作品タイトル不明
第112話 夜を超えるために、俺は娘を抱きしめた
夜半を過ぎた船内は、昼間とは別の場所みたいに静まり返っていた。
波が船腹を叩く音だけが、一定の間隔で低く響いてくる。木の軋むかすかな振動が床を伝い、狭い船室の中までじわじわと染み込んでいた。
昼間はあれほど賑やかだった子供たちの寝息も、今は柔らかく重なっているだけで、そこにあるのはようやく手にしたひとときの休息だった。
俺は浅い眠りの底から、嫌な感覚に引きずり上げられるように目を覚ました。
最初に来たのは、胸の奥を内側から握り潰されるような圧迫感だった。息を吸おうとしても、空気が喉の途中でつかえてうまく落ちていかない。
肺に冷たい石でも詰め込まれたみたいに重く、心臓のあたりが不規則に脈打って、拍動のたびに鈍い痛みが胸骨の裏を走った。
「……っ、ぅ……」
声にならない息が漏れる。
まずい。
その一言だけが、眠気の残った頭に鋭く浮かんだ。
これまでにも発作は何度かあった。けれど、今回は違った。胸の苦しさだけじゃない。腹の底からじわじわと込み上げてくる吐き気があって、全身の血が一気に引いていくような寒気まで混ざっている。
額から噴き出した汗がこめかみを伝い、首筋をぬるく流れ落ちた。寝間着代わりの薄いシャツが、もう背中に貼りついている。
横を見る。
アインとジュリアが、毛布の中で寄り添うように眠っていた。少し離れたところにはミユウの寝顔も見える。薄闇の中でも、彼女の銀の髪だけはぼんやりと光を含んでいるみたいだった。
起こすな。
せめて、今は。
俺は歯を食いしばり、軋む体をどうにか起こした。足元がふらついて、一瞬その場に膝をつきそうになる。それでも壁に手をついて体を支え、息を殺しながら船室の扉へ向かう。
一歩進むたびに、胸の真ん中に硬い杭でも打ち込まれるみたいに苦しくなった。視界の端が暗く滲む。けれどここで倒れるわけにはいかなかった。こんなところを見せたら、子供たちが怯える。ミユウだって、きっと自分を責める。
扉を開け、廊下に出る。
夜の船内は冷えていたはずなのに、俺の体だけが熱と冷えに同時に襲われているみたいだった。
ぞくりと震えたかと思えば、次の瞬間には背中から汗が噴き出す。喉の奥がひりつき、込み上げるものを押し戻すのに必死で、俺はほとんど転がるように洗面所へ駆け込んだ。
扉を閉めるのとほとんど同時に、俺は洗面台にしがみついた。
「はっ……ぐ、ぅ……」
苦しい。
短い呼吸しかできない。肺を膨らませるたびに胸の奥が悲鳴を上げる。胃の中身を吐き出してしまいそうな吐き気が波みたいに何度も押し寄せ、そのたびに腹の筋肉が勝手に痙攣した。
手のひらで口元を押さえ、もう片方の手で胸を掴むように押さえ込む。意味がないとわかっていても、そうでもしないと内側から壊れていきそうだった。
鏡に映った自分の顔はひどかった。
青ざめた肌。額にも頬にも浮いた汗。焦点の合わない目。唇の色まで悪い。まるで数日まともに眠っていない病人みたいで、とてもじゃないが“最強の勇者”なんて肩書きが似合う顔じゃなかった。
戦いの疲れが一気に出たのかもしれない。
あの場で子供たちを守れた、その安堵で張り詰めていた糸が切れたのかもしれない。
それとも――魔王に近づいているせいなのか。
その考えが頭をよぎった途端、胸の奥がまた強く脈打った。
嫌な予感だった。体の不調だけじゃない。見えない何かが、少しずつこちらに手を伸ばしてきているような、そんな感覚。ヴェイルルナ島はまだ先のはずなのに、もう逃げ場のない気配だけが、夜の海を渡ってここまで届いているみたいだった。
「っ……あ……」
喉の奥から掠れた音が落ちる。
膝が笑って、俺はその場にしゃがみ込みそうになる。だが倒れたら最後、本当に動けなくなる気がして、洗面台の縁に指を食い込ませた。白くなるほど力を入れても、震えは止まらない。
なんでこんな時に。
子供たちを守ると決めたばかりなのに。
ミユウに、もう大丈夫だって顔をしてみせたばかりなのに。
父親として、夫として、前に立つべき俺が、夜中にひとり洗面所で息もまともにできずにいるなんて。
情けなかった。
腹立たしいほど、自分が許せなかった。
勇者だの、最強だの、そんなものはどうでもいいと何度も思ってきた。けれど、せめて家族を安心させるくらいの強さは持っていたかった。子供にとって、パパは大きくて、あったかくて、どんな時も守ってくれる存在であるべきだ。泣きたい夜に抱きしめてくれて、怖いものから隠してくれて、絶対に倒れないと思える背中でなければいけない。
なのに今の俺はどうだ。
たったひとりで立っていることすら、こんなにも難しい。
その時だった。
「……パパ? 」
細く、まだ眠気の残った幼い声が、背後から震えるように響いた。
心臓が別の意味で跳ねる。
振り返ろうとしたが、胸の痛みがそれを許さなかった。肩越しに見ることすらできず、俺は洗面台に額がつきそうになるのを堪えながら、かろうじて声を絞り出す。
「……な、なんの用だ……」
言葉の途中で息が切れた。情けないほど掠れた声だった。
返事をしたくせに、俺は後悔した。こんな声を聞かせたら、ジュリアが余計に不安になる。
小さな足音が、ぱたぱたと近づいてくる。
「パパ……? どうしたの……? いたいの……? 」
その問いに、すぐ答えられない。
吐き気がまた押し寄せてきて、俺は口元を押さえたまま浅く息を繰り返した。背中が上下するたび、シャツの内側にたまった汗が冷えて気持ち悪い。船の揺れまで、今は体の中を乱す敵みたいに思えた。
「……っ、こっち、来るな……ジュリア、部屋に……戻れ……」
本当は優しく言いたかった。怖がらせないように、笑って大丈夫だと誤魔化したかった。
けれど現実は、そのどれもできなかった。言葉はぶつ切りで、低く、苦しさに押し潰されていた。
しばらく沈黙が落ちる。
俺はそれで、ジュリアが言うことを聞いて戻ってくれるかもしれないと思った。そうしてくれた方がよかった。幼い娘に見せるには、今の俺はあまりにも無様すぎたからだ。
だが次の瞬間、きゅっと何かが足に巻きついた。
「……え……」
驚いて視線を落とす。
ジュリアが、泣きそうに顔を歪めながら、俺の脚にしがみついていた。
寝起きなのだろう、髪は少し乱れている。小さな寝間着の裾を引きずるようにして、裸足のままここまで来たらしい。大きな瞳にはもう涙がたまっていて、こぼれる寸前の雫が月もない薄闇の中でかすかに光っていた。
「やだ……戻らない……」
震えた声で、ジュリアは言った。
「パパ、ひとりでいたら、もっとつらいもん……」
その言葉が、胸の痛みとは別のところを真っ直ぐ刺した。
「ジュリア……」
「だって……パパ、すごく苦しそうだよ……」
とうとう涙が頬を伝う。
それでもジュリアは離れなかった。両腕で俺の脚にぎゅっと抱きつき、自分の頬まで押しつけるようにしてくる。あったかい。小さな体の熱が、震え続けていた俺の足にじんわり伝わってきた。
「パパ、がんばりすぎたの……? いたいの、どこ……? ジュリア、なでなでする……」
五歳の子供の手は、本当に小さい。
その小さな手が、泣きながら俺の膝あたりを一生懸命さすっている。上手でもないし、どこをどうすれば楽になるのかなんてわかるはずもない。それでも、なんとかしたいという気持ちだけがまっすぐに伝わってきた。
俺は情けなく目を伏せた。
こんな時に慰められているのが父親の方なんて、笑えない。
守るべき相手に、守られてどうする。
それでも、ジュリアの声を聞いているうちに、張りつめていたものの一部が少しずつほどけていくのを感じた。苦しさが消えるわけじゃない。胸の痛みも、吐き気も、汗の気持ち悪さもまだ続いている。だが、それでも確かにさっきまでの息の詰まり方とは違っていた。
「……っ、なんで……お前は……」
うまく続けられない。
ジュリアは俺の脚にしがみついたまま、しゃくりあげる。
「だって……だって……パパが、かなしいお顔してたもん……」
かなしいお顔。
その言い方が、たまらなかった。
俺は自分が苦しんでいる顔はしていても、悲しい顔なんてしていないと思っていた。けれど、子供はきっと、大人が隠したいものを思っている以上によく見ている。
ジュリアは涙をぬぐいもしないで、必死に言葉を続けた。
「パパ、いつもジュリアがこわいとき、だいじょうぶってしてくれるでしょ……? だから、今日はジュリアが、パパにだいじょうぶってするの……」
俺の喉の奥が熱くなる。
苦しさとは違う熱だった。
ああ、駄目だ。
こんなふうに言われたら、弱っている場合じゃないと思うのに、逆に胸の奥がひどく揺さぶられる。小さな娘の言葉が優しすぎて、まっすぐすぎて、今の俺には眩しかった。
「……ごめんな」
やっとそれだけ言うと、ジュリアは首をぶんぶん振った。
「ごめんなさいじゃないの……パパ、ひとりでいたら、だめ……」
その一言に、俺はとうとう洗面台から手を離した。
ふらつく体をどうにか支えながら、ゆっくりとしゃがみ込む。胸の奥ではまだ痛みが燻っていたが、娘と同じ高さまで下りないといけない気がした。
ジュリアはすぐ目の前で、真っ赤な目をして俺を見つめていた。怖いはずだ。いつも大きく見えている父親が、こんな顔をしているのだから。それでも逃げずにここにいてくれた。
俺は震える手を伸ばし、その小さな肩に触れた。
「……心配、かけたな」
「うん……」
「怖かったか」
「うん……でも、パパのほうが、もっとこわかったよね……? 」
その返しに、俺は少しだけ息を詰まらせた。
子供に気を遣わせている。
本当に、格好悪い。
けれど同時に、たまらなく愛しかった。
俺はジュリアをそっと抱き寄せた。細い体は驚くほど軽くて、抱きしめるとすぐ腕の中に収まってしまう。寝間着越しの背中はあたたかく、柔らかい髪からは眠っていた子供特有の甘い匂いがした。
そのぬくもりに触れた瞬間、胸のどこかに空いていた冷たい穴へ、ゆっくり灯がともるみたいだった。
「パパ……」
「ここにいる」
声はまだ掠れていたが、それでもさっきよりずっとましだった。
「いなくならない……? 」
「いなくならない」
「ほんと……? 」
「ああ。約束する」
ジュリアは俺の胸元に顔を埋めたまま、小さくこくんとうなずいた。抱きつく腕に少し力がこもる。その頼りない強さが、逆に俺を立たせてくれる。
洗面所の小さな丸窓の向こうには、まだ夜の海しか見えなかった。空は深い藍色のままで、月の姿はどこにもない。ヴェイルルナ島へ続く航路は、闇の中に呑まれたままだ。あとどれだけ進めば辿り着くのか、そこに何が待っているのか、今の俺にはわからない。
ただひとつわかるのは、この先が楽な道じゃないということだけだ。
魔王に近づくほど、俺の体はもっと蝕まれるかもしれない。今夜のこれが始まりにすぎない可能性だってある。そんな不安は、波の音に紛れず、確かな重さで胸に沈んでいた。
それでも。
それでも、腕の中のこの子を放す理由にはならない。
俺はジュリアの後頭部をゆっくり撫でた。くしゃりと柔らかな髪が指の間を滑る。ジュリアは安心したように、細く息を吐いた。
「パパ、あったかい……」
「お前がくっついてるからだろ」
「えへへ……」
泣き顔のまま、それでも少しだけ笑う。
その微かな笑顔に、俺は救われるような気持ちになった。
最強の勇者だなんて、大層なものじゃなくていい。
完璧な父親じゃなくてもいい。
苦しい夜にこうして誰かを抱きしめて、抱きしめ返されて、それでも前に進もうと思えるなら、まだ俺は折れていない。
船は暗い海を切り裂きながら、止まることなく進んでいく。
見えない島へ、見えない敵へ、見えない明日へ。
俺は震えの残る手でジュリアを抱きしめる力をほんの少し強め、夜の向こうに隠された運命の気配を静かに睨んだ――このぬくもりを守り抜くためなら、たとえ次に俺を待つ闇がどれほど深くても、まだ終われない。