作品タイトル不明
109.
DBホテルの最上階、豪華なスイートルームの寝室。
ソフィアは、エスメラルダと同じ巨大な天蓋付きベッドに潜り込んでいた。
ふかふかの最高級の羽毛布団に包まれていると、どこからか心がひどく安らぐ甘い香りが漂ってくる。
深い森の樹木と、華やかな花々を混ぜ合わせたような、上品で落ち着く匂いであった。
「なんだか、とてもいい匂いがしますっ」
「最高級のお香ですわ。わたくしの私物だけれど、たくさんあるから分けてあげる。なんだったら、毎日使ってちょうだいな」
エスメラルダは嬉しそうに目を細め、ソフィアの緋色の髪をわしゃわしゃと優しく撫で回した。
母親のような温かく愛情に満ちた手つきに、身も心もとろけそうになりながら、ソフィアはふと疑問に思って顔を上げた。
「あの、ギルさんは」
「あの子は、訓練でしょうね」
「訓練、ですか」
ソフィアが小首を傾げると、エスメラルダは呆れたように小さく息を吐いた。
「さあ、もう夜も遅いのですから。おやすみなさいな」
エスメラルダはそう言うと、ソフィアの背中をポンポンと軽く叩き、瞬く間に静かな寝息を立て始めた。
大貴族の当主を支える公爵夫人ともなれば、どこでもすぐに眠りに落ちる図太さが必要なのだろう。
しかし、ソフィアは今聞いた言葉が気になってしまい、完全に目が冴えてしまった。
(訓練って。こんな時間に、何をしているのでしょうか)
ソフィアはエスメラルダを起こさないよう、絹のシーツを捲ってこっそりとベッドを抜け出した。
肌触りの良いガウンを羽織り、スイートルームをそっと後にする。
ソフィア自身には、魔力が一切存在しない。
しかし、彼女の持つ『虚無の魔眼』が、ホテルの裏庭の方角から放たれる強大な魔力の光をはっきりと視覚として捉えていた。
夜の冷たい空気が張り詰める、美しい芝生と噴水が広がる中庭。
そこに、上半身裸になったギルバートの姿があった。
ソフィアは太い柱の物陰に隠れ、思わず息を呑んだ。
ギルバートの周囲には、青白く発光する無数の魔力球がふわりふわりと宙を漂っている。
それは、ただ浮かんでいるのではない。
魔法というものは、魔力を炎や風といった事象の形にして、外へ顕現させることが一番簡単である。
最も難しく、そして魔力操作において最も重要とされるのが、魔力を魔法として顕現させず、純粋なエネルギーのまま『止める』技術なのだ。
ギルバートは自身の膨大な魔力をいくつもの球体に圧縮し、暴発させないようギリギリの均衡で維持し続けている。
ほんのわずかでも気が緩めば、このホテルごと吹き飛ばしかねない莫大なエネルギーの塊である。
鍛え上げられた分厚い胸板や広い背中には、滝のような汗が幾筋も流れていた。
彼の呼吸は深く静かで、周囲の空気ごと支配しているような凄まじい集中力であった。
「あの子ってば。ソフィアさんにこんな遅くまで起きさせて、まったく」
不意に、背後から呆れたような声が聞こえた。
振り返ると、ガウンを羽織ったエスメラルダが腕を組んで静かに立っていた。
「お義母様。起こしてしまいましたか」
「いいえ。わたくしも、あの子の魔力を感じて目が覚めただけですわ」
エスメラルダはソフィアの隣に並び、中庭で修練を続ける息子の姿を見つめた。
「あの子は、幼い頃からずっとあの訓練をしているのです」
「幼い頃から」
ソフィアが驚いて尋ねると、エスメラルダは静かに頷いた。
「ギルバートは生まれつき途方もない魔力量を持っていて、大いに期待されていました。しかし、その力があまりにも強大すぎて、まったく制御できずにいたのです」
少しでも気を抜けば、周囲を破壊してしまう呪いのような力。
ギルバートは自身の力を御すため、血を吐くような途方もない訓練を、誰に言われるでもなくずっとこなし続けてきたのだという。
「それでも、コントロールは完璧にはできていなかった。それが、貴方に出会ってから変わったのですわ」
「私に」
エスメラルダの言葉に、ソフィアは静かに、しかしはっきりと首を横に振った。
「ううん、変わっていませんっ」
ソフィアの澄んだ瞳が、暗闇の中で汗を流す不器用な男の姿を捉える。
「私に出会う前から、あの人は誰よりも、不変の努力を続けていたのです。ただ、それが結実しただけですわ」
私が作った竜杖は、その努力の成果を引き出すための、ほんの小さな手助けをしたに過ぎない。
魔力を持たない職人の自分が誇れるのは、努力する使い手に最高の道具を提供できたことだけである。
魔法を制御できるようになったのは、決して魔法の杖の力などではなく、ギルバート自身が積み上げてきた血と汗の結晶なのだ。
「ふふ。本当に、貴方は良い子ですわね」
エスメラルダは愛おしそうに微笑み、ソフィアの華奢な肩をそっと抱き寄せた。
ソフィアもその温もりに寄り添いながら、夜の闇の中で黙々と努力を続けるギルバートの姿を、ただ静かに眺め続けるのであった。