軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

前編

剣戟の音が響き渡り、大広間を埋め尽くした観客の間にさざ波のようなどよめきが走った。

この上演のためだけに組まれたとは思えないほど豪奢な構造物が並ぶ舞台の上では、甲冑に身を包み兵士に扮した役者たちが王宮を模した大扉を蹴破り、なだれ込んでくる。先頭の兵が掲げる旗には、ここルーヴェルン王国のものではない紋章が染められていた。篝火に照らされて不気味に揺れているそれは、隣国シュトラーデンの鷲の意匠。

「陛下、こちらへ!」

侍従役の役者が叫び、王冠を戴いた男の手を引いて舞台の奥へと走る。その腕にすがるのは、白い衣をまとった王妃。三人は追手を振り切り、石造りの祭壇が据えられた霊廟へ転がり込んだ。

背後で扉が打ち破られる轟音。追い詰められた王が、王妃を背に庇って剣を構える。だが多勢に無勢、王の剣は弾き飛ばされ、石床に甲高い音を立てて転がった。兵が槍を突きつける。王妃が悲鳴を上げる。

万事休す。

そのとき、王が王妃の手を取った。

震える指を絡め、祭壇に向き直る。篝火が風もないのに大きく揺らめき、古い石に刻まれた文字が金色に浮かび上がる。巧みな照明の演出に、観客席から感嘆の声が漏れた。

王が声を張り上げる。

「我が生涯にただ一つ、真実なる愛を汝に誓う!」

天井から眩い光が降り注いだ。

舞台全体が白く染まり、兵士たちが吹き飛ばされるように後退する。光の中で、王と王妃だけが手を取り合って立っている。神の加護が応えたのだ。建国より千年、ルーヴェルン王国を守り続けてきた力が、王の愛に呼応して、かつてないほど強く輝いた──

割れんばかりの拍手が大広間を満たした。

立ち上がって手を叩く者、涙を拭う婦人、隣の者と興奮を分かち合う者。ルーヴェルン王国の民なら誰もが知る三百年前の逸話、「真実の愛」の奇跡。窮地に立たされた王が王妃への愛を誓い、その愛を祝福した神が加護を強めて王国を救ったという物語は、芝居の定番であり、この国の誇りそのものだった。

大広間の最前列、紅玉を散りばめた天蓋の下に、今代の王がいた。

ルーヴェルン国王アルベール四世。五十を過ぎてなお背筋の伸びた壮年の王は、満足げに拍手を送りながら立ち上がった。その隣で拍手もそこそこに欠伸を噛み殺しているのが、王太子クローヴィス。金の巻き毛に碧眼の、いかにも華やかな青年だが、退屈を隠す気はないらしい。

そしてクローヴィスの右隣には、蜂蜜色の髪を高く結い上げ、象牙色のドレスに翡翠の首飾りで着飾った若い女が寄り添っていた。伯爵令嬢ミレイユである。本来、その席は王太子の婚約者のために設えられたものだったが、彼女は当然の顔でそこに収まっている。

王太子の婚約者は、別の場所にいた。

貴賓席から十列ほど離れた一角。二十歳の娘にしてはいささか地味な灰青色のドレスに身を包んだユスティーナは、まっすぐに舞台を見つめていた。栗色の髪を簡素な銀の髪留めでまとめ、装飾品らしいものは他にない。両隣の席は空いている。その向こうも空いている。まるで見えない壁に囲まれたように、彼女の周囲だけ人の気配が途絶えていた。唯一、彼女の乳姉妹であり侍女として仕えるマルトだけが、半歩後ろに控えて周囲に目を配っている。

拍手が収まると、アルベール四世が口を開いた。よく通る声が、広間の隅々にまで届く。

「諸卿。今宵は『真実の愛』の上演を楽しんでいただけたことと思う」

穏やかな口調だが、その言葉には王としての重みがある。

「皆も承知の通り、この故事にちなみ、我がルーヴェルン王家には代々、婚礼の際に妃へ真実の愛を誓うという伝統がある。建国王より千年、神の加護がこの国を守り続けてきたことは、諸卿がよくご存じであろう」

頷く貴族たち。この加護こそがルーヴェルン王国の要であった。軍事力では諸国に劣るこの国が千年もの間その独立を保ち得たのは、偏に神の加護と呼ばれる不可思議な力による。国境を越えた軍勢は不自然な災厄に見舞われ、王国の兵は戦場で常に天運に恵まれる。

これが単なる御伽話でないことは、十年前にも証明されている。国境の山岳地帯で金を含む鉱脈が発見され、その権利を巡って隣国との間に剣呑な空気が流れた。相手は、三百年前の因縁の相手でもあるシュトラーデン王国。しかし、ルーヴェルンに攻め込もうとしたシュトラーデン軍には疫病が蔓延し、満足に戦闘も行えないまま撤退を余儀なくされた。

「あの折、両国は和平を結んだ。その証として、我が息子クローヴィスとシュトラーデン王国のユスティーナ王女の婚約が調えられたこと、諸卿も覚えておられよう。以来十年、ユスティーナ王女にはこの王宮で教育を受けていただいている」

アルベール四世の手が、客席の一角を示した。

「ユスティーナ王女」

名を呼ばれ、ユスティーナは静かに立ち上がった。灰青色のドレスが篝火の光を鈍く受ける。周囲の貴族たちから数拍遅れて、まばらで義務的な拍手が起こった。ユスティーナは正確な角度で一礼し、腰を下ろした。表情は穏やかなまま微動もしない。

最前列で、アルベール四世だけが満足げに頷いていた。

クローヴィスは拍手すらしなかった。ミレイユが何事か耳打ちし、二人はくすりと笑みを交わしている。

やがて広間に楽団の音色が流れ始め、観劇会は祝宴へと移っていく。給仕が銀の盆に杯を載せて行き交い、貴族たちは三々五々、歓談の輪を作った。

ユスティーナは席を立ち、広間の隅を縫うようにして出口へ向かった。すれ違う貴族たちが視線をそらす。ある者は露骨に背を向け、ある者は連れと顔を見合わせて何か囁く。聞き取れたのは断片だけだった。「シュトラーデンの」「まだ王宮に」「気の毒といえば気の毒だが」。

広間を出ると、回廊には祝宴の喧騒がくぐもって届くばかりで、人の姿はなかった。マルトが小走りに追いつき、息を切らしながら問う。

「姫様、お部屋にお戻りになりますか」

ユスティーナは答えず、回廊の先に目をやった。月光が石畳を青白く照らし、その先に王宮の庭園、さらに奥に古い石造りの建物の輪郭が見える。ルーヴェルンの建国王の霊廟だ。

「少し、夜風に当たりたいの」

ユスティーナはそれだけ言って歩き出した。マルトは口を開きかけ、やめた。ユスティーナがこの方角へ向かうときは、ついてこなくてよいと言われていた。

回廊を曲がったところで、ユスティーナは足を止めなければならなかった。

前方から歩いてくるのは、クローヴィスとミレイユ。二人は腕を組んで、祝宴の余韻を楽しむように笑い合っていた。クローヴィスがミレイユの耳元に何か囁き、ミレイユが肩を揺らして笑う。その親密な空気は、婚約者を持つ王太子のものとしてはあまりに無防備だった。

先に気づいたのはミレイユだった。笑みを消さないまま、クローヴィスの袖をそっと引く。クローヴィスが顔を上げ、ユスティーナの姿を認めた。その碧眼に浮かぶのは、嫌悪ですらない。もっと軽いもの。道に転がる石を見つけたような、鬱陶しさ。

「ああ、ユスティーナ。まだ王宮にいたのか」

挨拶も敬称もない。十年間、同じ王宮で暮らしてきた婚約者に対する言葉としては、それだけで十分すぎるほど雄弁だった。ユスティーナは歩みを止め、型通りの礼をとった。

「クローヴィス殿下。本日の上演、素晴らしゅうございました」

「それはそうだろう。我が国の至宝たる逸話だ」

クローヴィスは腕を組み、値踏みするようにユスティーナを見下ろした。頭半分ほど高い彼の目線には、いつも通り、対等な相手を見る色がない。

「シュトラーデンの王女殿下におかれては、我が国の神の加護をどうお感じになった? さぞ身につまされたのではないか。何しろ、お前の国の兵が叩き出される話だからな」

ミレイユが扇の陰でくすりと笑う。クローヴィスはそれに気をよくしたように続けた。

「感動した、と言うのだろう? お前はいつもそうだ。何を言われても黙って頷いて、おとなしい顔をしている。だがな、ユスティーナ。お前がどれほど従順な顔をしようと、この国の者はお前を受け入れない。シュトラーデンの血は、シュトラーデンの血だ」

「殿下のおっしゃる通りかもしれません」

「だろうな。父上は和平だ融和だと体裁を取り繕いたいようだが、所詮は敵国の娘を人質に取っているに過ぎん。お前もそれはわかっているはずだ」

人質。その言葉を、クローヴィスは何の躊躇いもなく使った。ユスティーナの灰色がかった青い目が、一瞬だけ動いた。しかしそれは怒りでも悲しみでもなく、何か別のものを奥に押し込めるような動きだった。

「ええ。わきまえております」

「わきまえているなら結構だ。せいぜい父上のご機嫌を損ねぬよう、おとなしくしていろ」

クローヴィスはそれだけ言うと、ミレイユの腰に手を添えて歩き出した。すれ違いざま、ミレイユが扇を畳みながら、ほんの少しだけ首を傾げてユスティーナを見た。その目には、嘲りというよりも、勝者の余裕があった。

二人の足音が遠ざかる。

回廊にユスティーナだけが残された。月光が石柱の影を長く伸ばし、彼女の足元に格子のような模様を落としている。

ユスティーナはしばらくその場に立っていた。それから、誰にともなく呟いた。

「……あの芝居。ずいぶん細部まではっきり伝わっているのね。三百年も前のことなのに」

独り言にしては、奇妙に明瞭な声だった。彼女は灰青色のドレスの裾を軽く持ち上げ、霊廟へ続く道を歩き始めた。

建国王の霊廟は、王宮の東端にひっそりと建っていた。

千年の歳月を経た石壁は苔に覆われ、尖塔の先は欠けている。正面の扉は年季の入った樫材で、取っ手の青銅には緑青が浮いていた。かつては王国の中心であったはずのこの場所は、今では即位の儀式の折にだけ思い出される程度の存在になっている。

ユスティーナが扉を押すと、蝶番が低く軋んだ。中に入ると、冷えた石の匂いと、古い紙の匂い。蝋燭が数本、祭壇の脇に灯されているだけで、広い堂内はほとんど闇に沈んでいる。

祭壇の手前、古びた書見台の前に人影があった。白髪を後ろに撫でつけた痩身の老人が、分厚い革装の書物に顔を近づけている。霊廟管理の神官、リュシアン。七十を越えた彼の背は曲がりかけていたが、書物に向ける目だけは若者のように鋭かった。

「リュシアン様。遅くに失礼いたします」

「おや、ユスティーナ殿下。今日は観劇会があったはずでは」

「ええ、先ほど終わりました」

「ということは、今宵の演目は『真実の愛』でしたか」

リュシアンは書物から顔を上げ、穏やかな笑みを見せた。蝋燭の灯りが深い皺を刻んだ顔を照らしている。

「毎年この時期に上演されますな。私は二十年ほど観ておりませんが、筋書きは変わらないのでしょう?」

「ええ、初演からずっと変わらないと聞いていますわ。王が王妃の手を取って、祭壇の前で愛を誓って、天から光が降って、敵が退散する」

「ふむ。確かに二十年前と同じですな。良くできた筋書きだ」

リュシアンの声にはどこか含みがあった。ユスティーナは祭壇の傍らに腰を下ろし、老神官が広げている書物を覗き込んだ。黄ばんだ羊皮紙に、現在のルーヴェルン語とはかなり異なる古い文字が並んでいる。

「殿下がここにいらっしゃるようになって、もう何年になりますかな」

「八年です。十二の歳に、初めてこちらに伺いました」

「そうでした。小さなご令嬢が一人で霊廟に入ってきたときは驚きました。怖くはないのかと聞いたら──」

「『怖くありません。ここには誰もいないから』と申し上げましたわね」

二人は顔を見合わせ、静かに笑った。

王宮に居場所のない少女が、誰も訪れない霊廟に足を運ぶようになった。壁に刻まれた古代の文字に興味を示した少女に、老神官が読み方を教えた。それが八年前のこと。以来、ユスティーナは暇を見つけてはここに通い、リュシアンの手元にある古文書を読み、問いを重ねてきた。

「殿下は、私の最初で最後の弟子ですよ」

リュシアンは書見台の書物を閉じ、別の古文書を棚から取り出した。

「現在の王家の方々は誰一人、この霊廟の古文書に興味を持たれなかった。霊廟で行う即位の儀式だけは形式的に続いていますが、その意味を問うた王は、私が仕えた三代の中には一人もおられません。もっとも──」

彼は苦笑を浮かべた。

「意味を問われても、お答えできるかどうか。詳しいことは王家の直系が途絶えるたびに失われてしまった。私が知っているのも断片に過ぎません」

「その断片が大切なのです」

ユスティーナは老神官が差し出した古文書を丁寧に受け取った。羊皮紙は乾燥して脆く、角が崩れかけている。その表面に記された文字を、彼女は蝋燭に翳しながら読んだ。

「『即位の誓約について。新たなる王は建国王の霊廟において、守護の対象たる……を真摯に愛すると誓うべし。これにより……は新王へと継承される』。ここ、虫食いで読めない部分がありますね」

「ええ。肝心なところが欠けている。ただ、前後の文脈と、現在伝わっている即位の儀式から推測することはできます。守護の対象というのは王国そのものを指すのでしょう。代々の王は霊廟で行う即位式で、王国への真摯な愛を誓います。そうすることで神の加護が引き継がれる。そういう儀式なのでしょう」

「……『真摯な愛』の誓いの対象が王国ではなく、特定の個人だったら、どうなるのでしょう?」

何気ない口調だった。古文書を目で追いながら、思いついたことをそのまま口にしたようだった。リュシアンは学者の目をして少し考えた。

「面白い問いですな。仮にこの守護の仕組みが、誓いの対象そのものを守るように設計されているのならば……対象が個人になれば、守護もその個人に限定されることになる。理屈としては」

「まあ。王国全体の守護が、たった一人に。あるいは二人に。もしそうなった場合、やり直しはできるのですか? もう一度、今度は王国に対して誓い直すとか」

「難しいでしょうな。そもそも、即位にあたっての誓いは一度きりのものと伝えられています。王はみだりに霊廟の中へ入ってはいけない、祈りを捧げる時も霊廟の外から祈るのが正式な作法です。これは、即位の誓いが生涯一度きりであることを訓戒するものと、私は考えております」

「取り返しがつかない、と」

「ええ。もっとも、そのような愚かな誓いを立てる王がいるとは思えませんが」

「そうですわね」

リュシアンは笑った。彼は純粋に、学問的な仮定を交わすことを楽しんでいた。ユスティーナも笑った。二人の笑い声が石造りの堂内に小さく反響し、すぐに消えた。

ユスティーナは古文書を丁寧にリュシアンに返し、立ち上がった。

「いつも遅くまでありがとうございます、リュシアン様」

「なんの。殿下と話すのは、私の数少ない楽しみですから。他に誰がこの老いぼれの講釈を聞いてくれましょう」

「講釈だなんて。ルーヴェルン王国で最も貴重な知識を守っておいでなのに」

「おや、これは嬉しいことを。王家の方々にも、そう思っていただければよいのですが」

ユスティーナは微笑みを返し、霊廟を出た。

扉が閉まった後、リュシアンはしばらく祭壇の上の建国王の石像を見上げていた。千年の歳月を経てなお威厳を保つ石の顔。

「殿下がルーヴェルンの方であったなら」

老神官は独り言のようにそう呟いて、蝋燭の芯を切った。

季節が二つ、過ぎた。

秋の終わりに色づいていた王宮の並木は冬の間に葉を落とし、春の陽光の下で再び若葉を芽吹かせていた。その若葉がようやく深い緑に変わり始めた頃、王宮を揺るがす報せが駆け巡った。

国王アルベール四世が、鷹狩りの最中に落馬。頭を打ち、そのまま息を引き取ったのだ。

王宮は喪に沈んだ。黒い帳が窓という窓に掛けられ、華やかだった広間からは装飾が取り払われた。廊下を行き交う者たちは声をひそめ、足音さえ忍ばせて歩く。突然の死だった。アルベール四世は壮健で、馬術にも長けていた。それだけに、事故という報せを素直に受け入れられない者も少なくなかった。

しかし公式には、事故であった。馬が突然暴れ、王は振り落とされて岩に頭を打ちつけた。居合わせた近習や近衛騎士らがそう証言し、それ以上の詮索は行われなかった。

クローヴィスは父王の棺の前で涙を見せた。だが、その悲嘆の底には別の感情がある。これで誰の許しも、誰の承認も要らなくなった。父が決めた婚約も、父が敷いた和平の路線も、自分の手で覆すことができる。喪服の下で、彼の拳は固く握られていた。

ミレイユはクローヴィスの傍に影のように寄り添い、亡き王を悼む未亡人のような面持ちで控えている。時折、悲しみに暮れるクローヴィスの肩にそっと手を置き、何事か囁く。その唇が何を紡いだのか、周囲に聞こえた者はいない。

ユスティーナは、王宮の片隅で静かに喪に服していた。自室の窓辺で外を眺める後ろ姿を、侍女のマルトが気遣わしげに見つめている。

「先王陛下は、姫様によくしてくださいました。ですが、クローヴィス殿下は……」

敬愛する主人の今後を思い、マルトの声は沈んだ。事実だった。アルベール四世は、ユスティーナを冷遇する宮廷の空気に逆らうように、折に触れて彼女に心を配った。観劇会で名を呼んで紹介したのも、婚約者としての彼女の立場を内外に示す意図があったのだろう。

「そうね」

ユスティーナはそれだけ答え、窓の外に目を戻した。マルトからは、逆光の中に溶けるその横顔の表情を読み取ることができなかった。

国葬の後、即位式の準備が始まった。

クローヴィスの居室。重厚な樫の扉の向こうでは、二人きりの密談が行われていた。

「陛下」

ミレイユは跪く代わりに、クローヴィスの傍らに腰かけ、その手を両手で包むようにしていた。新王への呼びかけを初めて口にする彼女の声は甘く、しかしその目は冷静に計算を巡らせている。

「お父上の死は本当に事故だったのでしょうか」

「何が言いたい」

「シュトラーデン王国には動機がございます。和平を壊し、再び侵略する口実を作るための。もしも馬が暴れたのが偶然でなかったとしたら?」

クローヴィスの碧眼が揺れた。元々シュトラーデンへの敵意は根深い。ミレイユは疑惑の種を蒔くまでもなく、すでに彼の中にあった怒りに火をつけるだけでよかった。

「証拠はあるのか」

「証拠は、いくらでも作れましょう」

ミレイユの声は囁きに近かった。

「即位式の場でシュトラーデンの陰謀を告発なさいませ。お父上の仇を討つ愛国の王として。そしてあの女――ユスティーナとの婚約を破棄するのです」

クローヴィスは黙って聞いている。彼の碧眼に拒絶の色はない。

「そしてどうか、三百年前の故事に倣い、わたくしに『真実の愛』をお誓いくださいませ。陛下の愛国心と真実の愛を、臣民の前でお示しになるのです。民は熱狂します。神の加護に守られたこの国に、シュトラーデンの王女など必要ないのだと」

クローヴィスの目が輝いた。幼い頃から繰り返し観た芝居の一場面が脳裏に蘇る。祭壇の前で王妃の手を取り、愛を誓う英雄王。すでに見飽きていたはずだったが、自分自身があの輝かしい場面を演じると思うと、体の奥が熱く高揚した。

「ミレイユ」

クローヴィスは彼女の手を強く握り返した。

「お前こそ、我が王妃に相応しい」

ミレイユは頬を染め、恭しく頭を垂れた。口の端が緩むのを、抑えられなかった。

同じ日の夜。ユスティーナは外出の支度を整え、自室を出ようとしていた。

「姫様、どちらへ? お供いたします」

マルトが立ち上がりかけたのを、ユスティーナは手で制した。

「一人で行くわ。すぐに戻ります」

マルトの目に不安がよぎったが、ユスティーナはそれ以上何も言わず部屋を出た。乳姉妹にさえ明かせない用向きがあるということを、マルトは理解していた。問い質すことはしない。ただ、帰りを待つ。十年間そうしてきたように。

ユスティーナはシュトラーデン王国からの使節団が宿泊する館を訪ねていた。

即位式に列席するため数日前に到着した使節団は、先王の急逝と新王の即位という想定外の事態に、判断を本国に仰ぎながら慌ただしく過ごしている。その筆頭外交官である白髪の老紳士ヴァルターは、深夜の来訪に驚きながらユスティーナを私室に通した。

「殿下。このような時刻に、お一人で。何かあったのですか」

「ヴァルター卿。一つだけお願いがございます」

ユスティーナの声は、いつもの穏やかさの奥にある種の硬さを帯びていた。

「明日の即位式で、何が起きても驚かないでいただきたいのです。そして、使節団の中から一人だけで構いません、必ず国境を越えさせてください。何があっても」

ヴァルターの眉が寄った。

「殿下は何をご存じなのですか」

「確実なことは何もありません。ただ、備えておくに越したことはございませんでしょう?」

それだけ言って、ユスティーナは立ち上がった。ヴァルターは呼び止めようとして、しかし彼女の目を見て言葉を飲み込んだ。灰色がかった青い瞳には、二十歳の娘には不釣り合いな静けさがあった。

「わかりました。手配いたします」

ユスティーナは礼を述べ、闇に紛れて王宮へと戻った。

建国王の霊廟は、人で溢れていた。

普段は蝋燭の灯りだけが頼りの薄暗い堂内に、この日ばかりは無数の燭台が持ち込まれ、壁という壁に掛けられた白布が炎を反射して昼のように明るい。石の床には深紅の絨毯が敷かれ、その両脇に貴族、聖職者、各国の使節が居並んでいる。空気は香と蝋と、集まった人間の体温で重く澱んでいた。

祭壇の前にリュシアンが立っていた。即位式を執り行うのは霊廟の神官の役目。白い祭服に身を包んだ老神官の背は、この日ばかりはまっすぐに伸びている。

ユスティーナは、列の端にいた。

シュトラーデン王国使節団の列。新王の婚約者として祭壇の傍らに立つのではなく、外国の使節の一人として。クローヴィスの指示だった。侮辱というには周到な、しかし明確な意思表示。使節団の面々はユスティーナを気遣わしげに見たが、彼女は穏やかな顔で前を向いている。

角笛が鳴り響き、正面の扉が開いた。

クローヴィスが入場する。即位式のための白と金の礼装。先王の冠ではなく、即位式用の銀の冠を戴いている。その半歩後ろに、同じく白い衣装のミレイユが続く。婚約者でもなく、まして王妃でもない伯爵令嬢がこの位置にいることに列席者の間からざわめきが起こったが、クローヴィスは意に介さない。

二人は絨毯の上を堂々と歩み、祭壇の前に立った。

リュシアンが古い祝詞を唱え始める。千年前から変わらぬ言葉。建国王の功業を称え、神の加護の永続を祈り、新たな王の即位を宣する──

本来であれば、祝詞の後に新王が祭壇に進み出て、王国への真摯な愛を誓い、宣言する。それが建国王以来、ルーヴェルン王国に受け継がれる儀式の手順だった。

しかしクローヴィスは、リュシアンの祝詞が終わるのを待たずに前へ出た。リュシアンの言葉を遮るように、列席者に向かって声を張り上げる。

「諸卿に申し上げねばならぬことがある」

堂内が静まり返った。リュシアンは唇を結んで一歩退いた。

「父王アルベール四世の死は、事故ではなかった」

どよめきが霊廟に反響した。クローヴィスは懐から一通の書簡を取り出し、高く掲げた。

「これはシュトラーデン王国の工作員が王宮内の協力者に宛てた密書である。父王の鷹狩りの日程、馬の習性、暗殺の手順が克明に記されている」

場内が騒然となった。シュトラーデン王国の使節団に視線が集中する。ヴァルターが蒼白な顔で前に出ようとしたが、すでに王宮の衛兵が使節団の周囲を固め始めていた。

クローヴィスの目がユスティーナを射抜いた。

「シュトラーデン王女ユスティーナ。お前の国が我が父を謀殺したことは、もはや明白だ」

ユスティーナは沈黙していた。抗弁も、動揺も、何も見せなかった。ただ、立っていた。

「よって余は、ユスティーナとの婚約をこの場で破棄する。和平の名のもとに敵の間者を妃に迎えるなど、断じて容認できぬ」

貴族たちの間に賛同とも困惑ともつかない声が広がる。クローヴィスはその声を背に受けながら、傍らのミレイユの手を取った。

打ち合わせ通りであったが、ミレイユは完璧な驚きの表情を浮かべてみせた。

「陛下、何を──」

「ミレイユ。お前は父王に対する陰謀を暴いた愛国の士だ。シュトラーデンの策略を見抜き、余に真実を知らせてくれた」

周到に用意された台詞だった。クローヴィスはミレイユの手を握ったまま、祭壇に向き直る。建国王の石像が、燭台の炎に照らされて二人を見下ろしている。

「三百年前、この場所で我が先祖は王妃に真実の愛を誓い、神の加護を呼び覚ました。余もまた、この場で誓おう」

堂内が息を呑んだ。ルーヴェルンの民なら誰もが知る芝居の場面。あの伝説の再現。

クローヴィスはミレイユの手を高く掲げ、祭壇に向かって叫んだ。

「我が生涯にただ一つ、真実なる愛を──ミレイユ、汝に誓う!」

声が石壁に反響し、堂内を震わせた。

一瞬の静寂。

それから、貴族たちの間から拍手が起こった。芝居の再現に感動した者。政治的な意図を汲んで賛同する者。戸惑いながらも周囲に合わせる者。拍手はまばらに始まり、次第に大きくなっていった。

ミレイユが涙を浮かべてクローヴィスの腕にすがる。完璧な演出だった。

誰もが二人を見ていた。

だから、祭壇に気づいた者はほとんどいなかった。

古い石に刻まれた文字が、淡く、脈打つように明滅していた。燭台の炎の揺らめきとは異なるリズムで、金色の光が文字の溝を走り、やがて消えた。

リュシアンだけが、それを見ていた。

老神官の顔から血の気が引いた。唇が震え、書見台の縁を掴む指が白くなった。彼は三代の王に仕え、三度の即位式を執り行ってきた。だがこのような光は、一度も見たことがなかった。古文書に記された、あの記述。守護の対象を定める誓い。それがたった今、クローヴィスの言葉によって──

リュシアンの視線が、反射的にユスティーナを探した。

使節団の列の端。灰青色のドレスのシュトラーデン王女は、祭壇の明滅を見つめていた。その顔に浮かんでいたのは、恐怖でも驚きでもなかった。

確認だった。

ユスティーナの唇がかすかに動いた。何かを呟いたのか、微笑んだのか、リュシアンの位置からは判別できなかった。

次の瞬間、ユスティーナの右手が動いた。隣に立っていた若い文官の袖を、さりげなく引く。文官が身を屈め、ユスティーナが何か一言囁く。文官は一瞬青ざめ、しかしすぐに頷いて、拍手と歓声に沸く堂内の混乱に紛れるように後退し、姿を消した。

ユスティーナは再びまっすぐに前を向いた。祭壇の文字の光はすでに消えている。堂内では拍手が続き、クローヴィスとミレイユが抱擁を交わしている。

リュシアンは祭壇の文字を見つめ、それからユスティーナを見た。老神官の喉が、言葉にならない声を発した。

即位式の直後、クローヴィスの命令が下された。

『シュトラーデン王国の使節団と、ユスティーナを拘束せよ。先王暗殺への関与が疑われる者として』

衛兵たちが使節団を取り囲んだ。ヴァルターが抗議の声を上げたが、剣を突きつけられて沈黙した。使節団の人数が確認され、若い文官が一人、姿を消していることが判明した。しかし衛兵がそれに気づいた頃には、文官は霊廟の裏口から王宮の外へ抜け出し、市街の人混みに紛れていた。

ユスティーナは抵抗しなかった。衛兵が腕を掴もうとすると、自ら歩き出し、彼らの手を必要としなかった。回廊を連行されていく途中、窓の外に目をやった。午後の陽光が王都の屋根を照らしている。いつもと変わらない光景が広がっていた。

だが何かが変わった、とユスティーナは思った。この王都に千年あり続けたもの。空気のように当たり前にそこにあったもの。それが今、失われた。この国の誰もまだ気づいていないだけで。

ユスティーナは塔の一室に通された。窓は一つ、身を乗り出すには狭いが、外の景色を眺めることはできる。調度品は寝台と椅子と小さな卓のみ。マルトは引き離されていた。ユスティーナが連行される際、彼女は泣きながら衛兵にすがりついたが、容赦なく押し戻された。

扉の外に衛兵が立つ足音がして、鍵が回される音がした。一人きりの部屋で、彼女は窓辺に椅子を引き寄せ、腰を下ろした。両手を膝の上で組み、背筋を伸ばし、窓の外を見つめた。待つ者の姿だった。