軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第119話 宝玉の問い

赤い宝玉を手にしたあともしばらく、俺の指先には妙な熱が残っていた。

ただ温かいだけじゃない。冷たい火種を皮膚の内側へ埋め込まれたみたいに、じわじわと消えない感触だった。握りしめた掌を開いても、指を何度擦り合わせても、その違和感は抜けてくれない。

宝玉の間を出て、湿った夜気を含んだ回廊へ戻ってきた今も、それは続いていた。

いや、残っていたのは手の感覚だけじゃない。

あの幻覚だ。

人間界の、あの息が詰まるような部屋。パソコンの画面に並ぶ数字。無表情な蛍光灯。誰も待っていない部屋。帰る理由も、守る相手も、笑い声もない、灰色に乾いた毎日。

脳裏から追い出したはずなのに、ふとした拍子にその光景がぬるりと浮かび上がる。

今だってそうだ。

目の前には石壁があるはずなのに、一瞬だけ白いオフィスの壁に見えた。足元には黒い床石があるのに、見慣れない事務室のタイルが重なる。遠くで水音みたいに響いていた城の唸りが、気づけばキーボードを叩く乾いた音にすり替わる。

頭の奥を、鈍い爪で引っ掻かれるような不快感が走った。

「っ……」

思わずこめかみを押さえる。

違う。ここは人間界じゃない。俺はあの灰色の部屋に戻ったんじゃない。ミユウとアインとジュリアと一緒に、ヴェイルルナ島の奥深くにいる。

わかっている。わかっているのに、幻覚は簡単に剥がれ落ちてくれなかった。

瞼の裏に、また映る。

机の上に積まれた書類。刺々しい声で責め立てる上司。何も言い返せず、肩を縮めている自分。クビだと告げられた時の、足元から床が消えたみたいな虚しさ。

胸の中で、見えない何かがじくじくと疼く。

宝玉が俺に問いかけた言葉が、まだ耳の奥に刺さっていた。

お前は、大切な者を失っても、一人で戦う覚悟があるか。

あの問いは、終わっていない。

宝玉を手に入れて終わりじゃない。むしろ、認められたあともなお、こうして心の傷口を指先でなぞるように揺さぶってくる。まるで俺の決意に本当の芯があるのか、まだ見定めようとしているみたいだった。

「パパ?」

ふいに呼ばれて、俺ははっと顔を上げた。

ジュリアが不安そうに俺を見上げていた。大きな瞳が揺れている。俺の裾を小さな手でつまみ、その顔を覗き込むように首を傾げていた。

「……ああ、悪い」

喉が少し掠れていた。無理に声を整えながら、俺はジュリアの頭へ手を伸ばす。

「ぼーっとしてた」

「だいじょうぶ? おかお、ちょっとこわいよ」

その言葉に、胸がちくりとした。

俺は知らないうちに、そんな顔をしていたのか。

宝玉の幻覚に囚われている間、家族にまで不安を移してどうする。俺がぶれていたら、背中を見てついてくるこいつらまで揺らいでしまう。

俺はしゃがみ込み、ジュリアと目の高さを合わせた。

「心配かけたな。もう大丈夫だ」

「ほんと?」

「ほんとだ」

そう言って笑ってみせると、ジュリアはじっと俺の顔を見つめて、それからおずおずと両手を伸ばしてきた。

「じゃあ、なでなでする」

「ん?」

「パパ、いたいの、とんでけするの」

小さな手が俺の頬に触れる。

ひどく柔らかかった。戦いのあとで冷えた肌に、そのぬくもりだけが不思議なくらいはっきり伝わってくる。

ジュリアは真剣な顔で、子守歌でも歌うみたいな調子で言った。

「いたいの、いたいの、とんでけ。わるいゆめも、とんでけ。パパ、もうなかない」

泣いてはいない。

けれど、その言葉に、胸の奥のもっと深いところが揺れた。

子どもの慰めなんて、理屈からいえば何の力もないのかもしれない。傷を治すわけでも、幻覚を追い払うわけでもない。でも、今の俺には、その小さなぬくもりが何より効いた。

目を閉じればまだあの灰色の景色は浮かぶ。それでも、今頬に触れているこの手が現実だ。俺が守ると決めた温度が、ちゃんとここにある。

俺はそっとジュリアの手に自分の手を重ねた。

「ありがとう、ジュリア」

「えへへ……パパ、わらった」

安堵したようにジュリアが笑う。その笑顔を見た瞬間、さっきまで胸にまとわりついていた薄暗い霧が、少しだけ薄くなった気がした。

「あなた」

ミユウの声が静かにかかる。振り向くと、彼女は俺の様子を確かめるように目を細めていた。何も言わなくても、俺がまだ引きずっていることを見抜いているんだろう。

「無理に振る舞わなくていいわ。でも、今はここを出なければ」

「ああ。わかってる」

俺は立ち上がった。

赤い宝玉――いや、二つ目の宝玉は、淡く脈打ちながら俺の手の中で沈黙している。さっきの試練の中心にあったとは思えないほど静かだ。けれど、この石の奥には何かが潜んでいる。そう思わせる不気味さは消えていなかった。

俺たちは城の外へ続く通路を急いだ。

扉を抜けると、夜の風が頬を打つ。空気は冷たく、少し湿っていて、城の中の淀みよりはずっとましだった。けれど、胸いっぱいに吸い込んでも妙な息苦しさが消えない。島全体が、満ちた月の光を最後まで搾り取ろうとしているみたいだった。

空を見上げる。

満月が、さっきより明らかに低くなっていた。

白銀の輪郭はまだ美しいのに、その下端がじわりと暗闇へ食われはじめている。夜空の中心に君臨していたはずの光が、気づけばゆっくりと沈みかけていた。

「……まずいわ」

ミユウが立ち止まり、息を呑んだ。

その声色に、俺は思わず彼女を見る。

「どうした」

「月よ」

ミユウは上を見たまま言った。

「この島の結界……月の光と繋がっているのかもしれない。わたしたちがここへ来られたのも、船が島へ近づけたのも、満月が空にある間だけだったのなら――」

そこまで聞いて、俺もすぐに気づいた。

背筋を冷たいものが走る。

「月が消えたら……」

「ええ。出られなくなるわ」

淡々と告げられたその言葉の重さが、すぐには飲み込めなかった。

出られなくなる。

それはただ一晩足止めされる、なんて意味じゃない。この島は霧に包まれ、現れては消える異界の孤島だ。月が沈み、結界が閉じたら、次にいつ道が開くかわからない。もしかしたら永遠に、人の世界へ戻れないかもしれない。

俺は反射的に海の方を見た。城の外縁からは断崖の向こうに銀色の海が覗く。その先に停めた船が、まだ月光を受けて頼りなく浮かんでいるのが見えた。

「パパ……おうち、かえれなくなるの?」

ジュリアの声が震える。

アインも唇をきゅっと引き結んでいた。五歳だって、“帰れない”がどんな重みを持つかはわかるんだろう。

俺はすぐに答えた。

「帰る」

迷いは見せない。

「絶対に帰る。そのために今から船まで走るぞ」

「うん!」

「うん……!」

二人の返事は少し掠れていたが、それでもちゃんと前を向いていた。

その時だった。

空気が変わる。

さっきまで海風に混じっていた冷たさが、急に別の匂いへ変わった。焦げた鉄みたいな、生臭いような、喉に引っかかる嫌な匂い。

同時に、満月の縁がまた少し闇に欠ける。

その暗がりから、何かが這い出してきた。

最初は霧かと思った。黒い靄が地面すれすれを滑るように広がり、岩陰や城壁の裂け目へ潜り込んでいく。けれどそれは、すぐに形を持ち始めた。

腕。

脚。

捻じれた翼。

裂けた口。

月の光を嫌うように身をよじりながら、悪魔たちが姿を現す。

数は一体や二体じゃない。月が欠けるたび、闇の底から次々に湧き上がってくる。牙を覗かせ、地を這い、あるいは翼で低く飛びながら、俺たちの逃げ道を塞ぐように広がっていく。

「来るぞ!」

俺は咄嗟に前へ出た。

悪魔の姿はそれぞれ違っていた。獣じみた頭を持つもの、痩せた人型に蝙蝠の翼を生やしたもの、上半身だけで地面を這うもの。だが共通しているのは、全部がこの世のものとは思えない歪さをまとっていることだった。

その目が、一斉に俺たちを捉える。

飢えた獣の目だ。

「ぎゃ、ぎゃ、ぎゃ――ッ!」

耳障りな鳴き声が夜気を裂く。

次の瞬間、先頭の一体が飛びかかってきた。

反射的に剣を抜く。だが、その刃が相手へ届く直前、視界がまた一瞬ぶれた。

白い蛍光灯。机。数字の並んだ画面。

「っ……!」

まずい。幻覚だ。

悪魔の爪が目前まで迫る。俺は体を捻ってなんとかかわしたが、風圧が頬を掠めた。薄皮が切れたのか、熱いものが一筋流れる。

「パパ!」

アインの叫びが響く。

現実へ引き戻される。けれど次の瞬間にはまた、別の幻覚が差し込んだ。

書類を机へ叩きつける上司の手。

自動ドアの向こうへ吐き出される自分の体。

鍵のかかった静まり返った部屋。

頭が割れそうだった。記憶じゃない。もっと生々しい。今この瞬間にも、俺がそっちへ引きずり込まれてしまいそうな強さで押し寄せてくる。

宝玉がまだ試している。

お前は本当に、今ここで戦えるのか、と。

歯を食いしばる。けれど痛みだけでは追い払えない。胸の奥に冷えた杭を打ち込まれるように、幻覚は何度でも形を変えて蘇る。

悪魔が左右から迫る。

俺は剣で一体の腕を斬り落とし、返す刃で二体目の喉元を裂いた。黒い血が弧を描いて飛び散る。だが、その飛沫さえ一瞬、オフィスの白い壁にこびりつくインクみたいに見えて、吐き気が込み上げる。

「くそっ……!」

足元を這ってきた小型の悪魔を蹴り飛ばす。背後から翼持ちが飛来する気配。振り向きざまに剣を振り上げ、胴を真っ二つに断つ。

切れる。戦える。体は動く。

なのに頭の中だけが、執拗に別の世界へ引き裂かれていく。

『お前は独りだ』

まただ。

耳の奥へ、あの声が落ちてくる。

『失った後でも立てるのか』

「うるさい……!」

吐き捨てるように叫んだ瞬間、地面から伸びた黒い腕が足首へ絡みついた。バランスが崩れる。そこへ正面から大柄な悪魔が口を開いて突っ込んでくる。

避けきれない――そう思った時だった。

「パパ、だめぇっ!」

ジュリアの悲鳴のような声が響いた。

その声で、心臓が強く打つ。

違う。

俺はここにいる。

俺を呼ぶ声がある。

帰る場所がある。

守る相手がある。

なら、こんな幻に足を取られている暇なんてない。

俺は足首に絡んだ黒い腕を無理やり引きちぎった。皮膚を擦る不快な感触と一緒に、体の奥から青い熱が噴き上がる。

胸の中心で、光が爆ぜた。

次の瞬間、蒼い輝きが全身を走り抜ける。

肩、腕、胸、腰、脚――星屑みたいな光の粒が絡み合い、青い鎧へ変わっていく。装甲が噛み合う硬質な音が、骨の奥まで響く。視界の輪郭が一気に研ぎ澄まされ、月光の反射さえ鋭い刃のように感じられた。

再び覚醒する。

幻覚に侵されていた頭の中へ、冷たい水を浴びせられたみたいに感覚が戻った。

あの人間界の景色は、まだ消えていない。消えていないが、もう飲まれない。

目の前の現実の方が、ずっと重いからだ。

「おおおおっ!」

声を張り上げながら、俺は正面の悪魔へ踏み込んだ。

振り下ろした剣が、相手の胴を肩から斜めに裂く。骨も肉も関係ない。青い光をまとった刃は、黒い魔力ごと真っ二つに断ち切った。

そのまま止まらない。

横から飛びかかってきた翼持ちの首を一閃で落とし、左手で殴りつけて別の一体を壁へ叩きつける。青い鎧に包まれた拳は岩を砕く勢いで悪魔の顔面へめり込み、頭蓋ごと粉砕した。

「ぎゃああっ!」

「うるせぇ!」

咆哮とともに蹴りを放つ。足元へ群がってきた連中が、まとめて吹き飛ぶ。崖際の岩へ叩きつけられた悪魔たちが、黒い霧になって散った。

月がまた少し欠ける。

新たな悪魔が、闇の裂け目から這い出す。

けれどもう、恐れる理由はなかった。

来るなら全部叩き潰す。

船へ辿り着くまでの道を塞ぐなら、まとめて薙ぎ払うだけだ。

「アイン、ジュリア、ミユウ! 俺の後ろを離れるな!」

「うん!」

「う、うんっ!」

「ええ、合わせるわ!」

声が重なる。

それだけで、胸の芯にさらに力が入った。

正面から三体同時に迫る。俺は地を蹴った。青い鎧が夜を裂き、踏み込んだ足元から砂と火花が弾ける。振るった剣から青白い残光が迸り、横一文字に広がった。

斬撃の軌跡に触れた悪魔たちが、まとめて胴を断たれる。

まだ終わりじゃない。後方から大型の一体が翼を広げ、上空から落ちてくる。巨体のくせに速い。だが、その程度だ。

俺は剣を逆手に持ち替え、真上へ突き上げた。

切っ先が腹を貫き、そのまま背まで突き抜ける。

重い肉の感触を腕で受け止めたまま、俺は咆えるようにその巨体を持ち上げ、地面へ叩きつけた。大地が揺れ、岩が割れ、悪魔の身体が衝撃で四散する。

凄まじい勢いで舞い上がった黒い霧が、月光に照らされて散っていく。

「パパ、すごい……!」

ジュリアの震え混じりの声が聞こえた。

その声に背を押されるように、俺はさらに前へ出た。

幻覚が、また頭を掠める。

だが今度は、それに呑まれなかった。

画面の数字よりも、俺の手の中の剣の方が確かだ。上司の怒声よりも、家族の呼ぶ声の方がずっと強く響く。誰もいない部屋の静けさより、今この夜に鳴り続ける鼓動の方が本物だ。

俺はここにいる。

そして、守る。

その思いだけが、青い鎧の輝きをいっそう研ぎ澄ませていった。

悪魔たちは数で押そうとしていた。だが、群れれば群れるほど狙いやすい。俺は一気に踏み込み、連中の中心へ飛び込んだ。

「道を開けろぉっ!」

剣を振るう。

一閃。

二閃。

三閃。

青い光が夜を何本も走り、悪魔たちの群れを紙みたいに裂いていく。首が飛び、腕が落ち、胴が砕け、断末魔が渦を巻く。霧と血と魔力の残滓が混ざり合い、鼻を突く匂いがさらに濃くなる。だが、もう足は止まらない。

俺が切り開いた道の後ろを、家族が走る。

船まであと少しだ。

断崖沿いの細い坂を駆け下りると、海から吹きつける風が一気に強くなった。岸に繋いであった船が、波に揺られてきしんでいる。月光が沈むにつれて、海面の銀色も薄れはじめていた。

「急げ!」

後ろから、また悪魔の気配。

振り向くと、最後の群れが斜面を這い下りてくるところだった。影の塊みたいな連中が、月の消える前に俺たちを引きずり戻そうと躍起になっている。

俺は足を止め、最後に一度だけ剣を構えた。

宝玉の幻覚が頭の奥で燻っている。疲労もある。だが、それでもこの一撃なら届くとわかった。

全身へ力を巡らせる。

青い鎧の光が胸から剣へ流れ込み、刃そのものが蒼い炎みたいに輝き出す。

息を吸う。

肺の奥へ、夜の冷たさが刺さる。

そして、吐くと同時に振り抜いた。

弧を描いた光が、斜面いっぱいに広がる。

それはただの斬撃じゃなかった。海風を巻き込み、地を削り、一直線に走る蒼き奔流だった。群がる悪魔たちは抵抗する暇もなく呑み込まれ、悲鳴ごと吹き飛ばされていく。岩肌が裂け、黒い霧が夜空へ散り、追手の群れは跡形もなく消し飛んだ。

静寂が落ちる。

波音だけが、ようやく戻ってきた。

「いまだ! 船に!」

俺が叫ぶと、アインが先に飛び乗る。ミユウがジュリアを抱き上げ、軽やかに船縁を越えた。

次の瞬間、空を見上げた俺の背筋が総毛立つ。

月が、沈む。

白銀の輪郭が最後の細い弧となり、海の向こうへ吸い込まれていく。

まずい。

俺は岸を蹴った。

船との距離はほんのわずか。それなのに、その間の空気が急に遠くなった気がした。島全体が、最後の瞬間に俺を引き留めようとしているみたいだった。足首へ絡みつくような重さ。背中を掴まれるような気配。

それでも、跳ぶ。

手を伸ばす。

「パパ!」

ジュリアの叫びが耳に届く。

その声へ引かれるように、俺の指先が船縁を掴んだ。腕へ全体重がかかる。肩が軋む。だが離さない。腹筋に力を込め、一気によじ登る。

船へ転がり込んだ瞬間、ミユウが俺の腕を掴んだ。

「あなた!」

「ああ……間に合った」

言いながら息を吐く。その声が自分でも驚くほど荒かった。

次の瞬間だった。

ヴェイルルナ島を覆うように、濃い霧が一気に噴き上がる。

海から立つ霧じゃない。島そのものが白く崩れ、その輪郭を煙へ変えていくみたいな、異様な光景だった。城も、断崖も、闇の中に沈んでいた森も、すべてがあっという間に白い帳の向こうへ溶けていく。

「しまが……」

ジュリアが息を呑む。

俺たちは揺れる船の上から、その光景を見つめるしかなかった。

霧は渦を巻きながら広がり、やがて何もかも隠し尽くした。ついさっきまでそこにあった巨大な島が、目の前で丸ごと世界から切り取られていく。まるで最初から存在しなかったみたいに。

そして、霧がふっと薄れた時には、もうそこには何もなかった。

あるのは夜明け前の海だけだ。

静かな波が船腹を叩き、遠くの空がわずかに白みはじめている。

ヴェイルルナ島は、完全に消えていた。

俺は荒い呼吸を整えながら、胸元にしまった二つ目の宝玉へ手を当てた。冷たいはずの石は、まだ微かに熱を残していて、その奥で何かが目を覚ましつつあるようだった。