軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第115話 守るための一撃

夜の帳が落ちきるころには、海は昼間とはまるで別の顔を見せていた。

船べりに打ちつける波の音は、もう穏やかな旅路を告げるものじゃない。

腹の底まで震わせるような重い衝撃になって、何度も何度も船体を叩いてくる。

甲板は濡れた石畳みたいにつやつやと黒く光り、足を踏みしめるたび、靴の裏がぬめる嫌な感触を返してきた。

潮の匂いも、昼のような爽やかさはない。塩気に混じって、どこか鉄を舐めたみたいな生臭さが鼻の奥にまとわりつく。

空を見上げても、星はほとんど見えなかった。雲が幾重にも重なって、月さえ飲み込もうとしている。

風は冷たく、しかも鋭い。頬を撫でるというより、細い刃で切りつけられているみたいだった。

「パパ……っ、すごいゆれる……!」

ジュリアの小さな声が、風にさらわれそうになりながら耳に届く。

俺はすぐに膝をつき、アインとジュリアを左右から引き寄せた。

二人の体は軽い。だからこそ、こんな荒れた海では一瞬の油断が命取りになる。腕の中にすっぽり収まるほど小さな肩が、怖さでこわばっているのが伝わってきた。

「大丈夫だ。しっかりつかまってろ。絶対に離すなよ」

「う、うん……!」

「パパ、ぼく、へいき……っ」

そう言いながらも、アインの声はわずかに震えていた。

無理もない。船は左右に大きく傾き、時折、下から突き上げられるような衝撃までくる。波のうねりが普通じゃない。海そのものが怒り狂って、俺たちを拒んでいるみたいだった。

ミユウがすぐそばで帆柱に手をかけ、飛ばされないよう踏ん張りながらこちらを見た。風にあおられた銀の髪が乱れ、それでもその瞳だけは強く澄んでいる。

「あなた、この先は……きっと最も危険な海域よ」

「わかってる。二人は俺が守る」

口にした瞬間、自分の中でその言葉がいっそう重みを持った。

守る。

何度も誓ってきたはずなのに、こうして命の境目みたいな場所に立つたび、その意味は深くなっていく。

昔の俺なら、自分が無事でいられるか、そればかりで精一杯だったかもしれない。

けれど今は違う。俺の腕の中には、失いたくない温もりがある。怖がって、それでも俺を信じてしがみついてくる小さな手がある。

隣には、どれほど過酷な運命の中でも俺を見失わずにいてくれる、大切な人がいる。

だから、倒れるわけにはいかない。

船が急に大きく持ち上がった。次の瞬間、底が抜けたみたいに落ちる。

「きゃあっ!」

「ジュリア!」

俺はとっさに二人を胸に抱き込み、甲板に片膝をついた。凄まじい衝撃が背中まで突き抜ける。

肩口を風がえぐり、飛んできた海水が顔に叩きつけられた。

しょっぱい、というより痛い。細かな粒が皮膚を打ちすえ、まぶたを開けているのもきついほどだった。

船首の向こうで、海面が不自然に盛り上がっていた。

ただ波が高いだけじゃない。闇の海の真ん中で、何か巨大なものが下から押し上げている。

ぐるぐると海流がねじれ合い、本流がひとつの巨大な渦となって、黒い口を開けたみたいに回り続けていた。

渦の中心は、海面ではなく、もっと深い場所――海底そのものへ通じているように見えた。

その瞬間、地の底から響くような轟音が鳴り渡った。

腹に響く低い唸り。空気が震え、船の板がびりびりときしむ。俺は子どもたちをかばいながら顔を上げた。

渦の中心で、海が裂けた。

本当に、裂けたように見えた。黒々とした水が左右へ押し分けられ、その奥に、奈落みたいな裂け目が口を開けている。

そこから這い上がってきたものを見た瞬間、背筋がぞっと冷えた。

長い。

異様なまでに長い胴体が、ぬめるような曲線を描きながら海中からせり上がってくる。

全身を覆う鱗は漆黒で、ただ黒いだけじゃない。濡れた刃のような鈍い光を返し、ところどころに深海の藍を閉じ込めたみたいな不気味な照りが走っていた。

頭部は海蛇に似ているのに、口元だけが異様に裂けて広く、内側には針みたいな細い牙が幾重にも並んでいる。

その口が開くたび、喉の奥から濁った紫色の靄が漏れ出して、夜気に溶けながら広がっていった。

「……あれが、アビスラグ……!」

ミユウの声に、俺は息をのんだ。

海底の裂け目から現れるという伝承の海獣。

その名にふさわしい、見たくもない悪夢のような姿だった。

しかも胴の脇から、鞭のようにしなる長い触手が何本も伸びている。蛇の体に、蛸の腕を無理やりくっつけたみたいな、理屈の通らない不気味さ。

見ているだけで、世界の秩序から外れたものに触れてしまったような嫌悪感がこみ上げる。

「パパ……あれ、こわい……」

「俺の後ろにいろ!」

叫んだ、そのときだった。

アビスラグが甲高い咆哮を上げ、触手を一気に振るった。空気を裂く音がしたと思った次の瞬間、一本がジュリアへ、もう一本がミユウへ伸びていた。

「っ、やめろ!」

剣を抜くより早く、黒い触手が二人の体に巻きつく。

「パパ!」

「あなたっ……!」

ジュリアの小さな悲鳴と、ミユウの鋭い声が重なった。

俺は反射的に飛び出していたが、間に合わない。触手は信じられない速さで二人を海上へ持ち上げ、そのままアビスラグの巨体の方へ引き寄せていく。

「ジュリア!!」

喉が焼けるほど叫んだ瞬間、横で小さな影が弾かれたように飛び出した。

「パパ! ぼく、ジュリアをたすける!」

アインだ。

止める暇もなかった。けれど、その背中に宿る覚悟は見間違えようがない。

恐怖に泣きそうな顔をしていたはずなのに、妹を助けるために前へ出る。

その姿に、胸の奥が熱くなると同時に、父親として負けていられない思いが全身を貫いた。

「行くぞ、アイン! 俺はママを助ける! お前はジュリアだ!」

「うんっ!」

俺は甲板を蹴った。荒れ狂う船の上なんて関係ない。踏み込んだ足に魔力を込め、一気に間合いを詰める。

アビスラグの触手がこちらへ薙ぎ払われた。太い縄どころじゃない。丸太のような太さのそれが空気を叩き、ぶつかれば骨ごと持っていかれるのがわかる。

身を低くしてかわし、すれ違いざまに剣を振り抜いた。

硬い。

火花が散り、腕に重い反動が走る。切れたのは表面だけ。触手の皮膚まで異様に頑丈だ。

「くそっ……!」

その間にも、ミユウの体が高く持ち上げられていく。俺は帆索をつかみ、揺れる船から身を投げ出す勢いで跳んだ。

風が唸り、眼下で黒い海が牙をむく。落ちれば終わりだ。けれど、そんなことを考えている余裕はなかった。

「ミユウ! 手を伸ばせ!」

「あなた……っ!」

触手に締め上げられながらも、ミユウが必死にこちらへ腕を伸ばす。その指先に届く寸前、アビスラグが口を大きく開いた。

ぶわり、と紫の霧が噴き出した。

「っ……!」

鼻と喉を焼く、強烈な刺激臭。吸い込んだ瞬間、肺の奥が熱く痺れた。

頭がぐらりと揺れ、視界の輪郭がにじむ。毒霧だ。皮膚に触れた部分までじくじくと痛み、力が抜けそうになる。

まずい――そう思ったのに、体は止まらなかった。

俺は歯を食いしばって霧の中へ踏み込み、そのまま剣を横一文字に叩きつけた。

今度は触手の付け根を狙う。鈍い手応えとともに黒い体液が飛び散り、ミユウを捕らえていた触手が大きく緩んだ。

「今だ!」

俺は落ちてくるミユウの体を抱きとめ、その勢いのまま甲板へ転がった。

背中を強く打ったが構っていられない。すぐに身を起こすと、数歩先でアインが必死にジュリアへ手を伸ばしていた。

「ジュリア! こっち!」

「おにいちゃ……っ」

アビスラグの別の触手が、なおもジュリアを海上へ引きずり上げようとしている。

アインは小さな体で飛びつき、その触手にしがみついていた。腕なんて今にも振り払われそうなのに、それでも離れない。

「よくやった、アイン!」

俺は駆け、渾身の一撃を振り下ろした。刃にこめた力が黒い表皮を砕き、触手を断ち切る。

ジュリアの体が落ちてくる。今度はアインが受け止めた。二人まとめて倒れ込み、それでもアインは妹をしっかり抱いていた。

その姿に胸が詰まりそうになる。まだ五歳だ。甘えたい盛りの子どもなのに、守るために前へ出た。その勇気を、俺は絶対に無駄にしない。

「二人とも、ミユウと一緒に下がってろ!」

言うや否や、アビスラグが狂ったようにのたうち回った。海面が爆ぜ、渦がさらに激しくなる。

巨大な胴体が船の横腹にぶつかり、船体全体がきしんだ。今にも転覆しそうな揺れの中、海獣の裂けた口がまっすぐ俺を向く。

敵意が、あまりにも生々しかった。

あの化け物は俺を殺すつもりだ。いや、それだけじゃない。俺の後ろにいる家族ごと飲み込むつもりでいる。

なら、ここで止めるしかない。

俺は剣を構えた。だが毒霧のせいで腕が重い。呼吸をするたび肺が軋み、視界の端が揺れる。

足元もわずかにふらつく。まずい状態だと、自分でもわかる。

アビスラグはそこを見逃さなかった。長い胴がうねり、何本もの触手がいっせいに襲いかかってくる。

右を斬れば左から来る。上をかわした瞬間、足元から別の一本が絡みつこうと伸びる。

俺は甲板を蹴り、身をひねり、剣を何度も振るった。金属を打つような硬い音が連続し、腕の筋肉が悲鳴を上げる。

そこへまた毒霧が吹きつけられた。

「がっ……!」

喉が焼けた。膝が沈む。視界の中で、黒い巨体がぼやけて膨らむ。嫌な汗が背を伝い、意識が遠のきかける。立たなきゃいけないのに、体が鉛みたいに重い。

そのとき、背後から声が届いた。

「パパぁっ!」

「あなた、負けないで!」

ジュリアの泣き声と、ミユウのまっすぐな呼びかけ。そして、アインの必死な声。

「パパ、がんばって! ぼくたち、ここにいる!」

――ここにいる。

そのひと言が、沈みかけた意識を一気に引き上げた。

俺は何のために戦っている。

誰のために立ち上がってきた。

答えは、もう迷う余地もない。

「……こんなところで、終われるかよ」

胸の奥で、火種が弾けた。

消えかけていた力が、別の形で立ち上がってくる。

怒りとも違う。焦りとも違う。守りたいものへ手を伸ばすためだけに研ぎ澄まされた、まっすぐな衝動。

全身の奥に散っていた熱がひとつに集まり、脈打つように巡りはじめる。

剣が応えた。

柄を握る手の中で、力が膨れあがる。刃が淡く、しかし確かな輝きを帯びていく。荒れた夜の海の真ん中で、その光だけが揺るがなかった。

「来い、アビスラグ!」

叫んで踏み込む。

触手が迎え撃つ。俺は真正面から突っ込んだ。今度は違う。重いだけだった剣が、はっきりと敵を断てる手応えを返してくる。

一本、二本、三本。黒い触手を斬り払い、毒霧を風圧で切り裂き、そのまま巨体の懐へ潜り込む。

アビスラグが咆哮し、胴体をうねらせて巻きつこうとしてきた。

海蛇そのものの締めつけだ。捕まれば身動きは取れない。

だが、動きの流れが見える。渦の回転、筋肉の収縮、獲物を絡め取る直前のわずかなため――それが、今の俺にははっきりわかった。

俺は船の傾きさえ利用して跳び上がった。

高く。

黒い胴の上へ。

漆黒の鱗が目の前に迫る。一枚一枚が盾のように重なり合い、不気味な艶を放っていた。

その中心、わずかに脈打つように色が異なる箇所がある。心臓か、あるいは核か。

「これで……終わりだぁぁっ!!」

全身の力を刃へ叩き込み、俺はその一点へ剣を突き立てた。

硬い抵抗。だが止まらない。さらに押し込み、叫びとともに斬り裂く。眩い光が走り、黒い鱗の隙間から一気に噴き上がった。

アビスラグの絶叫が嵐を揺らす。巨体が激しくのたうち、海面を叩き割るように暴れ回った。

けれど、もう遅い。

裂け目は深く走り、漆黒の体が内側から崩れ始める。触手が力なく垂れ、毒霧もかすれ、最後に大きくうねった巨体は、そのまま海へ沈んでいった。渦の中心へ吸い込まれるように、黒い影は奈落へ消える。

あとには、荒い波音と、俺の荒い息だけが残った。

剣を支えに立っていた足が、ようやく震えを思い出す。全身がひどくだるい。毒のせいで胸も焼けるように痛む。それでも、振り返ったとき視界に入った三人の姿だけで、その痛みはどこかへ押しやられた。

「パパっ!」

真っ先に駆けてきたジュリアが、俺の腰に勢いよく抱きつく。

続けてアインも飛び込み、二人分の重みが胸にぶつかった。小さな体はまだ震えているのに、そのぬくもりは確かだった。

「よかった……っ、よかったぁ……」

「パパ、すごかった……でも、いたくない……?」

しゃくりあげるジュリアの頭を撫で、アインの肩を抱き寄せる。

「大丈夫だ。二人とも、無事でよかった」

そこへミユウもそっと寄り添ってきた。濡れた髪を風になびかせながら、俺の腕に触れる。いつも気丈なその瞳が、今は安堵で揺れていた。

「あなた……本当に……」

「ミユウも無事でよかった」

それ以上、うまく言葉にならなかった。だから俺は三人まとめて抱きしめた。

嵐の名残りがまだ吹きつけている。海は完全には静まっていない。それでも、腕の中にある温もりは、どんな風よりも確かだった。

やがて、空を覆っていた雲が少しずつ流れていった。

荒々しい風は弱まり、さっきまで牙をむいていた波も、長い怒りを吐き出し終えたみたいに落ち着きを取り戻していく。

雲の切れ間から月が顔を出す。青白い光が海面に降りそそぎ、濡れた甲板も、俺たちの影も、静かな銀色に染めていった。

その先に――島が見えた。

「……あれが……」

思わず声が漏れる。

ヴェイルルナ島。

月光の中に浮かぶその島は、ただの陸地には見えなかった。岸辺の白い岩肌は磨かれた神殿の壁みたいに淡く輝き、島を包む木々は深い緑をたたえながらも、どこか透きとおって見える。

頂に連なる古い石柱は、誰もいないはずなのに祈りの気配を宿し、島全体が静謐な光の膜に守られているようだった。

荒海を越えた直後だからこそ、その神聖さはなおさら際立つ。まるで、穢れを寄せつけない別世界が、月の下にひっそりと口を開いているようだった。

「きれい……」

「すごい……おほしさまのしまみたい……」

ジュリアとアインが、涙の跡の残る顔のまま目を輝かせる。

俺も同じ気持ちだった。死地を抜けた先に、こんな光景が待っているなんて思わなかった。

だが、見とれているだけではいられない。あの島には、俺たちが追い求める二つ目の宝玉がある。そしてきっと、それを手にするまでの道もまた、甘くはない。

それでも――。

俺は月に照らされた島を見据え、そっと息を吐いた。

「行こう。次は、あの島だ」

腕の中の温もりを確かめるように、もう一度だけ三人を見た。

守るべきものがある限り、俺は前へ進める。

大嵐を越えた先で姿を現したヴェイルルナ島は、静かに、そして厳かに俺たちを迎えていた。

――二つ目の宝玉をめぐる、新たな冒険が始まる。