軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第157話 審判の喇叭

灰が、足首を越えた。

白い大理石の地面は、波に削られた骨のようにところどころ砕け、その割れ目から灰色の海が滲み上がっていた。

踏み出すたびに、濡れた砂にも似た冷たい粒が靴底へ絡みつき、膝の奥まで鈍い重さを引きずり込んでくる。

空には雲がなく、けれど青もなく、ただ果てしない白の奥に、巨大な黄金の 喇叭(らっぱ) が一本、世界の終わりを告げるためだけに吊るされていた。

喇叭(らっぱ) の口は俺たちを見下ろしていた。音はまだ鳴っていない。それなのに胸の内側だけが先に震え、肋骨の裏を爪でなぞられるような細い痛みが走る。

ミユウの指が俺の袖を掴み、反対側ではアインが俺の膝にしがみつき、ジュリアはミユウの服の裾を握ったまま顔を半分だけ隠していた。

白い羽が灰を払うたび、細かな粒が舞い上がり、光を受けて雪のように見えて、すぐに汚れた色へ戻った。

ここが、アルカヌム島の最奥。

塔を越え、死神を越え、皇帝を越えた先で、俺の前に残っていたのは敵の姿ではなかった。

剣を抜く相手も、斬り伏せる影も、今はどこにもいない。ただ広すぎる平原と、空に浮かぶ 喇叭(らっぱ) と、灰の海と、俺の足元から離れない小さな手だけがある。

「あなた」

ミユウの声が、灰を踏む音の間に落ちた。

振り返ると、彼女の銀の髪が風に煽られ、頬に貼りついていた。

目元に疲れが残っている。けれど、袖を掴む指だけは離れない。俺の腕を引くでも、止めるでもなく、ただそこにいると伝える力で、布地を強く握っている。

「大丈夫だ」

口に出した途端、 喇叭(らっぱ) の内側に光が走った。

音はしなかった。かわりに、足元の大理石が震え、灰の海が一斉に波打った。

白い地面の上に、ひび割れた塔の影が伸びる。影は灰を吸い上げ、細く高く形を変え、俺の前で崩れかけた水晶の塔になった。

その頂で、かつての俺が立っていた。

剣を構え、目を逸らさず、誰も届かない場所で足を踏ん張っている。あの時の俺は、守るためなら何でも背負えると思っていた。折れても構わない、血を吐いても立てる、俺が倒れなければみんな助かる。そんな顔をしていた。

塔の影が傾く。

足場が崩れ、白い破片が灰の海へ落ちるたび、俺の足首に絡む灰が重くなった。あの時、俺は傲慢を壊したつもりだった。自分一人で支えるのをやめたつもりだった。それでも、今もこうして、真っ先に前へ出て、ミユウと子どもたちを背中へ隠そうとしている。

喇叭(らっぱ) の縁が金色に燃え、音のない問いが胸の奥へ刺さった。

塔で壊した傲慢は、本当に手放せたか。

喉が詰まった。

答えようとした言葉が、歯の裏で砕ける。違う、と言いたかった。あの塔で俺は学んだ。みんなに支えられていいと、手を伸ばしていいと、確かに掴んだはずだった。

けれど、灰に沈む足は動かない。

アインが俺の服を引いた。

「パパ、て」

小さな手が、俺の指を探していた。俺は反射で握り返しそうになり、途中で止まった。握ったら、この子を巻き込む。そう思った瞬間、アインの眉がくしゃりと寄った。

「パパ、て」

もう一度、短く言う。

理屈なんてない。ただ、離れたくない手だった。俺を正す言葉でも、導く言葉でもない。五歳の子どもの、震えた指がそこにあるだけだ。

俺は、その手を握った。

小さい。熱い。灰の冷たさの中で、指の丸さだけが痛いほどはっきりした。

「……まだ、残ってる」

声が掠れた。

塔の上の俺が、こちらを見る。責める顔ではない。

あの時の俺は、本気で守ろうとしていた。本気で、全部を背負えば誰も泣かずに済むと思っていた。その間違いを、ただ叩き壊すだけでは足りなかった。

「俺は、まだ前に出る。怖いからだ。失うのが怖いから、先に一人で抱えようとする」

大理石のひびから光が滲んだ。白く細い光が、灰の上を走り、俺の靴先で止まる。

「でも、それをなかったことにはしない。俺は、誰かを守りたい俺ごと、受け入れる。ひとりで支えようとする癖を抱えたまま、手を離さない方を選ぶ」

塔の影が砕けた。

崩れる音はない。水晶の破片は灰の海に落ちる前に光の粉になり、アインの髪に少しだけ降った。アインは目を瞬かせ、俺の手をぎゅっと握ったまま、破片を追わずに俺の顔だけを見上げていた。

次の波が来た。

灰の海が黒く沈み、白い平原の奥に川が現れた。水は流れていない。細く長い川面に、夕焼けにも朝焼けにも見える赤い光が浮かび、その上に、死神の試練で見た記憶の欠片が散っていた。

ミユウの笑顔。

アインとジュリアの小さな寝息。

神殿の廊下。

戦いの跡。

俺が手放すと決めた、あまりにも温かいものたち。

川の向こう岸に、黒い影が立っていた。鎌を持たない死神のような輪郭。顔は見えない。けれど、その影が俺の中に残した冷たい指先だけは、今も喉元に触れている。

捨てたはずの執着は、本当に死んだか。

胸の奥が軋んだ。

ミユウの指が俺の袖から手首へ移り、脈の上を押さえる。俺の鼓動が彼女の指に伝わったのか、彼女はわずかに息を呑んだ。

「あなた、息をして」

言われて初めて、肺が動いていないことに気づいた。

息を吸う。灰の匂いが入ってくる。乾いているのに湿っていて、燃え残りのようで、古い墓の土のようでもある。

死神の試練で、俺は手放した。過去の記憶に縋り続けることをやめた。失いたくないものを握り潰すような執着を、確かに捨てた。そう思っていた。

けれど今、川面に浮かぶミユウの笑顔を見ただけで、背中の皮膚が引き攣る。

失うかもしれない。

その言葉が形になる前に、俺の指はアストラルフレイムの柄へ伸びていた。剣は腰にある。抜けばいい。斬ればいい。影も、川も、問いも、全部断てば、この痛みから逃げられる。

柄に触れた瞬間、ミユウの手が重なった。

止める力ではなかった。俺の手を包むだけの温度だった。

「あなたは、ここにいる」

彼女の声は短く、灰の風に少し削られていた。

ジュリアがミユウの裾から手を離し、俺の足元まで一歩だけ来た。灰に靴先を取られ、ふらつきながら、両手で俺のコートを掴む。

「パパ、いかないで」

それだけで、川面の赤い光が揺れた。

俺は剣の柄から手を離した。

指先に残った金属の冷たさが、しばらく消えない。斬れないものがある。斬ってはいけないものがある。失う恐怖を斬ったふりをしても、俺の中から消えたりしない。

「死んでない」

黒い影が、川の向こうで揺れた。

「俺の執着は、死んでない。ミユウを失いたくない。アインも、ジュリアも、誰一人として手放したくない。そんなの、綺麗に消せるわけがない」

灰の海が、膝の下まで盛り上がった。重い。足を引けば絡みつく。進めば沈む。喇叭の金が、白い空の中でさらに熱を帯びる。

「でも、握り潰さない。閉じ込めない。俺の怖さで、この人たちの未来を縛らない」

ジュリアの手が、俺のコートを掴む力を強めた。小さな指が布に埋もれ、爪の先だけが震えている。

「パパ、こっちみて」

俺は膝を曲げ、ジュリアと目線を合わせた。

泣きそうな顔だった。けれど、泣くのをこらえているのではない。ただ、目の前の俺を見失いたくなくて、必死に見上げている顔だった。難しい問いも、審判も、運命も、この子には重すぎる。だからこそ、その小さな手の重みから逃げることはできない。

「見てる」

俺は言った。

「ちゃんと、ここにいる」

川の向こうの影が崩れた。黒い輪郭がほどけ、赤い川面へ溶け、浮かんでいた記憶の欠片が一枚ずつ白い羽のように舞い上がる。

ミユウの笑顔も、子どもたちの寝顔も、消えたわけではない。俺の胸の奥へ、熱を残して沈んでいった。

そして、玉座が現れた。

灰の海を割って、黒い大理石の階段がせり上がる。階段の先には、巨大な黒い玉座。背もたれには無数の法の文様が刻まれ、左右には顔のない石像兵が並び、俺の足元から伸びた鎖が、その玉座の脚へ繋がっていた。

皇帝の試練で見たものより、さらに重い。

黒鉄の冠が、いつの間にか俺の頭上に浮かんでいた。落ちてくれば、首が折れる。そう思うほど厚く、冷たく、影をまとっている。右手の中には杖の感触が生まれ、左手には鎖の痛みが走った。

皇帝で築いた秩序は、正しかったか。

石像兵が一斉に剣を立てた。

音が平原に広がる。今度は確かに聞こえた。硬いもの同士がぶつかる乾いた響きが、灰の海を叩き、子どもたちの肩を跳ねさせた。

ミユウが二人を引き寄せる。アインは俺の手を離さなかった。ジュリアはミユウの腕に抱えられ、俺のコートの端だけを掴んでいる。

俺の中で、皇帝の俺が立ち上がる。

守るために決めた規則。傷つかないように敷いた線。間違えないように置いた罰。誰かを救うためだと言いながら、俺が怖くない世界を作ろうとしていた俺。

正しいと思っていた。

誰かが泣く前に止める。誰かが傷つく前に縛る。誰かが迷う前に道を決める。それが守ることだと思っていた。

でも、その道の先にあったのは、玉座だった。

ひとりだけ高い場所に座り、下にいる人たちの足音を聞かず、全部を見下ろして、正しさの形だけを整える場所。

俺は杖を握った。

重い。

手のひらに食い込み、骨を軋ませる。これを手放せば、また誰かが迷うかもしれない。また誰かが傷つくかもしれない。また俺は、間に合わないかもしれない。

喇叭(らっぱ) が鳴った。

空気が裂けた。音は高くも低くもなく、頭蓋の内側に直接叩き込まれる。白い大理石が砕け、灰の海が渦を巻き、黒い玉座の背後に巨大な 天秤(てんびん) が浮かび上がった。片皿にはアストラルフレイムの光。もう片方には、俺の胸から抜き取られたような黒い塊。

天秤(てんびん) は、傾かなかった。

正しさも、間違いも、同じ重さで俺を見ていた。

「あなた」

ミユウが、灰の風の中で俺を呼ぶ。

俺は振り返らなかった。振り返ったら、すがりたくなる。彼女の顔を見て、俺はまた正しさの鎧を着たくなる。守るためなら、嫌われてもいい。縛ってでも助ける。そんな言葉が喉まで上がってくる。

アインの手が、俺の指から滑りかけた。

小さな指が必死に握り直す。

「パパ、いたい?」

俺は、自分の手を見る。

杖を握った右手の皮膚が裂け、黒い血のような光が滲んでいた。痛みはある。けれど、それよりも重いものが胸の中央に落ちている。

俺は玉座へ一歩進んだ。

鎖が鳴る。

もう一歩。

黒鉄の冠がゆっくり下がる。

さらに一歩。

ミユウが息を詰める気配がした。ジュリアの小さな泣き声が、風に混じった。

「パパ、やだ」

足が止まった。

玉座まで、あと三段。

このまま座れば、たぶん審判は終わる。正しさを選んだ王として、誰も迷わない道を作れる。俺が決め、俺が背負い、俺が裁く。間違えた者を罰し、危ないものを遠ざけ、泣く前に口を塞ぐ。

そんな世界で、ジュリアは俺の裾を掴めるのか。

アインは俺の手を探せるのか。

ミユウは、俺を「あなた」と呼べるのか。

俺は杖を持ち上げた。

石像兵たちの剣が、同時に俺へ向く。黒鉄の冠が頭上で止まり、天秤の皿が細かく震えた。

「正しくなかった」

声は、 喇叭(らっぱ) の残響に押し潰されず、灰の平原へ落ちた。

「俺が作った秩序は、守る形をしていただけだ。怖かったんだ。俺が間違えたら、誰かが傷つく。俺が遅れたら、誰かが消える。だから、先に全部を決めようとした」

杖にひびが入る。

「でも、俺は皇帝じゃない」

右手に力を込める。裂けた皮膚が熱を持ち、ひびが杖の先まで走った。

「俺は父親だ。夫だ。勇者だ。全部、未完成のままで抱えてる。間違える。怖がる。手を伸ばすのが遅れる日もある」

杖が砕けた。

黒い破片が灰の上へ落ち、すぐに白い光を帯びて消える。鎖が一本、俺の左手から外れた。玉座の階段に亀裂が走り、石像兵の剣先が揺れる。

「それでも、誰かの足を縛って正しさに座るより、一緒に転ぶ方を選ぶ」

黒鉄の冠が落ちた。

頭上から迫る影に、ミユウが叫ぶ。

「あなた!」

俺はアストラルフレイムを抜いた。

刃は青白く燃え、灰の空に一本の光を引いた。冠を斬るためではない。玉座を斬るためでもない。俺は剣を逆手に握り、切っ先を自分の足元へ突き立てた。

白い大理石が割れる。

俺の影が、地面から剥がれた。

塔で一人で立とうとした俺。

死神の川で失うことに怯えた俺。

皇帝の玉座に座ろうとした俺。

三つの影が灰の中から起き上がり、俺を囲む。どれも敵の顔ではない。どれも、俺が捨てたつもりで、捨てきれなかった俺だった。

剣を握る手が震えた。

斬れば、楽になる。傲慢な俺を、執着する俺を、支配しようとする俺を、全部斬ってしまえば、綺麗な勇者になれる。ミユウが誇れる、子どもたちに胸を張れる、誰にも責められない形になれる。

でも、それは嘘だ。

俺は、綺麗な勇者になりたかったんじゃない。

ミユウを守りたかった。

アインとジュリアの手を、離したくなかった。

何度折れても、灰まみれでも、間違いを抱えたままでも、ここに立っていたかった。

「来い」

俺は剣を下ろした。

三つの影が近づく。

胸が裂けるような圧が来た。塔の高さが背骨を押し、川の冷たさが喉を塞ぎ、冠の重さが頭蓋を割ろうとする。膝が折れそうになる。灰が太腿まで跳ね上がり、足を取る。

ミユウが駆け寄ろうとした気配があった。

「来るな」

言葉が荒く出た。

言ってから、すぐに首を振る。

「違う。そこにいてくれ。見ててくれ」

ミユウの足音が止まった。

影が俺の中へ入る。

痛い。息ができない。視界が白く滲む。喇叭の音がまた鳴り、今度は体の内側から骨を震わせた。俺は歯を食いしばり、剣を支えにしながら膝を落とさないよう踏ん張った。

俺は、傲慢だ。

俺は、執着する。

俺は、支配したくなる。

全部、俺の中にある。

否定して、綺麗な場所へ逃げても、いつか同じ手で誰かを傷つける。だから、ここで見る。逃げずに見る。嫌悪で斬らず、正しさで隠さず、名前をつけて胸の中へ置く。

喇叭(らっぱ) の音が、急に途切れた。

空が割れた。

巨大な黄金の喇叭の内側から、白い光が流れ落ちる。光は柱になり、灰の平原へ降り、俺の体を包んだ。熱はない。冷たくもない。ただ、皮膚の上に載っていた灰を一粒ずつ洗い流し、傷口に残った黒い光を押し出していく。

天秤(てんびん) が揺れた。

アストラルフレイムの光を載せた皿と、黒い塊を載せた皿が、ゆっくり同じ高さへ戻る。どちらかが上でも下でもない。白と黒が、俺の前で釣り合っていた。

玉座が砕けた。

石像兵が砂になり、冠が光の輪に変わり、灰の海へ溶けていく。塔の欠片、川の赤、玉座の黒、そのすべてが白い柱の中で混ざり合い、細い粒になって空へ昇った。

俺の足元に、何かが落ちた。

小さな音だった。

灰の中に、白い宝玉が半分だけ埋まっている。これまでの宝玉よりも、色が深い。白といっても空っぽではない。乳白色の内側に、金と青と赤と黒がごく細く揺れ、覗き込むと、何度も割れては繋がる光の筋が見えた。

俺は膝をつき、灰を払った。

指先が宝玉に触れる。

冷たいはずなのに、奥に熱があった。握ると、掌の傷へ白い光が入り込み、裂けた皮膚を閉じる。痛みは消えきらない。けれど、その痛みが、俺の手の形をはっきりさせた。

「六つ目……」

ミユウの声が震えた。

振り返ると、彼女はアインとジュリアを抱き寄せたまま、目を濡らしていた。アインは俺の宝玉を見て、すぐに俺の顔へ視線を戻す。ジュリアはミユウの腕の中で、小さく鼻をすすった。

「パパ」

アインが呼んだ。

俺は立とうとして、膝が抜けた。灰に片手をつく。掌に白い大理石の欠片が食い込み、鈍い痛みが走る。

ミユウが駆け寄ってきた。

今度は止めなかった。彼女の腕が俺の肩を支え、アインが胸元に飛びつき、ジュリアが少し遅れてミユウの腕から降り、俺の膝にしがみついた。

「パパ、いたい?」

「少しな」

「やだ」

ジュリアが俺の膝に顔を押しつける。言葉はそれだけだった。けれど、濡れた頬の温度が布越しに伝わり、俺は宝玉を握っていない方の手で、その背中を包んだ。

「ごめんな」

謝る相手は、子どもたちだけではなかった。

ミユウが首を振る。

「あなたは、戻ってきた」

その一言で、胸の奥に残っていた灰が崩れた。

俺は宝玉を掲げた。

白い光が、平原の上に広がる。大理石の割れ目が埋まっていく。灰の海は消えない。完全に白へ戻るわけではない。ただ、灰の中に細い水脈のような光が生まれ、踏みしめても沈まない場所が増えていく。

空の 喇叭(らっぱ) は、もう鳴らなかった。

黄金の輪郭が薄れ、白い空の奥へゆっくり溶ける。終わりを告げるために浮かんでいたものが、今はどこか遠い朝の光に似ていた。

俺は宝玉を胸元へ引き寄せる。

六つ目の白い宝玉。

試練を越えた証。

けれど、勝利の重さよりも、アインの腕の力と、ジュリアの頬の湿りと、ミユウの指が肩に食い込む感触の方がずっと強かった。

「俺は、完全じゃない」

言葉にすると、喉が少し焼けた。

「これからも、間違える。怖がる。たぶんまた、一人で背負おうとする」

ミユウは何も言わず、俺の肩を支えたまま、近くで息をしている。

「でも、逃げない。間違えた俺を捨てて、綺麗な俺だけ残そうとはしない。全部持って、ここにいる」

アインが俺の胸を叩いた。

「パパ、ここ?」

「ああ」

俺は、その小さな手の上から自分の手を重ねた。

「ここだ」

ジュリアが顔を上げる。

「パパ、かえる?」

「帰る」

そう答えると、ジュリアの指が俺の服を握り直した。帰るという言葉の意味を、試練の終わりだとか、宝玉の数だとか、そんな形では捉えていない。ただ、ここから離れて、また同じ場所で眠れるのかを確かめる小さな声だった。

俺は宝玉を握りしめ、ミユウの手を取った。

白い光が足元に道を作る。灰の平原の向こうに、島の森へ続く薄い輪郭が浮かび上がった。 喇叭(らっぱ) の消えた空から、細かな光の粒が降ってくる。雪のように見えて、灰ではない。触れる前に消え、頬にほんの少しだけ温度を残す。

歩き出そうとした瞬間、背後で 天秤(てんびん) が最後に一度だけ鳴った。

振り返る。

白い柱の跡に、俺の影が残っていた。三つではない。一つだけ。剣を持ち、少し背を丸め、誰かを庇うように片腕を伸ばした、不完全な俺の影。

その影は、俺と同じ動きでアストラルフレイムを下ろした。

俺は、小さく息を吐く。

もう斬らない。

灰を踏む。足裏に冷たい粒が潰れる。ミユウの手の温度が右にあり、左にはアインの手、膝にはまだジュリアの小さな重みが残っている。白い宝玉は掌の中で脈のように淡く震え、傷の閉じた皮膚の奥を、いつまでも熱く押していた。