作品タイトル不明
第118話 幻覚を砕いた男
宝玉の間に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
それまでの通路に漂っていた冷たい湿り気とは違う。ここに満ちているのは、古い神殿にだけある、息を潜めたような静けさだった。音が吸い込まれていく。自分の靴音さえ、やけに遠くで鳴っているように感じる。壁には深紅の鉱石がところどころ埋め込まれていて、そこから漏れる淡い光が、広い石造りの空間をぼんやりと照らしていた。
部屋の中央には、白い石で組まれた祭壇があった。
その上に置かれているものを見た瞬間、俺は思わず息をのんだ。
赤い宝玉だった。
ただ赤いというだけじゃない。燃えているようでもあり、血潮のようでもあり、夕暮れの最後のひとすじを閉じ込めたようでもある。不思議な光だ。表面は滑らかなはずなのに、その奥では幾重もの火の膜が揺れていて、見つめているだけで意識が吸い寄せられそうになる。
「……これが、試練の宝玉か」
思わず口に出すと、声が広い空間に小さく広がり、すぐに消えた。
背後にいるミユウたちの気配は感じていた。けれど、ここから先は俺が進むべき場所だと、肌でわかった。祭壇へ向かう一歩一歩が、やけに重い。鎧のきしむ音が、やけに大きく耳に響く。
俺は祭壇の前で足を止めた。
宝玉は、まるで俺を待っていたみたいに脈打っていた。どくん、どくんと、心臓に似た間で赤い光を明滅させている。そのたびに、胸の奥が妙にざわつく。恐怖とは少し違う。見透かされることへの本能的な警戒に近かった。
手を伸ばしかけた、その時だった。
声がした。
いや、耳で聞いたわけじゃない。言葉が、直接、心の内側へ落ちてきた。
『お前は』
低くも高くもない、不思議な響きだった。男とも女ともつかない。年老いているようでもあり、幼いようでもある。ひとつの声というより、幾つもの声が重なり合ってひとつの言葉になっているようだった。
『お前は、大切な者を失っても、一人で戦う覚悟があるか』
ぞくりと背筋が粟立った。
まるで胸の奥に隠してきたものへ、いきなり手を突っ込まれたような気分だった。俺は思わず眉を寄せる。
「何だ、その問いは」
返した声は、自分でも驚くほど低かった。
『答えよ』
赤い宝玉の光が強くなる。祭壇の白い石に、赤い波紋のようなものが広がっていく。
『守ると誓うだけでは足りぬ。奪われた後なお、折れずに立てるか。それでもなお、前へ進めるか。お前の心は、その絶望に耐えうるか』
言葉の一つ一つが重かった。
俺は拳を握った。守る覚悟なら、何度でも示してきた。ミユウを守る。アインとジュリアを守る。そのために強くなる。何を捨てても、それだけは譲れない。そう思ってここまで来た。
だが――失った後のことまで、俺は本気で考えたことがあっただろうか。
守れなかったらどうする。
全てを奪われたらどうする。
その時の俺は、何を支えに立てる。
喉の奥が、ひどく乾いた。
「……そんな未来、認めるつもりはない」
絞り出した言葉に、宝玉は静かに脈打つだけだった。
『ならば、見よ』
その瞬間、赤い光が一気に膨れ上がった。
視界が、赤に呑まれる。
足元の感覚が消えた。床も、祭壇も、神殿の壁も、一瞬でほどけていく。まるで世界の輪郭そのものが溶けてしまったみたいに、何もかもが遠ざかっていった。
「っ……!」
目を閉じようとしても閉じられない。逃げ場のない光の奔流の中で、俺はただ立ち尽くすしかなかった。
やがて赤は、灰色へと変わった。
鼻をつくのは、乾いた空調の匂い。
耳に飛び込んでくるのは、人の気配のない機械音。規則的な電子音、キーボードを叩く音、どこか遠くで鳴る電話の着信音。
目の前には、見覚えのある景色が広がっていた。
人間界だった。
しかも、ただの人間界じゃない。俺がかつていた世界、その中でも、何の色も持たない日常の切れ端。その景色が、あまりにも生々しい輪郭で俺の前に立ち現れていた。
白い天井。灰色の床。並んだデスク。仕切り板。光沢のない事務机。無機質な蛍光灯が、全部を平たく照らしている。窓の外には、どこにでもありそうなビル群。空は曇っていた。晴れでも雨でもない、気持ちまで湿らせるような鈍い色だった。
俺は椅子に座っていた。
指先は勝手に動き、キーボードを叩いている。画面には表計算ソフトが開かれ、ずらりと数字が並んでいた。桁ばかりが整然と並ぶその画面を見た瞬間、胸の奥に言いようのない虚しさが広がる。
――俺は、二十六歳だった。
独身。
狭いアパートと会社を往復するだけの毎日。
誰かを守るための剣もない。笑い合う家族もいない。ミユウも、アインも、ジュリアも、最初から存在しなかったみたいに、どこにもいない。
「……何だよ、これ」
口に出したつもりだったのに、声は喉に引っかかった。
周囲の人間は、誰も俺を見ていなかった。皆、自分の画面だけを見つめている。誰かが咳をしても、誰も顔を上げない。時計の針が進み、数字だけが積み重なっていく。時間は流れているはずなのに、そこには何も残らない。
昼休みになっても、俺は一人だった。
コンビニの安いパンと、冷めたコーヒー。休憩室のテレビでは、明るい声の司会者が何かを笑っていた。けれど、その笑いは薄いガラスの向こう側みたいに遠い。隣の席の誰かがスマホで家族の写真を見て微笑んでいるのが目に入って、胸の奥に小さな痛みが走った。
何でだ。
何で俺は、こんなにも何かを失った気分でいる。
何を失ったのかも、ここでは思い出せないはずなのに。
帰り道。駅へ向かう人の波に押されながら歩く。誰も俺を見ない。俺も誰も見ない。信号が青になれば渡り、赤になれば止まる。それだけの繰り返しだ。ショーウィンドウに映った自分の顔は疲れていて、目の奥が死んでいた。若いはずなのに、もう何年も夢を見ていない人間の顔だった。
アパートの部屋は、暗くて狭かった。
靴を脱ぎ、ネクタイを外し、電気をつける。白い壁。小さなテーブル。積み上がった書類。洗い物の残る流し台。冷蔵庫を開けても、ろくなものは入っていない。誰かの「おかえり」が聞こえることもない。部屋の空気は冷えきっていて、それが余計に静けさを際立たせていた。
俺はその場に立ち尽くした。
耳の奥で、幼い声がした気がした。
『パパ!』
振り向く。
誰もいない。
ただの空耳だ。なのに、胸が締めつけられる。ひどく懐かしいものを、もう二度と手に入らない形で思い出しかけている。そんな感覚だった。
「……ジュリア?」
無意識にその名前が唇から零れた瞬間、自分で息をのんだ。
何で今、その名前が出た。
誰だ、ジュリアって。
俺は額を押さえた。頭が痛い。記憶の奥で、確かに誰かが笑っている。銀色の髪がふわふわと揺れる。小さな手が俺の服を引く。もう一人、よく似た顔の子が胸を張って何かを言っている。銀色の髪が柔らかく風に揺れ、優しい声が俺を呼ぶ。
あなた、と。
次の朝、会社で上司に呼ばれた。
薄い会議室。閉められたドア。長机の向こうに座る男は、眉間に皺を寄せたまま書類を机に叩きつけた。
「君さ、何度同じミスをするんだ?」
冷えた声だった。
「いや、でも……確認はしたはずで」
「はず、で仕事をするな」
ぴしゃりと言い切られる。
「君のそういう甘さ、前から問題になってるんだよ。やる気がないなら辞めてもらっても構わない。正直、代わりはいくらでもいる」
その言葉が、やけに鮮明に胸へ刺さった。
代わりはいくらでもいる。
その瞬間、頭のどこかで何かが軋んだ。
違う、と心の奥が叫ぶ。
俺は、そんな言葉で折れるために生きてきたんじゃない。
俺には、もっと――もっと大事なものがあったはずだ。
「聞いてるのか?」
上司が苛立ったように机を指で叩く。
「最近の君は使いものにならない。周りに迷惑ばかりかけてる。会社は学校じゃないんだ。気分で来て、気分で落ち込まれても困るんだよ」
その一言で、胸の内に溜まっていたものが一気に逆流した。
気分だと?
ふざけるな。
俺が抱えている喪失は、そんな軽い言葉で片づけられるものじゃない。なのに、この世界では誰もそれを知らない。知らないまま、数字だけを見て、人を切り捨てていく。
「……るな」
「あ?」
「勝手に……決めつけるな」
自分の声が震えていた。だが、それは怯えじゃない。押し殺していた怒りと、どうしようもない違和感が混ざり合って噴き出してくる震えだった。
上司は呆れたように椅子にもたれた。
「その態度なら、もういい。君、明日から来なくていいよ。正式な手続きは人事から連絡する」
クビ。
その言葉が落ちた瞬間、景色がわずかに揺らいだ。
会議室の壁が、水面みたいに歪む。
俺は目を見開いた。
今だ。今ならわかる。この世界はおかしい。こんなものが俺の現実であるはずがない。もし本当に俺がただの会社員で、何も持たない人生を送っていたとしても――胸の奥に焼きついている温もりまで、偽物にできるわけがない。
小さな手の重み。
「パパ」と呼ぶ声。
「あなた」と微笑む声。
あの光景だけは、こんな灰色の世界より、ずっと鮮やかだった。
「……違う」
机に両手をついたまま、俺は歯を食いしばった。
「こんなのは……違う!」
叫んだ瞬間、会議室の窓ガラスが砕け散った。
いや、砕けたのは窓じゃない。世界そのものだ。
灰色の壁がひび割れ、床が崩れ、蛍光灯の白い光が赤い火花へ変わっていく。上司の顔が崩れ、机も椅子も紙も、全部が乾いた砂みたいにほどけていく。
「俺は一人じゃない!」
喉が裂けそうになるくらい声を張り上げる。
「ミユウがいる! アインがいる! ジュリアがいる! 俺は――あいつらと生きるって決めたんだ!」
名前を叫ぶたび、胸の奥に熱が戻ってくる。失いかけていた輪郭が、ひとつずつはっきりしていく。ミユウの笑顔。アインのまっすぐな目。ジュリアの甘える声。どれも偽物じゃない。俺がここまで守ってきた、かけがえのない現実だ。
赤い光が再び視界を満たした。
次に気づいた時、俺は祭壇の前に膝をついていた。
肩で息をする。全身が汗で重い。ほんの短い間の出来事だったはずなのに、何日も別の人生を生きて戻ってきたみたいな疲労が体に残っていた。
祭壇の上の赤い宝玉は、さっきまでよりも静かな光をたたえていた。
『見事だ』
あの声が、再び心の内側に響く。
今度の響きには、試すような冷たさが少しだけ薄れていた。
『お前は絶望に呑まれかけながらも、なお自らの真実を手放さなかった』
宝玉の表面に、ゆるやかな波紋が広がる。深紅の光の中に、ほんの一瞬だけ金の粒が混じった。
『失う痛みを知り、それでも愛した者を偽りとしなかった。心の強さとは、涙を知らぬことではない。揺らぎながらも、信じるものへ手を伸ばし続けることだ』
その言葉は、不思議と胸に染みた。
強さっていうのは、何も感じないことじゃない。傷つかないことでもない。失う怖さを知って、それでも守りたいと願うこと。きっと、そういうものなんだろう。
俺はゆっくりと顔を上げた。
「……認めたのか、俺を」
『ああ』
短い返答と同時に、宝玉の赤い輝きがすっと細くなり、一本の光になって俺の胸元へ伸びてきた。熱くはない。けれど、芯まで届くような確かな温もりがあった。それは一瞬で体の中へ溶け込み、心臓の近くに小さな火を灯したような感覚を残した。
『進め。お前の守りたいものは、まだ先でお前を待っている』
光が収まる。
宝玉の間に、再び静寂が戻った。
だが、さっきまでの静けさとは違った。今はただ冷たいだけの沈黙じゃない。長い試練を越えた者を受け入れるような、澄んだ静寂だった。
俺は立ち上がった。膝が少し震えたが、足取りはもう揺れなかった。
背後にいるはずの大切な存在たちを思うだけで、胸の奥に確かな力が宿る。さっき見せられた灰色の人間界は、今もまだ嫌な余韻を残していた。数字を打ち込むだけの毎日。誰にも必要とされない部屋。切り捨てられるだけの人生。あれが幻覚だとしても、胸をえぐるには十分だった。
だからこそ、わかる。
俺はもう、あんな空っぽな場所へ戻るつもりはない。
この世界で、ミユウと、アインと、ジュリアと共に生きる。守るために戦う。どれだけ苦しくても、その願いだけは誰にも奪わせない。
祭壇を見つめると、赤い宝玉は最後に一度だけ小さく明滅した。
まるで、これで終わりではないと告げるように。あるいは、この先に待つ本当の試練はまだ別にあるのだと、静かにほのめかすように。