軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第111話 もう離さないと決めた夜

紫の宝玉を手に入れた瞬間、ようやく張りつめていたものがひとつ切れた。

戦いの熱がまだ体の奥に残っている。掌には、確かな重みとぬくもりを帯びた宝玉があった。夜の色を閉じ込めたような紫の石は、かすかに脈を打つみたいに光を返している。けれど、その輝きよりも先に俺の胸をいっぱいにしたのは、目の前にいる家族の存在だった。

「……パパ」

小さな声がして、俺は反射みたいに腕を伸ばしていた。

アインとジュリアを、まとめて胸の中へ引き寄せる。続いて、すぐそばに立っていたミユウの肩も抱き込むようにして、四人の体をひとつに重ねた。

細い肩。柔らかな髪。子どもたちの軽い体温。どれもちゃんとここにある。

それを確かめたくて、俺は思っていたよりずっと強い力で抱きしめていた。

「パパ、くるしい……」

「でも、やだ……このままがいい……」

アインが困ったように言いながらも、服の裾をぎゅっとつかんでくる。ジュリアは俺の胸に顔を埋めたまま、離れようとしなかった。

ミユウが、俺の腕の中でそっと息をつく気配がした。

「あなた……」

その呼びかけは責めるものじゃなかった。むしろ、俺が今どんな顔をしているのか、何も言わなくてもわかっている声だった。

俺は答えられなかった。

答えようとすると、喉の奥が妙に詰まった。言葉にしてしまえば、この腕の中の温かさが、ひどく脆いものみたいに思えてしまいそうだったからだ。

失いかけた。

その事実だけが、遅れて胸の底に沈んでいく。

ほんの少し歯車が違っていたら、この手は空をつかんでいたかもしれない。そう考えた途端、背筋の内側を冷たいものがすべり落ちていった。だから俺は、宝玉を持つ手とは逆の腕に力を込める。

二度と離さない。

口に出したわけじゃない。ただ、そういう気持ちがそのまま腕に乗った。

ジュリアの髪が頬にふれる。甘い匂いがした。アインの小さな指が、俺の背中へ必死に回される。ミユウの手は、俺の胸元をそっと押さえていた。その手つきがあまりに静かで、余計に胸が締めつけられる。

「もう大丈夫だ」

やっと絞り出した声は、自分で思っていたより低かった。

「……うん」

「ほんと? 」

「ああ。今度こそ、ちゃんと守る」

短い言葉なのに、口にすると重かった。

それでも、これは軽く言っていい約束じゃない。俺は父親だ。守ると決めたなら、どんな場所でも立ち続けるしかない。怖くても、傷ついても、迷っても、それでもだ。

しばらくのあいだ、誰も動かなかった。

風が崩れた岩場を撫で、遠くで波の砕ける音が途切れ途切れに響く。戦いの後の世界は妙に静かで、その静けさが、かえって今ここにある命の気配をくっきり浮かび上がらせていた。

やがて、ミユウが少しだけ身を離した。けれど、完全にはほどかない。俺の服を指先でつかんだまま、顔を上げてくる。

「次の島の行き先はどこなの? 」

落ち着いた声音だった。けれど、その瞳の奥には、先へ進まなければならないことをわかっている強さがあった。

俺は一度、掌の紫の宝玉を見る。

「前に、アストリアの神官から聞いたことがある」

記憶をたぐり寄せるように、ゆっくり言葉を継ぐ。

「二つ目の宝玉が隠されてるのは、ヴェイルルナ島だ」

「ヴェイルルナ……」

ミユウがその名前を静かに繰り返す。月明かりを連想させる響きだった。

「ああ。満月の夜にしか姿を現さない、伝説の島らしい」

話を聞いたときは、神話の一節みたいに思えた。けれど、こうして宝玉を実際に手にした今なら、その話もただの作り話じゃないとわかる。

ジュリアが俺の腕の中から顔を上げた。

「つきのよるだけ? じゃあ、ふだんはないの? 」

「ないっていうか……見えないんだろうな。海の向こうに隠れてるのか、それとも結界みたいなものがあるのか。そこまでは俺も聞いてない」

「へんなしま……」

アインがぽつりと言って、少しだけ眉を寄せる。五歳なりに想像しているんだろう。見えない島というものを。

「でも、そこに宝玉があるなら行くしかない」

「うん……」

ミユウは頷いたが、その表情は柔らかいまま少しだけ翳った。俺も同じことを思っていた。家族と再会できたばかりなのに、また危険な場所へ向かわなきゃならない。それが歯がゆかった。

それでも立ち止まれない。

俺ひとりなら、もっと雑に割り切れたかもしれない。だが今は違う。守りたい相手が目の前にいて、しかもそのために進まなくちゃならない。優しいだけじゃ届かない場所があることを、この旅は嫌というほど教えてくる。

「港へ行こう」

俺がそう言うと、ミユウは黙って頷き、アインとジュリアも「うん」と返した。

アシュラ島の港町は、夕方に差しかかるころでもまだ活気が残っていた。

潮の匂いに、焼いた魚の香ばしさが混じる。荷車の軋む音、縄を引く掛け声、商人たちの早口なやり取り。戦いの緊張に満ちた場所から来たせいか、その雑多な賑わいが妙に現実的で、少しだけ気持ちを地面に戻してくれた。

石畳の道を歩きながら、俺は自然と子どもたちを真ん中に入れていた。右側にアイン、左にジュリア。その外側を俺とミユウで囲むように歩く。誰かに教わったわけでもないのに、体が先にそう動く。

ジュリアが俺の手を握り、反対の手ではミユウの指をつないでいる。アインはそんな妹をちらちら見ながら、結局、自分も俺の服の裾をつかんだ。

それだけで、胸の奥がじわりと熱くなる。

当たり前みたいなこの形が、どれほど大事なものか。こういう時間は、戦場の真ん中じゃ気づけない。何かを守るって、剣を振るう瞬間だけじゃない。こうして横に並んで歩くことも、そのひとつなんだと、今さらみたいに思う。

港に着くと、大小さまざまな船が泊まっていた。漁船、貨物船、人を運ぶための大きな帆船。潮風を受けて帆布が鳴り、柱に結ばれたロープがきしむ。

俺たちは手分けするでもなく、一緒に船を見て回った。だが、ヴェイルルナ島の名を出すたび、船乗りたちの反応は似たようなものだった。

「ヴェイルルナだと? 」

「やめときな。あそこは客を乗せて気軽に向かう場所じゃねえ」

「満月の晩だけ出る島なんざ、見つけられたとしても帰れる保証がない」

渋い顔。眉をひそめる視線。冗談を聞いたときの笑いではなく、本気で関わりたくないときの沈黙。

何人目かの船乗りに声をかけたあと、ようやく年配の男が足を止めた。日に焼けた顔に深い皺が刻まれ、片目の横には古い傷跡が走っている。海を長く生きてきた人間の目だった。

「若いの。お前さん、本気でヴェイルルナへ行く気か」

「ああ」

俺が即答すると、男は家族へ視線を移した。アインとジュリアの小ささを見て、ほんのわずかに表情を曇らせる。

「その島に行くには、ふつうの航路じゃ駄目だ。海図にもまともに載らねえ特殊な海域を抜けることになる」

「特殊な海域?」

「潮の流れが一晩で変わる。霧も出る。月が雲に隠れれば方角すら狂う。しかも、ただ荒れるってだけじゃねえ。海そのものが、入ってくる者を試してるみたいに振る舞うんだよ」

大げさに脅しているようには聞こえなかった。むしろ、必要なことだけを削って言っている声だった。

「危険な旅になるぞ。腕のいい船乗りでも、あの海を好んで渡りたがる奴は少ない」

男の言葉のあとで、潮騒がやけに大きく耳に入った。

ミユウは黙って話を聞いている。けれど、その横顔を見ればわかる。不安がないわけじゃない。それでも引こうとはしていない。

アインが俺の服を引いた。

「パパ、こわいところなの?」

「……そうだな。簡単じゃない」

ごまかすことはできなかった。五歳でも、子どもは空気で察する。軽い嘘で安心させても、かえって不安にさせるだけだ。

「でも、行かなきゃいけないんでしょ」

アインの声は小さいのに、芯があった。

ジュリアも、ぎゅっと唇を結んで俺を見上げる。

「パパとママがいるなら、ジュリアがんばる……」

その言い方があまりに健気で、胸の奥がきしんだ。

頑張らせたいわけじゃない。こんな小さな子どもたちに、危険な旅を受け入れさせたいわけじゃない。けれど、俺たちはもう運命の輪の外に逃げられないところまで来ている。

だからこそ、せめて俺がしっかりしなければならなかった。

「満月までは、まだあるんだな? 」

俺が船乗りに尋ねると、男は空を見上げてから頷いた。

「あと数日はある。月が満ちきるまでは、海も完全には道を開かねえだろう」

「……そうか」

なら、その時間だけはある。

俺は礼を言って男と別れた。すぐに次の手を考えなきゃならないはずなのに、足は自然と急がなかった。

港町を少し離れた場所に、小さな宿を見つけた。海の見える高台で、派手さはないが、掃除の行き届いた静かな宿だった。俺たちはそこに部屋を取り、満月までの数日を過ごすことにした。

戦いから少し距離を置ける時間。

それは贅沢というより、今の俺たちには必要な猶予だった。

夜、窓の外では波の音がゆっくりと続いていた。

食事を終えたあと、アインとジュリアは眠気に勝てなくなって、並んでベッドに転がった。さっきまで元気に話していたくせに、子どもが眠るのは早い。ジュリアはぬいぐるみ代わりみたいに俺の腕を抱え、アインはミユウの裾を指に巻いたまま、もう半分夢の中だった。

「今日は、いっぱい歩いたものね」

ミユウが小さく笑う。

「ああ」

俺はベッドの端に腰掛け、子どもたちの寝顔を見つめた。長い睫毛。規則正しい寝息。こんなにも無防備に眠っている。その姿に、胸のあたりがじんわり痛む。

守らなきゃいけないものは、こんなふうにいつだって柔らかい。

剣で斬れる相手ならまだいい。だが旅の途中には、もっと形のないものがいくらでもある。運命だとか、宿命だとか、そういう言葉で片づけられる厄介な何かが、何度も俺たちの前に立ちはだかってきた。

それでも今夜だけは、それを脇へ置きたかった。

俺はそっと身を屈め、アインとジュリアを一人ずつ抱き寄せる。起こさないように慎重に、けれどできるだけ近くへ。

二人とも、眠ったまま俺に寄り添ってきた。

その軽さが切なかった。

この小さな体で、どれだけのことを耐えてきたんだろう。笑って、甘えて、泣いて、怖がって、それでも俺たちを信じてついてきた。考えれば考えるほど、喉の奥が重たくなる。

ミユウが隣に座る。

「あなた、また難しい顔をしてる」

「してたか」

「してたわ」

少しだけ困ったように微笑む声に、俺もかすかに口元をゆるめた。

ミユウは俺の肩へ頭を預ける。銀の髪が腕にさらりと触れた。

「今くらい、何も考えなくていいのよ」

「……そうしたい」

「だったら、そうして。全部一人で背負う顔をされると、わたしまで苦しくなるもの」

責める口調ではなく、静かな願いだった。

俺はしばらく黙ってから、低く息を吐く。

「戦ってるときは、前だけ見てればよかった。でも、こうして落ち着くと駄目だな。お前たちの顔を見るたび、間に合わなかったかもしれないって考えてしまう」

それは格好のいい言葉じゃなかった。ただの本音だ。

ミユウは否定しなかった。代わりに、俺の手へ自分の指を重ねる。

「それだけ、あなたが大切に思ってるってことよ」

「大切なんて言葉じゃ足りない」

「ええ。わかってる」

その一言が、やけにやさしく響いた。

俺は空いている腕でミユウも引き寄せる。子どもたちを起こさない程度に、静かに。それでも、離したくない気持ちはごまかせなかった。

ミユウは抵抗せず、俺の胸にもたれる。

部屋には小さな寝息が二つ。窓の向こうには、満ちていく途中の月。まだ完全ではない白い光が、床へ淡く落ちている。

このまま時間が止まればいい、なんて思わない。

そんな願いは、今の俺には似合わない。止まったままじゃ守れないものがあると知っているからだ。

それでも、先へ進む前にこうして家族のぬくもりを確かめる時間は、きっと必要だった。

俺は子どもたちの髪をそっと撫でる。次にミユウの肩を抱く手へ少しだけ力を込めた。

「必ず連れて帰る」

誰に聞かせるでもなく、けれど曖昧にしないために口にする。

「どこへ行っても、何が待っていても、今度は四人で帰る」

「……ええ」

ミユウの返事は小さかったが、迷いがなかった。

窓の外で、海が静かに息をしている。

満月はまだ先だ。ヴェイルルナ島への道も、きっと簡単には開かない。危険な海域を越えた先に、どんな試練が待っているのかもわからない。

それでも今夜だけは、剣を握る手ではなく、家族を抱きしめる腕でいたかった。

アインとジュリアのあどけない寝顔を見つめながら、俺はそのぬくもりを胸の奥へ深く刻みつける。

次の戦いが始まっても、この感触を忘れないために。

守るべきものは、いつだって目の前にある。

だから俺は、また立ち上がれる。