軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第122話 ぷぅと鳴いた願い

ノクターンリル島が近づくにつれて、風の匂いが少しずつ変わっていくのが分かった。

潮そのものの塩気に混じって、もっと甘く、もっと濃い、胸の奥をかすかにくすぐるような気配が流れ込んでくる。ただの海風じゃない。肌に触れた瞬間、空気そのものがうっすらと体温を持っているみたいで、吸い込むたびに肺の奥がじんわり熱を帯びた。

船の舷に片手を添えながら、俺は水平線の向こうを見つめた。

まだ島影ははっきり見えていない。けれど、あれが近いことだけは分かる。遠くの空の色が、そこだけわずかに深い。朝でも夕でもない、不思議な藍色が海の上に薄く沈んでいる。その輪郭を、俺の中の何かが先に察していた。

「……濃いな」

思わず小さくつぶやくと、隣に立っていたミユウが俺の横顔をのぞき込んだ。

「あなたも感じるのね」

「ああ。空気が重いっていうか……いや、重いとも違うな。張ってる、のほうが近いか」

目に見えない膜が、海の上に幾重にも張り巡らされているような感覚だった。進めば進むほど、その膜を船が押し分けている。肌がぴりつくほどじゃない。でも、無意識のうちに背筋が伸びるくらいには、はっきりと異質だった。

ミユウは風に揺れる銀髪を耳にかけながら、遠くを見た。

「ノクターンリル島は、昔から魔力の流れが濃い場所だって言われているわ。眠っている力が多いとも、願いが形になりやすいとも」

「最後のやつ、今聞きたくなかったな」

俺が苦い顔でそう言うと、ミユウが少しだけ困ったように笑う。

「分かってる。だからこそ、子どもたちから目を離せないのよ」

その言葉に、俺は船の甲板の反対側へ視線を向けた。

案の定、あいつらはもう落ち着いてなんかいなかった。

「パパ、みてみて! あっち、しまさんがくろっぽい!」

「ほんとだぁ! なんだか、よるがうかんでるみたい!」

アインとジュリアが並んで手すりに張りつき、きらきらした声をあげている。二人とも頬を上気させていて、五歳児らしい無邪気さをこれでもかと全身にまとっていた。見ているだけならかわいい。見ているだけなら。

問題は、その無邪気さが、時々この世界の厄介な何かと妙にかみ合ってしまうことだ。

「身を乗り出しすぎるなよ」

「はぁい!」

「はーい!」

返事だけは元気だ。だが体は一歩も引かない。俺は小さく息をついてから二人の近くへ歩み寄った。

甲板には昼の光が広がっている。波を受けて揺れる船体は、規則正しいはずの動きの中に細かなぶれを混ぜ、足元に絶えず小さな不安定を置いていく。木の床板は日差しを受けて温かく、時折きしむ。そのたび、海の上にいることを思い出させられた。

アインは手すりから振り返ると、胸元にぶら下げたキーホルダーを誇らしげに持ち上げた。

「パパ、クマさんも、しまいくのたのしみにしてるかなぁ」

その言葉に、俺の口元が自然と緩んだ。

ヴェイルルナ島で、あいつが目を輝かせながら欲しがったクマのキーホルダー。小ぶりな茶色のクマで、腹のところに青い糸で星みたいな刺繍が入っている。売り物の中でも特別高いわけじゃなかった。でも、アインはあれを見つけた瞬間、宝物でも見つけたみたいな顔をした。

『これ、ぼくとおはなしできそう』

あの時の一言を思い出して、俺は苦笑する。

できそう、で終わってくれればよかったんだけどな。

アインは両手でそのキーホルダーを大事そうに包み込んだ。小さな指の隙間から、茶色い毛並みを模した布地がのぞく。海風に揺れないよう、アイン自身が体で囲い込むようにして守っていた。

「クマさん、ノクターンリルとうって、どんなところかなぁ」

「おばけいるかなぁ?」

ジュリアが横から顔を寄せる。

「おばけいたら、いっしょにおしゃべりできるかも!」

「それは遠慮したいな」

俺が即答すると、ジュリアがきょとんとしてから、くすっと笑った。

「パパ、こわいの?」

「怖いんじゃなくて、面倒なんだよ」

「おんなじじゃなぁい?」

「違う」

そう返しながらも、俺は内心まったく笑えなかった。

この空気の濃さ。ノクターンリル島の気配。願いが形になりやすい、というさっきのミユウの言葉。それらが一つに重なって、胸の奥に小さな引っかかりを作っていた。嫌な予感というほど明確じゃない。けれど、こういう曖昧なざわつきは、たいてい外れない。

アインはそんな俺の気配なんて知らず、クマのキーホルダーを両目の前に持ち上げた。

丸い耳。つぶらな黒い目。少しだけ上を向いた鼻先。手のひらに収まるその小さな姿は、子どもが気に入るには十分すぎる可愛らしさをしている。

アインは頬をゆるめ、声をひそめた。

「ねぇ、クマさん」

その呼びかけが、妙にはっきり耳に届いた。

風の音の中でも埋もれず、真っすぐ空気を震わせる。アインの声は元々澄んでいるが、その瞬間はどこか、海の向こうまで抜けていくような透明さがあった。

俺は眉を寄せる。

「アイン?」

だがアインは夢中だった。キーホルダーを見つめる瞳に、まるで秘密の扉を開ける前みたいな期待が灯っている。

「きみと、おしゃべりしたいなぁ」

言い方がまた、たまらなく柔らかかった。

命令でもお願いでもない。ただ、本当にそうできたらいいのに、という子どものまっすぐな願い。その無防備さに、一瞬だけ俺の胸がゆるむ。

……次の瞬間までは。

キーホルダーの腹に刺繍された青い星が、ふっと光った。

ほんの一粒、露が転がるみたいな弱い光だったのに、それを見た瞬間、背中に冷たいものが走った。

「アイン、待て――」

止める声と同時だった。

ぼんっ。

間の抜けた、しかしやけに景気のいい音が甲板に響いた。煙というほど大げさじゃない、白く丸い綿菓子みたいなもやがキーホルダーの周りで弾ける。

「きゃっ」

「わぁっ!」

ジュリアとアインの声が重なり、俺は反射的に二人の前へ手を伸ばした。

もやがふわりとほどける。

その中から現れたのは――手のひらに乗るくらいの、小さなクマだった。

茶色い丸っこい体。ぬいぐるみみたいに愛嬌のある形なのに、ちゃんと生き物の気配がある。短い前足がぴこんと上がり、小さな鼻がひくひく動く。つぶらな瞳がぱちぱちと瞬きをして、ふさっとした耳がぴるんと震えた。

そしてそいつは、甲板の上にちょこんと着地すると、首をかしげて一声鳴いた。

「ぷぅ?」

……かわいい。

いや、かわいいんだけど。

「……おい」

頭を抱えたくなる俺の前で、アインの顔が花が開くみたいにぱあっと輝いた。

「しゃべったぁぁ!」

「クマさん、うごいたぁ!」

二人がしゃがみ込む。小さなクマはおびえるでもなく、その場でちまちまと足踏みした。爪というより豆粒みたいな前足が木の甲板を叩くたび、こつ、こつ、と軽い音がする。

アインが恐る恐る指先を伸ばす。クマはその指に鼻先をちょんとくっつけた。

「ぷぅ」

「わぁ……! あったかい!」

アインの声が弾む。ジュリアもすぐ隣で身を乗り出した。

「ジュリアもさわりたい!」

「じゅんばんこ!」

「えーっ」

「落ち着け、二人とも」

俺はそう言いながら、クマをじっと観察した。変な禍々しさはない。敵意も感じない。むしろ拍子抜けするくらい、のんきな気配しか出していない。だが、それが安心材料になるとは限らないのがこの世界の面倒なところだ。

ミユウもこちらへ歩み寄り、目を丸くした。

「本当に変わったのね……」

「笑い事じゃないぞ」

「笑ってないわ。でも、びっくりしてるの」

そう言ってミユウは小さなクマを見下ろした。クマも見上げ返し、また首をこてんと傾ける。

「ぷぅ?」

ミユウの表情が少しだけ崩れる。

「……かわいい」

「だろうね」

俺はため息を飲み込んだ。もう、そういう問題じゃなくなってきている。

アインは両手で口元を押さえながら、嬉しさを抑えきれない様子で俺を見上げた。

「パパ! クマさん、ほんとにおはなしできるかも!」

「その“かも”が危ないんだよ……」

「でも、ぷぅっていった!」

「言ったな……」

否定できないのがつらい。

クマはアインの足元をとてとて歩き、くるりと一周してから座り込んだ。座るというより、もちっとその場に沈んだ感じだ。丸い背中が上下して、呼吸しているのが分かる。アインはもう完全に心をつかまれていた。

「クマさん、ぼくアインだよ」

「ぷぅ」

「こっちはジュリア!」

「ジュリアだよぉ」

「ぷぅ、ぷぅ」

「パパと!」

アインが俺を指さす。

「……龍夜だ」

「ミユウよ」

「ぷぅ!」

返事なのか偶然なのか分からない鳴き声に、子どもたちがきゃっきゃと笑う。その笑い声が船の上に明るく散っていく。海風までそれに誘われたみたいにやさしく吹き抜け、重かった空気が一瞬だけ軽くなった気がした。

こういう時、俺は弱い。

子どもたちが本気で嬉しそうにしていると、それだけで少しくらいならいいか、と思ってしまう。だが、その甘さで過去に何度痛い目を見たかも覚えている。

「アイン、ジュリア。触るのはいい。でも、変なお願いはするなよ」

「へんなおねがい?」

「そう。たとえば――」

言いかけた時には、もう遅かった。

アインは目をきらきらさせたまま、小さなクマを抱き上げていた。両腕の中にすっぽり収まるそのぬくもりに頬をゆるめ、まるで新しくできた友達に秘密を打ち明けるような声で言う。

「クマさん、ぼくね、おかしすき!」

「おい、アイン」

「おかしでいっぱいになーれ!」

「待てって!」

制止の声と、アインのお願いが重なった。

一拍。

小さなクマが、俺のほうをちらりと見た気がした。いや、見た。絶対見た。しかもなんか、ちょっと得意げだった。

「ぷぅ!」

次の瞬間、甲板の上に光の粒がぱらぱらと降った。

最初は紙吹雪かと思った。陽光を弾いてきらめく小さな点が空中で増えて、くるくる回りながら舞い落ちてくる。だが、その一つが俺の肩に当たって転がり、手元に落ちた時、正体が分かった。

キャンディだった。

「……は?」

声を出した直後、今度は俺の頭にやわらかい何かが落ちてくる。反射的につかむ。包み紙に包まれた焼き菓子。足元には色とりどりの小袋。さらに背後で、ごとん、と箱が落ちる音。

振り返ると、木箱いっぱいのクッキーが甲板に出現していた。

「うわぁぁぁ!」

「おかしだぁぁ!」

子どもたちの歓声が上がる。

いや、歓声を上げてる場合じゃない。

空から降るキャンディ。どこからともなく積み上がるビスケット缶。船縁に寄りかかるように現れるチョコレートの山。しかも一つや二つじゃない。あっという間に甲板のあちこちが甘いもので埋まり始めた。

袋がはじけ、丸い飴玉が床板をころころ走る。クッキーの香ばしい匂い、砂糖の甘ったるさ、焼いたバターの濃い香りが一斉に広がって、潮風までお菓子屋みたいになってきた。

「うそだろ……!」

俺は頭を押さえたくなった。

ジュリアは両手いっぱいにキャンディを抱え込んで跳ねている。

「みてみて! あかいのもある!」

「ぼく、これたべたい!」

アインはもう足元のマカロンらしきものを拾おうとしていた。俺は慌ててその手首をつかむ。

「待て! 勝手に食うな!」

「えーっ、なんでぇ?」

「何が入ってるか分からないだろ!」

「でも、おいしそう……」

実際おいしそうなのが困る。丸くつやつやした飴も、粉砂糖のかかった焼き菓子も、見た目だけなら普通にうまそうだ。だが、魔力の濃い海域で、願い一つで湧いた謎のお菓子なんて、食わせられるわけがない。

ミユウが眉を寄せた。

「あなた、床が滑るわ」

「見れば分かる!」

俺の足元で、つぶれたクリーム入りの菓子がべしゃっと音を立てた。最悪だ。甘い匂いに包まれた船上は、もはや遊園地の菓子売り場と化している。しかもこの揺れる床の上で。危ないし、意味が分からないし、頭が痛い。

小さなクマはその中心で、えっへんと言わんばかりに胸を張っていた。

「ぷぅ」

「お前、今それでいい仕事したみたいな顔したよな?」

「ぷぅ?」

「してるな……」

アインはクマを抱きしめて頬ずりした。

「クマさんすごい! ほんとにできた!」

「よかったわねぇ」

ジュリアまで感心している。いや、よくない。

俺はしゃがみ込んで、二人の目線に合わせた。

「いいか、アイン。願いごとは勝手に言うな。分かったな?」

アインはきょとんとしてから、腕の中のクマを見た。

「でも、クマさんかなえてくれたよ?」

「そうだな。だからこそだ」

「どうして?」

その問いに、言葉が少し詰まる。

五歳の子どもに、便利な力ほど怖いってどう伝えればいいのか。願いが叶うことは楽しい。でも、それがどこまで広がるのか分からない力なら、なおさら慎重でなきゃいけない。手の中に収まるうちは夢みたいでも、一歩外れたら簡単に現実を壊す。

俺はなるべくやわらかく言った。

「欲しいものがすぐ出るのは、一見いいことに見える。でも、何でも思い通りになる力ってのは、たいてい面倒を連れてくるんだよ」

アインはすぐには納得していない顔をしたが、俺の表情から何かを感じ取ったのか、口を小さく結んだ。

「……はぁい」

素直に返事をされると、それはそれで胸がちくりとする。

叱りたいわけじゃない。むしろ俺だって、目の前でぬいぐるみが動いたら多少はしゃぐ気持ちは分かる。けど、父親である以上、楽しさだけに流されるわけにはいかなかった。

ミユウがそっと口を開く。

「このあたりの魔力と反応したのかもしれないわ。元々、あのキーホルダーに何か宿っていたのね」

「買う時に言ってくれ」

「売り場でそこまで見抜けたら苦労しないわ」

「まあそうだけど」

言い返しながら、俺は改めて小さなクマを見た。

こいつは今のところ悪意があるようには見えない。だが、悪意がないから安全とも限らない。子どもの願いをそのまま増幅する存在なら、それだけで十分厄介だ。

甲板の上では、まだいくつかの飴玉がころころ転がっていた。船員たちも遠巻きに様子をうかがっている。さすがに止めに来ないのは、ミユウと俺がいるからか、それともこの事態そのものに呆れているからか。

「とにかく、一回落ち着こう。お菓子は片づける。クマは――」

そこまで言いかけた時だった。

小さなクマが、ぴくんと耳を立てた。

さっきまでのんきにしていたのに、急に空気が変わる。丸い体がきゅっと引き締まり、鼻先が船の外へ向いた。

「ぷぅ?」

短く鳴いたあと、くるりと身を翻した。

「……おい?」

クマは甲板の上をとてとて走り出す。飴玉をぴょんと飛び越え、クッキー缶の影を抜け、まっすぐ船縁へ向かっていく。小さな足なのに妙に速い。

「クマさん、まってぇ!」

アインが追いかけた。

「ぼくもいく!」

「ジュリアも!」

「こら、待て!」

叫んだが、二人の足は止まらない。クマは振り返りもしないまま、まるで“ついてこい”とでも言うように船の端まで駆けていく。そこでひらりと跳ねた。

俺の心臓が一気に冷えた。

「っ、アイン! ジュリア!」

船縁を越えた、と見えた次の瞬間、クマの周りに淡い光が広がった。海へ落ちるんじゃない。船の外側に沿うように、うっすらとした足場のようなものが浮かび上がっている。水面すれすれにきらめく、半透明の道。

ノクターンリル島の方向へ細く伸びる、そのありえない通路の上を、クマがとてとて進んでいく。

「なんだよそれ……!」

理解が追いつかないまま、アインが目を輝かせた。

「みちだ!」

「クマさん、すごーい!」

嫌な予感が、ついに形になった。

二人はためらいなく船縁の扉側へ駆ける。外へ出られる小さな昇降口だ。普段なら大人の目がある場所だが、今は甲板がお菓子騒ぎで妙に散っている。

「ミユウ!」

「分かってる!」

俺が走り出すのと同時に、ミユウも裾を翻した。

だが、子どもが本気で何かに夢中になった時の足は、驚くほど速い。

「クマさん、まってぇー!」

「いっしょにあそぼぉ!」

アインとジュリアが、笑い声を上げながら船の外へ出ていく。その背中は無邪気そのものだ。だから余計に恐ろしい。あいつらにとっては、危険な出来事じゃない。ただ“不思議で楽しい追いかけっこ”でしかない。

「くそっ……!」

俺は思わず悪態を飲み込みきれなかった。

足元で飴を踏みそうになり、体勢を立て直す。こんな時に限って障害物だらけだ。船の揺れまで癪に障るほど大きく感じる。

ミユウが俺の横に追いつき、険しい声で言った。

「まずいことになるわ」

「見れば分かる!」

「子どもたちは、あれを遊びだと思ってる」

「だから急ぐんだよ!」

昇降口を抜けると、海風がさらに強くなった。頬を打つ冷たさの中に、島から流れてくる濃い魔力が混ざる。船の外側に沿って浮かぶ光の道は、昼間なのに月光を固めたみたいに青白い。水面はそのすぐ下で揺れていて、砕けた陽射しがきらきら跳ねていた。

そしてその上を、小さなクマを先頭に、アインとジュリアがちょこちょこと追っている。

「止まれ、二人とも!」

俺の声に、ジュリアが振り返る。

「パパ、きれいだよ!」

笑顔でそんなことを言うな。寿命が縮む。

アインも振り返って手を振った。

「クマさん、どこいくのかなぁ!」

「知らねぇよ! だから戻れ!」

だが二人は楽しさに飲まれていて、俺の焦りとの温度差があまりにも大きかった。

俺は走りながら、胸の奥で一つの怒りにも似た感情が膨らむのを感じていた。子どもたちに向けたものじゃない。こんな状況を作った得体の知れない魔力と、のほほんと先を行くクマと、そして一瞬でも“少しなら大丈夫か”と思った自分自身に対してだ。

父親なら、最初からもっと強く止めるべきだった。

あの“ぷぅ?”に気を抜くべきじゃなかった。

かわいさと危うさが同居している時、後者を見失ったらだめなんだ。守るっていうのは、笑顔を見て一緒に和むことだけじゃない。楽しい空気を壊してでも、危ない線の手前で引き戻すことだ。

分かっていたはずなのに。

俺は歯を食いしばった。

ミユウが低く言う。

「あなた、足場は見えてる?」

「ああ、なんとか」

「なら大丈夫。でも、島に近づくほど何が起こるか分からないわ」

「縁起でもないこと言うな」

「事実よ」

その通りだった。

前方で、ノクターンリル島の輪郭が少しずつ大きくなっていく。黒に近い深い緑の樹々。その合間から漏れる、青白い光。島全体が眠っているようにも、目を閉じてこちらを見ているようにも感じられた。

道の先で、小さなクマがまた振り返る。

「ぷぅ!」

まるで急かすみたいな声だった。

「待てっつってんだろ!」

叫んでも当然止まらない。

アインは息を弾ませながら笑っている。ジュリアも頬を赤くして、その後ろを追う。二人の髪が風に散り、軽い足音が光の道に重なっていく。

その姿は、遠目には夢みたいにきれいだった。

海の上に架かった光の細道を、双子が小さなクマと一緒に駆けていく。物語の一場面みたいだ。絵にしたら、たぶん誰もが“幻想的”と言う。

でも、父親の立場から見れば、そんなものは悪夢に近い。

「アイン! ジュリア!」

もう一度、今度は腹の底から声を張る。

二人の肩がびくっと揺れた。少しだけ足が止まる。

そこへ俺は間合いを詰めた。あと少し。もう少しで手が届く。

――その時、前方の空気が波打った。

ノクターンリル島から流れてきた濃い魔力が、目に見えるほどの揺らぎになって光の道の上を撫でる。水面がざわめき、風が一段低い音を立てた。小さなクマがぴたりと止まり、アインとジュリアも思わず足を止める。

俺は二人へ向かって手を伸ばした。

「そこから動くな!」

届け。今度こそ。

そう願いながら、俺は全力で前へ踏み込んだ。