軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第113話 小さな手の温もりが、俺を明日へ連れていく

ジュリアの 小(ちい) さな 背中(せなか) を、 俺(おれ) は 何度(なんど) も、 何度(なんど) もそっと 撫(な) でていた。

泣(な) き 疲(つか) れたのか、それとも 安心(あんしん) しきって 眠(ねむ) ってしまったのか、 腕(うで) の 中(なか) のジュリアはすっかり 静(しず) かになっている。

さっきまで 震(ふる) えていた 肩(かた) も、 今(いま) はもう、かすかに 寝息(ねいき) に 合(あ) わせて 上下(じょうげ) するだけだった。

そして 気(き) づく。

あれほど 全身(ぜんしん) を 締(し) めつけていた 痛(いた) みが、少しずつ 遠(とお) のいていた。

胸の奥をぎりぎりと削るような感覚も、息を吸うたびに喉元へせり上がっていた苦しさも、波が引くみたいに弱まっている。消えたわけじゃない。けれど、もう立っていられないほどじゃなかった。

俺は浅く息を吐いた。

ジュリアの手が、眠ったまま俺の服をきゅっと掴んでいる。その指の細さが、余計に胸へくる。

この子は、俺を助けようとしてくれたんだ。

怖かったはずだ。目の前で父親が苦しんでいたんだから、泣きたくもなるし、逃げたくなってもおかしくない。

それなのにジュリアは、あの小さな体で俺にしがみついて、必死に痛みを追い払おうとしてくれた。

情けない話だ。

守るはずの俺が、守られている。

けれど――その事実が、どうしようもなくあたたかかった。

「……ありがとな、ジュリア」

起こさないよう、声はほとんど息だけで零した。

俺は慎重に立ち上がる。腕の中の重さは軽い。軽すぎて、だからこそ余計に大事に抱えたくなる。

寝顔を揺らさないよう、一歩ずつ確かめるように寝台へ向かった。

アインは先に布団へ潜り込んでいて、規則正しい寝息を立てていた。

双子の片割れがそばにいないと落ち着かないのか、眠っていても片手だけ少し広げている。

まるでジュリアの居場所を空けているみたいで、思わず口元が緩んだ。

俺はジュリアをその隣へ寝かせる。

小さな体が布団に沈み、アインが無意識のまま少し身じろぎして、ジュリアのほうへ寄った。

いつも喧嘩して、張り合って、どっちが先にパパに抱っこしてもらうかで騒いでいるくせに、こういうときはちゃんと隣にいるんだよな。

布団をかけ直し、乱れたジュリアの前髪を指先で整える。

柔らかな髪が指に絡み、ふわりと頬にかかる。俺がそっと撫でると、ジュリアは眠ったまま眉を少し動かした。

そして、夢の中の声みたいにかすれた小さな声で呟く。

「……パパ、いたいのいたいの、とんでけ……」

その一言が、胸の奥へまっすぐ落ちてきた。

痛みが引いたはずなのに、別の熱が込み上げる。

泣きそうになる、というのはきっとこういうことを言うんだろう。

けれど俺は泣かなかった。ただ、喉が詰まって、しばらく何も言えなくなっただけだ。

この世界に来る前の俺は、誰かのためにここまで必死になれる人間じゃなかった。

自分が傷つかないことばかり考えていた。

面倒なことは避けたかったし、責任なんて背負えるほど強くもなかった。なのに今は、たった一言で立ち上がれる。

たった一人の娘の寝言が、俺の心をこれほど動かしてしまう。

俺はジュリアの額へ軽く手を置いたあと、その手をアインの頭にも伸ばした。

「おやすみ、アイン。ジュリア」

二人は答えない。

それでいい。今はぐっすり眠っていてくれればそれでいい。

俺は寝台のそばにしばらく腰を下ろし、双子の寝顔を見つめていた。

暗い船室の中、窓の隙間から入る月明かりが、二人の頬をうすく照らしている。

さっきまで苦しさしかなかった夜が、今は不思議なくらい静かだった。

このぬくもりを、俺は絶対に失いたくない。

そう思いながら目を閉じると、胸の奥に残っていたざらついた痛みまで、少しだけやわらいだ気がした。

翌朝、俺たちの船は補強のため、近くの港町へ立ち寄ることになった。

朝の海は夜とは違う顔をしていた。陽の光を受けて水面がきらきらと砕け、潮風は冷たさの中にもやわらかな匂いを混ぜてくる。

港には大小さまざまな船が並び、帆の軋む音や荷を運ぶ掛け声が絶えず飛び交っていた。

船大工たちが忙しそうに動くあいだ、俺たちは町で時間を潰すことになった。

港町の商店街は思った以上に賑やかだった。干した魚の匂いが漂う店の隣に色鮮やかな果物が積まれ、その向かいでは焼き菓子の甘い香りが流れてくる。

潮の気配と人の暮らしがごちゃまぜになっていて、歩いているだけでこの町の温度が肌に伝わってくるようだった。

「わあっ、みてみて、あれ! 」

「ジュリア、まってよー! 」

手を繋いだアインとジュリアが、俺たちの前をぱたぱたと駆けていく。靴音まで浮き立って聞こえるくらい、二人とも楽しそうだ。

「こら、ちょろちょろするな! 」

俺が声を張ると、二人がびくっと肩を揺らしてこちらを振り向いた。

「だって、きらきらしてるもん! 」

「こっちはおさかながいっぱい! 」

言い分はわかる。わかるが、だからって人混みの中を飛び出していい理由にはならない。

俺が眉を寄せると、ミユウがくすっと笑った。

「あなた、顔が怖いわ」

「怖くしないと止まらないだろ、あいつら」

「でも、嬉しいのよ。ずっと船の上だったもの」

その言葉に、俺は少しだけ肩の力を抜いた。

確かにそうだ。狭い船の上で過ごす時間が長かったぶん、久しぶりの町並みは子どもたちにはまるで宝箱みたいに見えるだろう。叱るにしても、全部を押さえつけるのは違う。

「……離れるなよ」

そう言い直すと、アインとジュリアは声を揃えた。

「はーい! 」

返事だけはやたらいい。

そのまままた歩き始めたとき、ジュリアがぴたりと足を止めた。

「あ……」

見れば、通りの角に小さなおもちゃ屋があった。

木でできた看板には、色とりどりの玩具が吊るされている。風を受けてくるくる回る風車、布でできた人形、小さな木馬、鈴のついた飾り――子どもの目を奪うには十分すぎる場所だ。

そしてジュリアの視線は、その一角で止まっていた。

棚の端に、ふわふわした小さなクマのキーホルダーが並んでいる。

丸い耳に、ちょこんとした鼻。色は少しずつ違っていて、茶色、白、薄い蜂蜜色、灰色。どれも手のひらに収まるくらいの大きさで、妙に愛嬌があった。

「……パパ」

来た。

その声の時点で、俺はもう嫌な予感しかしなかった。

ジュリアがゆっくり振り向く。目がきらきらしている。完全に狙いを定めた顔だ。

「これ、ほしい……」

「だめだ」

反射で答えた。早すぎるくらいだった。

だがジュリアは怯まない。むしろ一歩近寄ってくる。

「だって、くまさんだよ? 」

「見ればわかる」

「かわいいよ? 」

「それも見ればわかる」

「ジュリア、だいじにする」

「それはいつも聞いてる」

畳みかけるように言われ、俺は額を押さえた。

こういうときのジュリアは本当に手強い。泣き落としじゃない。大声で騒ぐわけでもない。ただ真っすぐな目で見上げてきて、欲しい理由を一つずつ積み上げてくる。五歳のくせに、妙なところで戦い方を知っている。

アインまで横から便乗した。

「ぼくもほしい。ジュリアだけずるい」

「ずるくないもん! 」

「じゃあ、いっしょがいい! 」

やめろ。話を広げるな。

ミユウが口元に手を当てて笑いをこらえている。完全に面白がってるな、こいつ。

「あなた、どうするの? 」

「どうするも何も……」

俺は値札を見た。

そして固まった。

「高っ……」

思わず声が漏れた。

小さいだろこれ。なんでこんなするんだ。クマだぞ。ただの可愛いクマだぞ。いや、港町価格なのか? 観光客向けなのか? それともこの世界のキーホルダー相場を俺が知らないだけなのか?

俺が険しい顔で値札を睨んでいると、ジュリアがそっと服の裾を引いた。

「……パパ」

「なんだ」

「だめ? 」

上目遣いだった。

しかも、昨日俺にしがみついて「いたいのいたいのとんでけ」と言ってくれたあの娘が、だ。

卑怯だろ、それは。

俺は長く息を吐いた。財布の紐じゃない。心が先に切れた音がした。

「……一個だけだぞ」

「ほんと!? 」

ぱっと花が開いたみたいにジュリアの顔が明るくなる。

その瞬間、アインがすかさず言った。

「じゃあ、ぼくも! 」

「お前は便乗が早すぎる」

「だってきょうだいだもん! 」

意味がわからない理屈だが、本人は大真面目らしい。さらにミユウが、楽しそうに棚を覗き込んだ。

「これ、家族でお揃いにしたら素敵じゃない? 」

「やめろ」

「ほら、あなたにはこの落ち着いた色が似合うわ」

「やめろって言ってるだろ」

しかし双子はもう完全にその気だった。

「パパもいっしょ! 」

「ママも! 」

「みんなでくまさん! 」

最悪だ。包囲網ができあがっている。

結局、俺は家族の分を四つ買うことになった。

会計の金額を聞いたとき、思わず遠い目になった。船の補強だって金がかかるのに、こんなところで思わぬ出費だ。理性は「正気か」と叫んでいる。

それなのに、店を出た瞬間、ジュリアが両手でクマのキーホルダーを大事そうに包み込んで、「えへへ……パパとおそろい」と頬をゆるめたのを見たら、その全部が少しだけどうでもよくなった。

アインも自分の分を高く掲げて、「ぼくの、つよそう! 」と嬉しそうに笑っている。どこが強そうなんだ、その丸いクマのどこに勇ましさを見出したのかは謎だが、本人が満足ならそれでいいのかもしれない。

「……たまには、こんなのも悪くないか」

俺がぼそっと言うと、隣のミユウがやさしく目を細めた。

「そういう顔をしているあなた、好きよ」

「今のでか? 」

「ええ。ちゃんとお父さんの顔をしていたもの」

そんなことを言われると、どうにも照れくさい。

俺はごまかすように前を向き、少しだけ潮風の強くなった通りを歩いた。

昼を少し過ぎたころ、俺たちは海岸へ出た。

商店街の喧騒から離れると、潮騒が一気に大きくなる。白い波が砂浜をさらい、寄せては返すたびに細かな泡を残していく。空は広く、雲の影が海面の上をゆっくり流れていた。

アインとジュリアは貝殻を拾ったり、波のぎりぎりまで近づいては慌てて逃げたりしながら遊んでいる。

さっき買ったクマのキーホルダーは、なくしたら大騒ぎになるだろうから、今は俺がまとめて預かっていた。

「パパー、みて! きれいなの! 」

ジュリアが白い貝殻を掲げる。

「ほんとだな。欠けてないし、形もいい」

「こっちはぼくの! つるつる! 」

アインは丸い石を得意げに見せてきた。

「それは貝じゃないだろ」

「でもいいかんじ! 」

まあ、楽しそうなら何よりだ。

俺は砂浜の少し高くなった場所に腰を下ろした。

双子もやがて俺の両脇へ寄ってきて、小さな体を預けるように座る。遊び疲れたのか、二人とも息が少し弾んでいた。

海を見つめながら、俺はしばらく黙っていた。

何をどう話すべきか、考えていたわけじゃない。ただ、この景色を前にすると、不思議と昔のことが浮かんでくる。

「……なあ、アイン、ジュリア」

「なあに、パパ? 」

「お前たち、前に聞いただろ。俺が、この世界の生まれじゃないって」

二人が揃って俺を見上げた。

「うん」

「パパ、べつのところからきたんでしょ? 」

「ああ。俺は異世界から来た人間だ」

何度か口にしてきた言葉なのに、改めて言うとやっぱり少しだけ不思議だ。波音の向こうに、もう帰れない場所の気配がある気がしてしまう。

「昔の俺はな……今みたいじゃなかった」

「いまみたいじゃないの? 」

ジュリアが首を傾げる。

「強くなかったし、すぐに自信をなくしてた。責任を負うのも怖くて、面倒なことから目をそらしたくなることも多かった」

砂の上に視線を落とす。

昔の自分を思い出すのは、少しだけ苦い。けれど、目を逸らしたくはなかった。あれも間違いなく俺だったからだ。

「守りたいって気持ちはあっても、それを最後まで貫けるだけの力がなかったんだ。だから、何かあるたびに迷ってた。逃げたほうが楽じゃないかって、そんなことも何度も考えた」

アインは黙って聞いている。ジュリアは俺の腕にぴとっとくっついてきた。

「でもな」

俺は二人を見た。

柔らかい頬。潮風に揺れる髪。まだ幼い指先。

「お前たちがいたから、俺はここまで来られた」

「……ぼくたちが? 」

アインが目を丸くする。

「ああ。お前たちが笑ってくれると、立ち止まってられなくなるんだ。泣いてたら抱きしめたくなるし、転びそうになったら手を伸ばしたくなる。守りたい相手がいると、人は勝手に強くなるのかもしれない」

強さってのは、最初から胸に宿ってるものじゃないんだろう。

誰かを失いたくないと願ったぶんだけ、少しずつ形を持つ。

傷だらけでも立ち上がろうとする理由が、心の奥に根を張っていく。

「俺は、立派な人間だったわけじゃない。でも、お前たちの父親になれてよかったと思ってる」

そう言って、俺は二人を腕の中へ引き寄せた。

アインは少し照れたみたいに身をよじったが、結局おとなしく収まった。ジュリアは最初から当たり前みたいに俺へ頬を寄せてくる。

「パパ、つよいよ」

ジュリアが言う。

「うん。パパ、すごくつよい」

アインも続けた。

その言葉は、剣を振るって称えられるより、ずっと深く沁みた。

「……ありがとな」

俺は二人を抱く腕に少しだけ力を込めた。

守らなきゃいけない未来がここにある。

それは重荷なんかじゃない。俺が俺であるための、いちばん確かな理由だ。

やがて日が傾き始め、海は少しずつ色を変えていった。

青かった水面に橙の光が差し込み、波の一つひとつが燃えるみたいに輝く。空の端では雲まで夕焼けをまとって、世界全体がやわらかな金色に包まれていた。

アインとジュリアは砂の上に並んで座り、どこか真面目な顔で話し込んでいた。

「ジュリア、おおきくなったらなにになるの? 」

「うーん……おひめさま! 」

「おひめさま? 」

「きれいなふくきて、みんなをにこにこさせるの」

「じゃあ、ぼくはつよいひと! 」

「ゆうしゃ? 」

「うん。パパみたいな! 」

不意打ちみたいにその言葉が飛んできて、俺は一瞬息を止めた。

ジュリアも負けじと声を弾ませる。

「じゃあジュリアは、おひめさまで、でもパパをたすけるの! 」

「じゃあぼくもママをまもる! 」

「じゃあみんなでいっしょ! 」

ころころ変わる夢だ。明日には別のことを言うかもしれない。甘い菓子屋になりたいとか、大きな船に乗りたいとか、空を飛びたいとか。

それでいい。

今のこの子たちには、未来がいくつもあっていい。選びきれないほどあっていいんだ。

俺は立ち上がり、夕日に向かってまっすぐ目を向けた。

勇者として戦うたび、代償の影は近くなる。失うものがまるでないわけじゃない。痛みもある。恐れもある。あの発作が、今後もう二度と来ない保証だってない。

それでも、俺は進む。

この子たちがいつか自分の足で未来を選ぶその日まで、道を塞ぐものは全部、俺が引き受ける。

笑って夢を語れる今日を、明日も、その先も繋げていくために。

どんな傷でも、どんな代償でも構わない。

アインとジュリアが見上げる明日を守れるなら、俺は何度だって剣を取る。

背後で、双子の笑い声が風に混ざった。

振り返ると、夕日の中で二人がこちらへ手を振っている。あまりにも眩しくて、胸の奥が静かに震えた。

――この小さな未来のためなら、たとえ運命の波がもう一度俺を試そうとも、俺は決して手を離さない。