軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

95.杖とラブコメ

ギルバートが理不尽な魔竜の過酷な修行から無事に帰還したことは、ソフィアにとって何よりも喜ばしいことであった。

はぐれ飛竜を蒼い炎で見事に鎮圧し、無傷で降り立った彼の姿を見た瞬間、安堵で涙が零れそうになったほどである。

しかし、今の彼女の胸の奥には、黒い靄のような言葉にできない感情が渦巻いていた。

はぐれ飛竜の騒動が一段落した後。

エスメラルダは一旦ヴォルグ邸へと戻った。

ソフィアとギルバートの二人は、一旦ソフィアの工房へと帰還することになった。

ヴォルグ公爵邸に長く滞在し、自分の店を何日も空けてしまっていたからだ。

豪奢な馬車に揺られ、帝都の路地裏にある見慣れた建物の前に降り立つ。

扉を開けると、真新しい木材とコーティング用の魔剤の落ち着く香りが鼻をくすぐり、ソフィアは深く息を吸い込んだ。

「お帰りなさいませ、ソフィアちゃん。それにぼっちゃまも」

出迎えてくれたのは、エスメラルダの専属メイドであるヨランダであった。

彼女は主人の命令で、ソフィア不在の店がきちんと回るように、ずっとここでサポート作業をしていたのだ。

帝都を襲ったはぐれ飛竜の騒動については、すでに魔導電話で詳細な連絡を受けていたようだ。

ヨランダの顔に焦りや心配の色はなく、いつも通りの涼しい表情で二人を迎え入れた。

「ソフィア、お帰り。こっちは問題なく回ってたわ」

奥のカウンターからは、留守を任せていた店員のリサがひょっこりと顔を出した。

「中級の杖が三本と、初心者用のメンテグッズが五つ売れました。常連の冒険者の方々が、店長はいつ戻るのかと寂しがっていたわ」

彼女がしっかりと在庫の管理や接客をしてくれていたおかげで、長期間の不在でも店に大きな影響はなかったらしい。

ソフィアは優秀な店員に深く頭を下げ、心からの感謝を伝えた。

「ところで、お二人の関係は進展したのですか。まさか、お屋敷でただ優雅にお茶を飲んでいただけではありませんよね」

ヨランダが、目を細めて探るように尋ねてくる。

その瞳の奥には、好奇心とほんの少しの呆れが混じっていた。

「まあ、色々とあったが。母上からの了承は、正式にもらうことができた」

ギルバートが少し照れくさそうに頬を掻きながら答えた。

その言葉に、ヨランダは納得したように深く頷く。

「ええ、聞いておりますわ。あの冷酷無比な奥様を、完全にメロメロにして骨抜きにしてしまったと。さすがはソフィアちゃんですわね」

ヨランダはメイドとしての建前を忘れ、ソフィアに向かって畏敬の念すら込めた眼差しを向けた。

氷のように冷たかった帝国の女傑が、大量のドレスを買い与えたという話はヨランダの耳にも届いている。

挙句の果てには、ソフィアのあだ名がついているというだけの理由で、小さなケーキ屋に莫大な出資までする始末である。

長年仕えてきたヨランダから見ても、ソフィアの無自覚な愛され力はもはや恐怖すら覚えるレベルであった。

しかし、褒められた当のソフィアは、やはりどこか上の空である。

視線は常に、ギルバートの大きな手に握られている竜杖へと向けられていた。

「で。これはいったい、どういう状況ですの」

ヨランダが、怪訝な顔をして二人を交互に指差した。

ソフィアは唇を尖らせ、不満げに頬をぷくっと膨らませている。

明らかに機嫌が悪く、ギルバートと一切目を合わせようともしない。

「俺にも、まったくわからんのだ」

ギルバートは完全に困り果てた顔で、オロオロとソフィアの様子を窺っていた。

女心が絶望的にわからない不器用な男は、愛する婚約者がなぜ唐突に不機嫌になったのか、その理由を微塵も理解できていないのだ。

その時、彼の手の中で握られていた竜杖が、カタカタと小刻みに震え出した。

「わっ。す、すまんっ。お前のこともちゃんと見ているから、機嫌を直してくれ」

ギルバートが慌てて杖の表面を優しく撫で、付着した見えない埃を払うように丁寧にさする。

そして、まるで恋人に囁きかけるような甘い声で、必死に杖を宥めすかした。

すると、杖は満足したように震えるのをやめ、微かに温かな光を放つ。

その光景を見た瞬間、ソフィアの胸の奥で燻っていたもにゃもにゃとした感情が、一気に限界を突破した。

ソフィアはそっぽを向いて、可愛らしく、しかし明確な拒絶の意志を込めて鼻を鳴らした。

「フィー。どうしたんだ、急に怒り出して」

「別にっ。何も怒ってなどおりませんっ」

ソフィアは冷たく言い放ち、工房の奥へとツカツカと歩き去ってしまった。

いつもは温厚で優しい彼女の、珍しいほどの露骨な態度であった。

取り残されたギルバートは、ただ茫然と立ち尽くしている。

その一部始終をじっと観察していたヨランダは、ハッと息を呑んで一つの真実にたどり着いた。

「あれ。もしかしてソフィアちゃん、ただの木の杖に対してヤキモチを焼いておりますの」

ヨランダは信じられないものを見る目で、ギルバートと彼の手にある杖を交互に見比べた。

乙女の恋心とは複雑なものであるが、まさか自分が作った杖に嫉妬する日が来ようとは、誰も予想できなかっただろう。

「あのヘタレ破壊神。可愛い婚約者(予定)が不機嫌になっているのに、杖のご機嫌取りを優先するなんて。どんだけ杖馬鹿なのですのよ」

ヨランダは呆れ果て、深い深いため息をついた。

命懸けの修行を乗り越え、帝都を救うほどの力を手に入れたというのに。

この男の恋愛偏差値は、出会った頃から一ミリも成長していないらしい。

乙女の複雑なヤキモチと、自我を持ってしまった魔法杖。

帝都の危機を救った英雄の帰還は、なんとも締まらないドタバタコメディの幕開けとなるのだった。

ソフィアは自分の部屋に戻って、はぁとため息をつく。

ギルバートがソフィアの作った竜杖の表面を優しく撫で、愛おしそうに声をかけるたび。

なぜだかひどく胸がもにゃもにゃとして、無意識のうちに彼に対して意地悪な態度をとってしまっていたのだ。

自分が精魂込めて作り上げた作品に対して、ヤキモチを焼くなど言語道断である。

あれは彼を助けるための道具であり、あの杖のおかげで彼は無事に帰ってくることができたのだ。

職人としてあるまじき、ひどく身勝手な感情だと頭では十分に理解している。

それでも、彼の大きくて武骨な手が、まるで愛しい乙女の髪を梳くように杖を優しく撫でるのを見るたびに、胸の奥がちくりと痛むのだ。

「私にこんな黒くていけない感情があっただなんて……」

ソフィアは密かに自己嫌悪に陥りながらも、どうしても膨らんだ頬を元に戻すことができずにいた。