作品タイトル不明
第114話 小さな勇者服と、夜の海の試練
夜の海は、昼間とはまるで別の顔を見せる。
甲板の手すりにもたれて外を眺めると、昼に見えていた青の広がりはもうどこにもなく、視界の果てまで濃い藍色が満ちていた。波が船腹を叩くたびに、船全体がゆっくりと上下する。遠くで帆が鳴る音と、木材が軋む低い響きが重なり、巨大な生き物の腹の中にいるような気分になった。
そんな夜だった。
俺たちは食事を終え、狭い船室で一息ついていた。長旅の疲れが少しずつ体に回ってきていて、ジュリアはさっきから俺の腕にぴったりくっついたまま、こくりこくりと舟を漕いでいる。ミユウも向かいで静かに微笑んでいたが、その表情の奥には、この先の航海へのわずかな緊張が滲んでいた。
「あなた、少し休んだほうがいいわ」
「そうしたいのは山々なんだけどな」
苦笑して、俺はジュリアの頭をそっと撫でた。柔らかな髪が指の間をすり抜ける。こうして触れていると、胸の奥に溜まっていたささくれだったものが、少しずつほどけていく気がした。
そのときだった。
「……あれ?」
俺の腕の中でうとうとしていたジュリアが、はっと顔を上げた。眠たげだった瞳がみるみるうちに大きく開かれていく。
「パパ……おにいちゃん、いない」
言われて、俺もようやく気づいた。
さっきまで近くにいたはずのアインの姿が、船室のどこにもない。
「トイレかどこかじゃないの?」
そう言いながら立ち上がったが、胸の奥に小さなひっかかりが残った。アインは好奇心旺盛で、気づけばふらっとどこかへ行ってしまうこともある。けれど、こんな夜更けに、黙って一人で動き回るのは珍しい。
ジュリアは不安そうに俺の服の裾をぎゅっと掴んだ。
「おにいちゃん……どこ……?」
「すぐ見つける。大丈夫だ」
なるべく落ち着いた声でそう言ったが、ジュリアの顔はみるみるうちに曇っていく。唇が震え、目に涙が溜まり始めた。
「ひとりでいっちゃったの……? こわいとこ、いっちゃったの……?」
「いや、そんな大げさな――」
言い切るより先に、ジュリアは堪えきれなくなったらしい。
「やだあ……っ、おにいちゃん……っ」
ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら、ジュリアはその場で泣き出してしまった。
「ジュリア」
慌ててしゃがみ込み、小さな体を抱き寄せる。肩が細かく震えていた。泣き声は決して大きくないのに、胸に刺さる。こういうとき、子どもの不安は理屈じゃ止められない。兄妹でいつも一緒にいた分、片方が見えなくなるだけで、世界の半分が消えたみたいに感じるんだろう。
「ほら、そんな顔するな。パパがすぐ探してくる」
「ほんと……?」
「ほんとだ。絶対、連れてくる」
ジュリアは鼻をすすりながら俺を見上げた。涙で濡れた瞳が、必死に俺の言葉にしがみついているのがわかる。
俺はその頭を撫で、ミユウに視線を向けた。
「ミユウ、ジュリアを頼む」
「ええ。あなたも気をつけて」
「すぐ戻る」
短く答え、俺は船室を飛び出した。
夜の船内は、昼間よりずっと入り組んで感じる。狭い通路の角ごとに影が溜まり、吊り下げられたランプが揺れるたびに明暗がゆっくり形を変えていく。足音を殺しきれない板張りの床が、ぎし、と鳴った。
「アイン!」
呼びかけるが、返事はない。
甲板を見た。荷の積まれた区画も覗いた。樽の陰も、布のかかった木箱の裏も確かめた。船乗りたちの休憩所の前まで足を運び、誰か見なかったかと尋ねたが、首を振られるばかりだ。
焦りがじわじわと腹の底に広がっていく。
この船の上にいるはずだ。そう頭ではわかっている。けれど、波の音が強まるたび、夜の海に小さな影が飲み込まれていく最悪の想像が勝手に脳裏をよぎる。
落ち着け、と自分に言い聞かせ、もう一度船内へ戻った。
そのときだ。
通路の先、ほとんど使われていない小さな部屋の扉の隙間から、細い灯りが漏れているのが見えた。
こんな時間に、こんな場所で?
俺は足を止めた。そこは昼間、古い道具や布が雑に押し込まれているのを見かけた、いわば物置みたいな部屋だ。誰かが使うなら、もっと広い部屋がある。
嫌な予感と、妙な確信が同時に背中を押した。
俺は扉をそっと押し開けた。
「――アイン?」
中を見た瞬間、思わず目を見開いた。
部屋の中央には、小さな机と椅子。それから、どこから持ってきたのか布の束や糸巻き、針、はさみが無造作に広げられていた。その真ん中で、アインが舌をちょこんと出しながら、ものすごく真剣な顔で布を縫っていた。
いや、縫っているというには、あまりにも危なっかしい。
針を持つ手はおぼつかず、糸はところどころ絡まり、縫い目はまっすぐどころか蛇みたいにうねっている。だが、その小さな両手が必死に何かを形にしようとしているのは、一目でわかった。
「おまえ……何してるんだ」
声をかけると、アインはびくっと肩を震わせた。けれど、振り返った顔は悪戯を見つかった子どものそれではなく、むしろどこか誇らしげだった。
「あ、パパ!」
「こんなところで一人で……って、それ」
机の上に置かれている服を見て、俺は言葉を失った。
小さい。もちろん、子ども用のサイズだ。
だが、形は見覚えがありすぎた。
胸元の合わせ、肩の飾り、裾の切り方。まだ未完成で、ところどころ歪んではいるものの、どう見ても――俺が身につけている勇者服と同じ意匠を真似して作られている。
「それ、どこで手に入れた?」
問いかけると、アインは胸を張った。
「まほう!」
「……は?」
「まほうで、だした!」
あまりにも元気いっぱいに断言されて、俺は思わず眉をひそめた。いや、待て。俺たちのまわりには、実際に魔法が存在する世界だ。子どもの突拍子もない言葉でも、完全に笑い飛ばせないのが厄介なところである。
「布も糸も、まほうか?」
「うん!」
「そんな雑に肯定するなよ……」
呆れ半分で呟くと、アインはきらきらした目で俺を見上げた。
「パパと、おそろいにしたかったの!」
その一言で、胸の奥を何かが不意に掴んだ。
たったそれだけの理由で、この子は夜中に一人でこんな場所にこもって、慣れない手で服を作っていたのか。
部屋の中を改めて見回す。切り落とした布の端が床に散らばり、椅子の上には俺の服に似せようとして失敗したらしい小さな布片がいくつも山になっていた。どれだけ時間をかけたのか、想像するだけで気が遠くなる。
「ジュリアが泣いてるぞ。おまえがいなくて心配してる」
「えっ」
アインの顔が途端に曇った。
「な、ないてるの?」
「兄ちゃんがいないってな」
「うわあ……ごめんなさい……」
しゅんと肩を落とすその姿は、さっきまでの得意顔が嘘みたいだった。五歳らしいというか、こういうところはまだまだ小さい。
だが、その直後、アインは何か思い出したようにぱっと顔を上げた。
「でも、もうすぐできるの!」
「もうすぐって……」
「みてて!」
止める間もなく、アインは未完成の小さな勇者服を両手で持ち上げた。そして、どこで覚えたのかもわからない、意味不明な言葉を勢いよく唱え始めた。
「るな・まるな・きらきら・ぴかーん! えいゆうふく、かっこよくなーれ! おそろい、どーん!」
「何だその詠唱」
あまりに雑すぎて頭が痛くなる。が、次の瞬間、服の表面にふわりと淡い光が走った。
「……っ!?」
俺は息を呑んだ。
胸元に、見覚えのある紋章がゆっくり浮かび上がっていく。線はやや丸っこくて、明らかに子どもの感覚が混じっている。だが、中心の意匠も、配置も、俺の勇者服に刻まれているものとほとんど同じだった。
「おいおい……何だこのチート」
思わず額を押さえた。
いや、本当に何だこれ。手縫いのたどたどしさと、雑すぎる詠唱と、最後に現れる完成度の高い紋章。その落差がすごすぎて、感心すべきか突っ込むべきか自分でもわからない。
アインはえへへ、と照れたように笑った。
「できた!」
「できた、じゃないだろ……」
口ではそう言いながらも、視線を外せなかった。
少し前まで、剣を握る手もおぼつかなくて、走るだけで転びそうだった小さな背中。その背中が今、俺に追いつこうと必死に手を伸ばしている。上手い下手じゃない。そこに込められた気持ちが、まっすぐすぎて眩しかった。
「パパみたいに、つよくなるの」
アインは服を抱きしめながら言った。
「パパが、ずっとたたかってるから。ぼくも、いっしょがいいの」
胸の奥がじんと熱を持つ。だが、それは燃え上がるような熱じゃない。冬の朝、冷えた手にそっと湯呑みを渡されたときみたいに、じわじわ染みてくる温かさだった。
俺はゆっくりしゃがみ込み、アインと目線を合わせた。
「……そうか」
「うん!」
「でも、一人でいなくなるのはなしだ。ジュリアも、お前のこと探して泣いたんだからな」
「ごめんなさい……」
「あと、針は危ない。使うなら誰か大人を呼べ」
「うん……」
「ただし」
俺はそこで少しだけ口元を緩めた。
「よく頑張ったな」
アインの目が、ぱっと明るくなった。
「ほんと!?」
「ほんとだ」
そう言うと、アインは満面の笑みを浮かべた。まるで朝日みたいにまっすぐな笑顔だった。
俺たちはそのまま部屋を出て、船室へ戻った。
扉を開けた瞬間、ジュリアが涙の跡の残る顔でこちらを向く。そして、アインの姿を見た途端、椅子から飛び降りた。
「おにいちゃん!」
「ジュリア!」
次の瞬間には、二人は勢いよく抱き合っていた。ジュリアはまだ少し鼻にかかった声で、でもそれ以上に弾んだ声で叫ぶ。
「おにいちゃん、だいすき!」
「えへへ!」
その光景だけで、さっきまで張っていた空気が一気にやわらいだ。
「ほら、みて!」
アインは自信満々に、小さな勇者服を広げて見せた。そして、もたもたしながらもそれを自分で身につける。袖は少し長く、裾の左右も微妙にずれている。胸元の紋章は立派なのに、縫い目はところどころ曲がっていて、そのちぐはぐさがたまらなく愛らしい。
「どう! パパとおそろい!」
ジュリアの瞳がまんまるになる。
「すごい……! かっこいい!」
それから、きらきらした目で兄を見上げた。
「おにいちゃん、ゆうしゃさんみたい!」
「みたいじゃなくて、ゆうしゃだよ!」
「うん! おにいちゃん、ゆうしゃ!」
二人がきゃっきゃとはしゃぐ様子を見て、ミユウがくすりと笑う。
「本当に、あなたにそっくりね」
「似てほしいところはもっと別にある気もするけどな」
「でも、誰かを守りたいって思う気持ちは、ちゃんと受け継がれているわ」
その言葉に、俺は一瞬だけ返事を失った。
守りたいと願う気持ち。
それは剣の腕より先に、勇者に必要なものなのかもしれない。
「アイン」
「なあに、パパ!」
勇者服を着たまま胸を張るアインに、俺は少し考えてから言った。
「せっかくだ。修行するか?」
「しゅぎょう!?」
「木剣でな。勇者服を着るなら、それらしくならないと困るだろ」
「やるーっ!」
食いつき方がすごい。さっきまで夜中だったことも忘れそうになる勢いだ。
俺たちは船員たちの邪魔にならないよう、少し広めの空いた区画へ移動した。夜風が頬を撫で、船の揺れが足元からじわりと伝わってくる。灯りは多くないが、月明かりが甲板を薄く照らしていた。
俺は訓練用の軽い木剣を二本持ってきて、一本をアインに渡した。
「持てるか?」
「もてる!」
両手でぎゅっと握る姿は、やる気だけなら一人前だ。
「いいか、まずは構えだ。力を入れすぎるな。肩を上げると動きにくい」
「こう?」
「もう少し足を開く」
「こう!」
「そうだ」
アインは嬉しそうに何度も構え直す。木剣の先があっちこっちを向くたびに、ジュリアが後ろで「がんばれー!」と声援を送っていた。
最初は本当に、子どもの遊びみたいなものだった。
振り下ろしは遅い。踏み込みも浅い。狙いも甘い。けれど、ひとつ教えるたびに、アインは目を輝かせながら吸収していく。剣筋そのものより、相手をよく見ようとする目が育っているのがわかった。
「よし、じゃあ次はパパが少し動くぞ」
「うん!」
俺はあえて大きく動きを見せ、隙もわかりやすく作ってやった。そこを狙って踏み込ませるつもりだった。
だが。
「えいっ!」
アインは俺の予想より一拍早く横へ回り込んだ。
「――っ」
一瞬だけ、意識がずれた。
その隙を、小さな木剣がぴしっと俺の足元に当てる。
バランスを崩した俺は、そのまま船の揺れも重なって尻もちをついた。
「うおっ!?」
木の床に鈍い音が響く。
一拍遅れて、ジュリアの歓声が夜の甲板に弾けた。
「わああっ! おにいちゃん、かった!」
「やったあああ!」
アインは木剣を掲げて飛び跳ねている。俺は呆然としたまま、その小さな勝者を見上げた。
「……マジか」
偶然だ。船の揺れもあった。俺も本気じゃなかった。言い訳はいくらでも浮かぶ。
でも、それでも。
目の前の小さな戦士は、確かに自分で考えて、俺の一瞬の空白を突いたのだ。
俺は苦笑しながら立ち上がり、アインの頭をわしゃっと撫でた。
「今のはよかった」
「ほんと!?」
「ほんとだ。ちゃんと見てたな」
「ぼく、パパたおした!」
「一回だけな。調子に乗るなよ」
「えへへー!」
得意満面のアインに、ジュリアが飛びつく。
「おにいちゃん、つよい!」
「ジュリア、みてた!?」
「みてた!」
兄妹がくっついて笑い合う姿に、ミユウも目を細める。
その、穏やかな時間だった。
「――楽しそうなところ悪いが、浮かれている暇はないぞ」
低く張った声が飛んできて、俺は反射的に振り向いた。
いつの間にか、甲板の端に一人の船乗りが立っていた。日に焼けた顔には冗談の余地がなく、その眼差しは海の向こうを睨むように鋭い。
「どうした?」
俺が問うと、男はゆっくり口を開いた。
「今夜、この船はこの海で最も危険な海域を渡る」
夜風が一段と冷たく感じた。
さっきまで優しく聞こえていた波の音が、急に別の意味を持ちはじめる。闇の下に何かが潜んでいるような、底知れない気配が海一面から立ちのぼってくる気がした。
「危険な海域?」
「ああ。潮の流れが狂い、魔力の渦が生まれ、ときに海獣まで現れる。運が悪ければ、船ごと沈む」
冗談ではないと、その声音だけでわかった。
俺は反射的にアインとジュリアを背中側へ寄せる。二人も、空気の変化を感じ取ったのか、さっきまでの笑顔を引っ込めて俺の服を掴んだ。
ミユウが静かに俺の隣に立つ。
「あなた……」
「ああ」
短く応え、俺は暗い海を見た。
さっきまで子どもたちの笑い声で満ちていた夜が、一気に張り詰める。風が帆を打つ音さえ、警告のように耳に残った。
だが、不思議と心は沈まなかった。
背中には、俺を見上げる小さな気配が二つある。隣には、どんなときも支えてくれるミユウがいる。そして今夜、アインは小さな勇者服をまとって、確かに一歩前へ進んだ。
守るべきものがある。
それだけで、足は止まらない。
俺は船乗りをまっすぐ見返した。
「覚悟しろ、ってことか」
「そうだ」
「なら、してる」
答えると、男は一度だけ頷いた。
その背後で、夜の海が深くうねる。
見えない闇の向こうで、危険な旅が静かに口を開けていた。