軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第120話 静かな夜

船が波を切る音が、夜の静けさの中でやけに大きく感じられた。

ヴェイルルナ島を離れてから、どれくらいの時間が経ったのか、正確には分からない。だが、あの場所にいたときにまとわりついていた重苦しい気配は、もうこの船には届いていなかった。

代わりにあるのは、広くて、深くて、底が見えないほどの静けさだ。

夜の海は、昼とはまるで別の顔をしている。黒に近い青がどこまでも広がり、星の光だけが頼りない道しるべみたいに瞬いている。その光が波に砕けて、小さな粒になっては消えていく。

その景色を見ていると、不思議と呼吸がゆっくりになる。

――帰ってきた。

そんな感覚が、ようやく体の奥に落ちてくる。

甲板に立っていた俺は、しばらくそのまま海を眺めていたが、やがて踵を返した。

船室へ戻ると、空気がほんの少し温かい。外の冷えた風とは違う、人の気配が残っている空間だった。

「……寝たか」

小さく呟く。

ベッドの上には、アインとジュリアが並んで眠っている。

ジュリアは布団を半分蹴飛ばしていて、アインはそれを無意識に引き寄せている。どちらも、さっきまでの疲れをそのまま押し込めたように、深い眠りに落ちていた。

頬にはまだうっすらと熱が残っている気がする。

あの島での出来事が、どれだけ身体に負担をかけていたのか、こうして静かになってみて初めて実感する。

俺はそっと近づき、ジュリアのはだけた布団を直した。

小さな指が、わずかに動く。

「……ん……ぱぱ……」

寝言ともつかない声に、思わず口元が緩む。

「ここにいるよ」

聞こえていないと分かっていても、そう返してしまう。

その声に応えるように、ジュリアは安心したみたいに呼吸を整えた。

――守れた。

その実感が、遅れて胸に広がる。

もし、ほんの少しでも判断を誤っていたら、この光景はなかったかもしれない。

そう思うと、背中に冷たいものが走る。

「……あなた」

背後から、静かな声が届いた。

振り返ると、ミユウが扉のそばに立っていた。

銀の髪が灯りに透けて、やわらかな光を帯びている。戦いの最中に見せる鋭さは影を潜めて、今はただ、穏やかな表情をしていた。

「ふたりとも、よく眠っているわね」

「ああ。限界だったんだろ」

「あなたも、同じ顔をしているわ」

そう言われて、思わず苦笑する。

「そんなに分かりやすいか?」

「ええ、とても」

ミユウは小さく笑いながら近づいてくる。

その足音はほとんど聞こえない。だが、不思議と存在だけははっきりと感じる。

すぐそばで立ち止まると、彼女は俺と同じように子供たちを見つめた。

「……無事で、よかった」

ぽつりと漏れたその言葉は、風に紛れるほど小さかった。

だが、確かに聞こえた。

俺はゆっくりとうなずく。

「ああ」

それ以上の言葉は、必要なかった。

沈黙が落ちる。

けれど、それは重たいものじゃない。

互いに同じものを見て、同じものを感じていると分かるだけで、言葉は少なくていい。

しばらくして、ミユウがわずかに視線を逸らした。

「……ねえ、龍夜」

「ん?」

「少しだけ、聞いてもいいかしら」

その声音が、いつもより少しだけ柔らかい。

何かをためらっているような気配がある。

「いいけど」

答えると、彼女は一度だけ息を整えた。

「あなた……あの時」

言いかけて、言葉を探すように間を置く。

「ヴェイルルナの女王に、心を引き寄せられそうになったでしょう」

まっすぐな問いだった。

逃げ道は用意されていない。

俺は視線を外さず、そのまま答える。

「……ああ」

短く、正直に。

ミユウの瞳が、わずかに揺れる。

「ほんの一瞬だけだ。でも、完全に無視できたわけじゃない」

言葉にしてしまうと、その事実がよりはっきりと輪郭を持つ。

胸の奥に残っていた違和感が、形を与えられる。

「……そう」

ミユウは小さく頷いた。

怒るでも、責めるでもない。

ただ、その事実を受け止めている。

その反応が、逆に胸に刺さる。

「悪い」

自然と、言葉がこぼれた。

ミユウは驚いたように顔を上げる。

「どうして謝るの?」

「いや……」

言葉を選ぶ。

言い訳はしたくなかった。

「揺れたのは事実だし、それでお前に嫌な思いさせたなら、謝るしかないだろ」

そう言うと、ミユウはほんの少しだけ目を細めた。

「……正直ね」

「嘘つく理由がない」

「ええ、そうね」

彼女は少しだけ視線を落とし、指先を軽く握る。

「……少しだけ、ね」

「ん?」

「少しだけ、嫌だったの」

その言い方は、驚くほど素直だった。

「嫉妬……してしまったのかもしれないわ」

照れたように笑うその表情に、胸の奥がきしむ。

こんな顔をさせたのか、と。

「……悪かった」

もう一度、同じ言葉を口にする。

今度は、よりはっきりとした重みを持って。

ミユウは首を横に振った。

「いいの。あなたは戻ってきた。それで十分」

そして、ゆっくりと距離を詰めてくる。

互いの呼吸が、重なるほど近くなる。

「でも――」

彼女は小さく呟いた。

「ちゃんと、確かめたいの」

その意味を理解するのに、時間はかからなかった。

俺はそっと手を伸ばし、彼女の頬に触れる。

温かい。

確かに、ここにいる。

その感触を確かめるように、指先に力を込める。

ミユウは目を閉じた。

逃げる様子はない。

むしろ、静かに受け入れている。

ゆっくりと距離を詰める。

急ぐ必要はない。

ここは戦場じゃない。

守るために剣を振るう場所でもない。

ただ、確かめるための時間だ。

唇が触れる。

ほんの一瞬、時間が止まったような感覚があった。

柔らかくて、温かくて、現実のものだと分かる感触。

深くはない。

けれど、離れるまでのわずかな時間が、妙に長く感じられた。

触れているだけで、胸の奥にあったざらつきが、静かにほどけていく。

離れると、ミユウはゆっくりと目を開けた。

わずかに息が乱れている。

「……これで、安心したわ」

「そうか」

「ええ。あなたはちゃんと、ここにいる」

その言葉が、妙に胸に残る。

俺はもう一度、彼女の手を握った。

確かめるように。

――その瞬間だった。

「ぱぱぁあああああ!」

船室の奥から、元気すぎる声が響いた。

反射的に振り向く。

ベッドの上で、ジュリアが勢いよく起き上がっていた。

「ぱぱ! まま! ちゅーしてる!」

……見られていた。

一瞬で現実に引き戻される。

「じゅりあ、みちゃった!」

目を輝かせながら、全力で報告してくる。

「ぱぱとまま、だいすき!」

その言葉に、思わず力が抜ける。

さっきまでの空気は、跡形もなく消えていた。

「おい、ジュリア、声でかい――」

「なにごとだ……?」

隣でアインがむくりと起き上がる。

「ぱぱとままがちゅーしてる!」

「……なんだそれ」

一瞬の沈黙のあと。

「おれもまぜろ」

「まてまてまて!」

俺は慌てて二人の間に入る。

静かな時間は、完全に崩壊した。

ミユウは顔を赤くしたまま、小さくため息をつく。

「……もう」

「まあ、こうなるよな」

ジュリアがぴょんと飛びついてくる。

「ぱぱ!」

「ああ、はいはい」

抱き上げると、軽い体が腕の中に収まる。

アインも反対側から寄ってくる。

「おれも」

「わかったって」

両腕がふさがる。

けれど、不思議と嫌じゃない。

むしろ、これが当たり前だと感じる。

さっきまでの静けさとは違うけど、こっちの方が俺にはしっくりくる。

「……なあ」

ふたりの頭を撫でながら、口を開く。

「次の行き先だけどな」

ミユウがこちらを見る。

子供たちも、興味を持ったように顔を上げる。

俺は一度だけ、夜の海を思い浮かべた。

あの静けさの向こうにある、まだ見ぬ場所。

「次の島は――ノクターンリル島だ」

その名前を口にした瞬間、胸の奥に小さなざわめきが生まれる。

理由は分からない。

だが、ただの旅じゃ終わらない予感だけは、確かにあった。

まるで、あの島自体が、こちらを待っているみたいに。