作品タイトル不明
後編
窓の外の景色だけが、日々を数える手がかりだった。
朝日が塔の壁を温め、昼には石畳の影が短くなり、夕暮れに屋根が茜に染まり、夜には月が城壁の向こうに沈む。その繰り返しが何度過ぎたか。食事は一日に二度、扉の下の隙間から木の盆が押し入れられた。粗末だが、これより貧しい食事をしている民は大勢いるだろう。殺すつもりはない、しかし客として扱うつもりもない。そういう食事だった。
ユスティーナは日課のように窓辺に座り、王都を眺めた。市場の喧騒、教会の鐘、子供たちの声。遠くから見るこの街は平穏そのもので、変わったことなど何もないように見えた。
それが変わったのは、ある朝のことだった。
南の空に、細い煙が一筋立ち昇った。遠い。城壁の外、ずっと先。やがてもう一筋、もう一筋。煙は数を増し、地平線の際を薄く灰色に染めていった。
正午過ぎ、早鐘が鳴った。王宮の鐘ではない。城壁の見張り塔の鐘。それが収まらないうちに王宮の鐘も加わり、二つの鐘が重なり合って不吉な和音を刻んだ。
街の空気が変わった。市場の喧騒が消え、代わりに怒号と馬蹄の音が入り混じった騒ぎが、波のように遠くから近づいてくる。
ユスティーナは窓辺に立ち、煙が増えていく南の空を見つめていた。
◇
王宮の謁見の間は、混乱の坩堝と化していた。
即位して間もないクローヴィスが玉座から身を乗り出し、次々と駆け込んでくる伝令を怒鳴りつけている。ミレイユは玉座の傍らでおろおろと立ち尽くしていた。重臣たちが怒号を飛ばし合い、卓上に広げられた地図の上に駒を並べては動かしているが、その手つきには確信がない。
「シュトラーデン軍、国境を突破。第一防衛線を午前中に破り、現在も進軍中」
「第二騎馬隊、迎撃に向かうも壊滅。退却中の残存兵力は二百を下回る模様」
「西方守備隊からの連絡が途絶えました」
伝令が伝える内容は、どれも信じがたいものだった。シュトラーデン王国軍は国境の要塞を一日で陥とし、ルーヴェルン軍の迎撃を各所で退けながら、恐るべき速さで王都へ向かっている。
ルーヴェルン王国軍は精強とは言い難かった。千年の間、神の加護に守られてきたこの国には、本格的な戦争の記憶がない。兵の訓練は形式的で、将軍たちの戦術は教本の域を出ず、城壁は美観を優先して設計されていた。それでも、これまでは問題にならなかった。なぜなら、国境に迫る軍勢には不意の豪雨が降り、攻城兵器は原因不明の故障を起こし、敵将は落馬して負傷した。神の加護が、目に見えない盾となってこの国を守ってきたのだ。
しかし今、その盾がない。
「なぜだ」
クローヴィスが叫んだ。玉座の肘掛けを拳で打ち、立ち上がる。
「なぜ神の加護が我らを守らぬ! 我が国は千年にわたり加護を受けてきたのだ。なぜ今になって──」
重臣たちは顔を見合わせた。誰も答えを持っていなかった。ふと、クローヴィスの脳裏に、即位式の日に蒼白となっていた老神官の顔が浮かんだ。
「そうだ。霊廟の神官を、リュシアンを呼べ!」
クローヴィスの命令で、老神官が謁見の間に引き出された。白い祭服のまま、衛兵に腕を掴まれるようにして連れてこられたリュシアンは、ここ数日で十年は老け込んだように見えた。
「神官。加護が失われた原因を申せ」
クローヴィスの声は怒りで震えている。リュシアンは顔を上げ、新王を見た。その目に浮かんでいるのは、恐怖ではなかった。苦い、深い、取り返しのつかないものを悟った者の目だった。
祭壇の文字の明滅。あの瞬間に何が起きたのか、リュシアンには推測がついていた。クローヴィスが「王国」への愛の誓いを立てる前に、「ミレイユ」への愛の誓いを立てた。古文書に記された守護の仕組みの解釈が正しければ、守護の対象はもはや王国ではない。クローヴィスとミレイユ、二人だけだ。
だが、今さらそれを告げて何になる。
「わかりません」
リュシアンは言った。声が掠れていた。
「わからぬだと? 貴様は霊廟の神官であろう。神の加護について最も詳しいはずだ」
「申し訳ございません。私は……私には」
「役立たずめ。下がれ!」
リュシアンは衛兵に押し出されるように謁見の間を出た。
回廊を歩く老神官の足取りは、覚束なかった。壁に手をつきながら、ゆっくりと霊廟への道を辿る。その脳裏に、一つの声が甦っていた。
『誓いの対象が王国ではなく、特定の個人だったら、どうなるのでしょう?』
思いつくままを口に乗せたような、邪気のない問い。学問を愛する弟子の、純粋な好奇心から出た問い。そうだと信じていた。信じたかった。
リュシアンの足が止まった。
あれは好奇心ではなかった。確認だったのだ。
◇
シュトラーデン軍の進撃は止まらなかった。
国境から王都まで、通常の行軍であれば十日はかかる距離を、シュトラーデン軍はわずか六日で踏破した。途上の砦は降伏するか逃散し、街道沿いの町は戦わずして門を開いた。ルーヴェルンの民にとって戦争は芝居の中の出来事であり、現実に武装した軍勢が押し寄せてくることへの備えも、覚悟もなかった。
そして七日目の夜。
ついに王都の城壁に、シュトラーデン軍の篝火が連なるのが見えた。無数の炎が地平線を焦がすように揺れている。城壁の上に立つルーヴェルン兵たちの顔は一様に青白く、手にした槍の穂先が震えていた。
深夜、第三の鐘が鳴った頃、王宮の裏門が内側から開かれた。
音もなく錠前が外され、鉄の扉が軋みながら動く。開けたのはルーヴェルン王国の者だった。名前は誰も記録していない。ただ、その者は一つの判断をした。勝ち目のない戦いを長引かせるよりも、門を開けた方が多くの命が助かる、と。あるいは、シュトラーデン側から何らかの約束を受けていたのかもしれない。真相は闇の中だ。
門が開くと同時に、シュトラーデン軍が王宮になだれ込んだ。
抵抗は散発的だった。ルーヴェルン王宮の衛兵たちは勇敢に戦った者もいたが、多くは武器を置いた。彼らもまた、神の加護が失われた世界で初めて戦う者たちだった。
塔の部屋で、ユスティーナは剣戟の音を聞いていた。
金属がぶつかる音。怒号。悲鳴。足音。やがてそれらは遠くなり、静寂が訪れ、また別の方角から騒ぎが起こる。そのたびに、占領が王宮の奥へと進んでいることがわかった。
やがて、扉の前の衛兵が姿を消した。逃げたか、排除されたか。代わりに、規律ある足音が近づいてくる。鍵が壊される鈍い衝撃が二度、三度と部屋を震わせた後、扉が開かれた。
シュトラーデン王国軍の将校が一人、扉口に立っていた。甲冑に旅塵をまとい、顔には疲労の色があったが、ユスティーナの姿を認めると背筋を正し、胸に手を当てて深く敬礼した。
「ユスティーナ殿下。お迎えに上がりました」
ユスティーナは椅子から立ち上がった。数週間の幽閉生活を経てなお、背筋は伸び、灰青色のドレスは皺こそあれ整えられていた。彼女は将校の敬礼に小さく頷き、塔の部屋を出た。
占領された王宮の回廊を、ユスティーナは歩いた。
燭台の半分は倒れ、壁掛けの一部は斬り裂かれている。床には割れた花瓶の破片が散らばり、踏むたびにかすかな音を立てた。シュトラーデン軍の兵士たちが回廊の両側に立ち、ユスティーナが通るたびに敬礼する。
回廊の角を曲がったところで、駆け寄ってくる足音があった。マルトだった。目を泣き腫らし、髪は乱れ、衣服のあちこちが汚れていたが、怪我はないようだった。
「姫様……!」
声を詰まらせるマルトの手を、ユスティーナはそっと握った。十年前、二人で初めてこの王宮に足を踏み入れた日と同じように。ただし、あの時は手を引かれる側だった少女が、今は引く側になっていた。
「大丈夫よ、マルト。もう終わったわ」
マルトは頷き、涙を拭って、ユスティーナの半歩後ろについた。十年間と同じ場所に。
その合間に、ルーヴェルン王宮の者たちがいた。壁際に押しやられた侍従たち、身を寄せ合う侍女たち。彼らはユスティーナの姿を見て息を呑んだ。捕らえられていたはずの、あのシュトラーデンの王女。使節扱いされ、空席に囲まれ、嘲笑の的であった人質の女が、今、勝者の側として彼らの前を通り過ぎていく。
ユスティーナは彼らに目を向けなかった。ただ前を向いて、謁見の間へと進んだ。
扉が開く。
かつてアルベール四世が座り、つい先日までクローヴィスが座っていた玉座の前。深紅の絨毯の上に、クローヴィスとミレイユが座らされていた。両手を後ろで縛られ、膝をついた姿勢。クローヴィスの白と金の礼装は汚れ、銀の冠はどこかに失われている。ミレイユの蜂蜜色の髪は乱れ、翡翠の首飾りも消えていた。
ユスティーナが入室すると、クローヴィスが顔を上げた。その碧眼に浮かんでいるのは、純粋な憎悪だった。
「やはりお前か」
声が割れていた。喉を枯らすまで怒鳴り続けたのだろう。
「最初からシュトラーデンの手先だったのだな。父上を殺し、我が国を売り渡した。そうだろう、ユスティーナ」
ユスティーナは答えなかった。クローヴィスの前に立ち、静かに見下ろした。かつてこの男が自分を見下ろしたのと、正反対の構図で。
「クローヴィス殿下」
感情のない声だった。
「一つだけ、お教えして差し上げましょう」
クローヴィスが唇を噛む。ミレイユが怯えた目でユスティーナを見上げている。
「あの芝居──『真実の愛』は、作り話ですのよ」
クローヴィスの顔に、憎悪とは別の色が走った。困惑。意味がわからない、という表情。
ユスティーナはそれ以上何も言わず、踵を返した。
◇
霊廟の扉を押すと、懐かしい匂いがした。冷えた石と、古い紙の匂い。
堂内は薄暗く、蝋燭が二本だけ灯されていた。即位式の日に持ち込まれた無数の燭台はすでに片づけられ、深紅の絨毯も白布も撤去されている。千年前からそうであったように、霊廟はまた静寂の中に戻っていた。
祭壇の前に、リュシアンが座っていた。
書見台に向かってはいたが、古文書を読んでいるわけではなかった。ただ、祭壇の建国王の石像を見上げていた。
ユスティーナが足を踏み入れると、石床に靴音が響いた。リュシアンが振り向く。
いつもの穏やかな笑みはなかった。代わりにそこにあったのは、疲労と、苦痛と、それから理解だった。すべてを理解してしまった者の、重い目。
「……殿下」
「リュシアン様。ご無事で安心いたしました。兵には、この霊廟に立ち入らぬよう命じてございます」
「ありがとうございます。殿下のお心遣いがなければ、この老骨もどうなっていたか」
礼を述べながらも、リュシアンの声には温かみがなかった。ユスティーナはそれに気づいていたが、構わず祭壇の傍らに腰を下ろした。いつもと同じ場所に。
沈黙が落ちた。蝋燭の炎がかすかに揺れ、二人の影を石壁に投げている。最初に口を開いたのは、リュシアンであった。
「あなたは最初から、ご存じだったのですね」
「何をでしょう」
「すべてを。神の加護の正体。誓いの意味。クローヴィス殿下が何をするか。そしてその結果、何が起きるか」
ユスティーナは否定しなかった。否定も、肯定も、しなかった。ただリュシアンの目を見つめ返した。
「リュシアン様。シュトラーデンには断片的ではありますが、三百年前の出来事が、芝居とは異なる形で伝わっております。この霊廟で本当は何が起きたのか。教えていただけますか」
リュシアンは深い息を吐いた。彼女はすでに真実に辿り着いたのだろう。だが、この老いた口から語られる言葉を求めている。証言を。
「三百年前の王は、派手好みでした」
リュシアンは語り始めた。蝋燭の灯りの中で、声は低く、ゆっくりと流れた。
「華美な即位式に心を砕き、地味な誓いの儀式を省いた。結果、神の加護は──いえ、正直に申しましょう。『神の加護』と呼ばれているものは、実際には建国王が施した古代魔術による結界です。王家の権威のために、神の名を借りているに過ぎません」
ユスティーナの表情は変わらなかった。知っていたのだ。やはり。
「誓いの儀式を行わなかった王のもとで、結界は新王に引き継がれなかった。それがシュトラーデンの侵略を招いた。芝居で描かれた通り、ここまでは概ね事実です。ですが、その先が違う」
リュシアンは祭壇に目をやった。古い石に刻まれた文字。先日、金色に明滅したあの文字。
「追い詰められた王がこの霊廟に逃げ込んだのも事実です。しかし一緒にいたのは王妃ではなく、愛妾でした。王は愛妾に愛を誓った。その結果、結界は王国全体ではなく、王と愛妾の二人だけを守るものに変質してしまった」
「そして結界を失った王国は、手つかずの侵略に晒された。そうですね?」
「ええ。王と愛妾は結界に守られて誰にも傷つけられず、天寿を全うしました。しかし王国は大きく国力を損なった。次の王が正しく儀式を行って結界は復活しましたが、失われたものは取り戻せなかった。王家はこの不名誉を覆い隠すために、『真実の愛』の美談を作り上げて流布した。そして三百年の間に真実は忘れ去られ、作り話だけが残った。愚かなことです」
リュシアンは語り終え、両手を膝の上に置いた。老いた手が細かく震えていた。
「あなたの問いの意味に、気づくべきでした」
その声には、怒りではなく、深い悔恨が滲んでいた。
「誓いの対象が個人なら、守護はその個人に限定される。あれは学術的な問いではなかった。あなたはクローヴィス殿下なら同じ愚行を犯すと読んで、その結果を確認していたのだ」
ユスティーナは黙って聞いていた。やがて、静かに口を開いた。
「リュシアン様は愚かではありません」
「いいえ、私は愚かでした」
「違います。ご自分と同じように、他者もまた知識を純粋に愛するものだと、信じていらしただけです」
その言葉の残酷さを、ユスティーナ自身がわかっていた。声の調子がわずかに沈んだのは、そのためだろう。
リュシアンは長い間黙っていた。蝋燭の芯がじりじりと音を立てた。
「……先王の落馬は」
リュシアンの問いに、ユスティーナの灰色がかった青い目にはほんの一瞬、冷たい光が走った。
沈黙が、答えだった。リュシアンはそれ以上問わなかった。問えなかった。
ユスティーナは立ち上がり、祭壇の古代文字を指先で撫でた。即位式の日に明滅した、あの文字を。
「リュシアン様。最後にもう一つだけ」
「……何でしょう」
「この誓いは、建国王の血を引く者でなくとも行えるものですか」
リュシアンは顔を上げた。ユスティーナの問いの先にあるもの。その意味を理解するのに、今度は一瞬しかかからなかった。
「それは……わかりません。古文書にも明確な記述はありません」
「そうですか」
ユスティーナは静かに頷いた。落胆でも安堵でもない、ただ事実を受け止める頷き方だった。
「この霊廟はお守りいたします。リュシアン様の身も、古文書も、祭壇も、何一つ損なわせません。どうかご安心ください」
リュシアンは答えなかった。ユスティーナの足音が遠ざかり、扉が軋んで閉まった。
一人残された老神官は、建国王の石像を見上げた。石の目は千年前と変わらず、何も語らない。
自分があの王女に剣を渡したのだ。知識という名の剣を。純粋な学問への愛を信じて。彼女が何にその剣を振るうのか、考えようともせずに。
リュシアンは祭壇の前に膝をつき、額を石に押しつけた。
◇
翌日、シュトラーデン国王の旗を掲げた本隊が、王都に到着した。
先遣の軍勢が制圧した王宮に、占領者の長が足を踏み入れる。かつてアルベール四世の玉座があった場所には、本国から持ち込まれたシュトラーデン風の意匠の椅子が置かれていた。ルーヴェルンの玉座をそのまま使うことを、シュトラーデン王は好まなかったらしい。
ユスティーナは父王の前に跪いた。
十年ぶりの対面だった。ユスティーナがルーヴェルン王宮に送られたのは十歳の時。以来、手紙のやり取りはあったが、顔を合わせる機会はなかった。父王は十年前より白髪が増え、頬がこけていた。ユスティーナは十年前より背が伸び、子供の丸みが消えて、鋭さを帯びた大人の顔になっていた。
父王はしばらく娘の顔を見つめていた。そこに父親の感慨があったのか、支配者の計算があったのか、あるいはその両方であったのか。
「ユスティーナ。よくやった」
短い言葉だった。
「ありがたきお言葉にございます。つきましては、命を賭けて役目を果たした娘の褒賞のお願いをお聞き届けいただけないでしょうか」
「申してみよ」
「旧ルーヴェルン王国領の総督の地位を賜りたく存じます」
謁見の間に居並ぶシュトラーデンの将軍や文官たちの間に、かすかなざわめきが走った。滅ぼした国の全領土を、二十歳の王女が求めている。
父王は表情を変えずにユスティーナを見下ろしていた。長い沈黙の後、口を開いた。
「よかろう。ただし条件がある。十年前に両国の争いの種となった金鉱山は、シュトラーデン王家の直轄とする。あれは元々我が国の権益であり、この戦のそもそもの原因だ。異存はあるか」
「ございません」
即答だった。一瞬の間もなかった。
父王の眉がわずかに動いた。鉱山こそが両国の争いの発端であり、和平の対価であり、最大の戦利品であるはずだ。それを、交渉の素振りすら見せずに差し出す。
「欲のないことだな」
「父上のお心遣いに比べれば、些末なことでございます」
ユスティーナは深く頭を垂れた。その顔は、跪いた姿勢の向こうに隠れていた。
◇
数ヶ月が過ぎた。
旧ルーヴェルン王国は、シュトラーデン王国の属領「ルーヴェルン総督領」となり、ユスティーナがその初代総督に就任した。王宮は総督府に改められ、かつてユスティーナが幽閉された塔は物見の塔として使われるようになった。
その日、ユスティーナは王都から馬で半日の距離にある山岳地帯を訪れていた。鉱山である。
ただし、父王に譲った鉱山ではない。
坑道の入り口に立つユスティーナに、技師長が地図を広げて報告している。禿頭の大柄な男で、声がよく通る。
「総督閣下。ご覧の通り、従来知られていた金鉱脈はこの一帯ですが、その奥、旧ルーヴェルン領側には遥かに大規模な鉱脈が広がっております。金の含有量も段違いです」
地図の上に示された鉱脈の広がりは、父王が手にした鉱山の数倍に及んでいた。十年前に両国が争った鉱山は、実は巨大な鉱脈のほんの入り口に過ぎなかったのだ。
「ただし」
技師長が表情を曇らせた。
「地盤が極めて不安定です。掘り進めるほどに落盤の危険が増します。シュトラーデン王家直轄の鉱山でも、先月だけで三度の落盤事故がありました。こちらの鉱脈の地盤は、それよりさらに脆弱と思われます」
「こちらの鉱山では、その心配は要りません」
ユスティーナの声は淡々としていた。
「安全対策を、お見せしましょう」
坑道に入る。松明の灯りが湿った岩壁を照らし、天井から水滴が落ちる音が規則的に響いている。奥へ進むにつれて空気が重くなり、壁面に金色の粒が散るのが見えてきた。
やがて、採掘の最前線に出た。坑夫たちがつるはしを振るい、鉱石を砕いている。その一角に、異質なものが置かれていた。
鳥籠だった。
正確には、人が二人入れるほどの大きな檻。鉄の細工は精巧で、曲線を描く格子には蔓草のような装飾が施されている。牢獄というよりは、巨大な鳥籠という方がふさわしい外観だった。
檻の中には上等な寝台が置かれ、清潔な白い寝具が敷かれていた。小さな卓の上には水差しと果物の皿。椅子は二脚。そして、その椅子に二人の人間が座っていた。
クローヴィスとミレイユ。
二人は何もしていなかった。つるはしも、鋤も、採掘のための道具の類は一切与えられていない。ただ檻の中に座って、ぼんやりと坑道の天井を見上げたり、時折ぼそぼそと短い会話をしたりするだけだった。本や刺繍などの暇つぶしも差し入れられてはいたが、薄暗い坑道の灯りのもとでは役に立たないようだった。
ミレイユの蜂蜜色の髪は洗い整えられ、顔色も悪くなかった。クローヴィスも、痩せてはいたが健康そうだった。食事は十分に与えられている。医師が定期的に診察に訪れ、体調に問題があれば直ちに対処される。大切な安全装置は、常に万全の状態でなければならない。
坑夫たちは採掘を進める際、この鳥籠を先頭に運んだ。鳥籠が進んだ先では、落盤が起きない。天井がきしみ、細かな砂礫が落ちてきても、鳥籠の周囲だけは何かに守られたように静まり返っている。坑夫たちはその仕組みを知らない。ただ「総督閣下の秘策」として受け入れ、鳥籠を信頼していた。
古代魔術の結界。クローヴィスが建国王の霊廟でミレイユに誓った「真実の愛」。その誓いが呼び覚ました守護は、今もこの二人を絶対的に守っている。岩盤の崩落も、毒気も、あらゆる災厄から。
ユスティーナが鳥籠の前に立つと、クローヴィスが気づいた。
格子を掴み、立ち上がる。碧眼には、憎悪の炎がまだ燃えていた。幽閉されてなお消えない、王族の矜持。
「ユスティーナ! この屈辱、いつか必ず──」
「お体の具合はいかがですか、殿下。何かお困りのことがあれば、何なりとお申しつけくださいませ。まずは、灯りをもっと増やさせましょう。ここは暗うございますから」
その言葉に嘘はなかった。皮肉でもなかった。純粋に、実務的な関心として、この二人の健康はユスティーナにとって最重要事項だった。
クローヴィスが格子を揺すった。檻はびくともしない。
「なぜだ。なぜ我々をここに閉じ込める。殺すわけでもなく、使役するわけでもなく、ただ──」
「お役目がございますのよ。お二人には」
ユスティーナはにこりともせずに言った。
「殿下がミレイユ様にお誓いになった『真実の愛』。あの誓いが、お二人を守っています。そしてお二人がここにいる限り、この坑道で働く者たちも守られる。殿下の愛は、こうして民の役に立っております」
クローヴィスの顔から血の気が引いた。ミレイユが小さく首を横に振っている。理解が追いつかないというように。
「ですから、どうかお健やかに。末永く、お二人仲睦まじくいらしてくださいませ」
ユスティーナは鳥籠に背を向けた。数歩進んで、足を止めた。振り返らずに、言った。
「──『我が生涯にただ一つ、真実なる愛を』、でしたかしら。生涯一度の真実の愛、代償を差し出してまで宣言されるなんて、ロマンチックですわね」
一拍の間。
「あら。代償のことは、ご存じなかった?」
クローヴィスの絶叫が坑道に反響した。ユスティーナの足は止まらなかった。松明の灯りに照らされた背中が、坑道の闇に溶けていく。
坑道を出ると、午後の陽光が眩しかった。ユスティーナは目を細め、山並みの向こうに広がる旧ルーヴェルン領を見渡した。
技師長が駆け寄り、報告書を差し出す。
「総督閣下。シュトラーデン王家直轄の鉱山について、技術者と鉱夫の派遣要請が参っております。落盤事故の頻発に対処しきれないようで、ルーヴェルンの地盤に詳しい者を寄こすようにと」
「それはお気の毒に。とはいえ、あの鉱山で働いていた者たちはそっくり引き渡しているのよ。せめて、お見舞いの品でもお送りしましょう」
ユスティーナは報告書に目を通しながら、総督府への帰路についた。
馬上で揺られながら、脳裏に数字が並ぶ。こちらの鉱山の産出量。シュトラーデン直轄鉱山の産出量。その差は、日を追うごとに開いていく。落盤に悩まされる父王の鉱山と、絶対の加護に守られた自分の鉱山。十年前にこの鉱脈を巡って二つの国が争い、和平の証として自分は敵国に送られた。
そして今、鉱脈の真価は自分の手の中にある。
総督府の執務室。窓から差し込む夕陽の中で、ユスティーナは机に向かっていた。
机の上には、霊廟から丁寧に書き写した古代文字の羊皮紙が何枚も重ねられている。結界の仕組み。誓いの条件。守護の範囲。ユスティーナは一枚一枚を確認しながら、最後の一枚を手に取った。
余白に、彼女自身の筆跡で書き加えられた一行がある。
『血縁の条件について──引き続き検証を要する』
ユスティーナはペンを置き、窓の外に目をやった。執務室の隅で控えていたマルトが茶器を盆に載せて近づき、静かに卓の端に置いた。現在は侍女ではなく女官としてユスティーナに仕えている。あの王宮の回廊で再会した日から数ヶ月。泣き腫らした目はすっかり元に戻り、総督付きの女官としてきびきびと立ち働いていた。
ユスティーナは茶を一口飲んで、ほっと息をついた。窓の外を見る。建国王の霊廟がある方角。もう見えないほど遠いが、彼女にはわかっていた。あの祭壇が、あの古代文字が、あの石像が、今も静かにそこにあることを。
「記録に残っている限り、一番遠い血縁でルーヴェルン王位を継承したのは当時の六代前の王の来孫……ここまで傍系でも結界は発動している。マルト、建国王はなかなか柔軟な対応をしてくださると思わない?」
建国王から続くルーヴェルン王家の系譜を記した巻物を繰りながら呟く。
当然ながら、クローヴィスはいつか死ぬ。彼とミレイユだけを守る結界はその時に失われる。それまでに答えを出さなければならない。建国王の血を引かぬ者が、あの祭壇で誓いを立てることはできるのか。
「女系で継承した王もいるけれど……駄目ね、男系子孫でもある。確定できない」
まだ当分は、クローヴィスには息災でいてもらわねばならない。金鉱山の安全確保という意味ではない。もちろんそれも重要ではあるが、何よりユスティーナが子を産み、その子が無事に成長するまで。
「私には難しいことはわかりかねますが……歴代ルーヴェルン王は本当に皆、建国王の子孫なのでしょうか? だって、建国王のお墓に愛人を連れ込むような王がいるんですよ。その妃だって……」
「マルト、あなたも言うわね。私も考えなくもなかったけれど、命を賭けるのはもう十分。やはり私の子の父親は、ルーヴェルン王家の男にするわ」
クローヴィスが死んだ後には、自分の子を、あるいは孫を、あの祭壇の前に立たせたい。そしてその者に「ルーヴェルンを愛する」と誓わせて──この地を再び結界によって守る。あらゆる外敵から。そう、宗主国であるシュトラーデン王国からも。
「適当な男系子孫を何人か見繕う必要があるわね。健康で、生殖機能に問題がないことが必須」
「姫様、もっとこう……容姿とか性格とか」
「そんなことを夢想する可愛らしさは、十歳の時に捨てたわ」
マルトが口をつぐんだ。十歳。二人でこの国に来た年。泣きじゃくる自分の手を握って、知らない言葉の飛び交う王宮の門をくぐった小さな主人。あの子はもう、どこにもいない。
「……姫様は、お強くなられました」
「そうかしら。あの頃から何も変わっていないわよ。ただ、使える手段が増えただけ」
ユスティーナは淡々と言って、系譜の巻物を巻き戻した。
和平の人質として送り込まれた十歳の王女は、敵国を内側から食い破った。次は、自分を人質として差し出した国の番。
ユスティーナは羊皮紙の束を丁寧に揃え、引き出しにしまった。
夕陽が沈み、執務室に闇が満ちていく。マルトが蝋燭を灯そうとするのを断り、下がらせた。なんとなく、暗がりのままルーヴェルンの街並みを見ていたい気分だった。
この土地を愛しているかと問われれば、答えは出ない。
だが、この土地を自分のものにするという意思は、十年前からただの一日も揺らいだことはない。