作品タイトル不明
第127話 堕天使の囁き
喉の奥に、冷えた針を差し込まれたような気配が残っていた。
ノクターンリル島の森は、さっきまで耳にまとわりついていた虫の羽音さえ呑み込み、湿った土の匂いと、古い樹液の甘さだけを濃くしている。
枝と枝が頭上で絡み合い、月の薄い光は地面まで降りてこない。黒々とした幹のあいだで、女の輪郭だけがやけに白く、やけに近く見えた。逃げ場のない夜に、そこだけ異質な花が咲いたみたいに。
リリアは笑っていた。昔、ミユウの隣でノートをのぞき込みながら肩を揺らしていたころの、あの明るい笑い方じゃない。
唇だけが先にひらき、その奥にあるものは光を返さず、目元に浮かぶやわらかさの代わりに、濡れた刃のような艶だけがあった。
白い頬に落ちる髪は夜より黒く、その毛先が風もないのにゆらりと揺れるたび、背中に広がった翼の影が地面を這った。
その翼は、羽根と呼ぶにはあまりに重かった。
天使のそれみたいに空気を撫でて光を散らすんじゃない。煤を含んだ夜をそのまま千切って張り合わせたような、鈍く濁った黒。
ところどころに紫がかった光が脈み、羽軸の根元には、乾いた血のような赤がうっすらにじんでいる。羽ばたきもしないのに、そこからだけ空気が冷え、土の匂いに焦げた鉄の匂いが混ざった。
俺は剣の柄に触れたまま、息を浅く整えた。手のひらに汗が浮いている。
湿り気を帯びた革がぬるりと滑りそうで、握り直した指先に力を入れた瞬間、胸の奥が小さく軋んだ。
来る。
そう身構えた俺の前で、リリアは首をかしげただけだった。
「そんなに構えなくてもいいでしょう、龍夜さん」
声だけ聞けば、夜更けに秘密を打ち明けるみたいなやわらかさだった。けれど、そのやわらかさが森じゅうの闇を自分のものみたいに従えているせいで、余計にたちが悪い。
「わたし、あなたを殺しに来たわけじゃないもの」
そう言って一歩、土を踏む。
落ち葉が鳴るはずなのに、音がほとんどしなかった。足首まで流れる黒い衣は、布というより、夜そのものが彼女の脚に絡みついているようで、その裾のあいだから白い足がちらつくたび、妙に生々しかった。
「……ミユウに近づくな」
声を落としたつもりだったのに、喉の奥でざらついた。
警告としては短すぎる。自分でもそうわかっていたが、それ以上、余計な言葉を足したくなかった。ここで言葉を増やせば、向こうの甘い調子に飲み込まれる。そんな嫌な確信があった。
リリアは細い指を唇に添え、くす、と笑った。
「やっぱり優しいのね。真っ先にミユウのこと」
それから、俺の胸元に視線を落とす。
その視線だけで、服の下に隠していた古傷を撫でられた気がした。反射的に肩へ力が入り、呼吸が一拍ずれる。
「でも、いちばん苦しんでいるのは、そこでしょう?」
胸の奥が、どく、といやな拍動を打つ。
夜気が急に重くなった。肺へ入るはずの空気が、喉の途中で粘りついて落ちていかない。
俺は無意識に半歩、足をずらした。踏みしめた土がじわりと沈み、湿り気が靴底越しに伝わる。
「昔から不思議だったの。どうしてあなただけ、こんなふうに壊れかけた器を抱えたまま、この世界に立っていられるんだろうって」
リリアの瞳が、暗い紫を帯びて細くなる。
「知りたくない? その心臓が、どうしてそんなふうになったのか」
風が吹いたわけでもないのに、森の葉擦れがざわりと一度だけ鳴った。
その一瞬、胸の中央で何かが爪を立てた。
鋭い痛みじゃない。もっと質が悪い。内側から握りつぶされる前触れみたいに、じわじわと狭まり、肋骨の内側に冷たい輪をはめられていく感覚。
息を吸おうとしても、浅いところで止まる。鼓動が乱れ、耳の奥でどく、どく、と濁った音が膨らんだ。
視界の端がわずかに暗く欠ける。
人間界の病院。
白い壁。消毒薬の匂い。規則正しく点滅する機械のランプ。天井のしみを数えながら、起き上がれないまま朝を待った時間。胸に貼られた冷たい電極。母さんの指先のぬくもり。ベッド脇で、何も言わずに握られた手の圧。
戻れば治る。
そんな都合のいい話を、信じるつもりなんてない。
ないはずなのに、苦しくなるたび、白い病室の無機質な清潔さがひどく甘く見える。ここで倒れれば、ミユウも、アインも、ジュリアも守れない。その現実が頭にあるせいで、治るという言葉だけが、夜の中で鈍く光る餌みたいに揺れた。
膝がわずかに折れた。
まずい、と思ったときには遅く、喉の奥から掠れた息が漏れる。
胸を押さえた手の下で、心臓が暴れるというより、痙攣していた。規則をなくした打ち方で、身体の奥から「もうやめろ」と叩いてくる。
リリアの声が、耳元で囁くように近づく。
「人間界の病院に行けば治るわ」
甘い。
あまりに甘くて、虫歯にしみる飴みたいに、むしろ吐き気がした。
「治してあげられるの、龍夜さん。少なくとも、方法は教えられる。あなたがここで無理をして朽ちるより、そのほうがずっと——」
「やめなさい!!」
森を裂いた声は、夜気そのものを震わせた。
銀の閃光が横から走る。
俺が顔を上げたときには、矢はもう放たれていた。光の尾を引き、一直線にリリアの喉元を貫く軌道。
空気を焦がして飛ぶその一矢に、見覚えのある神聖な気配が宿っている。
天柱(てんちゅう) の 矢(アストロ・アロー)
次の瞬間、リリアの指先がひらりと動いた。
黒い火花が散る。
甲高い破裂音が耳を打ち、銀の矢は弾かれ、軌道を変えたまま大木へ突き刺さった。幹が白く裂け、遅れて焼ける匂いが広がる。その反動で、闇の中から飛び込んできた影が大きく体勢を崩した。
「ミユウ!」
白銀の羽が揺れ、細い身体が落ち葉の上に膝をつく。
左腕をかばうように抱え込み、息を詰めたまま肩を震わせていた。
指のあいだから赤が滲み、月の届かない暗がりでも、それだけはいやにはっきり見えた。
俺は胸の痛みを殴り捨てるみたいに地面を蹴った。湿った土を滑りそうになりながら駆け寄り、その肩を抱く。
触れた瞬間、ミユウの身体が小さく揺れた。熱い。腕のあたりだけ、異様に熱を持っている。
「ミユウ、腕を見せろ」
「だいじょうぶ、これくらい……っ」
言い切る前に、唇の端がきつく結ばれた。整った顔が歪み、こめかみに細い汗が浮く。
抱えた腕を少しでも動かすと、傷口のあたりから青白い光と黒い煤が混ざるように立ちのぼり、皮膚の上を這った。単なる切り傷じゃない。弾かれた衝撃に、あいつの力が乗っている。
ミユウは右手で左腕を押さえながら、それでもまっすぐリリアを睨み返した。
その横顔を見た瞬間、俺の胸の奥でさっきまで暴れていた濁った拍動が、一気に冷めた。
甘言に引っ張られていた意識の糸が、そこで断ち切れた。
何を揺らいでいた。
何を聞きかけていた。
こいつの言葉に耳を貸した先にあるのは、救いじゃない。人のいちばん弱ったところへ指を差し込み、そこから腐らせるための入口だ。
リリアは少し驚いたように目を見開き、それから残念そうに笑った。
「邪魔しないで、ミユウ。せっかく、あと少しだったのに」
「あなたの言葉を……っ、龍夜に、触れさせるものですか」
かすれた声なのに、芯が折れていない。ミユウらしい。学生のころからそうだった。ふだんはやわらかく笑うくせに、自分が守ると決めたものの前では、声の温度だけがすっと下がる。
リリアはその言葉に、懐かしむように目を細めた。
「ほんとうに変わらないのね。そういうところ」
「変わったのは、あなたよ」
ミユウが立ち上がる。俺が支えようとした肩を、右手でそっと押し返した。
左腕はまだ抱えたままだ。白い袖の一部が裂け、そこに滲んだ血が布へ吸われて色を濃くしている。それでも彼女は前へ出た。
「学院の裏庭で、講義が終わるたびに二人で座ったこと、忘れたの? 風が吹くたびに、あなた、ノートを押さえながら怒ってたでしょう。『またミユウの紙だけきれいにまとまってる』って」
リリアの笑みが、ほんのわずかに止まる。
ミユウは続けた。息のあいだに痛みが挟まっているのが、背中越しにもわかる。それでも言葉を切らない。
「雨の日、寮へ帰れなくなって、資料室に二人で閉じこもった夜もあった。あのときあなた、寒いのが苦手なくせに、わたしの制服の肩に自分の上着をかけてくれた。試験の前は、夜中まで問題を出し合って、眠くなったら甘すぎる紅茶を飲んで……あなた、砂糖を四つも入れるから、毎回わたしが呆れて」
そこで、ミユウの喉がかすかに震えた。
「……卒業したら、いっしょに人を助ける側に立とうって、笑ってたじゃない」
森の匂いのなかに、一瞬だけ、遠い記憶のぬくさが混じった気がした。
古い木の机。夕焼けを受けた窓ガラス。積み上げた教本。紙をめくる乾いた音。
若いころのミユウとリリアが、肩を寄せて何かをのぞき込む姿が、見たこともないのに見えるようだった。
だが、そのぬくさは長く続かない。
リリアの足元から、黒い炎が音もなく立ちのぼった。
焚き火のような明るさはない。暗さを濃くするための炎だった。闇が闇を燃やしているみたいに、周囲の色だけが奪われていく。
「やめて」
ミユウの声に、今度ははっきりと震えが混じる。
「お願い、リリア。もう戻れないところまで行く前に、目を覚まして」
「目を覚ます?」
リリアの唇が、ゆっくり吊り上がった。
「目を閉じていたのは、あなたたちでしょう」
黒翼が大きくひらく。羽ばたきと同時に、焦げた風が吹き抜け、木々の葉が一斉に裏返った。
枝先から滴っていた露が霧みたいに散り、俺の頬を打つ。
「わたしがどれだけ必死だったか、あなたは知らない。いえ、知ろうともしなかった。頭が良くて、愛されて、まっすぐ歩けるあなたの隣で、同じ顔して笑っていれば平気だと思ってた?」
その声は怒鳴り声じゃなかった。むしろ静かだった。静かなぶん、奥に沈んだ澱がよく見える。
「あなたの隣にいると、自分の輪郭が削れていくの。褒められるのはいつもあなた。期待されるのも、信じられるのも。わたしが先に見つけた答えですら、あなたが口にした瞬間、そっちが正解みたいな顔をされる。……そんな目を、どれだけ浴びたと思う?」
ミユウが息を呑む。
俺は割って入ろうとして、一歩を止めた。ここで俺が挟めば、たぶんこじれる。これは戦いの最中であって、同時に、二人のあいだで長く腐り続けていたものが、ようやく裂けている場でもあった。
リリアの瞳が、昏い光を深める。
「魔王様は見つけてくださったわ。わたしの濁りも、飢えも、醜さも、きれいに見抜いて、それでも捨てなかった。だからわたしは、あの方のために在る」
「そんなもの——救いじゃない!」
ミユウが叫び、右手を振り上げる。
空気が張った。
彼女の指先に銀光が収束し、一本、二本、三本と、光の矢が夜の中へ生まれる。
怪我した左腕をかばうせいで姿勢は万全じゃない。それでも矢の密度は鋭かった。息を吸う間もなく放たれた連射が、森の闇を裂いてリリアへ殺到する。
リリアは黒炎を扇のようにひるがえした。
光と闇がぶつかるたび、破裂音と白煙が弾け、周囲の木肌を削っていく。一本目を炎で食い、二本目を翼で逸らし、三本目が頬を掠める。白い肌に細い赤が走った瞬間、リリアの笑みが深くなった。
「いいわ、ミユウ。そうこなくちゃ」
地を蹴る音が、ようやく響いた。
リリアが消える。
いや、速すぎて見失っただけだ。俺は反射で剣を抜き、横へ振る。
金属が何か硬いものを叩く感触が腕を痺れさせた。火花が散り、その向こうでリリアの爪じみた黒刃が、俺の剣に噛みついている。
近い。
甘ったるい花の香りと、焦げた匂いが同時に鼻を刺した。
「邪魔よ、龍夜さん」
「お前に渡す気はない」
押し返した瞬間、胸がまた軋む。だが、さっきみたいに意識は揺れなかった。痛みは痛みだ。なら、噛み殺すしかない。
俺は剣を返して距離を取り、その隙にミユウが横手から矢を滑り込ませる。
リリアが宙へ跳んだ。黒翼が夜を打ち、落ち葉が渦を巻く。頭上から降ってきた黒炎の塊を、俺は前へ出て斬り割った。熱ではなく、氷に似た冷たさが刃を這う。割れた炎は地面へ落ち、土を焼かずに、そこだけ色を奪って小さな穴を作った。
厄介だ。
まともに受けるな。
直感がそう告げる。
「あなた! 下がって!」
ミユウの声に身体が先に動いた。次の瞬間、俺のいた場所を銀の光柱が貫く。地面から逆巻くように生えたそれは、ただの矢じゃない。天へ届く柱を縮めたみたいな濃い一撃で、避けきれなかったリリアの衣の端を焼いた。
黒布が灰になる。
だが、その灰の中から、さらに濃い闇が蛇みたいに伸び、ミユウの足元へ絡みついた。
「っ、あ……!」
ミユウの身体が引かれる。
俺は駆け、剣でその闇を断った。切った感触はあるのに、肉を裂いた手応えはない。粘つく霧を斬ったみたいな嫌さだけが刃に残る。
リリアは後方の枝へ軽やかに着地し、そこから俺たちを見下ろした。黒翼を半ば畳み、血の滲んだ頬を指先でなぞる。その仕草に、嫌に女っぽい艶があった。
「二人で並ぶと、ほんとうに絵になるわね」
「黙って」
ミユウの声が低い。
「あなたの口から、そういう言葉を聞きたくない」
右手が震えている。痛みだけじゃない。怒りと、哀しみと、諦めたくない気持ちと、その全部が細い身体のなかでぶつかっているのが見える。
それでも彼女は矢を生み続ける。左腕を庇って崩れた体勢を、足運びで無理やり補正している。昔から器用だったが、こんな無茶の仕方は褒められない。
けれど、その無茶を止められるほど、今のリリアは甘くない。
リリアが両手を広げる。
黒炎が輪になって彼女の周囲を回り、そのなかへ無数の羽根が溶ける。次の瞬間、それらが刃の雨になって降り注いだ。
俺はミユウの前へ出て剣を振るう。叩き落とした数だけ、腕へ衝撃が返る。一本、二本、三本。四本目が肩を掠め、熱と冷たさが同時に走った。
ミユウの矢が、その隙を縫う。
銀光がリリアの脇腹を掠め、黒衣に穴を開けた。今度は浅くない。リリアが小さく息を漏らし、枝から跳び退く。着地と同時に黒炎を放ってくる。俺は横へ転がり、それを避けた。湿った土が頬に貼りつく。
立ち上がるより先に、ミユウが前へ踏み込んでいた。
「戻って、リリア!!」
涙が、ようやく頬を伝っていた。
それでも声は折れない。
「あなたはこんなことをする人じゃない! だれかを傷つけて、笑う人じゃなかった! わたし、忘れてない……講義が終わったあと、治療院の裏で泣いてた子を、あなたが一番先に見つけたこと。自分の昼食を半分渡して、一緒に座ってたこと。夜の見回りが怖いって後輩に言われて、笑いながら付き添ってたこと……そんなあなたが、どうして……!」
リリアの顔から笑みが消える。
その一瞬だけ、ほんの少しだけ、昔の面影が差した気がした。
だが、それは次の瞬間、黒炎に焼き潰された。
「うるさいッ!!」
森が揺れた。
今まででいちばん濃い闇が噴き上がり、地面を走る。
俺はミユウの腰を抱えて飛び退いた。さっきまで立っていた場所の草が一斉に枯れ、土がひび割れる。遅れて来た熱風に、ミユウの髪が大きく乱れた。
腕の中の身体が軽い。
軽いのに、左腕だけが妙に重そうに垂れている。
「あなた、下ろして……まだ、撃てる……」
「撃ててねえ顔して言うな」
吐き捨てるみたいに返した。自分でも少し驚くほど強い声になったが、ミユウは言い返さない。
代わりに、苦く息を吐いて、俺の胸元へ額を寄せるみたいに一瞬だけ身体を預けた。その微かな重みで、どこまで無理をしていたのか、いやでもわかった。
それでも、彼女はすぐ前を向く。
「……止めたいの」
かすれた囁き。
「ここで、止めたい。あの子を、このまま行かせたくない」
俺は舌打ちを飲み込んだ。わかる。わかるから困る。俺だって、斬って終わりでいい相手なら、とっくにそうしている。だが目の前にいるのは、ミユウの記憶のなかで笑っていた女の成れの果てだ。彼女の手を完全に離させるには、理屈より先に、心のどこかを引き裂く必要がある。
リリアがゆっくり地へ降り立つ。
さっき受けた傷から黒い靄が立ち、血の代わりに闇を流しているみたいだった。痛みがないはずはない。なのに、その口元にはまた艶めいた笑みが戻っている。
「感動的ね。でも無駄よ」
瞳の奥で、紫の火が揺れた。
「わたしがいる限り、魔王様の復活は止められない」
その言葉と同時に、森の奥から、低い鼓動みたいな音が響いた。
どくん。
島そのものの心臓が脈打ったような、いやな響き。地面がかすかに震え、木々の根元から黒い光が線になって走る。
祭壇か。どこか別の場所で、あいつの復活に必要な何かが進んでいる。
リリアはそれを背に、俺たちを見た。
「あなたたちがここでわたしを倒したところで、もう遅いかもしれない。けれど、わたしがいるかぎり、魔王様へ至る道は閉じない。わたしは鍵。わたしは器。わたしは、あの方に捧げた最後の灯」
狂気じみた言葉なのに、囁きはやわらかい。そのやわらかさが腹立たしいほど不気味だった。
「だから——」
言い終わる前に、ミユウが俺の腕の中から身を起こした。
右手を前へ突き出す。
限界を超えた動きだった。わかった。止めるより先に、彼女の掌から光が噴いた。一本ではない。数え切れないほど細い矢が扇状に拡がり、流星群みたいにリリアへ降る。
連続射。
無茶だ。
腕を痛めた状態で使う技じゃない。
けれど、その無茶が、たしかにリリアを押した。黒炎の防壁が二枚、三枚と裂かれ、頬、肩、太腿へ光が食い込む。リリアの身体がよろめく。追撃のため、ミユウがさらに一歩踏み出そうとした、そのとき。
膝が崩れた。
「ミユウ!」
俺が支える。彼女の身体が今度こそ完全に力を失い、俺の腕へ落ちてきた。
熱い呼気が胸元にかかり、それが急に浅くなる。抱きとめた左腕のあたりから、血と神聖力と呪いの焦げた匂いが混ざって上がった。
ミユウは何か言おうとしたらしい。唇がわずかに動く。
「……あなた……」
そこまでで途切れ、睫毛が震え、視線の焦点が合わなくなる。
「おい、ミユウ。目を開けろ」
頬に手を添える。冷たくはない。だが、さっきまで張っていた気丈な光が、急に遠のいていくのがわかった。
「ミユウ!」
呼んでも返事はない。
細い身体が、俺の腕の中でぐったり重みを預ける。信じたくない静けさが、彼女の肩から先に落ちてくる。
俺は歯を食いしばった。胸の痛みなんて、もうどこかへ消えていた。代わりに、肋骨の内側へ煮えた鉄を流し込まれたみたいな熱が満ちる。
リリアは数歩、後ろへ下がっていた。
傷だらけのくせに、その口元にはまだ笑みの名残がある。けれど、余裕一色ではなかった。ミユウの最後の連射は、たしかに効いている。黒翼の一部は焼け落ち、呼吸もわずかに乱れていた。
「……そこまでして、まだわたしを止めたいのね」
自分へ向けられた言葉じゃないみたいに、リリアが呟く。
その声音の底に、ほんの一滴だけ、ひびが入っていた。
俺はミユウを抱きかかえたまま、ゆっくり立ち上がった。
剣を拾う。
柄を握る手が、驚くほど静かだった。
怒鳴りたい衝動はある。胸ぐらを掴んで叫びたい。ミユウをこんなふうにした相手へ、言葉なんかいらないとも思う。
けれど、いま必要なのは、怒鳴り声じゃない。
倒れた妻の重みを、この腕に刻んだまま、俺はリリアを見た。
「次は、外さない」
自分の声とは思えないほど低かった。
湿った森の空気が、その一言だけを抱えて広がる。
リリアの睫毛が、わずかに揺れる。
どこかでまた、島の鼓動が鳴った。
どくん、と。
夜はまだ深い。土の匂いも、血の匂いも、黒い炎の焦げた匂いも、何ひとつ薄れていない。腕の中のぬくもりだけが、この暗さのなかで、ぎりぎり俺を人間に繋ぎ止めていた。
落ちれば終わる。
折れれば、もっと終わる。
だから俺は、ミユウを抱く腕に力を込め、剣先をわずかに上げた。
次に来る一撃で、この夜の形は変わる。そう知りながら、森は息を潜めたまま、俺たち三人を見ていた。