作品タイトル不明
30. 待ち侘びる中で
心づもりとしては、彼の行く道を阻みたかった。安全で平穏なこの村で、傷つくことも悲しむこともなく、ただ笑っていてほしかった。けれど、彼の願いなら叶えてあげたかった。彼の誓いを信じたかった。
相反する二つの心の狭間で、ユフィは彼の手をきつく握りしめた。
「必ず、私の元へ戻ってきてください」
「必ず、君の元へ還ろう」
「……行ってらっしゃい。待っていますから」
「信じてくれてありがとう、ユフィ」
祈るように彼女の手を握りしめていたハルが、するりとユフィの手を離した。温もりが消え去った場所に、ぽっかりと寂しさが押し寄せてくる。その虚しさを埋めるように、両手をきゅっと握りしめた。言葉もなく二人の選択を見守っていたレベリカは、ハルがユフィから完全に離れて初めて口を開いた。
「二人とも、殊勝な選択をするじゃないか。褒めてあげるよ。ところでハル、あんたは王都までどうやって行くつもりだい? まさか歩いて行くわけじゃないだろうね? ここから王都までは一ヶ月以上かかるんだよ」
「滅相もありません。馬を借りるつもりでした」
「馬?」
「ええ。馬であれば、一週間ほどで行き来できるでしょうから」
「この村には馬なんていないよ?」
「は?」
レベリカの返答に、ハルの表情が強張った。ようやくユフィの心を開くことができた。ついに彼女の傍にいられるようになったのだ。できるだけ早くすべての件を解決し、再び彼女の元へ戻るつもりだったというのに。
ハルは急速に記憶を遡らせた。確かに、国境の村からそう遠くない町には馬がいたはずだ。ハルが持つ財産といえば、家紋の刻まれた両親の遺品が数点あるだけだったが、これならば十分に馬を購入できるだろう。問題はない。
ただ、ほんの少し。ユフィの傍に戻るのが遅くなるだけ。たったそれだけのことなのに、胸の一角が寂しくなるのは、ハルもまたユフィの傍に留まっていたいからだろうか。
(今回のことさえ終わらせればいい。そうすれば、これから先、永遠に彼女の傍にいられる)
悲壮感さえ漂うハルの表情を見つめていたレベリカは、耐えきれないといった様子で、ぷっと吹き出した。
「誰かが見たら、何年も離れ離れになるのかと思うよ。そんなに早くユフィの傍に戻ってきたいのかい? ほんの数日も耐えられないほどに?」
「ええ」
考えるまでもないといった様子で即答され、レベリカの笑みはさらに深くなった。
「なら、この師匠が可愛い弟子とその伴侶のために、特別に手を貸してあげようかね」
言葉を終えたレベリカが手を伸ばすと、虚空に半透明な霧が立ち込め始めた。霧は徐々に形を成していき、やがて黒い鬣をなびかせる馬の姿へと変わった。しかし妙なことに、霧でできたその馬には脚がなかった。脚の周りからは、今も霧のような半透明の煙が揺らめき立つばかりだった。
虚空から現れた脚のない馬の姿に、ユフィが目を丸くした。レベリカはユフィに向けてウインクをしてみせると、ハルの方へと視線を移して言葉を続けた。
「挨拶しなさい、ハル。この子は私の使い魔のベインというんだ」
「使い魔……ですか?」
「そうさ。この子なら、一日で王都まで行けるよ」
「……!」
レベリカの力を借りることには抵抗があったが、一日でも早くユフィの傍に戻れるのなら、ハルはどんなことでもできた。ハルが恐る恐る魔女の使い魔へ手を伸ばすと、ベインはその手つきを受け入れた。
「ありがとうございます、魔女様」
「手土産は調教師一匹で十分だよ。生きてさえいれば他は気にしないから、必ず生け捕りにするんだよ?」
「肝に銘じます」
頭を下げて感謝を伝えた後、ハルは瞬く間に王都へと駆け出していった。ハルの後ろ姿を見送っていたユフィは、かすかな息を吐き出した。ベインに乗っていったのだから、どんなに遅くとも明日の夜には村へ戻ってくるはずだ。
それなのに、心が酷く空虚だった。ユフィがぽつねんとハルの去った場所を見つめていると、レベリカが彼女の肩をぽんと叩いた。
「ユフィ。王都のことはハルに任せて、私たちは私たちの仕事をしようじゃないか。早く支度して出ておいで。あんたが連れてきた獣兵器たちを治療してあげないとね」
「……はい」
***
その日の夕方、どのようにして時間が過ぎたのかも分からぬまま一日を終えたユフィは、赤い夕焼けが差し込む広場に一人、佇んでいた。いつもと変わらない一日。いつもと変わらない日々。
変わったのは、たった一つだけだというのに、どうしてこれほどまでに何事にも集中できないのだろうか。
(駄目。ここまで頼ってはいけないわ)
認める。ハルが大切だ。彼に傍にいてほしい。けれど、それ以上ではない。これ以上、彼に振り回されたくはなかった。
(これはすべて、一度失いかけたものを再び手に入れたことによる反動に過ぎないわ。失うところだったからこそ、より執着してしまうの。落ち着いて。冷静に心を鎮めなさい)
引き金が一つ消えたからといって、心が崩れることはない。だから、過剰に考える必要はない。大丈夫。彼は戻ってくる。
約束してくれたのだから、無事に戻ってくるはずだ。だから前のように、近くもなく、遠くもない距離で彼に接すればいい。執着に近い依存は、すべてを破滅させるだけだから。
湧き上がる所有欲を理性で抑え込みながら、深く深呼吸をした。しかし、どれほど心を律しようとしても、ざわめきは収まるどころか、より大きくユフィへと押し寄せてきた。
「……いっそ、寝てしまおう」
一眠りすれば、きっと良くなるはずだ。振り返ってみれば、随分と長い間、心安らかに眠れていなかった。今日が過ぎればすべてのことが終わっているのだから、一眠りしてしまおう。それがいい。
決意したユフィが席を立ち、部屋へと向かおうとした。その時だった。いつの間にか彼女の傍へと近づいていたシフが、ユフィをじっと見つめるや否や、彼女を道の方へとぐいぐいと押し始めたのだ。
「えっ? ちょっと待って、シフ? どうしたの?」
シフに半ば強引に道まで押し出されると、シフはユフィの前で身を低くした。乗れ、という合図だ。
「……シフ。どこへ行くつもり?」
ユフィの問いに、シフは赤い瞳で彼女を見つめ返した。言葉には出さないが、その視線に答えがあった。眉をひそめたユフィが言った。
「待つと言ったでしょう。王都には行かないから、中に入って寝ましょう」
ユフィがシフを引っ張ろうとしたが、当然ながらシフはびくともしなかった。ユフィの目が細められる。
「シフ」
「……」
「どうしたの?」
ユフィが背に乗るまでは絶対に姿勢を変えないと決めているかのように、シフは頑なに身を低くしているばかりだった。それに、ユフィはため息を深く吐き出した。
「私はハルを信じているわ。彼は戻ってくる」
「……」
「彼に執着するつもりはない。私の最も近くに留まるのは、あんた一人で十分よ」
「……」
「彼は人間よ、シフ。あんたとは違うわ。あまり心を許しては駄目」
「……」
「……シフ」
いくら言っても聞き入れない。普段とは違うシフの固執に、妙な不安感が込み上げてきた。
「シフ、どうしてそこまで連れて行こうとするの? もしかして王都で何か……悪いことが起きているの?」
シフは肯定も否定もせず、ただ身を低くしていた。獣の勘は、決して侮れるものではない。
もし、本当に何かが起きているのだとしたら……。
そこまで思考が至ったユフィがシフの背に飛び乗ると、シフは待ってましたと言わんばかりに駆け出した。