軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

94.杖の声を

一方、ギルバートは未だ修行の最中にあった。奈落の森は、夜を迎えると真の闇に包まれる。

鬱蒼と生い茂る木々が月明かりすら完全に遮り、足元の木の根すら見えないほどの深い漆黒が世界を支配していた。

得体の知れない魔獣の遠吠えが遠くで響き、時折、風が葉を揺らす音が不気味な囁き声のように耳を打つ。

かつて国家の命運を懸けた試験の舞台となり、凶悪な魔族が封じられていたこの森は、人間の生存を拒絶するような冷たい空気に満ちていた。

そんな過酷な環境の中、ギルバートは一人で野営の準備に追われていた。

日中の修行で全身は泥と血にまみれ、漆黒の軍服は所々が破れて惨憺たる有様である。

理不尽な師匠である魔竜ファフニールは、自分の飯くらい自分で用意しろとだけ言い残し、どこかの太い枝の上で気持ちよさそうに眠りこけている。

強大な竜である彼女にとっては、この恐ろしい森も裏庭のようなものなのだろう。

「ちくしょう、あのクソババアめ」

ギルバートは恨み言を吐き捨てながら、暗闇の中で手探りで集めてきた薪の前にしゃがみ込んだ。

帝国軍の将校として数々の戦場を潜り抜けてきた彼にとって、野営自体は手慣れたものである。

しかし、絶対的な力を持つ魔竜に一方的に殴り飛ばされ続けた後の肉体は、鉛のように重く言うことを聞かなかった。

手にした杖を構え、火を起こそうと魔力を込める。

夕食の獲物として仕留めた野鳥を焼くためには、適度な焚き火が必要不可欠であった。

森を歩き回り、食用になる野草を摘み、鳥の羽根をむしって丁寧に下処理をしたのだ。

あとは火を起こして焼くだけである。

彼は慎重に、ごくわずかな魔力だけを指先から杖へと流し込もうと試みた。

ぼんっ。

しかし、凄まじい爆発音と共に、苦労して集めた薪が跡形もなく吹き飛んだ。

ついでに、丁寧に下処理をしたばかりの野鳥も黒焦げの炭と化して地面に転がる。

香ばしい肉の匂いではなく、ただの焦げ臭い煙が立ち上った。

「くそっ。どうして大魔法を放つよりも、火を絞る方がこれほど魔力を消耗するのだ」

ギルバートは頭を抱え、冷たい地面に突っ伏した。

彼が持つ炎の魔力は、あまりにも強大で荒々しすぎるのだ。

帝国軍の魔導士として、敵の軍勢や巨大な魔獣を焼き尽くすような大火力は得意である。

腕を一振りすれば、森の半分を灰にすることすら造作もない。

だが、生活に必要な小さな火を維持するような繊細な制御が、彼は絶望的に下手であった。

極限まで魔力を絞り出さないように抑え込む訓練。

それは、全力で魔法を放つよりも、はるかに精神力と体力を消耗する苦行である。

大河の濁流を、指先一本でせき止めようとするようなものなのだ。

ギルバートは荒い息を吐きながら、自力で魔力を完全に抑え込むことの限界を悟っていた。

圧倒的な力を持つがゆえの弊害が、このような生活の些細な場面で牙を剥くとは思いもしなかった。

「疲れた」

全身の骨が軋み、胃袋は空腹を訴えて情けない音を立てている。

日中のファフニールによる容赦ない攻撃の痛みが、冷え込む夜気と共にぶり返してきた。

完全に心が折れそうになったとき、ギルバートの脳裏に愛しい少女の姿が浮かんだ。

どんな時でも自分を信じ、温かく迎えてくれる婚約者の顔である。

ふんわりと微笑むソフィアの顔を思い出すだけで、不思議と疲労が少しだけ和らいでいく。

それと同時に、彼女がいつも言っていた言葉を思い出した。

「杖の声を、聞くのです」

ギルバートは呟き、昼間ファフニールとの死闘の中で一瞬だけ掴んだあの感覚を思い返す。

自分一人の力で魔法を制御しようとするのではなく、杖に力を貸してもらうという感覚である。

彼は今まで、己の魔力こそがすべてであり、杖はただの頑丈な触媒だとしか思っていなかった。

魔法は、自分一人で使うものだと信じて疑わなかったのだ。

圧倒的な魔力を持つがゆえの驕りであったと、今は理解できる。

ギルバートは手の中のサブ杖を見つめ、静かに語りかけた。

力を貸してくれ。

しかし、当然ながら杖からの返事はない。

いくら魔法や奇跡が実在する世界だとしても、杖はただの物質である。

木や鉱石から作られたモノが、言葉を喋るはずがないのだ。

「いや、違う。ダメだ」

ギルバートはかぶりを振った。

ソフィアはいつも言っていたではないか。

「物言わぬだけで、杖は生きているのですよ」

彼女は杖を一つの生命のように扱い、優しく撫で、その波長を感じ取っていた。

工房で真剣な眼差しを素材に向け、まるで我が子を慈しむように接していた彼女の姿が目に浮かぶ。

ソフィアが手塩にかけて作り上げたこの杖が、ただのモノであるはずがない。

この滑らかな木材の中には、彼女の息吹と、職人としての確かな魂が宿っているのだ。

「頼む。腹が減って死にそうなんだ。火が使えなくてヤバいのだ。助けてくれ」

ギルバートは目を閉じ、杖の内部に張り巡らされた回路に意識を向けた。

力任せに魔力をねじ込むのではなく、心からの願いとして念じる。

自分と杖の境界線が曖昧に溶け合い、一つの存在になるような感覚を研ぎ澄ませた。

愛する少女が丁寧に削り出した木肌の温もりが、手のひらからじんわりと伝わってくる。

ぽわ。

小さな音がして、杖の先端に温かなオレンジ色の火が灯った。

ギルバートは驚きに目を見開いた。

自分自身の魔力は、ほとんど消費していない。

杖がギルバートの意思を汲み取り、必要なだけの魔力を最適化して炎へと変換してくれたのだ。

それは、暴れ馬のような彼の魔力を優しく手懐けるような、信じられないほど穏やかな現象であった。

「これが。杖と共鳴して、魔法を使う感覚か」

ギルバートは感動に打ち震え、静かに燃える小さな火を見つめた。

この火があれば、冷たい夜を越え、細やかな食事を作ることができる。

闇に包まれた森の中で、その小さな炎は確かな希望の光のように感じられた。

「ありがとう、フィー」

この素晴らしい杖を作ってくれた愛する婚約者に、心からの感謝を捧げた。

彼女の技術と愛情がなければ、今頃自分は暗闇の中でただ凍えていたことだろう。

すると、杖の先端に灯っていた火が、ふっと音もなく消え去った。

周囲が再び、完全な闇に包まれる。

「あ、いや。お前にもちゃんと感謝しているからなっ」

ギルバートは慌てて杖に向かって弁明した。

しかし、杖は静まり返ったまま、うんともすんとも言わない。

森の冷たい風が、男と杖の間を吹き抜けていく。

「ちょ、お前。まさかと思うが。他の女の名前を出したから、機嫌を損ねたのか」

他の女と言っても、この杖の生みの親であるソフィアのことなのだが。

恐る恐る尋ねてみると。

ぽわ。

先ほどよりも少しだけ勢いよく、杖の先端に再び火が灯った。

まるで、それでいいのだと返事をしているかのようだった。

「なんなのだ。わからん、やっぱり女心はまったくわからんっ」

ギルバートは暗い森の中で一人、頭を抱えて座り込んだ。

ソフィアの作る杖は、持ち主に奇跡をもたらす。

だが、まさか自我を持ち、生みの親に嫉妬するような真似までするとは思わなかった。

帝国の破壊神の情けない嘆き声が、奈落の森の静寂に虚しく吸い込まれていった。