作品タイトル不明
第125話 小さな勇者の決断
耳の奥で、何かがひび割れるような音がした。
それが洞窟の天井から落ちる小石の音なのか、青い宝玉の光に照らされて限界まで張りつめた空気の裂け目なのか、あるいは目の前に立つ小さな背中の奥で、まだ幼いものが無理やり大人へ踏み出そうとしている気配なのか、すぐには判別がつかなかった。
ただ、足元を這う冷えた湿気が足首にまとわりつき、血の気を奪うようにまともな呼吸を拒み、そのくせ喉だけは焼けつくほど熱かった。
アインの右手には、まだ短剣がある。小さな指で握りしめられた柄は場違いなほど粗く、子どもの手には重すぎるはずなのに、あいつは落とさない。
落とせない、という方が近いのかもしれなかった。少しでも力を緩めれば、目の前の現実ごと崩れてしまうと知ってしまった者の握り方だった。
洞窟の中央で、あのクマが笑っていた。
最初に出会った頃の、どこかとぼけた愛嬌なんて、もう影もない。
丸い目の奥にぬめった光を宿し、縫い目のある口元だけをゆっくり持ち上げるその動きが、玩具じみた見た目をかえって不気味にしていた。
ふわふわしていたはずの毛並きは宝玉の青を吸って濡れた藻みたいに鈍く光り、ちいさな体のまわりだけ、空気が粘ついて見える。
「どうした、アイン」
甘やかすような声だった。だが、そのやわらかさの下で牙が擦れている。
「きれないのか。まあ、むりもない。わたしは、おまえのねがいをきいてやった。さみしいときはそばにいて、ほしいものをみせてやって、つよくなりたいとおもえば、そのきもちにこたえてやった。おまえは、わたしがすきだったろう?」
アインの肩が、ぴく、と揺れた。
俺の胸の内側で、嫌なものがゆっくり沈んだ。否定できないのだ。
あいつにとってこのクマは、ただの敵じゃない。旅の途中で拾った、少し変わった、けれど確かに一緒にいた時間のある存在だ。
ジュリアが眠そうな目をこすりながら抱きしめていた夜もあった。
アインが得意げに「こいつ、しゃべるんだぞ」と見せびらかしてきた昼もあった。くだらないことで兄妹げんかをして、最後は二人でそのクマを真ん中に置いて笑っていたこともある。
俺も見てきた。
だからこそ、今のこれは残酷だった。
「わたしとずっといればいい」
クマの声が、洞窟の壁をなぞるように低く伸びる。
「おまえのねがいは、なんでもかなう。もっとつよくなりたいならしてやる。ほしいものも、まもりたいものも、ぜんぶてにいれさせてやる。パパみたいに、おおきなけんだって、そのうちふれるようになるかもしれないな。だが――」
そこで、口元だけが深く裂けた。
「そのかわり、そこのふたりのいのちはない」
ジュリアが息を呑む気配がした。俺は反射で娘をかばうように腕を広げたが、全身を走る重圧に膝がわずかに沈む。
さっきから身体が言うことをきかない。こいつが宝玉の力を通して洞窟そのものを掌握しているせいか、空気が重く、肺に流れ込むはずの息まで奪われる。
その位置に、あいつはいる。
父親である俺が手を出せば済むはずの場に、息子が立たされている。
「やめろ……」
喉の奥から出た声は掠れていて、自分でも驚くほど弱かった。
アインが振り返る。だが、振り返っただけだ。その顔は見せない。見せまいとしているのが背中の固さでわかった。
「アイン、無理するな」
言いながら、奥歯が軋んだ。無理をするな、と言う一方で、ここを越えなければ守れないものがこの先いくつもあるのだと、俺は知っている。知っているからこそ、喉の奥に血の味が広がる。
俺は父親だ。守りたい。だが、守るだけでは届かない場所がある。
アインは黙ったまま、クマを見ている。
その沈黙に、別の音が混じった。鼻をすする音でも、泣き声でもない。幼い歯が、ぎり、と噛みしめられる音だった。
「ほら、耳てみろ」
クマが片手を振る。
次の瞬間、青い光が水面みたいに揺れて、アインの前にいくつもの景色を浮かび上がらせた。洞窟の冷たい岩肌の上に、本来あるはずのない色がにじむ。
小さな焚き火のそばで、アインがクマを膝にのせていた夜。
ジュリアが眠くてとろんとした顔のまま、「くまさん、いっしょ」と抱きついていた夕暮れ。
アインが俺に向かって、「こいつ、おもしろいんだぞ」と得意そうに笑った朝。
光景はどれも短く、どれもぬくもりを帯びていた。
それが余計にたちが悪い。
「おまえは、わたしをすてられない」
クマが一歩、アインへ近づく。
「だって、おもいでがある。いっしょにわらった。いっしょにいた。おまえがほしかったものを、わたしはわかってやれる。パパもジュリアも、いずれおまえからはなれる。だが、わたしはちがう。ずっとそばにいてやる。ずっと、おまえだけをみてやる」
ねっとりとまとわりつく言葉だった。
子どもの孤独につけ込む声だ。強くなりたい、認められたい、守りたい、その全部に甘い蜜を塗って差し出しながら、最後には家族の命を秤にかける。吐き気がした。こんなものに、あいつは今まで笑いかけていたのかと思うと、腹の底で何かが煮えた。
だが、怒っている暇はなかった。
アインの短剣の先が、ぶれたのだ。
ほんの少し。けれど、見逃せる揺れじゃない。切っ先が下がり、呼吸の間が伸びる。迷っている。脳裏に蘇ったものが、腕を止めている。
当然だ。
五歳だぞ、と胸の中で叫ぶ。まだ五歳だ。選ばされていい年じゃない。斬るか、守るか、捨てるか。そんなものを背負わせていいはずがない。いいはずがないのに、現実はいつだって、子どもにだって容赦なく牙を向ける。
ジュリアが俺の服を掴んだ。
「パパ……」
震えた小さな声が、布越しに胸に刺さる。俺はその手に自分の指を重ねた。冷たかった。冷たいのに、汗で湿っている。
アインはまだ動かない。
代わりに、肩が小さく上下する。吸って、吐いて、それでも足りずにもう一度息を呑む。そのたび、短い髪の先がわずかに揺れた。
見ているだけの俺の手のひらにも汗がにじむ。
俺はこれまで何度も剣を取ってきた。敵を斬る覚悟も、守るために血を浴びる覚悟も、そのたびに身体に刻んできた。だが今、俺の目の前で行われているのは、それとは違う。これは戦いじゃない。選別だ。大事にしてきたものの中から、何を守り、何を終わらせるかを選ばされる、もっと静かで、もっと深い種類の刃だ。
クマが、さらに囁く。
「きれないなら、わたしのところへこい。パパもジュリアも、すぐにらくになる。くるしまないようにしてやる。おまえはなにもみなくていい。わたしといっしょに、もっとすてきなものだけみていればいい」
その瞬間だった。
アインの背中が、かすかに強ばった。
見なくていい――その一言が、どこかを逆撫でしたのだとわかった。
あいつは、見てきた。泣いているジュリアも、傷ついた俺も、自分より大きなものに押し潰されそうになりながら、それでも前へ出る背中も。見なくていいと差し出された甘さを、どこかで拒む強さが、もう芽を出していた。
アインが、ゆっくり口を開いた。
「……ちがう」
かすれた声だった。けれど、洞窟の奥まで届いた。
「おまえ、ちがう」
短剣を握る手に、もう一度力が戻る。白くなるほど柄を握り込みながら、あいつは一歩、前へ出た。
「おれ、ねがいをかなえてほしかったんじゃない」
言葉の合間に、浅い息が混じる。
「おれが、やるんだ」
クマの目が細くなった。
「ほう?」
「パパと、ジュリアを、まもるのは……おれだ」
最後の一言で、声が裂けた。
幼い喉には強すぎる言葉だったはずだ。それでも逃げない。言い切ったあと、アインは一度だけ唇を噛み、それから短剣を胸の前へ引き寄せた。震えていた刃先が止まる。
その沈黙の中で、俺の脳裏にもいくつもの場面が蘇る。
初めて木剣を握った日、重さに振り回されながら、それでも悔しさを隠して「もういっかい」と言った顔。
ジュリアが転びそうになったとき、先に飛び出して小さな体で支えようとした背中。
自分も怖いくせに、泣きそうな妹の前では絶対に泣かなかった夜。
ああ、と胸の奥で何かが沈み、同時に熱を持った。
こいつはもう、ただ守られるだけの子じゃない。
まだ小さい。未熟だ。抱き上げれば軽い。眠れば頬はやわらかく、指先は丸い。けれど今、目の前にいるのは確かに、守るために自分で刃を選ぼうとしている、俺の息子だった。
クマが最後の嘲りを浮かべる。
「だったら、やってみろ。おまえにできるものか。わたしをきれば、おもいではきえる。おまえのてで、じぶんのたいせつだったものをこわすんだ。できるものか、アイン」
アインは答えない。
代わりに、左手で一度、目元をぐいと拭った。鼻にかかった息が短く鳴る。その仕草があまりにも幼くて、胸が裂けそうになる。
それでも、足は止まらなかった。
一歩。
もう一歩。
洞窟の湿った地面を踏むたび、しゃり、と細かな砂が鳴る。その音だけがやけに鮮明だった。ジュリアも俺も声を出せない。出せば、この張りつめた何かが途切れてしまいそうで、誰も息の使い方を思い出せない。
アインが、短剣を振りかぶる。
小さな腕が、限界まで引かれる。肩が震える。迷いが消えたわけじゃない。消えていないまま、なお進んだのだと、その震えが語っていた。
「うああああああっ!!」
裂けるような叫びが洞窟に走った。
次の瞬間、アインの体が前へ跳ねる。短剣が青い光を切り裂き、クマの胸元へ深く沈んだ。やわらかいぬいぐるみの感触ではなかった。金属でも肉でもない、何か凝った魔力の芯を突き破る嫌な抵抗が一度だけ手応えになり、それが砕ける。
クマの目が、見開かれた。
「な……」
声はそこまでだった。
胸の中心から青白いひびが走り、綿のような身体が内側から光に焼かれる。
張りついていた魔力が、煙みたいに噴き出した。アインが短剣を引き抜くと同時に、クマの体がふっと軽くなる。邪悪な圧も、洞窟を押さえつけていた重みも、一気にほどけた。
音もなく、クマは床へ落ちた。
そこに転がっていたのは、ただの小さなキーホルダーだった。
色あせた布地。鈍い金具。片耳の縫い目が少しほつれている、見慣れた、あの形。
さっきまで洞窟の中央で人を見下ろしていたものとは思えないほど、拍子抜けするくらい小さく、無力で、安っぽい。
だが、だからこそ胸にくる。
アインは動かなかった。
短剣を持ったまま、その場に立ち尽くしている。荒い呼吸が肩を揺らし、視線だけが足元のキーホルダーに縫いつけられていた。小さな背中が、さっきとは別の意味で細く見えた。
俺はすぐには近づけなかった。
今ここで飛び込めば、あいつが自分で立った意味を奪ってしまう気がした。だから歯を食いしばって待つ。父親の本能と、見守るしかない理性が、胸の中で殴り合う。
アインが、しゃがみ込んだ。
震える手でキーホルダーを拾い上げる。軽すぎて、逆に指先がぎこちない。さっきまで命を奪う覚悟で握っていた短剣より、その小さな布の塊の方が、重そうに見えた。
「こいつが……」
声がうまく出ず、一度切れる。
肩が上下する。息を呑み、もう一度絞り出す。
「こいつがいるせいで……パパとジュリアが……」
最後まで言い切る前に、喉が詰まった。
手の中のキーホルダーを睨みつけるその目に、涙が盛り上がる。けれど落とさない。落としたら何かが崩れそうで、必死に堪えているのがわかる。唇の端が引きつり、鼻先が赤くなり、肩だけが細かく震える。
あいつはしばらく、そのまま動けなかった。
捨てるだけなのに。
ただ放り投げれば済むはずなのに。
それが、ひどく遠い。
俺にはわかった。これは憎しみだけじゃない。そこにあった時間まで、まとめて終わらせる動作だからだ。
アインが立ち上がる。
ぎこちない足取りで洞窟の出口へ向かう。俺とジュリアも、その背中を追った。外からは湖の匂いが流れ込んでくる。
岩の湿った冷たさに、水の澄んだ気配が混じる。出口を抜けると、昼とも夕ともつかない青白い光が湖面いっぱいに広がっていた。風が吹き、アインの前髪を揺らす。
湖は静かだった。
鏡みたいに、とは思わなかった。そこに映るものをそのまま返すほど素直な水面じゃない。薄い波が寄っては離れ、飲み込んでは隠し、何も言わずに底へ沈めていく。そういう顔をしていた。
アインが湖の縁で足を止める。
右手の中のキーホルダーを見つめる。濡れた睫毛の隙間から落ちそうで落ちない雫が、光を受けて震えていた。
「……ばいばい」
かすかな声だった。
怒鳴るように罵るでもなく、泣きじゃくるでもなく、ただそれだけが落ちた。
それからアインは、腕を振った。
勢いよく、というより、振り切らなければ置いていけないものを無理やり手放すような動きだった。肩から先をまるごと使って、迷いごと投げ捨てるみたいに。小さなキーホルダーは弧を描き、空を横切り、湖へ落ちる。
ぽちゃん、と音がした。
あまりにも小さな水音で、だからこそ胸に響いた。
輪が広がる。
ひとつ。
ふたつ。
すぐに消える。
それを見届けた瞬間、アインの肩から力が抜けた。
短剣が指の間から滑り落ち、草の上に鈍く転がる。次いで、あいつの膝も沈んだ。座り込んだわけじゃない。崩れたのだ。限界まで張っていた糸が切れたみたいに、体が前へ折れる。
俺はもう待てなかった。
駆け寄って、その小さな体を抱き上げる。汗と土と湖風の匂いが混じる。軽い。軽いのに、腕の中で震えるその重みが胸を直撃した。
アインは最初、抵抗するみたいに身じろぎした。けれど次の瞬間、俺の服を両手でぐしゃりと掴んだ。
「パパ……っ」
そこで初めて、堰が切れた。
声にならない息が何度も胸にぶつかる。泣いているという言葉じゃ足りない。
小さな肺が壊れそうなくらい空気を求め、けれどうまく吸えず、俺の胸元を濡らしながら震えている。
俺は黙って、その頭を抱きこんだ。後頭部に手を当てると、まだ子どもの熱がある。こんなに小さい。
「よくやったな」
言葉にした瞬間、自分の声まで揺れた。
アインが俺の胸に顔を押しつけたまま、さらに強く服を掴む。指先が痛いほど食い込む。その必死さが、どれだけ自分を奮い立たせていたかを教えてくる。
「よくやった。本当によくやった、アイン」
何度でも言うべきだった。あいつが今斬ったのは、ただの敵じゃない。甘さに化けて近づいてきたものだ。孤独に寄り添うふりをして、家族を奪おうとしたものだ。それを、自分で見抜き、自分で終わらせた。
ジュリアがそっと近づいてきて、俺の腕とアインの背中に小さな手を乗せた。
「お兄ちゃん……」
震えたその声に、アインがかすかに反応する。顔は上げないまま、泣きじゃくる合間に、必死に妹の存在を確かめるように肩を寄せた。
俺は空いている腕でジュリアも抱き寄せる。二人まとめて胸の中に収めると、守りたいものの輪郭があまりにもはっきりして、目の奥が熱を持った。
風が吹く。
湖面が揺れる。
さっき飲み込まれたキーホルダーの姿は、もう見えない。
それでいい、と心のどこかで思った。あれはもう沈んだ。二度とこの小さな手に触れなくていい場所へ。思い出まで消えるわけじゃない。けれど、これから先の歩みを縛る鎖にはさせない。
アインの髪を撫でる。何度も、ゆっくり。
「アイン」
呼びかけると、肩口でしゃくりあげながら、かすかに返事が触れた。
「……ん」
「おまえの願い、全部俺が叶えてやる」
言いながら、自分の中で何かが定まっていくのがわかった。
ただ強くなる、じゃ足りない。
ただ勝つ、でも浅い。
俺が欲しいのは、この子たちが怯えず眠れる場所だ。誰かの悪意に願いを握られずに済む明日だ。泣くときに泣けて、笑うときに笑えて、守りたいものを守るために、子どもが子どものままでいられる世界だ。
「安心して暮らせる世界を、俺が作る」
胸の中の二人を抱きしめる腕に、自然と力が入る。
「そのために、俺は負けない。何が来ても、魔王だろうが、この世界の歪みそのものだろうが、全部ぶった斬る。おまえたちが、もうこんな選ばされ方をしなくていいように」
自分の声が、湖の上へまっすぐ伸びていく。
誓いだった。
誰に聞かせるでもない。けれど、俺自身の骨に刻むための言葉だ。
アインが俺の胸元に顔を埋めたまま、かすかに頷く。ジュリアも、もう片方からぎゅっとしがみついてくる。二人の重みが腕の中で確かに生きていて、それだけで剣を握る理由としては十分すぎた。
湖の向こうで、雲の切れ目から光が落ちた。
派手な奇跡みたいなものじゃない。ただ薄く、静かに、揺れる水面の一部を照らしただけだ。けれどその淡いひかりが、泣き疲れたアインの睫毛にも、ジュリアの頬にも、俺の腕の中のぬくもりにも触れて、まだ先へ進めると無言で告げてくる。
俺は二人を抱いたまま、ゆっくり立ち上がった。
胸の奥には、まだ痛みがある。さっきの選択の痕が、父親として消えない傷みたいに残っている。きっとアインの中にも残るだろう。簡単に癒えるものじゃない。消す必要もないのかもしれない。
それでもいい。
痛みごと抱えて進めるようにするのが、これからの俺の役目だ。
腕の中の小さな勇者の背を、もう一度そっと叩く。
「帰ろう」
アインは泣き腫らした声のまま、胸元で小さく返した。
「……うん」
その一言が、やけに強く響いた。