軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第121話 魔法の源泉

次に目指す島は、ノクターンリル島だ。

そう口にした瞬間、潮の匂いを含んだ風が、甲板の上をするりと撫でていった。昼の光はやわらかく海へ降りそそいでいるのに、その名を言葉にしただけで、胸の奥にわずかな緊張が落ちてくる。晴れた海の上にいるはずなのに、気持ちのどこかだけが、薄い影の縁に足をかけたみたいに静かに冷えた。

「ノクターンリル島……」

隣でミユウが小さく繰り返す。その声は、ただ名前を確かめたというより、昔から知っている場所の記憶を、胸の奥からそっと引き上げたような響きを帯びていた。

「魔法の源泉がある島ね」

やっぱり、ミユウも知っていたか。

俺は海の向こうを見た。水平線はまっすぐ伸びていて、その先に島影なんてまだ見えない。けれど、見えないからこそ余計に、その場所が現実のどこかにあるという実感が濃くなる。剣でどうにかなる相手なら、まだ分かりやすい。だが魔法というものは、刃の届く距離で起きるとは限らない。見えないものほど、子どもには魅力的で、だからこそ怖い。

「まほうのげんせんって、なあに?」

アインがすぐに食いついてきた。きらきらした目をまっすぐこっちへ向けてくる。その顔には不安なんてひとつもない。知らない場所に対する警戒より、面白そう、すごそう、見てみたいが先に立っている顔だ。

子どもらしいと言えばそれまでだ。けど、その無邪気さが、今は少しだけまぶしすぎた。

「簡単に言えば、魔力が特に濃く集まる場所だ」

「まりょく……」

「うん。魔法を使うための力の流れ、みたいなものだな。ノクターンリル島には、その流れがこの海域でも特に強く集まってる場所があるって聞いてる」

俺がそう言うと、アインは「おお……」と感心したように声を漏らした。ジュリアも俺の腕に寄りながら、丸い目でじっと聞いている。ふたりとも、こういう話になると本当に素直だ。新しい絵本を開く前みたいな顔をする。

その顔を見るたびに、守りたいと思う。

それはもう、意気込みとか使命感とか、そんな大げさな言葉より先にある感覚だった。冬の朝、眠ったままの子どもに布団をかけ直すみたいに、考える前に体が動くのと似ている。大事なものを大事にしたいなんて、理屈じゃない。

「でもな」

俺は少し声の調子を変えた。浮ついた空気のまま話を進めるわけにはいかない。

「ノクターンリル島は、ただ珍しい場所ってだけじゃない。魔法が使える場所だからこそ、気をつけなきゃいけないことも多い」

アインが首をかしげる。

「きけんなの?」

「危険だ」

はっきり言うと、アインはぱちぱちと瞬きをした。たぶん、俺がそこまで断言すると思っていなかったんだろう。

甲板の上では帆が風を孕み、船体がゆっくりと海を割って進んでいる。木のきしむ音、波が船腹を叩く音、遠くで鳴く海鳥の声。穏やかな旅の途中みたいな風景だ。だけど、穏やかさはそのまま安全を意味しない。俺はこれまでの旅で、それを嫌というほど覚えてきた。

「魔法っていうのは、便利なものも多い。火を起こしたり、傷を癒したり、光を生み出したりな。けど、それだけじゃない。人を惑わせるものもあるし、心を弱らせるものもある。見た目がきれいでも、中身まで優しいとは限らない」

言いながら、自分の中でも言葉を選んだ。

怖がらせたいわけじゃない。だけど、甘く見せるのはもっと違う。

アインはまだ五歳だ。五歳の子どもに、魔法の危険性をどこまで伝えられるのか、正直なところ分からない。けれど、分からないから言わない、で済ませていいことでもない。知らないまま手を伸ばして、取り返しのつかないことになる方がよほど怖かった。

「たとえば、どういうの?」

ミユウが静かに尋ねた。

たぶん、俺が子どもたちにどう説明するのかを見てくれているんだろう。その声音には、俺ひとりに背負わせないというやわらかい支えがあった。そういうところに、何度救われてきたか分からない。

「そうだな……」

俺は少し考えてから、ふたりにも分かるように言葉をほどいた。

「見たものを違って見せる魔法がある。たとえば、本当は浅い水たまりなのに、地面みたいに見えたり。その逆で、ただの道が深い穴に見えたりすることもある」

「えっ」

ジュリアが俺の服の裾をきゅっと握った。

「だいじょうぶ?」

「ちゃんと気をつければ大丈夫だ」

そう答えながら、俺はジュリアの頭を撫でた。やわらかい髪が指先に触れる。潮風に少し揺れるその感触が、現実に俺をつなぎとめる。

「ほかには、聞こえないはずの声が聞こえる魔法とか、近づいちゃいけない場所へ誘う魔法とかもあるって話だ。眠ってる気持ちを揺さぶって、不安を大きくしたり、逆に妙に気分をよくして判断を鈍らせたりするものもあるらしい」

「それ、ずるいな……」

アインが眉を寄せた。子どもなりに、それが正面からの勝負じゃないと感じたんだろう。

「ずるいよ」

俺はうなずいた。

「だから怖い。剣なら、相手が振りかぶれば見える。けど魔法は、見えないところから心に触ってくることがある」

そこまで言って、俺はふと口をつぐんだ。

心に触ってくる。

その言い方をした瞬間、以前の戦いで味わった嫌な感覚が、ほんの少しだけ胸の底をかすめた。体が傷つく痛みは分かりやすい。だが、考えを乱される感じ、感情の足場を崩される感じは、傷の形が見えないぶん厄介だ。自分が自分じゃなくなるわけじゃないのに、地面の傾きだけがじわじわ狂っていくような、あの感覚。

あれを、子どもたちに味わわせたくはない。

「だから、島に着いてからは絶対に勝手な行動をしないこと。俺かミユウのそばを離れないこと。光ってるものとか、きれいなものとか、珍しいものを見つけても、まずは触る前に聞く。いいな?」

俺がひとつずつ区切って言うと、ジュリアはすぐに「うん」と頷いた。けれどアインは、返事をする前に少しだけ視線を海へ逃がした。

分かりやすい。

こういうときのアインは、だいたい心の中で「でも見たい」「でも気になる」と思ってる。

「アイン」

「……はい」

「返事」

「かってにさわらない」

「離れない」

「はなれない」

「ひとりでどこか行かない」

「いかない」

そこまではちゃんと言った。言ったけど、目の奥の火は消えていない。むしろ、危険だと聞いたぶんだけ好奇心に油が注がれているのが分かる。

俺は小さく息を吐いた。

父親ってのは、こういうとき難しい。

なんでも禁止して、檻の中みたいに守ることはできる。やろうと思えば、ずっと手を引いて歩かせることだってできるかもしれない。けど、それでいいのかと言われたら違う。世界の全部を危ないからと遠ざけていたら、この子たちは何も知れない。何も憧れられない。胸を躍らせることも、目を輝かせることも、少しずつ減っていくのかもしれない。

それは守ることじゃない。

ただ、縮こまらせるだけだ。

だけど自由にさせすぎて、取り返しのつかない目に遭わせるのも、もちろん違う。

その真ん中を探すのが、たぶん父親なんだろう。

剣を振るうより難しい。敵を倒すより、ずっと難しい。

子どもの未来を信じながら、その今日一日をきちんと守る。その両方を手放さないでいることは、思っていた以上に繊細な仕事だ。ほんの少し強く引きすぎれば、子どもの心は顔に出なくても縮む。逆に、見守るという言葉に甘えて手を離しすぎれば、危険はあっさり入り込んでくる。

俺は、まだ完璧じゃない。

たぶんこれから先も、完璧にはなれない。

それでも、なろうとは思う。父親としても、勇者としても。守るために強くなりたいって願いは、誰かを斬り伏せるためのものじゃない。こういう小さな選択を、逃げずにし続けるための強さでもある。

ミユウが、そんな俺の横顔を見ていた。

「あなた、難しい顔をしてるわ」

「してたか?」

「ええ。剣のことを考えているときとは少し違う顔」

図星だった。俺は苦笑する。

「アインの顔見たらな。絶対、わくわくしてるだろ」

「してるわね」

ミユウも小さく笑った。その笑みは、呆れ半分、愛しさ半分ってところだろうか。

アインは「してないよ」と言いたげな顔をしたあと、誤魔化すように視線を逸らした。分かりやすすぎる。

「でも、気持ちは分かるわ」

ミユウが海の方を見ながら言う。

「ノクターンリル島は、昔から特別な場所として語られてきたもの。夜でも花が淡く光る場所があったり、岩肌に魔力が流れて、触れた指先が少しだけ温かくなったり。風の向きで、木々のざわめきが歌みたいに聞こえる場所もあるって聞いたことがあるわ」

その言葉に、アインとジュリアが一気に食いついた。

「うた?」

「おはな、ひかるの?」

「ただし」

ミユウはそこで、ふたりの気持ちが跳ね上がる前にきちんと声の調子を整えた。

「不思議なものが多い場所ほど、自分の知らない力も多いの。綺麗だから安全、面白いから大丈夫、ではないわ」

ミユウの言葉はやわらかいのに、芯がある。諭すというより、世界の仕組みを静かに渡してくれる言い方だ。俺には俺の伝え方があって、ミユウにはミユウの伝え方がある。そのふたつが並ぶと、子どもたちにも少し届きやすくなる気がした。

「たとえばね、魔法には願いを増幅するものがあるの」

「ねがい?」

「ええ。ちょっとだけこうなったらいいな、と思ったことを、必要以上に膨らませてしまうの。そうすると、自分で自分を止めにくくなることがあるわ」

アインが目を丸くする。

「たのしいきもちが、おおきくなるの?」

「楽しいだけならまだいいのだけれど」

ミユウは少しだけ表情を曇らせた。

「欲しい、知りたい、やってみたい。そういう気持ちが大きくなりすぎると、周りが見えなくなることがあるのよ」

俺はその言葉に、静かにうなずいた。

なるほど、そう説明するのか。

欲しい気持ちが大きくなりすぎる。確かにそれなら、アインにも伝わるかもしれない。危険な魔法っていうと、どうしても派手な攻撃や呪いみたいなものを想像しがちだ。けど本当に厄介なのは、本人の中にあるものを勝手に大きくする力かもしれない。恐怖でも、欲でも、憧れでも。

それは外から無理やり押しつけられるより、気づきにくい。

「だから」

俺は改めてアインの目を見た。

「魔法のことを知りたい気持ちは悪くない。でも、面白そうだからって飛びつくのは駄目だ。分かるな?」

アインは今度こそ、少し真面目な顔になった。

「……うん」

その返事に嘘はなさそうだった。たぶん、全部を分かったわけじゃない。けど、俺が本気で言ってることくらいは伝わったんだろう。

それでいい。

今はまず、それでいい。

船は一定のリズム――いや、そんな洒落た言い方をしなくてもいいか。一定の揺れで海の上を進み続ける。大きく傾くことはないが、足の裏には絶えず細かな上下が伝わってくる。その揺れに合わせて、ジュリアが俺の腰に抱きついたまま体重を預けてきた。

「ジュリア、眠いのか?」

「ちょっとだけ……」

小さな声だった。潮風は気持ちいいけど、日差しと船の揺れは眠気を呼ぶ。俺はしゃがんで、ジュリアを抱き上げた。軽い。けれど、ただ軽いだけじゃない。子どもの体温ってのは、それだけで不思議なくらい胸に来る。ちゃんと生きて、ここにいて、俺を信じて腕の中におさまってくれる。その事実だけで、守る理由なんて十分すぎる。

ジュリアは俺の首に腕を回し、ほっぺたを肩に預けた。

「ノクターンリルとう、こわい?」

「怖い場所もあるかもしれない。でも、俺たちが一緒なら大丈夫だ」

「パパがいるもんね」

「そうだ」

「ママも」

「ええ、ママもいるわ」

ミユウが微笑む。

そのやりとりを見て、アインが少しだけ唇を尖らせた。甘えたいけど我慢してる顔だ。お兄ちゃんぶりたい気持ちと、まだまだ抱きつきたい気持ちの間で揺れてるのが、見ていて分かる。

「アインも来るか?」

俺が片腕を少し広げると、アインは一瞬だけ迷って、それからぱっと駆け寄ってきた。

「いく」

結局そこは素直なんだよな。

俺はジュリアを抱えたまま、空いた手でアインの頭を引き寄せた。ふたり分の重みとぬくもりが一気に胸の前に集まる。視界の端で、ミユウが困ったように、でも幸せそうに笑っていた。

こんな時間が、ずっと続けばいいと思う。

何度願っても、そう簡単に叶うものじゃないと知っている。それでも願ってしまう。俺の戦う理由なんて、案外こういうものだ。大義でも伝説でもなく、抱きしめたときに腕の中へきちんとおさまる重さを、次の日も、その次の日も失いたくないだけだ。

しばらくして、アインが俺の胸元から顔を上げた。

「ねえ、パパ」

「ん?」

「ノクターンリルとうって、まほうがつよいんだよね」

「そうらしいな」

「じゃあ、つよいまほうつかいもいるの?」

「いるかもしれない」

俺は曖昧に答えた。断言はできない。島にどんな連中がいて、どれだけの力を持っているのか、正確なところはまだ分からないからだ。

「いいひと?」

「それも分からない」

「わるいひともいる?」

「いると思っておいた方がいい」

アインはその答えを聞いても、怯えるより考え込む方が先だった。たぶん、善悪より“強い魔法使い”という響きそのものに心を引かれてる。

俺にも覚えがある。子どものころ、何かひとつ飛び抜けた力を持つ存在って、それだけで特別に見えた。すごい、かっこいい、なってみたい。そういう気持ちは自然なもんだ。否定する気はない。

ただ、力ってのは眺めるだけのときと、自分が関わるときとで意味が変わる。

「アイン」

「うん」

「強い力っていうのは、それだけで偉いわけじゃない」

「え?」

「使い方を間違えたら、強いぶんだけ厄介だ。優しい魔法も、使う人間が間違えば、人を傷つける道具になる」

俺の言葉に、アインは黙った。難しい話だろう。でも、何かは受け取ろうとしている顔をしていた。

「火だって、料理に使えば助かる。でも家の中で暴れたら全部を焼く。刃物だって、食材を切るなら役に立つ。でも振り回せば危ない。魔法も同じだ」

「……そっか」

「だから、力に憧れるなら、そのぶんだけ慎重にならなきゃいけない」

自分に言い聞かせるようでもあった。

俺だって、強くなりたいと願ってきた。ミユウを守りたい。子どもたちを守りたい。そのためなら、どんな試練だって越えてやると思ってきた。けど、強さだけを急ぎすぎたら、見失うものもある。守るための強さが、誰かを置き去りにする強さへすり替わったら意味がない。

ノクターンリル島って場所は、たぶんそういうものを試してくる気がした。

剣の切っ先じゃなく、心の置き方を。

そう思った瞬間、まだ見えない島が、急にこちらを見返してくるような気がした。もちろん気のせいだ。海の向こうにある場所が、本当に意志を持っているわけじゃない。それでも、行く前から相手の輪郭だけがこちらへ滲んでくるような感覚はあった。

期待と不安は、案外よく似た形をしている。

どちらも胸の奥をざわつかせるし、どちらもまだ起きていない出来事へ心を向けさせる。違うのは、そこへ踏み出す足の重さだけだ。期待は足を前へ出させる。不安は足首に指をかける。今の俺の中には、その両方があった。

ノクターンリル島。

魔法の源泉がある島。

不思議が満ちている島。

そして、危うさもまた濃い島。

そこへ家族を連れて行く。

選んだのは俺だ。なら、責任も俺が負う。

どんな景色が待っていようと、子どもたちに“連れてきてよかった”と思わせるのも、“来るべきじゃなかった”と後悔させないのも、結局はこれからの俺の動き次第なんだろう。

父親ってのは、そういう立場だ。

誰かが褒めてくれるから頑張るんじゃない。見えないところで先回りして、危険を減らして、安心を用意して、それでも子どもたちには窮屈さより世界の広さを感じてほしい。そう願って動く。うまくいって当たり前、失敗したら傷になる。正直、割に合うかと言われたらまったく合わない。

でも、腕の中のぬくもりが全部をひっくり返す。

このためなら、やるしかないと思える。

やらなきゃじゃない。

やりたいんだ、俺は。

やがてジュリアがうとうとしはじめたので、俺はミユウと一緒に船室へ戻ることにした。甲板から船室へ続く木の階段を下りると、外の眩しさがやわらぎ、代わりに木材と布と、ほのかな塩気の混ざった匂いが迎えてくる。揺れは少し感じやすくなるが、休むにはこっちの方がいい。

簡素だけど清潔に整えられた船室の中で、俺はジュリアを寝台にそっと横たえた。小さな靴を脱がせ、薄い布をかける。ジュリアは半分眠ったまま、手だけ俺の服を掴もうとしてきた。

「ここにいる」

そう囁くと、安心したように指の力が抜けた。

その様子を、アインが少し離れたところからじっと見ていた。

「アイン、おまえも少し休むか?」

「おれ、まだねむくない」

「そうか」

元気なのはいいことだ。けど、こういうときはたいてい、眠くないんじゃなくて興奮してるだけだ。

ミユウが窓際に立ち、揺れる光を見つめながら言った。

「ノクターンリル島に着くのは、明日の昼頃かしら」

「そのくらいだろうな」

「夜じゃなくてよかったわ」

「夜の方が名前には似合いそうだけどな」

「ええ。でも、似合うことと安全なことは別だもの」

その通りすぎて、俺は苦笑するしかなかった。

ノクターンリル。夜想曲みたいな響きのくせに、実際に待っているものは、甘い夢より厄介な現実かもしれない。むしろ、美しい名前の場所ほど油断しやすいのかもな。

アインが寝台の端に腰かけながら、足をぶらぶらさせる。

「ねえ、パパ」

「また質問か?」

「うん」

「いいぞ」

俺が答えると、アインは少しだけ声を潜めた。

「まほうって、えらばれたひとしかつかえないの?」

その問いに、俺は一瞬だけ言葉を探した。

子どもの質問は、ときどきまっすぐすぎる。回り道のないぶん、こっちの考えまで見透かしてくることがある。

「全部が全部そうとは限らないと思う」

「じゃあ、がんばったらできる?」

「適性ってものはあるかもしれない。でも、学んで扱えるようになることもあるはずだ」

「そっか……」

そこでアインは、明らかに期待の色を顔に浮かべた。隠しきれてない。いや、隠す気もあまりないな、これは。

俺はその変化を見逃さなかった。

「ただし」

先回りして釘を刺す。

「覚えることと、無茶をすることは別だ。力を知ることは悪くない。でも、自分を守れないうちに手を出すのは違う」

「むちゃしないよ」

「本当か?」

「……たぶん」

「そこは本当って言え」

思わず言うと、ミユウが肩を震わせた。笑いをこらえてる。

アインも自分で言っておかしかったのか、少し照れたように頭をかいた。

「でもさ」

アインは視線を上げる。

「まほうがつかえたら、ママのことも、ジュリアのことも、まもれるかもしれないでしょ」

その一言に、俺は息を呑みそうになった。

ああ、そうか。

ただ面白そうだからじゃないんだな。

少なくとも、それだけじゃない。

こいつの中にも、ちゃんと“守りたい”が育ち始めてる。

それが嬉しくないわけがない。誇らしくないわけがない。けど同時に、その思いだけで危ない場所へ踏み込んでほしくないとも思う。守りたいって気持ちは尊い。でも、その気持ちひとつで何でも越えられるほど、世界は優しくできてない。

俺はアインの前にしゃがみこんだ。

「気持ちは嬉しい」

そう言うと、アインの目が少し明るくなる。

「でもな、守りたいって思うやつほど、自分の無茶に鈍くなることがある」

「……どういうこと?」

「誰かのためならこれくらい平気だ、って思ってしまうんだ。痛いのも、怖いのも、危ないのも、あと回しにしやすくなる」

それは昔の俺にも、今の俺にも刺さる言葉だった。

「でも、本当に守るっていうのは、自分がちゃんと帰ってくることも含めてだ。倒れたままじゃ守れない。見えない傷を負っても守れない。だから、力を欲しがる前に、まず自分を大事にすることを覚えろ」

「じぶんを……」

「そうだ。おまえが無事でいることを、俺たちも大事に思ってる」

アインは黙り込んだ。

難しいだろう。でも、伝えておきたかった。

子どもってのは、大人が思うよりずっと早く、“誰かのため”を覚える。だからこそ、その綺麗さに酔わせすぎちゃいけない。自分を削ることが優しさみたいに思い込んだら、あとで苦しくなる。守るために強くなるのはいい。けど、自分を雑に扱う強さなんて、長くはもたない。

俺は、そのことをアインに教えられる父親でいたかった。

しばらくの沈黙のあと、アインがぽつりと言った。

「パパも?」

「ん?」

「パパも、そうなの?」

「……そうだな」

ごまかせなかった。

「俺も、気をつけなきゃいけない方だ」

「むちゃするの?」

「しないようにしてる」

「たまにしてるよ」

「見てたのかよ」

「みてるよ」

思わず苦笑がこぼれる。

参ったな。

ちゃんと見られてる。

父親の背中を見て育つ、なんて言葉はよくあるけど、実際に見られる側になると逃げ場がない。格好いいところだけじゃなく、焦るところも、無茶をこらえきれないところも、案外ばれてるんだろう。

なら、なおさらだ。

口で言うだけじゃ足りない。

俺が自分を大事にしなきゃ、アインにもその意味は届かない。

「だから」

俺はアインの頭に手を置いた。

「ノクターンリル島では、俺も気をつける。おまえも気をつける。一緒だ」

「うん」

「約束できるか?」

「できる」

今度の返事は、さっきよりずっとまっすぐだった。

そのとき、寝台の上でジュリアがもぞもぞと寝返りを打ち、小さな声を漏らした。

「パパぁ……」

「ここにいる」

すぐに答えると、ジュリアは安心したようにまた眠りへ沈んでいく。

その様子を見て、ミユウがふっと目を細めた。

「あなた」

「なんだ?」

「きっと、ノクターンリル島でも大丈夫よ」

「根拠は?」

「あなたが、怖がるべきものをちゃんと怖がっているから」

その言葉に、俺は少しだけ肩の力が抜けた。

怖がるべきものを、ちゃんと怖がる。

簡単なようで難しい。強くなりたいと願うほど、人は怖れを見ないふりしたくなる。でも見ないふりをした怖れは消えない。見えているなら、備えられる。備えられるなら、守れる。

そう考えれば、今のこの落ち着かない感じも、悪いものじゃないのかもしれない。

船室の窓の向こうで、海面が陽光を細かく返していた。金色の鱗みたいにきらきらして、目を凝らすと、同じ形の光はひとつもない。ひとつとして同じじゃない揺らぎが、海いっぱいに広がっている。

明日は、その先へ行く。

まだ見ぬ島へ。

不思議と危険の両方を抱えた場所へ。

そのとき、アインが、もう一度だけ俺を見た。今度はさっきより遠慮のない、純粋な顔だった。あれこれ考えたあとに、結局いちばん聞きたいことへ戻ってきた顔だ。

「ねえ、パパ」

「ん?」

アインは目をきらきらさせたまま、まっすぐに聞いてきた。

「まほうつかいになれるの?」

やっぱりそこか。

俺は思わず、息だけで笑った。さっきあれだけ危ないって話をしたのに、こいつの胸の中ではもう“魔法”が希望の光みたいに膨らんでいるらしい。そのまっすぐさは眩しいし、少し危なっかしいし、でも嫌いになんてなれない。

俺はアインの目の高さに合わせたまま、ゆっくり答えた。

「なれるかもしれない。けど、いい魔法ばかりではないが」

言葉の最後を少しだけ重く置く。

それでも、アインのわくわくは止まらなかった。

「それでも、みてみたい!」

身を乗り出してくる。

「どんなまほうがあるのかな。ひかるのかな。とぶのかな。おはなさいたりするのかな」

次々にあふれてくる想像に、俺は苦笑しながらも、その勢いを真正面から受け止めた。

止めたくはないと思った。

全部を。

危ないからといって、憧れまで折りたくはない。世界への好奇心は、生きていく力そのものだ。だから俺がやるべきなのは、その火を消すことじゃない。暴れないよう囲いを作って、燃える場所を見失わないよう隣で見ていることだ。

「見てみるのはいい」

俺ははっきりと言った。

「でも、俺のそばでだ。勝手に飛び出すなよ」

「うん!」

「返事が軽い」

「ほんとに!」

「ならいい」

アインは満面の笑みを浮かべた。ジュリアは眠ったままだが、きっと起きたら起きたで「ジュリアもみる」と言うんだろう。ミユウはそんな俺たちを見ながら、困ったように、それでいてどこか嬉しそうに笑っている。

明日はきっと、簡単な旅にはならない。

美しいものほど気をつけろ。

不思議なものほど距離を測れ。

力には、必ず影もある。

そう自分に言い聞かせながら、それでも俺は、家族の顔を見て思う。

このわくわくまで守りたい。

怯えさせるためじゃなく、ちゃんと見せてやるために。

危険を避けるだけじゃなく、世界の広さを知ってもらうために。

父親として、勇者として、俺は明日も前へ出る。

ノクターンリル島。

その名を胸の内で静かに繰り返す。

まだ見ぬ島の不穏さも、そこに眠る不思議も、きっと俺たちを試してくる。

けれど、だからこそ目を逸らさない。

俺は、家族と一緒に行く。

その先にどんな魔法が待っていようと。

たとえそれが、甘い光だけじゃなく、危うい闇を含んでいたとしても。

守るべきものを、この腕の中に確かに感じながら、俺はゆっくりと息を吐いた