軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第116話 女王の誘惑

ヴェイルルナ島へ足を踏み入れた瞬間から、空気の質が変わったのがわかった。

潮の匂いはまだ背後に残っているはずなのに、森へ一歩、また一歩と進むたび、それは湿った土と腐葉の臭気に呑まれて薄れていく。鼻の奥にまとわりつくのは、雨に濡れた獣の毛皮みたいな生臭さと、どこか甘ったるく腐った花の香りだった。風は吹いている。なのに枝葉はざわめかず、森全体が息をひそめて、俺たちの侵入をじっと見下ろしているように感じられた。

地面には、先にここを通った何者かの痕跡が生々しく残っていた。

折れた槍。泥に半ば埋もれた短剣。引き裂かれた布切れ。そこかしこに転がるゴブリンや小さな魔獣の死体は、どれも無惨な姿をさらしている。喉を裂かれたもの、腹をえぐられたもの、何かに押し潰されたように骨ごと砕けているものまであった。まだ新しい血が黒ずんで地面に染み込み、木の根の隙間でぬらりと光っている。

昼間だというのに、光がまともに届かない。

頭上を覆う枝は異様なほど絡み合い、葉と葉の間に空いたわずかな隙間から差し込む陽光は、細い刃のように地面へ突き刺さっていた。明るいはずの時間帯なのに、森の中だけ黄昏が居座っているみたいだった。足元の影がやけに濃い。何もない場所にさえ、何かが潜んでいる気がしてならない。

「パパ、ここ……いやなにおいする」

ジュリアが俺の服の裾をきゅっと掴んだ。小さな指に力が入っている。声はか細いが、震えまでは見せていない。怖いのを堪えているのがわかって、胸の奥が少しだけ熱くなる。

「無理すんな。怖かったら、ちゃんと言え」

「……うん。でも、がまんする」

「我慢はえらいが、無茶はするなよ」

そう言って頭を撫でると、ジュリアはこくりと頷いた。

その少し前を、アインが剣を握って歩いている。

いや、歩いているというより、立ち塞がっていると言ったほうが正しい。小さな背中が、まるで見えない敵から家族を守る壁みたいに俺たちの前にある。五歳の子供の背丈しかないはずなのに、その背中は妙に大きく見えた。肩に余計な力は入っていない。足運びも乱れない。耳を澄ませ、気配を拾い、何かあれば真っ先に剣を振るえるよう、全身がぴんと研ぎ澄まされている。

「パパ。右」

短い声と同時に、アインの体が走った。

茂みの陰から飛び出してきた小型の魔獣が、低く唸りながら俺たちへ飛びかかる。だが、その牙が届く前に、アインの剣が斜めに閃いた。乾いた裂音。獣の体が空中で傾き、勢いを失って地面へ転がる。二度、三度と痙攣し、それきり動かなくなった。

迷いのない一太刀だった。

俺は思わず息を止めていたことに気づき、ゆっくりと吐き出す。

「アイン」

「だいじょうぶ。まだ来る」

振り向きもしない。視線は次の気配を探したままだ。

頼もしい――その言葉だけじゃ足りない何かが、胸に込み上げた。

ついこのあいだまで、俺の後ろに隠れていたはずの小さな手が、今は剣を握って家族の前に立っている。守られる側だったはずの子供が、自分から守る側へ踏み出している。その事実に嬉しさがあるのは間違いない。けれど同時に、こんな場所でこんな役目を背負わせている現実が、胸の内側を鈍く削った。

それでもアインは一歩も退かない。

その姿が誇らしかった。

「すごいね、アイン」

ミユウがやわらかく声をかける。けれど、その声音の奥には母親としての張り詰めた気配があった。いつでも子供たちを庇えるよう、彼女もまた気を巡らせている。

「えへへ……でも、ぼく、パパみたいになりたいから」

そう言って、アインがほんの少しだけ胸を張る。

その一言が、不意打ちみたいに胸へ刺さった。

俺なんかを目標にするな、と言いたくなる。まだ未熟で、迷って、間違えて、それでも必死に足掻いているだけの男だ。だが、そんな俺の背中を見て育ってくれているなら、立ち止まってはいられない。

「なら、なおさら無理はすんな。守るってのは、突っ込むことじゃない。生きて帰ることまで含めて、守る、だ」

「うん!」

明るく返ってきた声に少し救われながら、俺たちは森の奥へ進んだ。

途中、何度か魔獣やゴブリンの残党が襲ってきた。だが数は多くない。むしろ不気味だったのは、その少なさだ。島に上陸した直後からこれだけ死体が転がっているのに、新たに現れる敵は散発的で、どいつもこいつも怯えたように森の奥を振り返っていた。

まるで、この先にいる何かを恐れて逃げてきたみたいに。

やがて木々の密度が緩み、視界がすっと開けた。

その瞬間、俺は思わず足を止めた。

森の向こうに、城があった。

巨大だった。

ただ大きいだけじゃない。存在そのものが異質だった。黒とも紫ともつかない石で積み上げられた外壁は、曇天をそのまま削り出したような鈍い色をしていて、塔の先端はどれも細く尖り、空へ突き刺さる槍の群れみたいにそびえている。窓は細長く、どこも暗い。誰かがこちらを覗いているようで、目を向けるたび背筋に薄い冷気が這った。

城を囲む鉄柵には奇妙な装飾が絡みつき、蔓草に見えたそれは近づくと、蛇が身をよじっているような意匠だとわかった。門の上部に据えられた紋章は、月と扇、それから涙のしずくを組み合わせたような形をしている。優雅さを装っているのに、どこか人を惑わせる粘り気があった。

「……気味の悪い城だな」

「綺麗、なのに怖いね……」

ミユウの呟きに、俺も無言で同意する。

美しいと不吉は、時々、同じ顔をしている。

この城はまさにそれだった。遠目には幻想的ですらあるのに、見つめているとじわじわと心を湿らせてくる。歓迎されているようで、同時に飲み込まれそうな感覚があった。

「パパ、へんなかんじする」

「俺もだ。気を抜くな」

門前には衛兵が控えていた。人型だが、生気が薄い。顔色は蝋のように白く、動きは揃いすぎていて、人間の兵士というより糸で操られた人形に近かった。

「止まれ。女王陛下の御前へ許可なく――」

「悪いが、急いでる」

言い終わる前に踏み込む。

最初の一人の槍を剣で弾き上げ、懐へ潜り込んで柄で顎を打つ。二人目が横から斬り込んでくるのを半身で避け、そのまま足払い。倒れたところへ手首を打って武器を落とさせる。三人目と四人目は同時に来たが、連携に迷いがないぶん、動きが読みやすい。剣圧で間合いを崩し、開いた側から叩き伏せた。

背後では子供たちを庇うようにミユウが下がり、アインも剣を構えたまま周囲を警戒している。

短い攻防のあと、衛兵たちは床に伏した。

息を整えながら城門を押し開く。蝶番が低く軋み、内部から冷えた空気が流れ出てきた。海辺の島にある城のはずなのに、そこにあったのは水気よりも、閉ざされた地下室みたいな冷たさだった。

長い廊下を進む。

赤い絨毯は深い色をしているのに、どこか濡れているように艶めいて見えた。壁には巨大な鏡や絵画が並んでいる。女たちの肖像画だ。どれも顔立ちは美しい。だが、目元だけがやけに暗く描かれていて、こちらが横を通るたび視線を滑らせてくる気がした。燭台の炎は青白く、風もないのに細く揺れている。

女王の間へ辿り着いたのは、その異様な静けさに慣れそうになった頃だった。

重々しい扉が、内側から導かれるように音もなく開く。

そこにいたのが、ヴェイルルナ島の女王だった。

玉座に腰掛けたその女は、この城そのものを人の形にしたような存在だった。妖しいほど整った顔立ち。白磁のような肌。深い紫のドレスは夜そのものを織り上げたみたいに艶やかで、胸元から肩へ流れる布は、ほんの少し動くだけで視線を誘う。脚線はドレスの裂け目から際どく覗き、指先には細く長い爪が紅を宿していた。

そして何より、その目だ。

月明かりを溶かしたみたいに淡く光る瞳が、まっすぐ俺を捉えていた。

「ようこそ、勇者様」

声は甘い。耳に届くというより、肌の上を撫でるように這ってくる。

「二つ目の宝玉を探しているのでしょう?」

「……話が早くて助かる」

「ええ。宝玉は確かにこの城にあるわ」

女王はくすりと笑った。扇子を指先で弄びながら、玉座の肘掛けに頬杖をつく。その仕草一つ一つが妙に計算されていて、見せつけるようにしなやかだった。

「ただし、宝玉の間へ行くには条件があるの」

「条件?」

「簡単なことよ。わたくしが、通してもいいと思えた者だけが行けるの」

面倒な話だと思った、その時だった。

女王の視線が、すっと細くなる。

俺の顔をなぞり、肩へ落ち、剣を持つ手、胸元、そしてまた目へ戻ってくる。品定めするような、だが露骨すぎない、その粘つくような視線に背筋がざらついた。

「あなた……強いのね」

女王が玉座から立ち上がる。

ゆっくりと階段を下りてくるたび、香が濃くなる。花の匂いに似ているのに、頭の芯をぼうっと痺れさせるような、甘く危険な香りだった。

「それだけじゃない。優しい目をしているわ。誰かを守るために、何度も傷ついてきた男の目……わたくし、そういう人、嫌いじゃないの」

女王は俺のすぐ前まで来た。

指先が、俺の胸元すれすれをなぞる。触れていない。だが触れられたような錯覚が皮膚を走った。

「こんなに立派なお父さん、そうそういないわ。小さな子供たちを守って、妻を守って、戦って……ねえ、疲れていない?」

「……何が言いたい」

「重いでしょう、全部」

その囁きが妙に近く、胸の奥の見たくない部分を正確に撫でてきた。

「守るって、綺麗な言葉だけど。実際は、眠る暇もなくて、気を抜くこともできなくて、誰かのために自分を削るばかり。あなたみたいな人ほど、自分のことは後回しにするもの」

女王の目が、柔らかく細められる。

「わたくしなら、あなたを休ませてあげられるわ」

甘い声が耳から入り、頭の奥へ沈んでいく。

「この城で暮らしましょう? もう戦わなくていい。怖い思いもしなくていい。朝は静かな寝台で目覚めて、夜は温かな部屋で眠るの。あなたの隣には、わたくしがいる。何も背負わなくていいのよ」

その瞬間、景色が揺れた。

ほんの一瞬だけ、女王の言葉が形を持ったみたいに、頭の中へ流れ込んでくる。柔らかな寝台。穏やかな食卓。剣を取らなくていい日々。血の匂いも悲鳴もない静けさ。重圧から切り離された生活。心がひどく疲れている時なら、それは救いに見えただろう。

――こんなふうに、全部終わらせてしまえたら。

そんな考えが、かすめた。

まずい、と直感した時には遅かった。女王はいつの間にか扇子を開き、その先端を俺の顎の下へそっと差し入れていた。顔を上げさせるように、やさしく。

唇が動く。

けれどその声は、耳ではなく心へ直接落ちてきた。

――とても強くて、優しいお父さんなのね。でも、そんな重荷ほっといて、わたしと一緒にこの城で暮らさない?

甘い。

あまりにも甘い誘いだった。

責任も、戦いも、痛みも、全部手放していいと言われることが、こんなにも危ういものだとは思わなかった。俺は一瞬、呼吸の仕方を忘れたみたいに立ち尽くした。

その時だった。

「パパッ!!」

ジュリアの声が、鋭く空気を裂いた。

細いのに、真っ直ぐで、必死な声だった。

その一声で、霧が吹き飛ぶみたいに頭が晴れた。

俺ははっとして、目の前の女王を睨み返す。背後にいるはずの家族の気配を確かめるだけで、胸の芯が一気に熱を取り戻した。アイン。ジュリア。ミユウ。俺が守ると決めた、何より大事な存在だ。

休みたいと思ったことがないわけじゃない。楽になりたい夜だってあった。背負うものの重さに、膝が折れそうになったこともある。

けど、それでも。

それを他人に捨てろと言われて、捨てるようなものじゃない。

俺は扇子を払いのけ、一歩前へ出た。

「ふざけるな」

自分でも驚くほど、低い声が出た。

「俺には守るべき家族がいる。重荷なんかじゃない。こいつらがいるから、俺は立ってられるんだ」

女王の目が、ほんの少しだけ見開かれる。

「お前の甘い言葉に逃げ込むつもりはない。俺は進む。宝玉のある場所まで、何があってもな」

しばしの沈黙のあと、女王は小さく息をついた。

残念そうでもあり、どこか楽しげでもある笑みが、その唇に浮かぶ。

「……やっぱり、そう簡単には折れないのね」

扇子を閉じる音が、やけに高く響いた。

「いいわ。宝玉の間へ行く許可をあげる」

「最初からそうしろ」

「ふふ。でも――」

女王は身を翻し、玉座の奥に続く暗い回廊へ扇子を向けた。そこは他の通路よりもさらに影が濃く、口を開けた獣の喉奥みたいに見えた。

「無事に辿りつければ、だけど」

その言葉は軽いのに、妙な重みを引いていた。

俺は剣を握り直し、家族の気配を背中に感じながら、その不気味な闇の先へ目を向けた――まるで、宝玉だけじゃなく、俺たちの覚悟そのものが試されるのを待っているみたいに。