作品タイトル不明
第117話 拒まれた先へ
女王の声を振り切って走り出しても、あの甘ったるい響きは、しばらく耳の奥にまとわりついていた。
おいで、とでも言うような、優しく包み込むふりをした声音だった。だが、その奥に潜んでいたのは、ぬるい誘惑なんかじゃない。
あれは、人の足を止めるための罠だ。心の弱いところへ指先を差し込み、気づかないうちに骨まで溶かしてしまうような、底の見えない闇だった。
俺は奥歯を噛み締める。
立ち止まるな。振り返るな。今の俺に必要なのは、あの女王の言葉を理解することじゃない。宝玉の間へ辿り着くこと。それだけだ。
「パパ、こっち!」
前を走るアインが、角を曲がる前に振り返って叫んだ。
幼い声なのに、そこには迷いがなかった。頼もしさと危うさが同時に胸に刺さる。俺は歩幅を大きくしながら、すぐに応じる。
「ああ、離れるなよ!」
「あなた、左の気配……まだ消えていないわ」
背後から飛んできたミユウの声に、俺は剣の柄へ手をかけたまま視線だけを流す。
石壁にかかった灯火が赤黒く揺れ、回廊に落ちた影が生き物のように伸び縮みしていた。
この城に入った時から感じていた息苦しさが、奥へ進むほど濃くなっている。空気そのものが重い。肺へ吸い込むたび、見えない砂を一緒に飲み込んでいるみたいだった。
床は磨かれた黒い石でできている。だが、古い血の色にも見える暗い赤の紋様が、通路の中央を蛇みたいに這っていた。
天井は高いのに、不思議と圧迫感がある。広い場所にいるはずなのに、どこか狭い檻の中へ押し込められているような感覚が消えない。
俺は一度だけ大きく息を吸って、胸のざわつきを押し込めた。
「ミユウ、アイン、ジュリア。何が出てきても、俺の近くを離れるな」
「うん!」
「わかったわ」
「ジュリアも、ちゃんとついてく……っ」
元気よく返事をしかけたジュリアの声が、途中で止まった。
嫌な沈黙だった。
その一瞬あと、通路の先、左右の柱の陰、さらに高い天井の梁の上からまで、ずるりと何かが這い出してくる気配が広がった。
生き物が動く音というより、濡れた布を床に引きずるような、不快に湿った音だった。
来る。
そう思った時には、もう目の前にいた。
女王の臣下たち――。
人の形はしている。だが、そこに人らしさはない。
肌は月明かりを浴びた死体みたいに青白く、骨ばった顔に貼りついた笑みだけが妙にはっきりしている。
目は濁った黄色に光り、指先は剣のように細く長く尖っていた。豪奢だったはずの衣服は、長い歳月の中で腐り落ちたみたいに裂け、動くたびに闇をまとって揺れている。
「通スナ」
「女王様ノ御心ニ背ク者ヲ、生カシテ帰スナ」
「ココデ朽チロ」
重なり合う声は低く濁っていて、人の喉から出ているとは思えなかった。聞くだけで背筋が粟立つ。通路全体が、その言葉でさらに暗くなったように感じる。
俺はとっさに腕を広げ、家族を背後へ庇った。
「下がれ」
短く告げると、アインが悔しそうに眉を寄せる。
「でも、パパ――」
「今は俺が前だ。隙ができたら、その時に動け」
強い口調で言い切ると、アインは一瞬だけ唇を引き結び、それから真剣な顔でうなずいた。
「……うん!」
その返事が聞こえた瞬間、臣下たちが一斉に動いた。
速い。
いや、速さだけじゃない。気配の散らし方が厄介だった。
真正面から飛びかかるやつ、柱を蹴って横から回り込むやつ、天井を這うようにして急降下してくるやつ。
通路の幅も、高さも、全部利用して俺たちを包むように襲いかかってきた。
黒い炎の塊が飛ぶ。闇の槍が空気を裂く。爪が灯火を引き裂きながら迫る。
普通なら避けるしかない包囲だった。
けれど、その瞬間、俺の中で何かがはっきりと目を覚ました。
腹の底に沈んでいた熱が、一気に駆け上がる。
胸の中心で灯った青い光が脈打ち、血管の中を奔流みたいに走り抜けた。
視界の輪郭が研ぎ澄まされる。足裏から伝わる床の感触、頬をかすめる風圧、敵の殺気の角度まで、手に取るようにわかった。
来る。
いや、来させる。
俺は剣を抜き放ちながら、一歩前へ踏み込んだ。
同時に、眩い青が全身を包み込む。
肩、胸、腕、腰、脚――光の粒が集まり、骨格に沿って滑るように形を持っていく。
まるで星の欠片が鎧へと変わっていくようだった。胸甲がきしむ音とともに閉じ、籠手が腕を包み、青い装甲が足元まで一気に完成する。
再び、青い鎧を纏う。
それはただの防具じゃなかった。
俺の意思そのものが、守るための形を持ったような感覚だった。
胸の内に残っていた迷いが、鎧の完成とともに音もなく削ぎ落とされていく。
女王の甘い囁きも、臣下たちの不気味な声も、今の俺には遠かった。耳に入っていても、心までは届かない。
「パパ……!」
背後でジュリアが息を呑む気配がした。恐怖だけじゃない。信じるような、眩しいものを見るような声だった。
俺は振り返らずに言う。
「大丈夫だ。誰にも、お前たちには触れさせない」
その言葉を最後まで言い切る前に、最初の攻撃が俺へ叩き込まれた。
闇の槍が胸を突く。
黒い炎が顔面を飲み込むように爆ぜる。
左右から伸びてきた爪が、肩と脇腹を同時に斬り裂こうと迫る。
だが――通らない。
青い鎧に触れた瞬間、槍は砕け、炎は散り、爪は甲高い音を立てて弾かれた。
衝撃はある。だが、痛みには変わらない。装甲の表面を滑るだけで、俺の皮膚までは届かない。
臣下たちの顔が、一斉に歪んだ。
「馬鹿ナ……!」
「何故ダ!」
「砕ケロ、砕ケロ!」
叫び声が重なる。さらに追撃が殺到する。
だが、何発受けても同じだった。闇は鎧の前でほどけ、呪いは青い光に呑まれて消えていく。攻撃そのものが、俺へ届く前に力を失っていた。
それは無敵感に酔えるほど都合のいい感覚じゃない。むしろ逆だ。
この鎧がどれほど強くても、守るべきものを背負っている以上、油断した瞬間に終わる。だからこそ、俺の意識は一点に研ぎ澄まされていた。
「アイン!」
俺が叫ぶと同時に、アインが床を蹴った。
「うんっ!」
小さな体が矢のように飛び出す。俺が正面の視線と攻撃を引き受けている隙を、あいつは見逃さなかった。
低く身を滑り込ませ、最初の臣下の懐へ一気に入る。
銀の刃が閃いた。
相手の腕が宙を舞う。
「まだっ!」
返す剣で二体目の膝を払う。そのまま体勢を崩した敵の肩口へ、迷いなく斬り上げを叩き込んだ。
五歳の子どもとは思えない鋭さだった。小柄だからこそ入り込める隙を、ちゃんと自分の力に変えている。
俺は胸の奥が熱くなるのを感じながら、同時に前へ出た。アインへ向かおうとした臣下の一体を、剣の一振りで弾き飛ばす。
「アイン、右は俺が取る!」
「うん、おねがい!」
呼吸が合う。
言葉は短くても、それで十分だった。
背後ではミユウが静かに前へ出る気配がした。戦場に立っているのに、その足取りは不思議なほど澄んでいる。
乱れず、慌てず、必要な場所へ必要なだけ進む。彼女が動くたび、淀んだ空気の中に一本、まっすぐな光が通るみたいだった。
「あなた、今よ」
「ああ!」
俺が前に出て臣下たちを引きつけた瞬間、ミユウが弓を引く。
銀の髪が揺れ、その背後に広がった光が羽の輪郭を描いた。暗い回廊の中で、彼女だけが別の世界の光を宿しているみたいだった。
「 天柱(てんちゅう) の 矢(アストロ・アロー) 」
凛とした声とともに放たれた一矢は、空中で幾筋もの光に分かれた。
星が尾を引きながら降るような、幻想的な光景だった。だが、その一本一本には容赦のない貫通力がある。
逃げ場を探して動いた臣下たちの足元、肩、胸元へと、光の矢が正確に突き刺さっていった。
悲鳴が上がる。
その間にも、俺は駆ける。
青い鎧に包まれた体は重さを感じさせなかった。踏み込むたびに床石が震え、剣を振るうたびに青い残光が弧を描く。
目の前の一体を薙ぎ払い、返す刃で背後から飛びかかってきたやつの胴を断ち、さらに前へ。
敵の攻撃が何度弾かれても、そのたびに俺の中の確信は強くなっていく。
行ける。
このまま突破できる。
「パパ、すごい……!」
ジュリアの震え混じりの声が背中に届く。
その声で、俺はさらに力が湧いた。
剣を大きく振り抜く。青い斬撃が通路を走り、正面に固まっていた臣下たちをまとめて吹き飛ばした。壁へ叩きつけられた連中が、黒い煙を吐きながら崩れていく。
アインがそこへ飛び込み、とどめを刺した。
「これでおわりだっ!」
最後の一体が、ミユウの放った光の矢に胸を貫かれて崩れ落ちる。
通路に満ちていた殺気が、ようやく薄れた。
荒い息の音だけが、しばらくその場に残る。
俺は剣先を下げ、周囲を見回した。まだ動く敵はいない。だが、気を抜ける静けさじゃなかった。
城の奥から押し寄せてくる圧は、さっきよりもむしろ濃くなっている。
「みんな、怪我は?」
「ぼくはへいき!」
「わたしも大丈夫よ」
「ジュリアも……だいじょうぶ」
最後の返事は、少しだけ上ずっていた。振り返ると、ジュリアは胸の前で小さな手をきゅっと握りしめていた。怖かったんだろう。それでも泣かずに立っている。その頑張りが胸に刺さる。
俺は片膝をついて、ジュリアの目線まで顔を下ろした。
「怖かったな」
ジュリアは少しだけ唇を震わせたあと、こくんとうなずいた。
「でも、パパがいたから……」
その一言で、胸の奥が静かに熱を持つ。
俺はジュリアの頭にそっと手を置いた。
「もう少しだ。絶対に守る。だから、信じてついてこい」
「うん……!」
小さな返事が、確かな力になって戻ってくる。
俺は立ち上がり、再び前を向いた。
長い回廊を抜けると、その先には螺旋階段が待っていた。
細く高く、天へ伸びるような階段だった。壁に穿たれた細長い窓からは赤い光が差し込み、昇るほど色が濃くなる。
まるでこの先にあるものが、城全体へ血のような光を流し込んでいるみたいだった。
俺たちは一段ずつ駆け上がる。
階段を蹴る足音が重なる。呼吸が熱くなる。汗が首筋を伝う。
だが、不思議と疲労より先に焦りが勝っていた。早く辿り着かなきゃならない。宝玉へ。この城の心臓みたいに脈打っている、あの赤い力の源へ。
やがて、階段の先に巨大な扉が見えた。
黒い石で造られた両開きの戸。縁には金属の装飾が這い、中央には赤い紋様が複雑に重なっている。
近づくだけで、空気が肌へ貼りつくように重くなる。扉の向こうに眠るものが、明確な意思を持ってこちらを拒絶しているのがわかった。
「……ここだな」
自然と声が低くなる。
アインが扉を見上げながら、小さく息を呑んだ。
「なんか……すっごく、嫌な感じがする」
「ええ。中から強い魔力が流れてるわ。気をつけて、あなた」
ミユウの声にも緊張が滲んでいる。ジュリアは俺の服の裾をつかんだまま、黙っていた。
俺は扉の前に立つ。
これを開ければ、先へ進める。
そう思って手を伸ばした瞬間、掌が触れるより早く、扉の表面を赤い光が走った。
「っ……!」
次の瞬間、凄まじい衝撃が全身を打ち抜いた。
まるで見えない大槌で胸を殴られたようだった。俺の体は後方へ弾き飛ばされ、石床を転がる。背中に鈍い痛みが走り、肺の空気が一気に押し出された。
「あなた!」
ミユウの叫びが聞こえる。
アインたちの足音も近づいてくる。
だが、俺はすぐに手をついて起き上がった。胸の奥に残る痺れが、逆に意地へ火をつける。
「大丈夫だ……!」
息を整えきる前に立ち上がり、もう一度扉へ向かう。
今度は警戒しながら、ゆっくり手を伸ばした。だが、結果は同じだった。
触れた瞬間、扉から噴き上がった魔力が俺の腕を通して全身を震わせる。
電流に似ているのに、もっと禍々しい。肉じゃなく、意志そのものをへし折ろうとしてくる圧だった。
「ぐっ……!」
それでも、手を離さない。
足を踏ん張る。床石が軋む。青い鎧の表面に火花みたいな光が散った。
押す。
だが、びくともしない。
扉そのものの重さじゃない。向こう側にある力が、こちらの侵入を拒んでいるのだ。
俺は一度手を離し、呼吸を整えた。胸が上下するたび、さっき受けた衝撃の余波が肋の奥で鈍くうずく。
「パパ……むり、しないで」
ジュリアの声は今にも泣きそうだった。
俺は振り返り、無理やり口元を上げる。
「大丈夫。開けるだけだ」
「でも、さっきすごくいたそうだったよ!」
アインの言葉には、焦りと悔しさが混じっていた。自分も何かしたいのに、今は見ているしかない。そのもどかしさが伝わってくる。
ミユウは俺の顔を真っ直ぐ見つめていた。
「あなた……これは、力任せでどうにかなる扉ではないかもしれない」
「わかってる」
俺はそう答えながら、再び扉へ向き直る。
確かに、単純な怪力比べじゃない。さっきこの扉に弾かれた時、俺ははっきり感じた。
こいつは、侵入者を拒絶するための魔力だけで閉ざされているんじゃない。もっと深いところで、俺という存在そのものを測っている。
入る資格があるのか。
お前に進む意思があるのか。
そう問いかけてくるような、冷たい圧だった。
だったら、なおさら退けない。
ここまで来て、拒まれたから諦めるなんてできるか。
女王の誘惑も、臣下たちの包囲も、全部振り切ってきたんだ。今さら扉の前で膝を折ったら、家族の前で立つ理由すらなくなる。
俺は両手で扉の縁を掴んだ。
石の冷たさが、籠手越しにも伝わる。
「あなた……」
ミユウが心配そうに呟く
その声を背に受けたまま、俺は低く言った。
「俺が開ける」
強がりじゃない。
決意だった。
大切なものを守ると決めた以上、進まなきゃならない時に進めない男ではいたくない。
誰かに道を作ってもらうんじゃなく、自分の手でこじ開ける。それが今の俺に必要なことだと、はっきりわかっていた。
「っ……!」
力を込める。
同時に、赤い魔力が再び荒れ狂った。
衝撃が腕を伝い、肩、背中、足へと叩きつけられる。全身の骨が軋むような重圧。膝が折れそうになる。歯を食いしばらなければ、その場で吹き飛ばされていた。
だが、離さない。
指先に、ほんのわずかな抵抗の違いを感じた。
さっきより、扉が近い。
違う。俺が扉へ押し返されていないんだ。
なら、行ける。
「う、おおおおっ!」
腹の底から声を絞り出す。青い鎧が呼応するように輝きを強めた。胸甲の中央で灯る光が脈打ち、そのたびに全身へ力が巡る。
背後で、アインが叫んだ。
「パパ、まけるな!」
ジュリアの声も重なる。
「パパ、がんばって!」
そして、ミユウの澄んだ声。
「あなたなら、開けられる。わたしたちは信じてるわ」
その一言が、背中を押した。
腕の痛みも、肩を潰す圧も、全部どうでもよくなる。俺は一人で扉を押しているはずなのに、背中には確かな熱があった。家族の声が、信頼が、見えない力となって俺の中へ流れ込んでくる。
いける。
この扉は、俺一人の力で開けるんじゃない。
俺たちの意志で開けるんだ。
「こんなところで……止まるかぁぁぁっ!!」
全身の力を一点に集めて押し込む。
ごり、と鈍い音が響いた。
扉が――わずかに動く。
「あいた……!」
アインの声が震える。
ほんの指一本分ほどの隙間。それでも十分だった。動いた。拒絶するだけだった扉が、確かにこちらへ応じた。
俺は息を荒くしながら、さらに力を込めた。
赤い魔力が最後の抵抗みたいに唸る。視界の端が白く焼ける。足元の床石に細い亀裂が走った。けれど、今度は押し返されない。
少しずつ、確実に、扉が開いていく。
隙間の向こうから、濃い赤の光が漏れ出した。血の色にも、夕焼けにも似ているのに、どちらとも違う、不思議な輝きだった。温かさより先に、心の奥へ触れてくるような圧を持っている。
その光を見た瞬間、胸がざわつく。
あの向こうにある。
宝玉が。
この城の中心に眠る力が。
俺は最後にもう一度だけ全身へ力を込め、扉を人ひとり通れるほどまで押し開いた。
赤い光が、一気にこちらへ溢れ出す。
その先に広がっていた気配は、これまでのどんな敵とも違っていた。
俺は息を呑み、扉の向こうに待つ何かを見据えた。