作品タイトル不明
第123話 痛みを消した小さな魔法
「こら、待てって――っ!」
両腕の中で、アインとジュリアがきゃあきゃあと身をよじる。逃げ回る二人をようやく左右に抱え上げたところで、俺は大きく息を吐いた。
胸の奥でどくどくと鳴っていた鼓動が、遅れて熱を持って全身へ広がっていく。
まったく、油断も隙もない。ほんの一瞬目を離しただけで、こうして危なっかしい方へ危なっかしい方へ突っ込んでいくんだから、父親の心臓がいくつあっても足りない。
「つかまえたぞ。悪いことばかりするガキは――」
言いかけた、その瞬間だった。
足裏にあったはずの感触が、すうっと消えた。
「……は?」
一拍遅れて理解する。透明だった道が、消えたのだ。
世界が、いきなり底を抜かれたみたいだった。
腹の奥がひゅっと縮み上がる。視界が傾き、身体が前ではなく真下へ引きずり込まれる。
咄嗟に息を呑む間さえない。腕の中の子供たちが小さな悲鳴を上げ、俺の服をぎゅっと掴んだ。
「パパぁっ!」
「やぁっ、こわいっ!」
「大丈夫だ、離すな!」
落ちる、と頭ではわかっているのに、周囲の景色はやけにゆっくり見えた。
崖肌の黒ずんだ岩、切れ目にへばりつく草、遠くで白く霞む空。
そんなものが、妙にはっきりと目に入る。
身体だけが現実より先に動いた。俺は反射で二人を胸元へ引き寄せ、抱え方を変えた。
アインの頭を左腕で庇い、ジュリアの背中を右腕で包み込む。俺の肩や肘や膝がどうなろうが知ったことか。とにかく、この子たちだけはぶつけさせない。
空中で身を捩る。無茶なのはわかっていた。それでも、背中から行くより、横から行くより、俺が下になる形を作るしかない。
次の瞬間、凄まじい衝撃が足元から突き上げてきた。
「ッ……ぐ、あぁっ!」
まず右足が岩に弾かれた。続いて腰と背中を強く打ち、肺の中の空気が一気に押し出される。
息ができない。喉がひゅうっと細く鳴ったまま、俺たちの身体はそこで止まらず、斜面を滑るようにさらに転がった。
腕の中の重みを手放すまいと抱きしめたせいで、肩の筋が焼けるように引きつる。
それでも力を緩める気にはなれない。最後に大きな石へぶつかったところで、ようやく勢いが殺された。
しばらく、自分がどこまで落ちたのかもわからなかった。
耳鳴りがする。雨の前触れみたいな湿った空気が鼻に入り、口の中には砂のじゃりっとした感触が残っていた。
背中の下で砕けた小石がごろごろしていて、その感触がやけに生々しい。何より、右足首のあたりに、遅れて熱を持った痛みが集まってくる。
「っ、ぁ……」
息を吸うだけで、胸の奥が痛む。けれど、それより先に確認しなきゃいけないことがある。俺は歯を食いしばって腕の力を緩め、胸元に埋もれていた二人を見た。
「アイン、ジュリア。怪我は?」
「……ぅ、だいじょぶ……」
「パパ、ちょっとくるしかった……でも、いたくない……」
二人とも目を潤ませてはいたが、血は出ていない。
頭も打っていなさそうだ。服は土まみれになっていたが、それだけだ。
よかった、と胸の底から息が抜けた。あまりにも大きく安堵したせいで、その隙を狙うように右足首がずきんと脈打つ。
「――ッ!」
たまらず顔をしかめる。今のは、ただの打撲じゃない。
足の向きを確かめようと少し動かしただけで、骨の周りに細い刃を何本も差し込まれたみたいな鋭さが走った。まずいな、と思う。けれど、痛がってばかりもいられない。
「パパ?」
ジュリアがすぐに俺の顔色を見て、小さな手を頬に伸ばしてきた。
土で汚れた指先が、遠慮がちに触れる。アインもさっきまでの無鉄砲さが嘘みたいに黙り込み、唇を引き結んで俺を覗き込んでいた。
「……なんでもない。ちょっと、足をひねっただけだ」
できるだけ軽く言ったつもりだった。だが、声の端が思ったより掠れていて、自分でも誤魔化しきれていないのがわかった。二人の目がさらに不安そうに揺れる。
「パパ、いたいの?」
「いたいの、いっぱい?」
「少しだけだ。心配するほどじゃ――」
言葉の途中で、右足を地面につけ直そうとして失敗した。
ぐしゃ、と湿った土が靴の下で潰れる。たったそれだけの動作で、痛みが足首から脛へ駆け上がった。
反射的に喉が詰まり、視界の端が揺れる。吸った空気が冷たく肺を刺し、そのまま息を止めたみたいに身体が固まった。
「ぃ……っ、く……!」
情けない声が漏れた。隠す余裕なんてなかった。
足首の内側が、心臓の鼓動に合わせてどんどん熱く膨らんでいく感じがする。靴の中で皮膚が張りつめ、脈打つたびに腫れが広がっていくのがわかる。これは完全に捻ったな。しかも、けっこう派手に。
俺が息を荒くしたのを見て、ジュリアの目にみるみる涙が浮かんだ。
「パパ、ごめ……ごめんね……ジュリア、にげたから……」
「おれも……おれもわるかった……」
二人の声が震える。その小ささが、胸に刺さった。
「違う。お前たちのせいじゃない」
俺は痛みで重くなった腕を持ち上げて、二人の頭を順番に撫でた。アインの髪は少し汗ばんでいて、ジュリアの髪には細かな葉っぱが絡んでいる。
そんなことまで愛おしく感じるくらい、落ちた直後の恐怖がまだ俺の中に残っていた。
「ちゃんと守れた。それでいい」
守れた。その事実だけが、今の俺をどうにか支えていた。
もしあのとき、抱え直すのが一瞬遅れていたら。もし頭を打たせていたら。想像するだけで背筋が冷える。
痛みなんてものは後回しでいい。父親として本当に耐えられないのは、自分が傷つくことじゃない。この子たちに怪我をさせることだ。
そのとき、すぐ近くから、場違いなくらいのんきな声がした。
「ぷぅ」
喋るクマだ。
丸っこい身体を揺らしながら、俺たちの少し上の岩にちょこんと座っている。
こいつ、いつの間に降りてきたんだ。いや、それよりその顔。明らかに人の不幸を見物して楽しんでる顔じゃないか。
「……おい」
睨みつけると、クマは前足で口元を隠すような仕草をしながら、また、
「ぷぅ、ぷぅ」
と鳴いた。
慰める響きは一切ない。むしろ、へえ、そんなに痛いんだ? みたいな、妙にしゃくに障る調子だ。俺が苦痛で顔を歪めているのがそんなに面白いのか。生意気にもほどがある。
「笑ってんじゃねえ……」
「ぷぅ?」
とぼけたふりまでしやがった。
俺は思わず額を押さえた。今すぐそのぬいぐるみみたいな胴を引っ掴んで説教してやりたいが、立ち上がるどころか足をまっすぐ伸ばすのもつらい。情けないことに、喧嘩を売られても買いに行けない。
アインが涙目のままクマを睨む。
「ぷぅ、わらっちゃだめ!」
「パパ、いたいのに!」
するとクマは、やれやれとでも言いたげに肩をすくめ、鼻を少し上に向けた。
「ぷぅ。ぷぅー」
その鳴き声に、さっき聞いた言葉が重なる。――魔法は、純粋な子供でなければ使えない。
つまりこいつは、自分は使える側でもなければ助ける側でもないから、高みの見物を決め込んでいるのか。
腹が立つ。だが同時に、こんな状況でさえ妙に落ち着いているあたり、こいつなりに何か見通しがあるのかもしれないという気もした。気に入らないけど。
俺は荒い呼吸を整えながら、ようやく右足首を確かめた。靴を少しずらしただけで、皮膚の下に溜まった熱が外へ逃げ場を求めるみたいに疼く。
赤く腫れ上がっているのが見えた。くるぶしの周りだけじゃない。甲の方までじわじわ赤みが広がっている。これは歩けても、まともには無理だ。
それなのに、さっきから痛みは増している気がした。落ちた直後は身体が興奮していて誤魔化されていたんだろう。
今になって、傷の輪郭だけがはっきりしてきた。鈍くうねる痛みの中に、ときどき細く鋭い刺激が混ざる。無理に動かせば悪化する、と身体がはっきり警告していた。
そこへ、ぽつり、と頬に冷たいものが当たった。
「……雨?」
見上げると、薄暗くなり始めた空から、細い雫が落ちてきていた。一滴、二滴では終わらない。
ほどなくして、葉を叩く音が増え、岩肌を濡らし、土の匂いがむっと立ちのぼる。雨脚はまだ強くないが、確実に本降りへ向かっている。
まずい。
俺は反射で自分の格好を見た。さっき咄嗟に飛び出してきたせいで、着ているのはシャツだけだ。
上着もない。落下の途中で袖口は泥に汚れ、裾も破れている。このまま濡れれば体温を奪われるのは早い。子供たちも同じだ。
風が吹いた。
たったそれだけで、濡れ始めたシャツが肌に貼りつき、背筋をぞくりと震えが走った。
寒い。いや、まだ本格的な寒さじゃない。けれど、怪我で身体が弱っているところへ雨風が加わると、じわじわ体力を削ってくる類いの冷えだとすぐにわかる。
足の痛みで熱を持っているはずなのに、指先はもう感覚が薄くなり始めていた。
「パパ、ふるえてる……」
「さむいの?」
「平気だ」
また嘘をついた。平気なわけがない。だが、ここで弱音を吐けば、この子たちはもっと不安になる。
どうする。上へ戻るにしても足が使えない。どこか雨宿りできる場所を探すにも、今のままじゃ子供を抱えて歩くのは厳しい。焦りが胸の内側をざらつかせる。頭の中で手段を探そうとするほど、雨音ばかりが近くなる。
そんな俺の前で、ジュリアがきゅっと拳を握った。
涙の跡を残した頬が、濡れた前髪の下で真剣に引き締まっている。まだ五歳の、小さな小さな娘だ。なのに今は、何か大事なことを決めた子の顔をしていた。
「パパ」
「ん?」
ジュリアは俺の膝ににじり寄ると、そっと赤く腫れた足首へ両手をかざした。白くて小さな指先が、雨粒を受けてかすかに光る。
「パパのいたいの、とんでけ!」
その声は、普段の甘えた調子とは少し違っていた。幼いのに、願いだけはまっすぐで、疑いを知らない響きだった。
ふわり、と空気が揺れた。
最初は気のせいかと思った。けれど違う。足首に貼りついていた重い熱が、誰かの手でそっとほどかれていくみたいに抜けていく。
ずきずきと脈打っていた痛みが、波が引くように遠のいていく。腫れた部分を包んでいた圧迫感まで薄くなり、代わりに春先の日だまりみたいな、柔らかな温もりが残った。
「……え?」
さらに驚いたのは、それだけじゃない。
雨に打たれて冷え切りかけていた身体の芯へ、その温もりがじんわり広がっていったのだ。
肩の強張りが解け、こわばっていた指先に感覚が戻る。貼りついたシャツの冷たさはそのままなのに、寒さだけが綺麗に消えている。まるで見えない毛布を掛けられたみたいだった。
俺は息を呑み、足首をそっと動かしてみた。
痛くない。
恐る恐る、もう少し角度を変える。さっきまで悲鳴を上げていた場所が、嘘みたいに静かだった。赤みも引いている。腫れも、見る間に目立たなくなっていく。
「ジュリア……お前……」
「できた!」
ジュリアはぱっと顔を輝かせた。泣きべそだった子とは思えないくらい、嬉しそうな笑顔だった。
その無邪気さが、逆に胸を打つ。助けたい。ただその一心で、迷いなく魔法を使ったのだろう。
喋るクマが、岩の上で鼻を鳴らした。
「ぷぅ」
今度の鳴き声には、さっきの意地の悪さだけじゃない色が混じっていた。少しだけ、感心したような。いや、認めてやってもいい、くらいの偉そうな響きか。相変わらず腹は立つが、今は文句を言う気も失せる。
俺はジュリアを抱き寄せ、濡れた髪に口づけるように額を寄せた。
「ありがとう、ジュリア。助かった」
「えへへ……」
「すごいな、ジュリア!」
「アインもできるもん!」
二人が顔を見合わせる。涙と笑顔が混ざったその表情に、さっきまでの崖下の冷たさが少し遠のいた気がした。
俺はゆっくり立ち上がる。右足に体重をかけても、もう問題ない。奇跡みたいな回復だ。いや、実際これは奇跡に近いのかもしれない。
雨はまだ降っている。だが、さっきまでの追い詰められた感じは薄れていた。
「よし。とにかく――」
言いかけたところで、アインが急に「あっ!」と声を上げた。
「どうした?」
アインは少し離れた場所、斜面に散らばった石の方を指さしていた。落ちてきたときに一緒に崩れたのか、大小さまざまな石がいくつも転がっている。その中に、雨粒を受けてひとつだけ妙な光を返しているものがあった。
「パパ! あれ、きれい!」
七つほどの石が集まった場所の真ん中で、ひとつだけ色の違う丸い輝きが覗いている。鈍い灰色の石たちの中に、そこだけ澄んだ光を抱えていた。宝玉――そう思うより早く、アインの顔がぱっと明るくなる。
「たからものだ!」
「待て、アイン!」
止める間もなく、アインは駆け出した。
雨に濡れた斜面を、小さな靴がぱたぱたと叩く。俺も反射で追いかけようと一歩踏み出したが、そのとき、光る石がこつんと別の石へ当たって転がった。坂に沿って、ころころと先へ逃げていく。
「あっ、まってー!」
「アイン!」
ジュリアまでそのあとを追いそうになる。俺は慌ててジュリアの肩を抱き寄せ、視線だけはアインから離さない。
宝玉は雨に濡れた石の間をすり抜けるように転がり、アインは夢中でそれを追っていく。
喋るクマが、また楽しげに鳴いた。
「ぷぅ」
まるで、ほら次だよ、とでも言うように。俺は濡れた髪をかき上げ、息を整えた。
助かったと思った途端、これだ。
けれど、もう立ち止まってはいられない。子供たちは前へ行く。なら、父親の俺も行くしかない。どんな仕掛けが待っていようと、何が転がってこようと、見失わず、取りこぼさず、最後まで守る。
「ジュリア、離れるな。行くぞ!」
「うんっ!」
雨の中、俺はジュリアの手をしっかり握り直し、宝玉を追って走っていくアインの背中へ向かって踏み出した。