軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

110.家族

夜の冷たい空気が満ちる中庭で、ギルバートは静かに魔力球を霧散させ、厳しい訓練を終えた。

彼は上半身に浮かんだ汗をタオルで乱暴に拭いながら、柱の陰からこちらを見つめる二人の姿に気がついた。 静かな足取りで近づいてくると、その端正な顔に申し訳なさそうな色を浮かべる。

「起こしてしまったか」

「いいえ。わたくしたちが勝手に起きただけですわ」

エスメラルダが事もなげに答えるが、ギルバートは深く頭を下げた。

「そうか。だとしても、すまないな」

鍛え抜かれた肉体と恐ろしい魔力を持つ帝国の破壊神は、婚約者と母の前ではどこまでも優しく、不器用な男であった。

不意に、エスメラルダの容赦のない拳がギルバートの頭頂部に振り下ろされた。

「痛っ。なんですか、母上」

「なんですかではありません。ソフィアさんを起こしておいて、お前はまったくもう。殴りますよ」

「殴るのは良くないですっ」

ソフィアが慌てて割って入ろうとするが、ギルバートは頭をさすりながら苦笑いを浮かべた。

「いいんだ、フィー。母上のげんこつには慣れているから」

平然と言ってのける息子に、エスメラルダは呆れたように扇で口元を隠した。

ギルバートは気を取り直したように、傍らに立てかけてあった竜杖を手に取る。

「それにしても、この竜杖は本当にじゃじゃ馬だ。だが、不思議と俺の波長に合うんだよな」

ギルバートが愛おしそうに杖の表面を撫でる。

その光景を見た瞬間、ソフィアの胸の奥で、またしても正体不明の黒いもやもやとした感情が渦を巻いた。

自分が作ったものだと分かっていても、他の女を褒めちぎられているようで無性に腹立たしいのだ。

間髪入れず、本日二発目となるエスメラルダのげんこつがギルバートの頭に炸裂した。

「なにするんですか、母上」

「お前、ソフィアさんを放っておいて、杖とイチャイチャするとは何事ですか」

エスメラルダの鋭い指摘に、ギルバートは目を丸くして抗議の声を上げた。

「ヨランダといい、なんですか、杖とイチャイチャって。俺の心には、フィーしかいないですよ」

あまりにも真っ直ぐで嘘偽りのない言葉に、ソフィアの顔がカァッと熱くなる。しかし、同時に職人としての冷静な視点が、彼の言葉の裏にある「ある事実」を告げていた。

ソフィアは少しだけ身を乗り出し、真剣な眼差しでギルバートを見つめる。

「あの、ギルさん。一つ、気になっていたことがあるのです」

「どうした、フィー」

「出力が、上がっていますわ」

ソフィアの言葉に、ギルバートは不思議そうに首を傾げた。

「ギルさんの腕が、格段に上がっているのです。この竜杖をお渡しした時よりも、はるかに。だから今、竜杖のスペックがギルさんの力に追いつかず、若干無理をしています。そのせいで、魔力回路の末端に不具合が生じているのですわ」

「なんと。そうだったか」

「はい。今、魔法の訓練をされているところを見て、はっきりと分かりました」

ソフィアの持つ虚無の魔眼は、彼が魔力球を展開する際、杖の内部回路に過剰な負荷がかかり、微小な悲鳴を上げているのを正確に見抜いていたのだ。

それは魔力を一切持たないソフィアだからこそ見える、純粋な物理と魔力構造の真理であった。

「そうか。出力の変更や、回路の調整は可能なのか」

ギルバートの問いに、ソフィアは言葉を詰まらせた。

職人としての技術を用いれば、調整など容易いことである。

しかし、これ以上この杖をギルバートの手に馴染むようにしてしまえば、彼はますますこの『女』を手放せなくなってしまう。

そんな嫉妬心が、ソフィアの胸の中で渦巻いていた。

(いけませんわ。私は職人なのです。だから、個人の感情は押し殺して、使い手のために)

ソフィアが自己犠牲の精神で唇を噛み締めた、その時である。

三度目となる鋭い打撃音が響いた。

「痛いですよ、母上」

「乙女心をまったく理解せぬ、お前が悪いのです」

エスメラルダが扇をピシャリと閉じ、ギルバートを冷たく睨みつけた。

ギルバートは訳が分からず、理不尽な暴力に頭を抱えてしゃがみ込んでしまう。

エスメラルダは小さくため息をつくと、今度はソフィアの方へと優雅な足取りで向き直った。

そして、ソフィアの頭に向かって、静かに拳を振り下ろす。

それは打撃と呼ぶにはあまりにも優しく、まるで赤ちゃんの柔らかい頬に触れるかのような、ふわりとした感触であった。

しかし、それは間違いなくエスメラルダからの『げんこつ』であった。

「いけませんわ、ソフィアさん」

エスメラルダの美しい瞳が、真っ直ぐにソフィアの心を射抜く。

「貴方、何やらモヤモヤと、自分の中で抱え込んで考えているのでしょう。いけません。貴方は、もっともっと、自分の心に正直になるべきです」

「正直に」

「貴方は、とても良い子だわ。本当に良い子。でも、少しばかり良い子すぎます。自分よりも他者を優先して、我慢してしまう。それは立派なことです。でもね」

エスメラルダは、ソフィアの胸の奥、心臓の辺りにそっと手を当てた。

「時には、他者ではなく、自分自身の心の声に耳を傾けてあげないと。そうしないと、自分が辛いだけです。現に今、お辛いのではなくて」

その温かい言葉と手のひらの感触が、ソフィアの心の奥底にあった冷たい氷を溶かしていくようだった。

その通りであった。

ここ最近、ソフィアの心は嵐のように乱れまくっていた。

その原因が、他者のために己の感情を押し殺し、自分の心に背き続けていたからなのだと、明確に得心がいった。

前世で寝たきりだったソフィアは、常に他人に迷惑をかけて生きているという罪悪感に縛られていた。

だからこそ、自分の我が儘を押し通すことを極端に恐れ、波風を立てないように感情を殺す癖がついてしまっていたのだ。正体不明のモヤモヤとした嫉妬心に、目の前の公爵夫人は明確な答えと救いを与えてくれた。

「ギルバートから聞きました。ソフィアさん。貴方の過去の境遇からくるその性格を、一朝一夕で治せるとは、わたくしも思いません。だから」

エスメラルダは、春の陽だまりのように優しく、そして慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。

「まずは『家族』に、素直な胸の内を明かしてみるのはどうです」

家族。

その甘美で温かい響きに、ソフィアは大きく目を見開いた。

「大丈夫。家族は何があっても、貴方を拒んだりしない。嫌な顔なんて絶対にしない。だから、思い切って素直になってごらんなさいな」

エスメラルダはソフィアの肩を優しく叩くと、振り返ってギルバートを見下ろした。

二人の時間を作ってやるため、彼女なりの粋な計らいである。しかし、ただ去るだけでは終わらないのがヴォルグ公爵夫人であった。

エスメラルダの背後に、莫大な魔力が渦巻き、目に見えない風の巨大な拳が形成される。

「な、なんでっ」

ギルバートの巨体が、風のげんこつによって中庭の端まで容赦なくぶっ飛ばされた。

芝生を削りながら転がった息子に対し、エスメラルダは扇を突きつけて冷酷に言い放つ。

「お前は、ソフィアさんに二度と不安な思いをさせないこと。またさせたら、母の鉄拳が飛んでくると、ゆめゆめ忘れるな。良いな」

「は、はい」

全身を打撲した帝国の破壊神が、震える声で服従の意志を示した。

「よろしい。では、わたくしは部屋に戻りますわ」

エスメラルダは満足げに頷くと、颯爽とした足取りでホテルの中へと歩き出した。

その頼もしく美しい背中へ向けて、ソフィアは心からの感謝を込めて叫んだ。

「ありがとう、お義母様っ」

その瞬間、エスメラルダの姿が視界から掻き消えた。風の魔法による超高速移動で、彼女はソフィアの目の前に一瞬で舞い戻ってきたのだ。

エスメラルダはソフィアの体を力一杯、しかし骨が折れない絶妙な力加減で抱きしめ、頬擦りをした。

お義母様と呼ばれたことが、よほど嬉しかったらしい。

嵐のような抱擁を終えると、エスメラルダは今度こそ風のように素早く、夜の闇の中へ去っていった。

中庭には、呆然とするソフィアと、芝生に倒れ伏したギルバートだけが残されるのだった。