軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第126話 母の腕の中で

潮の匂いが、甲板に上がった瞬間、肺のいちばん奥まで入り込んできた。

さっきまで島の森に満ちていた湿った土の気配や、あの洞窟に残っていた冷えた魔力の名残りとは違う、塩と風と木材のきしみが混ざった、船の匂いだ。

やっと戻ってきた、という安堵は喉の奥までせり上がっていたのに、先に出たのは息だけだった。

肩で眠りかけていたジュリアが、その震えを拾ったように俺の首へ細い腕を回し直し、後ろではアインの小さな足音が、濡れた板をひとつずつ確かめるように続いている。

帆柱の陰からミユウが駆けてくるのが見えたとき、胸の内側で張りつめていたものが、ようやく音もなくほどけた。銀髪が海風にさらわれ、薄青の衣が光をはらんで揺れる。

その姿は、港のざわめきにも、甲板を行き交う船員たちの声にも埋もれない。

誰よりも先にこちらを見つけ、誰よりも深く息を呑み、そして次の瞬間には、こちらへ伸ばされた両腕の先に、家そのものみたいな温度があった。

「あなた……っ、ジュリアも、アインも……無事でよかった」

その声に含まれていたものを、うまく名前では掴みたくなかった。

名前をつけた途端に軽くなる気がしたし、軽くしてしまいたくないものが、今日は多すぎた。

俺はジュリアを抱いたままうなずき、近づいてきたミユウにまず娘を渡した。

ジュリアは母親の胸に移った途端、それまで我慢していた眠気を思い出したらしく、小さく鼻を鳴らしてミユウの肩へ頬を預ける。その横で、アインだけが一歩、いや半歩だけ、立ち止まっていた。

さっきまで自分の足で決めて、自分の手で選んで、自分の涙を押し戻していた子どもが、目の前にある当たり前のぬくもりを前にすると、逆にどうしていいかわからなくなることがある。

俺は知っている。自分も、昔、似たようなことがあった。守られたいわけじゃない。けれど、守られていい場所に戻った瞬間、張っていたものは、いちばん簡単に切れる。

ミユウも、それをわかっていたんだろう。ジュリアを片腕で抱いたまま、もう片方の手を、急がせるでもなく、待たせるでもなく、ただそこにあるものとしてアインへ差し出した。

「アイン、こっちへいらっしゃい」

その言い方がやさしすぎなくて、救われた気がした。慰めようとする声は、ときどき傷口に触れすぎる。

けれど今のミユウの声は、扉を開けて、入るかどうかはお前が決めていいと言っているような響きだった。

アインは唇をきゅっと結んだまま、その手を見ていた。島で何を選んだのか、その小さな胸に何が残ったのか、全部を言葉にしなくても、俺にはわかる。

あのキーホルダーを抱えていた手の感触が、まだ残っているんだろう。守れなかったものの形は、消えたあとにこそ、掌のほうへ深く刻まれる。

俺はしゃがみ込み、アインと目線を合わせた。

「よく戻ってきたな」

それだけ言うと、アインの喉がひくりと上下した。けれどまだ泣かない。泣かないまま、俺とミユウのあいだを見て、それからふっと力の抜けた足取りで前へ出た。

ミユウの腕が、その小さな身体を包む。

包まれた瞬間だった。

アインの肩が、びく、とひとつ大きく跳ねた。息を吸う音が短く切れ、そのまま堪えようとして失敗したみたいに、顔がくしゃりと歪む。

次の一拍で、胸の奥に押し込めていたものが一気に崩れた。声にならない最初の嗚咽がミユウの胸元に吸われ、そのあとから、堰を切ったように涙があふれた。

「う、あ……っ、う、ぁ……っ、おかあ、さん……っ」

細い指がミユウの服をつかむ。握るというより、沈みそうな水面に爪を立てるみたいな、必死な指先だった。

顔を埋めたまま、言葉にならない音だけが続く。鼻にかかった呼吸、喉の奥で絡まる声、吸おうとして吸いきれない息。

さっきまで、俺の前ではこぼさなかった涙だ。俺の前では踏みとどまったものが、母親の腕の中で一気にほどけていく。その様子を見ているだけで、俺の胸の奥も鈍く締まった。

ミユウは何も急がなかった。泣きやませようとも、理由を聞き出そうともせず、ただアインの背中を一定の速さで撫でていた。

肩甲骨の間から、震える背に沿って、腰のあたりまで。何度も、何度も。言葉より先に、身体に「ここはもう戦わなくていい場所だ」と教えるように。

「えらかったわね」

小さく落ちたそのひと言に、アインの喉がまた揺れる。

「がんばったのね」

「……っ、ぅ……っ」

「もう、だいじょうぶ。ちゃんと帰ってこられたもの」

アインは首を振った。違う、というより、まだそれだけじゃ足りない、という動きだった。

泣きながら何か言おうとして、でも舌がうまく回らず、こぼれるのは途切れた音ばかりになる。

「……なく、なっ、た……っ」

ミユウが少しだけ身体を離し、アインの濡れた頬をのぞき込む。長い睫毛の先で涙が揺れ、海から返ってくる光がその粒を薄く光らせていた。

「キーホルダーのこと?」

その言い方があまりにも静かだったせいか、アインは何度もしゃくり上げながら、ようやくうなずいた。

「……ぼく、まもれ、なくて……っ」

そこから先はまた嗚咽に崩れた。言葉にした瞬間、選んだことの重さが本当の形で戻ってきたんだろう。

手放したのは、ただの物じゃない。好きだったものだ。大事だったものだ。しかも、自分で決めて置いてきた。正しいかどうかより、その決断を五歳の手で抱えたこと自体が、もう十分すぎるほど重い。

ミユウはアインの額に唇を寄せ、涙で濡れた前髪をそっと指で払った。

「キーホルダーなら、また買ってもらいましょう」

柔らかな声音のまま、そこでちらりと視線が横へ流れる。俺のほうだ。

あまりにも自然な流れで差し込まれたその目線に、思わず肩がひくついた。慰めの途中で、きっちり父親の財布へ話を接続してくるあたり、さすがというかなんというか。

ミユウは片眉をわずかに上げた。責めるでもなく、当然でしょう、という母親の顔だ。子どもの涙を前に、細かいことを言う余地なんて与えない、あの静かな圧。

俺は小さく息をつき、肩をすくめるしかなかった。

「今度は、変な魔力が入ってないやつな」

ミユウの口元がわずかに緩む。泣いている最中のアインも、それを聞いて、鼻をすすりながら少しだけ顔を上げた。

涙でぐしゃぐしゃになったままでも、その目の奥に、さっきまで島で必死に踏ん張っていた火の名残りがまだある。

「へんなまりょく、はいってないやつ……」

「そうだ。普通のやつだ。しゃべらないし、勝手に光ったりもしない」

「それ、ふつうのキーホルダーの条件としてはだいぶ大事ね」

ミユウがそう言うと、ジュリアが母親の肩口で薄く笑ったように息をこぼした。眠たい目のまま、兄のほうへ手を伸ばす。

「おにぃちゃん……よしよし」

その小さな手がアインの腕にちょんと触れただけで、また泣きそうに顔を歪めたから、俺は慌てて視線を逸らした。

こういう場面は、敵と向き合うときよりよほど胸にくる。剣を握るより、子どもの涙を見ているほうが、ずっと無防備にされる。

海風が甲板を吹き抜け、泣き声の熱を少しだけ冷ました。遠くでカモメが鳴く。

船員たちは気を利かせて距離を取ってくれていて、ロープの擦れる音や帆布の鳴る音だけが、家族のまわりを薄く囲んでいた。

さっきまで命の取り合いに近い緊張の中にいたはずなのに、今は、ただひとりの子どもが母親の腕の中で泣く音が、世界の中心みたいに感じられる。

アインがようやく落ち着きはじめたのは、ミユウの胸元を握っていた手の力が少しゆるんだ頃だった。

しゃくり上げの間隔が長くなり、息を吸うたびに震えていた肩も、徐々に上下の幅を小さくしていく。ミユウはその変化を見逃さず、でも急かさず、背を撫でる手を止めない。

「いっぱい泣いていいのよ」

「……でも……」

「でも、じゃないわ。がまんするほうが、あとで苦しくなるもの」

母親の声だった。甘やかすだけではなく、涙の扱い方まで知っている声。泣くことを恥にせず、弱さにもしない。

今は必要だからこぼれているだけだと、身体の外側から静かに教える声だ。

俺はその横顔を見ていた。ミユウが母親になってから、何度この顔に助けられてきただろうと思う。 最高天使(イリゼ) だとか、光を束ねる力だとか、そういう大きなものを抜きにしても、この人は強い。

強いくせに、その強さを押しつけない。細い腕で子どもを抱きながら、相手が自分で立ち上がる余地をちゃんと残している。そのあり方は、ときどき眩しいというより、まっすぐすぎて見ていられなくなる。

アインは何度か鼻をすすり、ようやくミユウの胸から顔を離した。まぶたは赤く腫れ、睫毛は濡れて束になっている。ミユウがハンカチを取り出して頬を拭うと、アインはされるがままになって、それから不意に俺を見た。

責めるでもなく、助けを求めるでもない目だった。ただ、確認している。自分が選んだことを、父親はどう見ているのか。

その視線を受けて、俺は一歩だけ近づいた。頭を撫でようかと思って、でも今は子ども扱いしすぎないほうがいい気がして、代わりに肩へ手を置く。

「お前が決めたんだろ」

アインの喉が小さく動く。

「……うん」

「じゃあ、その重さごと持って帰ればいい。置いてきたものまで消えるわけじゃない」

言いながら、自分の胸にも同じ言葉が返ってくるのを感じた。守れなかったもの、捨てるしかなかったもの、取り戻せないもの。そういうものは、忘れたふりをしても、どこかでずっと重さを持ち続ける。けれど、その重さを持てるようになること自体が、前に進む力になることもある。

アインは俺の言葉をすぐには飲み込めなかったらしく、しばらく黙っていた。けれど最後には、小さくうなずいた。その首の動きはまだ頼りない。だが頼りないままでも、確かに自分で頷いていた。

「えらいわ、アイン」

ミユウがもう一度言う。今度はさっきより、少し笑みの混じった声だった。

「ほんとうに、よくがんばったのね」

アインは唇を噛み、でも今度は泣かずにそれを受け止めた。代わりに、ジュリアのほうへ手を伸ばして、その袖をそっとつまむ。

「ジュリア、こわくなかった?」

「……ちょっとだけ」

「ごめん」

「へいき。パパいたもん」

その答えに、俺は思わず苦笑した。こういうところだ。子どもたちは、ときどき親が思う以上に残酷なくらいまっすぐ信じてくる。だからこそ、折れられない。折れたくなくても、折れるわけにはいかない。

ミユウが視線を上げ、ようやく俺の顔を正面から見た。さっきまでアインに向けていた柔らかさの奥に、別の色が混じる。再会の安堵だけでは終わらない顔だ。何かを抱えているときの、静かな緊張がそこにあった。

「あなたも、少し座ったほうがいいわ」

「俺は平気だ」

「その言い方をするときのあなた、だいたい平気じゃないのよ」

即座に返されて、言葉が詰まる。島から戻ってきてからずっと、胸の奥に鈍い重みが沈んでいるのは自覚していた。

痛みというほど鋭くはない。けれど、安心した拍子に心臓の存在をいやに強く感じる、不快な脈だ。あまり顔に出したつもりはなかったのに、ミユウには隠せていないらしい。

俺たちは甲板の端、積み荷の木箱が並ぶ陰へ移動した。風は通るが、人目は少ない。ミユウがジュリアを膝に乗せ、アインを隣へ座らせる。俺も向かいの箱に腰を下ろした。木の固さが太腿に伝わり、その現実的な感触が、逆に少し頭を冷やしてくれる。

アインは泣き疲れたのか、まだ時折しゃくり上げの名残りを漏らしながらも、ミユウの袖を握って静かになっていた。ジュリアは半分眠りかけている。

潮風が髪を揺らし、遠くで帆が鳴る。空は高く、あの島の陰りだけが別世界だったように見えるのに、身体の奥には、まだそこから持ち帰ったものが残っていた。

ミユウは子どもたちの頭を順に撫で、それから声音を落とした。

「……あなたに話しておきたいことがあるの」

そのひと言で、風の温度が少し変わった気がした。俺は無意識に背筋を伸ばす。ミユウがこういう前置きをするとき、大抵ろくな話ではない。

「何があった」

ミユウはすぐには答えず、いったん海のほうを見た。船腹に砕ける波の白さを見つめる横顔が、ほんのわずかに翳る。

「あなたたちが島へ行っているあいだに、わたし……リリアと会ったの」

その名前が耳に入った瞬間、胸の内側で何かが小さく軋んだ。ミユウの学生時代の後輩。俺も何度か名前だけは聞いている。けれど、思い出の中の人物として出てくるのと、今この場で現実の脅威に触れる形で出てくるのとでは、響きがまるで違う。

「リリア?」

「ええ。向こうから声をかけてきたわ。最初は、偶然だと思ったの。でも……」

ミユウの指先が、ジュリアの肩に置かれたまま少しだけ強ばる。その変化に気づいて、俺は続きを急かさなかった。急かしたところで、言葉が軽くなるだけだとわかっていたからだ。

「様子がおかしかったの」

「どうおかしい」

「昔のリリアは、もっと……人をまっすぐ見る子だったわ。緊張していても、それを隠そうとして余計に顔に出るような子。でも今日のあの子は、笑っているのに目だけが違った。何かを知っていて、それを抱えたまま、わざと普通のふりをしているような……そんな感じ」

ミユウの表現は曖昧に見えて、実際にはかなり具体的だった。人の目を見てきた者の言葉だ。表情より先に、視線の温度や揺れを読む。 最高天使(イリゼ) としてではなく、ひとりの女として、ひとりの友として感じ取った違和感なのだろう。

俺は肘を膝に置き、手を組んだ。心臓の鼓動が、さっきよりわずかに存在を増している。

「それで?」

「人目のないところで話したいって言われて、少しだけ場所を移したの。そうしたら、いきなり……ノクターンリル島の本当の秘密を知りたくないか、って」

海鳴りの向こうで、何か重いものが落ちたような音がした。船員が荷を動かしただけだろう。なのに、その音まで妙に遠く聞こえる。

「本当の秘密、ね」

「ええ。そして、もうひとつ」

ミユウはそこで一度、唇を閉じた。言うのをためらった、というより、口にした瞬間に現実へ形がつくのを嫌がったように見えた。

「あなたの心臓病の原因を知っている、って」

言葉が落ちたあと、数秒、俺の中では何も動かなかった。理解が遅れたんじゃない。ただ、そのひと言が胸の中央へ届くまでに、妙に長い距離があった。

風が吹く。帆が鳴る。子どもの寝息がかすかに混じる。その全部が一度遠のいて、次の瞬間、鼓動だけがやけに近くなる。

俺は無意識に胸元へ視線を落としかけて、やめた。そんな仕草ひとつでも、子どもたちは拾う。

「……原因を、知っているだと」

「そう言っていたわ」

「ただのはったりじゃないのか」

「わたしも最初はそう思った。でも、あの子……病名そのものは口にしなかったのに、発作の前にあなたがどういう息の乱れ方をするのか、顔色がどう変わるのか、知っていた」

背中に薄く汗がにじむ。医者でもない人間が、そこまで具体を知っているのは不自然だ。いや、偶然見たことがある可能性もゼロじゃない。だが偶然で済ませるには、タイミングが悪すぎる。悪いどころか、出来すぎている。

ミユウはさらに声を落とした。

「そして、言ったの。全部教えるから――あなたが、一人で来い、って」

その瞬間、頭の中で何本もの線が一度に結ばれ、同時に全部が嫌な方向へ伸びた。誘い込み。分断。家族から俺だけを切り離す条件。秘密を餌にして、こちらの足を引かせる手口。魔王側のやり方として、あまりにもわかりやすい。わかりやすいからこそ、逆にそれだけでは済まない気もする。

ミユウが俺を見ていた。試すような目ではない。けれど、俺がどう受け取るかを、一歩引いたところで静かに見極めようとしている目だ。

母親の顔でも、妻の顔でもなく、並んで危険と向き合ってきた相棒の顔だった。

アインが袖を握る手に少し力を込める。話の意味まではわからなくても、空気の変化は感じ取っているんだろう。ジュリアも眠たげなまま、ミユウの胸に頬をすり寄せた。

家族のぬくもりが手の届く場所にある。そのすぐ隣で、誰かが俺ひとりを指定してくる。嫌な形だった。あまりにも。

俺はゆっくり息を吐いた。吐いたはずなのに、胸の奥の重みは薄くならない。

リリア。学生時代の後輩。旧知の名を借りて近づき、島の秘密と俺の心臓を秤にかけ、一人で来いと条件を置く。偶然で片づけるには筋が通りすぎているし、善意で片づけるには臭いがきつい。

また、新たな魔王の手先かもしれない。