跳ねた。
俺は膝を曲げた。
「もういい。ここまでだ」
「だめ」
アインは剣へ手を伸ばした。
「アイン、手を見せろ」
「だめ!」
剣を掴んだ指は、さっきより頼りなかった。柄を抱えるように胸へ押し当て、アインは立とうとして、甲板の揺れに負けて片手をついた。
俺の足が勝手に前へ出た。
その瞬間、アインが顔を上げた。
「こないで!」
足が止まった。
風が帆を打つ音の中で、アインの鼻をすする音だけが近く聞こえた。小さな肩が震えている。膝も震えている。剣の重さに腕が下がり、切っ先がまた木を擦る。
それでも、俺を見ていた。
「パパ、いっちゃう」
胸の奥が鈍く削れた。
「いかない」
「うそ」
アインは首を振った。涙が散り、頬に張りついた髪が揺れる。
「パパ、こわいかお、してた」
俺は息を吸った。潮の匂いが喉に絡む。
あの時、俺は甲板の端で剣を磨いていた。ミユウにも、ジュリアにも、アインにも聞かせるつもりはなかった。ただ、刃に映った自分の目を見ながら、魔王の首へ届くなら、この命を置いてくると、声にしないまま決めていた。
アインは、どこから見ていたのか。
どれだけの間、そこに立っていたのか。
俺が守ると決めた子どもが、俺の死ぬ覚悟だけを拾ってしまった。
「アイン」
「やだ」
短い剣が持ち上がる。今にも落ちそうな刃が、また俺へ向けられた。
「パパ、しなないで」
返事が出なかった。
魔王を倒さなければ、船も、島も、祈りも、眠っている明日も、全部が黒い波に呑まれる。誰かが終わらせなければならない。その誰かが俺であるなら、俺は進むしかない。父親の腕で抱きしめるより先に、勇者の剣で道を開かなければならない時がある。
そう思っていた。
そう思わなければ、足が前へ出なかった。
けれど、アインの泣き腫らした目は、俺が捨てようとしていたものを全部掴んでいた。俺の手より小さい指で、俺の服の裾を握る時の温度。寝ぼけたまま「パパ」と呼ぶ声。ジュリアと一緒に俺の膝へよじ登ってきた重さ。ミユウが二人の髪を撫でる横顔。
命を差し出すと決めたのは、守るためだった。
その決意で、守りたいものの胸に刃を立てていた。
アインが踏み込んだ。
俺は受けた。
さっきより強かった。力ではない。逃げない足が、剣に乗っていた。俺の刃にぶつかった短剣が震え、アインの手首が負けそうに折れる。俺はすぐに力を抜いたが、アインはそのまま押してきた。
「ううっ……!」
小さな喉が鳴る。
「パパも……」
剣と剣の間で、アインの声が潰れた。
「ママも……」
俺は刃を引けなかった。
「ジュリアも……」
アインの足が滑る。膝が甲板に当たりそうになり、踏みとどまった踵が木の上で軋む。
「誰も死なせない!」
叫びは、海へ飛んだ。
帆が大きく膨らみ、船が波を越えた。光がアインの背中に落ち、小さな影が俺の足元へ伸びる。刃を押す力は弱い。腕も震えている。涙で顔はぐしゃぐしゃだった。
それでも、俺のアストラルフレイムが一瞬だけ重くなった。
小さな剣の向こうで、アインが歯を食いしばっていた。五歳の体に余る剣を抱え、泣きながら、倒れながら、俺の前に立っていた。勇者などという言葉を知らなくても、守りたい名前だけを胸に抱えて、俺の死ぬ道を塞いでいた。
「……そうか」
俺は刃をずらした。
アインの剣が空を切る。勢いのまま体が流れたところへ、俺は軽く踏み込み、柄を持つ手首へ指を添えた。強くは押さえない。触れた瞬間に力の向きだけを変える。
短い剣が甲板へ落ちた。
「あっ」
アインの目が剣を追う。
俺はアストラルフレイムを床へ突き立て、空いた両手でアインの体を受けた。胸に飛び込んできた小さな重みは、汗と潮と木屑の匂いがした。背中は熱く、息は細かく裂けている。
アインは俺の服を掴んだ。
「はなして」
声だけは尖っていた。
けれど、指は離れなかった。
「はなさない」
「たたかう」
「もう終わりだ」
「やだ……」
俺は膝をつき、アインの高さに合わせた。肩についた木屑を指で払うと、アインは痛そうに顔を歪め、すぐに唇を噛んだ。
「いたいか」
「いたくない」
涙がまた落ちた。
「嘘が下手だな」
「いたくないもん」
アインは俺の胸を小さな拳で叩いた。力は残っていない。布を押すだけで、すぐ指が丸まる。
「パパ、ずるい」
「ああ」
「ひとりで、いく」
「ああ」
「やだ」
俺はアインの後頭部に手を添えた。汗で湿った髪が指に絡む。小さな頭が俺の胸に押しつけられ、鼻をすする音が布越しに震えた。
「俺は、魔王を倒す」
アインの指が強くなった。
「でも、死にに行くんじゃない」
言葉にした途端、胸の奥で固まっていた刃が、わずかに軋んだ。
「帰るために行く。ミユウのところへ、ジュリアのところへ、お前のところへ。剣を振るのは、そのためだ」
アインは顔を上げなかった。
「ほんと?」
「ああ」
「うそ、やだ」
「嘘にしない」
俺はアストラルフレイムの柄へ目をやった。甲板に立つ刃は、陽を受けて淡く揺れている。これまで何度も、その光に自分の背中を預けてきた。魔王の闇を斬るためなら、俺自身が燃え尽きてもいいと、刃の奥へ沈めてきた。
だが、燃え尽きた後に残る灰を、アインに拾わせるわけにはいかない。
父親が命を差し出す背中だけを見せれば、この子はいつか同じことをする。誰かを守るために、自分の小さな手を離してしまう。俺が選んだはずの道が、アインの足元へ傷のように残る。
それは、守ることではない。
俺はアインを抱く腕に力を込めた。
「アイン」
「……うん」
「もう一度、剣を持て」
アインの体がびくりと動いた。
「でも」
「今度は、倒すためじゃない。守るために持つ」
アインがそっと顔を上げた。涙でまつ毛が濡れ、鼻の頭が赤い。頬には木屑がついている。俺は親指でそれを拭った。
「守る剣は、相手を見る。足を見る。息を見る。怖くなったら、剣を振る前に息を吸う」
「むずかしい」
「そうだな」
「できない」
「少しだけでいい」
アインは俺の服を握ったまま、落ちた短剣を見た。取りに行きたい。でも離れたくない。そんなふうに、指が何度も布を摘み直す。
俺は片腕で抱いたまま、もう片方の手で短剣を拾い上げた。柄をアインの手に触れさせる。
「持てるか」
「……もてる」
小さな手が伸びる。さっきのように抱え込むのではなく、俺の指の上からそっと柄を握った。
俺は背中から支えたまま立たせた。
アインの膝はまだ揺れている。頬も濡れたままだ。剣先は下がり、甲板に触れそうになる。そのたびに俺は手を添え、刃の向きを直す。
「足はここだ」
「ここ?」
「そう。船が揺れたら、踏む」
波が来た。
甲板が持ち上がる。アインは反射的に俺の袖を掴み、剣が傾いた。俺は支えず、ただ背中の近くに手を置いた。
アインは小さく息を吸い、足を踏んだ。
倒れなかった。
「できた」
「ああ」
「できた」
声が少しだけ明るくなり、すぐに痛みを思い出したように眉が寄った。
「て、いたい」
「見せろ」
手のひらには擦れた跡がある。血は多くない。だが、五歳の手には十分すぎる傷だった。
俺は腰の布を裂き、短く巻いた。アインはじっと見ていたが、布が傷に触れた瞬間、肩を縮めた。
「いたい」
「我慢しなくていい」
「……いたい」
「ああ」
「でも、もつ」
布を巻き終えると、アインはまた剣を握った。指が痛みで少し開きかけ、すぐ閉じる。
俺はアストラルフレイムを引き抜いた。
光をさらに落とし、刃を曇らせる。俺の剣がアインの目に怖く映らないように、熱を内側へ沈める。それでも、アインは喉を鳴らした。
「こわいか」
「こわい」
「やめるか」
アインは首を横に振った。
「パパ、いる」
「ああ。ここにいる」
「じゃあ、やる」
短剣が持ち上がる。
俺は真正面に立ち、刃を低く構えた。次は攻めない。受ける。けれど、甘く受ければ、アインは剣の重さを覚えられない。怖さを知らないまま剣を振れば、いつか自分の手を傷つける。
「来い」
アインが走る。
今度は足を見た。船の揺れで体が流れた瞬間、立て直すために片足を強く踏む。剣は遅れる。俺はその遅れを待ち、刃の腹で受けた。
金属が鳴る。
アインの腕が跳ねる。
「んっ!」
「握りすぎるな」
「わかんない!」
「息を吸え」
アインは口を開け、潮風を吸い込み、むせた。
それでも剣を離さなかった。
もう一度来る。今度は横から。小さな体をひねりすぎ、足がついていかない。俺は刃を合わせ、押し返す寸前で力を抜いた。アインは半歩よろめき、膝を曲げて耐える。
「もういっかい!」
何度も刃が触れた。
甲板に細かな傷が増えた。アインの額から汗が落ち、まつ毛に残った涙と混じる。息は荒く、頬は赤く、肩は上がらなくなってきた。剣先が下がり、足も遅くなる。
俺はその全部を見ていた。
この子は魔王の名をまだ本当には知らない。闇が城を呑む音も、血の匂いも、剣を握ったまま戻らなかった者の重さも知らない。知らなくていい。俺が背負うべきものだ。
けれど、何も知らないまま俺を失わせることだけは、もっとしてはいけない。
守るとは、黙って消えることではなかった。
帰ると約束して、その約束のために泥を噛むことだった。
アインの剣が俺の刃にぶつかり、弾かれた。
今度は短剣が手から離れなかった。アインは両手で柄を抱え、足を踏み、俺の刃を押し返そうとした。
「うううっ……!」
小さな喉から声が漏れる。
俺は少しだけ力を乗せた。
アインの膝が折れた。片膝が甲板につき、剣が下がる。それでも顔を上げ、俺の刃を見た。逃げるためではなく、次にどこから来るかを探すように。
胸が熱くなった。
年も、体も、言葉も、何も足りない。
それでも、この小さな背中には、俺が見落としていた灯がある。
「アイン、立て」
「ん……!」
「剣を胸から離せ。前を見る」
「まえ……」
「俺を見る」
アインは顔を上げた。
泣き跡だらけの顔。血の滲んだ布。震える膝。五歳の子どもが背負うには大きすぎる剣。
それでも、俺を見た。
俺は刃を振った。
速くはない。だが、風を切る音は残した。アインの目が大きく開き、足が固まる。
「受けろ!」
「っ!」
短剣が上がる。
刃と刃がぶつかり、火花が一つ散った。衝撃でアインの体が後ろへ飛ぶ。俺は踏み込み、倒れる前に腕を伸ばした。
アインは俺の腕に当たり、そのまま胸へ崩れた。
剣が甲板に落ちる。
小さな体が、呼吸だけで動いていた。
「アイン」
返事はない。
俺は膝をつき、抱き寄せた。背中を支える手に、汗の熱が移る。腕は力を失い、指はまだ何かを握ろうと曲がっている。
「アイン、終わりだ」
「……や」
かすれた声が、胸に触れた。
「もう、むりだ」
「……やる」
「手が限界だ」
「やる……」
アインは目を開けようとした。まぶたが震え、半分も上がらない。口の端に潮の粒がついている。俺は指で拭い、額に張りついた髪をどけた。
「よく立った」
「……たてた?」
「ああ」
「パパ……みてた?」
「ずっと見ていた」
アインの指が、俺の服を探した。届かず、空を掴む。その手を俺が包むと、傷に触れないように小さく握り返してきた。
「パパ」
「ああ」
「しなない?」
「死なない」
「ママも?」
「守る」
「ジュリアも?」
「守る」
アインは息を吸った。うまく入らなかったのか、喉が小さく鳴る。
「おれは……」
俺はその声を逃さないように、額を近づけた。
「おれはだれもしなせない」
胸の奥で、何かが折れた。
折れたのは、俺が一人で背負うと決めていた硬い殻だった。破れた隙間から、潮風とは違う熱が込み上げる。俺はアインを抱く腕に力を込め、顔を見られないように小さな頭を胸へ押し当てた。
「……ああ」
声が掠れた。
「誰も死なせない」
アインの体から力が抜けた。眠ったわけではない。まだ息は荒く、痛みで眉も寄っている。それでも俺の服を握る指だけは離れない。
俺はアストラルフレイムへ手を伸ばした。
甲板に突き立つ剣は、波の光を受けて揺れていた。魔王を斬るための刃。幾度も闇を裂き、俺の命を先へ運んできた剣。
その柄に触れた瞬間、俺は目を閉じた。
俺は死ぬために剣を持つんじゃない。
この腕の中の熱を、ミユウの笑顔を、ジュリアの小さな手を、アインの泣きながら振った剣を、全部抱えて帰るために持つ。
たとえ魔王の闇が喉元まで来ても、膝が砕けても、血が甲板を濡らしても、最後に捨てるのは命じゃない。逃げ道だ。弱音だ。一人で終わらせればいいという、父親の顔をした甘えだ。
俺は帰る。
この子に、帰る背中を見せる。
「パパ……」
アインが胸の中で動いた。
「ここ」
「いる」
「いかないで」
「行く時は、一人で消えない」
アインは返事の代わりに、俺の服を握り直した。
船が大きく揺れ、帆の影が俺たちを覆った。遠い波の向こうで、黒い雲が低く垂れている。魔王のいる方角から吹く風は冷たく、甲板に転がる短剣の刃を細く鳴らした。
俺はアインを片腕で抱き上げ、もう片方の手でアストラルフレイムを抜いた。
小さな体の重さが、腕にずしりとのる。
それは命の重さだった。
俺はその重さを抱いたまま、黒い雲の方へ剣先を向けた。
「見ていろ、アイン」
胸元で、小さな指が布を掴む。
「パパは、帰る」
刃の奥で、抑えていた炎が一度だけ脈を打った。