軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第158話 虚空国(まかい)への航路

船室の梁が、ぎしりと鳴った。

卓の上に置いた七つ目の空いたくぼみだけが、燭台の火を吸って黒く見えた。六つの宝玉は布に包んでなお淡く息づき、俺の指先に残る試練の熱と、潮を含んだ木の匂いと、眠りきれない子どもの寝息が、狭い船室の中で重なっていた。

扉が叩かれた瞬間、ミユウの肩が俺の腕の下でわずかに跳ね、俺は反射でアインとジュリアを背に寄せた。短い間のあと、船乗りが濡れた外套のまま身を滑り込ませ、帽子の縁から落ちた雫が床板に小さな黒い点を作った。

「勇者様」

船乗りの声は、荒れた海を越えてきた綱みたいに擦れていた。

俺は立ち上がろうとして、膝に残っていた試練の重さを踏みしめた。七つの試練を終えたばかりの体は、まだどこかが石に変わったみたいに硬く、剣を握っていない掌にも柄の跡が食い込んでいる。

「何があった」

船乗りは扉を閉める前に廊下を一度見た。火の揺れが頬を削り、濡れた唇が一度だけ開いて、閉じる。

「 虚空国(まかい) の方角で、黒い帆が上がりました。海鳥が戻らず、見張り台の羅針盤も針を狂わせております」

ミユウが俺の袖を掴んだ。

俺は卓の上の布を押さえた。六つの宝玉が、布越しに小さく脈を打つ。まるで、まだ埋まっていない最後の穴から、遠い闇が指を差し入れてくるみたいだった。

「それだけなら、嵐の前触れということもある」

船乗りは首を横に振り、濡れた外套の内側から折り畳まれた羊皮紙を出した。端は海水でふやけ、黒い封蝋だけが歯を剥くように残っている。

「海賊の伝令を拾いました。悪魔族が、最後の宝玉を奪うために動きだした、と」

喉の奥で息が止まった。

卓の端に置いていた木杯が、俺の指に押されて横倒しになった。ぬるい水が床板へ流れ、アインの小さな足の近くで細い筋を作る。俺はそれを見ながら、足を動かせなかった。

悪魔族。

その名が耳の奥へ沈んだ途端、 虚空国(まかい) の空を裂いていた黒い裂け目が、まぶたの裏で開いた。あの国の空気は肺を内側から削り、光さえも灰の粒にして落としてくる。俺はそこからミユウを連れ帰り、アインとジュリアを抱いて、もう二度と同じ闇を家族に近づけないと決めた。

その闇が、最後の宝玉に手を伸ばしている。

俺は倒れた木杯を起こさず、布の上へ掌を置いた。宝玉の温度が皮膚を通って胸の奥へ届く。六つの光は揃っているのに、欠けた一つの分だけ、船室全体が傾いたように感じた。

「いつだ」

「今夜の潮が変われば、奴らの先遣が虚空国の外海へ入ります。こちらが迷えば、先に取られます」

船乗りの言葉が床へ落ちる前に、アインが俺のズボンを掴んだ。

小さな指だった。剣の柄などまだ満足に握れない、眠る前に俺の服の裾を探す指。その指が、今は布をつかむみたいに俺を離さなかった。

「パパ」

アインは俺を見上げた。瞼はまだ赤く、寝起きの髪が額に貼りつき、唇は一度だけ震えた。

「いくの」

俺は膝を折り、アインの目の高さまで下りた。床板の冷たさが膝に食い込み、船が揺れるたびに、倒れた水が俺の靴先へ寄ってくる。

「アインは残る。ミユウとジュリアと一緒に、この船の中で待つんだ」

言い切ったはずの声が、狭い船室の壁に当たって鈍く返った。

アインは俺の袖を両手で握った。力は弱い。けれど、その弱さのまま、指だけが白くなっていく。

「やだ」

「アイン」

「パパと、いく」

短い言葉が、胸の奥に刺さった。

大人の言葉ではない。何を奪われるかも、敵がどれほど深い闇を連れてくるかも、アインには測れない。それでも、俺の手が離れていくことだけはわかっている。だから五歳の足で、揺れる床の上に踏ん張っていた。

ジュリアがミユウの腕の中から身を乗り出した。

「パパ、いかないで」

その声は綿みたいに小さく、最後が袖に吸い込まれた。ジュリアはミユウの胸元を掴んだまま、もう片方の手を俺へ伸ばし、届かない距離を見て唇を噛んだ。

ミユウはジュリアを抱き直し、俺を見る。白い羽が薄い寝衣の背でわずかに震え、燭台の火を受けて縁だけが淡く光った。

「あなた」

その一言で、俺は奥歯を噛んだ。

ミユウは止めない。止められるなら、誰より先に俺の前に立っていたはずだ。けれど、最後の宝玉を悪魔族に渡せば、この船室にある小さな手も、ミユウの羽も、アストリアの空も、まとめて黒い波に呑まれる。

俺はアインの手をほどこうとして、途中で止めた。

指を外せば泣かせる。握らせたままなら、連れていきたいと受け取らせる。そのどちらにも答えがなく、俺の掌はアインの小さな拳の上で動きを失った。

「アイン。戦うっていうのは、パパの後ろを走ることじゃない」

アインの眉が寄った。わからない顔をしている。わからなくていい。わからないまま、今は俺の服を掴んでいていい。

「パパが戻るまで、ジュリアのそばにいる。それも戦うことだ」

アインは首を振った。

「やだ」

「アイン」

「パパ、けが、やだ」

俺の喉が詰まった。

幼い手が、試練の中で傷だらけになった俺の袖を握っている。そこには、剣も、術式も、宝玉の輝きもない。ただ、父親の服が離れていくことを嫌がる子どもの熱だけがあった。

俺はアインの手を両手で包んだ。

「けがをしない約束はできない」

ミユウの息が、すぐ横で細く揺れた。

「でも、戻る。パパは、戻るために行く」

アインは俺の顔を見たまま、涙をこぼさなかった。泣くのをこらえているのではなく、泣き方を忘れたみたいに、瞬きだけが遅くなっていく。やがて、小さな額が俺の胸に当たった。

「まってる」

その一言で、俺の背中に冷たいものが走った。

子どもに待たせる父親になった。戦いを終わらせるために剣を取ったはずなのに、また待たせる。五歳の手に、帰りを数えさせる。

俺はアインを抱き寄せ、背中に回った小さな手の軽さを感じた。鎧を着ていない体に、その軽さだけが刃のように食い込む。

ジュリアがミユウの腕から降りようとして、足を床につけた。船が揺れ、すぐに膝が折れそうになる。ミユウが支える前に、アインが片手を伸ばした。

「ジュリア」

ジュリアはその手を掴み、俺の膝の横まで来ると、アインの袖を握ったまま顔を上げた。

「おにぃちゃん、まつ?」

アインは俺の胸に額をつけたまま、こくりと頷いた。

「まつ」

ジュリアの目に水が浮いた。大きな粒が落ちる前に、俺は二人ごと腕の中へ入れた。ミユウの手が俺の背へ回り、四人の影が卓と床に重なった。

船乗りは扉のそばで帽子を握りしめたまま、目を伏せていた。海の男の硬い指が、封蝋の割れた羊皮紙を持つ手だけは震えている。外では甲板を走る足音が増え、帆綱を引く掛け声が、船室の壁を通して低く響いてきた。

もう潮が変わる。

俺は子どもたちを離し、卓に置いた布を解いた。六つの宝玉が、狭い船室を淡い光で満たす。青、金、翠、白、赤、銀。そのどれもが、試練で削られた命の欠片みたいに、俺の前で揺れた。

最後のくぼみだけが空いている。

俺は腰のアストラルフレイムに手を置いた。鞘の内側で、剣が微かに熱を返す。炎の名前を持ちながら、今は燃え上がらない。ただ、眠る獣の心臓みたいに、俺の脈と重なっていた。

「船乗り」

「はい」

「進路を変えるな。 虚空国(まかい) へ向かう」

船乗りが顔を上げた。燭台の火が、その瞳に一瞬だけ白く走る。

「よろしいのですか。あの海へ入れば、戻る道が閉じることもございます」

「閉じられる前に、こじ開ける」

口にした瞬間、腹の底に重みが沈んだ。

格好をつけた言葉では足りない。 虚空国(まかい) は、意志だけで渡れる場所ではない。闇は人の弱いところを嗅ぎ分け、守りたいものを逆手に取る。俺はそれを知っている。知ったうえで、もう一度あの海へ向かう。

ミユウが卓の反対側から六つの宝玉へ手を伸ばした。触れる直前で指を止め、俺を見る。

「あなた、私は船に残るだけじゃない」

「ミユウ」

「あなたが前を見るなら、私は後ろを見る。アインとジュリアを抱いて、あなたの帰る場所を守る」

その声は震えていた。けれど、言葉の芯は折れていない。

俺はミユウの手に自分の手を重ねた。指先は冷えていた。手のひらだけが熱い。試練の後も、虚空国の名を聞いた後も、ミユウは俺の隣に立つ温度を捨てなかった。

「つらい旅になる」

「知ってる」

「今度は、子どもたちもいる」

「だから離れない」

ミユウはジュリアの頭に手を置いた。ジュリアは涙を頬に残したまま、ミユウの袖をきゅっと握る。アインは俺の膝に体を寄せ、床に置いた小さな木剣へ視線を落とした。

それは、甲板での素振りに使っていた軽い木剣だった。まだ剣と呼ぶには頼りなく、強く振れば掌が赤くなるだけのものだ。

アインはそれを拾おうとして、俺を見た。

「パパ」

「だめだ」

俺の声が先に出た。

アインの肩が小さく跳ねる。木剣へ伸びた手が宙で止まり、そのまま胸の前で握られた。

「戦いには連れていかない」

「……もつだけ」

「だめだ」

アインの唇が尖った。五歳の顔で、悔しさを飲み込むみたいに下を向く。床の水に映った火が、その頬の丸さを揺らした。

俺は木剣を拾い、アインの手に渡さず、膝の上へ置いた。

「今は、パパの言うことを聞く」

アインは黙った。

「泣いてもいい。怒ってもいい。でも、危ない場所に走るのはだめだ」

アインの指が、服の裾をつまんだ。

「……れんしゅう」

俺は息を吐いた。胸の奥に溜まっていた硬いものが、少しだけ動く。

「船が揺れない時だけだ。ミユウがそばにいる時だけ。木剣は振り回さない。持って、立つ。足をそろえる。そこまでだ」

アインが顔を上げた。

「パパ、みる?」

「戻ったら見る」

アインは木剣を見て、俺を見て、また木剣を見た。両手を伸ばしたが、まだ受け取らない。俺の許しを待つその動きが、さっきよりもずっと幼く見えた。

俺は木剣を軽く握らせた。

アインの手は小さく、柄を包みきれない。指が滑り、木剣の先が床にこつんと落ちる。アインは慌てて持ち直し、頬を膨らませた。

「おもい」

「だから、無理はしない」

「うん」

それだけ言って、アインは木剣を胸に抱えた。

戦う決意なんて、大人が飾る言葉はいらなかった。アインにあるのは、俺のそばにいたいという小さな熱と、置いていかれることへの抵抗だけだ。それでも、その熱は俺の膝を床から持ち上げるだけの重さを持っていた。

ジュリアがアインの木剣を指でつついた。

「おにぃちゃん、いたいの、だめ」

「うん」

「パパも、だめ」

ジュリアはそう言って、俺の手を両手で挟んだ。小さな掌は湿っていて、爪の先が少しだけ震えている。

「パパ、て」

俺はその手を握った。

「ここにいる」

「いま」

「今は、ここにいる」

ジュリアはうなずき、俺の手に頬を押しつけた。涙の跡が皮膚に触れ、冷たく、すぐにぬるくなった。

船乗りが一歩下がった。

「甲板へお越しください。虚空国へ向かう海路は、船長が舵を取ります」

新しい名は出さない。俺たちを運ぶ者たちはいる。だが、この船室で背負うものは、俺たち四人の腕の中にしかない。

俺は立ち上がった。膝がきしみ、背中の古傷が熱を帯びる。アストラルフレイムの柄を握ると、掌の跡にぴたりとはまり、体の奥へ一本の線が通った。

ミユウが六つの宝玉を布で包み直し、胸に抱いた。白い羽が、船の揺れに合わせて小さく開く。アインは木剣を抱えたまま、俺の足元へ寄る。ジュリアはミユウの裾を掴み、もう片方の手で俺の指を探した。

四人で扉へ向かった。

船室を出る前に、俺は一度だけ振り返った。倒れた木杯から流れた水が床板の隙間へ消え、空いた卓のくぼみだけが、燭台の火を吸って黒く残っている。

そこへ最後の宝玉を置く。

悪魔族の手に渡すためじゃない。闇の王座を飾るためでもない。ミユウの羽を、アインの小さな手を、ジュリアの頬の涙を、この世界の空の下に残すためだ。

俺は扉を開けた。

廊下の向こうから、潮の匂いが押し寄せた。甲板の板が鳴り、帆が大きく膨らむ音が腹に響く。外へ出ると、夜の海は黒い布を広げたようにうねり、その先に、雲より濃い影が横たわっていた。

虚空国(まかい) の方角だ。

アインが俺の裾を掴む。ジュリアがミユウの腕の中で顔を伏せる。ミユウは宝玉を抱いたまま、俺の隣に並ぶ。

「あなた」

俺は頷いた。

言葉を返す代わりに、アストラルフレイムを鞘ごと腰に押し込む。まだ抜かない。今抜けば、子どもたちの前で余計な火を見せることになる。剣は、必要な時まで眠らせる。

船が大きく傾いた。

アインの足が滑り、俺はすぐに肩を抱いた。木剣が甲板に当たり、軽い音を立てる。アインはそれを拾おうとして、俺の腕の中で止まった。

「パパ」

「大丈夫だ。立てるか」

「うん」

アインは俺の腕につかまりながら、短い足で甲板を踏んだ。揺れに合わせて体がふらつき、すぐにまた俺の服を掴む。それでいい。今はそれでいい。

ジュリアがミユウの腕から顔を出した。

「パパ、こっちみて」

俺は振り向いた。

ジュリアは泣きそうな顔のまま、片手を伸ばした。俺が指を差し出すと、二本の指だけをきゅっと握る。

「て、つなぐ」

「ああ」

俺はその小さな指を握ったまま、前を見た。

海の向こうで、黒い稲妻が雲の内側を裂いた。音は遅れて届き、船腹を低く叩く。ミユウの羽が俺の腕に触れ、アインの木剣の先が甲板をこすり、ジュリアの指が俺の指にしがみつく。

七つの試練は終わった。

だが、空いたくぼみはまだ埋まっていない。

俺は息を吸い、塩を含んだ空気で胸を満たした。虚空国へ戻る道は、家族を遠ざけるための道じゃない。家族をこの腕の届く場所へ残すために、俺がもう一度踏む道だ。

「最後の宝玉は、渡さない」

声は風に削られ、すぐ甲板の向こうへ流れた。それでも、ミユウの指が俺の袖を掴み、アインが木剣を胸に抱き直し、ジュリアが俺の指を離さなかった。

船首が闇の方角へ向いた。

足元から伝わる振動が、骨の奥まで上がってくる。俺は子どもたちを背に置き、ミユウの肩に触れ、まだ抜かない剣の柄へ手を重ねた。虚空国の影が、海の果てで口を開ける。

次の波が、甲板まで跳ね上がった。水しぶきが頬を打ち、塩の粒が唇に残る。アインの小さな手が俺の服を握り、ジュリアの指が俺の指に食い込み、ミユウの羽が濡れた夜風に触れた。