軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

空っぽ

ライヌルの言葉がアルマークの心の中に、どろどろとした黒い感情とともに流れ込んでくる。

「……言うな」

アルマークの呟きに、ライヌルが首を傾げる。

「ん? 何か言ったかな」

「いい加減なことを言うな!」

アルマークが地面を蹴った。

その次の瞬間には、ライヌルの首めがけて横薙ぎの一撃を叩き込んでいた。

しかし、ライヌルの姿は陽炎のように揺らめいて消える。

「君は嘘つきだな」

何事もなく、アルマークの右横にライヌルが姿を現した。

「頭を叩き割るって言っていたじゃないか」

アルマークはものも言わずにマルスの杖をその側頭部に叩きつけた。

しかしそのライヌルも揺らめいて消える。

「鍵を護る者」

再び姿を現したライヌルは口ずさむ。

「望むものにもなれず、愛されず、役目だけを背負わされて」

「黙れ!」

アルマークはライヌルに飛びかかった。

安い挑発だ。

それはアルマークにも分かっていた。

生まれや境遇をあげつらって嘲笑い、冷静さを奪う。

そんな行為は戦場の常套手段だ。

いちいちそんな挑発に乗るアルマークではない。

いつもならば。

だが、ライヌルの言葉はアルマークの心の中にどす黒い負の感情とともに広がっていく。

マルスの杖は、また空しく虚像のライヌルを打ち払った。

「お父さんは君を傭兵にしなかったのだね。なぜだと思う?」

アルマークの背後に現れたライヌルが穏やかに言う。

「私には分かる気がするよ」

「黙れ!」

アルマークは振り向いた。

憐れむようなライヌルの目。

それを見た途端、全身から力が抜けていくような感覚を覚える。

右手の痛みのせいだけではない。

冷たい汗が止まらない。

「こたえるだろう」

ライヌルは言った。

「言葉に少し闇を混ぜたからね」

アルマークは歯を食いしばった。

動け。

身体ごとぶつかるような勢いでライヌルに杖を叩きつけるが、左手には何の感触も伝わってこない。

アルマーク。

その名が、古代語で、鍵を護る者という意味だという。

だからどうだっていうんだ。

それが父さんと母さんに愛されていなかった証拠だって。

そんなこじつけ。

一笑に付せるはずの戯れ言が、心の中で大きな絶望に変わっていく。

「でもね、アルマーク君」

また別の場所に現れたライヌルは、笑みを浮かべた。

「君がそんなことをこれっぽっちも思っていなかったら、闇は私の言葉を増幅させはしない」

首をぐにゃりと曲げて、アルマークの目を覗き込む。

その目は、底なし沼のように暗く、深い。

「君は心のどこかで思っていたんだ。自分が両親から愛されていないと。両親の望むような子ではなかったのだと」

違う。

アルマークは否定しようとした。

父さんが僕にかけてくれた言葉の数々。

僕はそれに支えられてきた。何度も救われてきた。

そう、ついさっきだって。

しかし、父の言葉を思い出そうとして、アルマークは愕然とした。

さっきマルスの杖に拳を叩きつけたときにはまるで自分の隣にいるかのようにはっきりと思い出せた父の声が。

今、何一つ思い出せない。

父の言葉が出てこない。

記憶が真っ黒に塗りつぶされてしまったかのように。

「闇は残酷だ。美しいものを隠し、目を背けたくなるものを見せる」

ライヌルは喋り続ける。

「しかし、嘘はつかない。闇は嘘はつかないんだよ、アルマーク君」

ライヌルが何を言っているのか、アルマークにはよく分からなかった。

闇が嘘をつかない?

そんなはずがない。

いや、それとも僕が間違っているのか。

だがもうそんなことはどうでもよかった。

ただ、自分を支えてくれていた大きな誇りを失いつつあるという絶望感。

それがアルマークの心を覆い尽くそうとしていた。

目の前、一挙動で届くところにいるライヌルに、もう飛びかかっていこうという気力が湧いてこない。

「今、私の言葉にこれだけ心を動かされている。それが君という人間の真実なんだ。アルマーク君」

ライヌルは芝居がかった仕草で両手を広げた。

「だから、そんな君を私が解放してあげよう」

解放。

なぜかアルマークにはその言葉がひどく魅力的に聞こえた。

「鍵の護り手。そんな勝手に決められた運命などは捨ててしまえばいい」

ライヌルがまたアルマークの目を覗き込む。

深くて暗い、深淵のような、黒。

この人の目は、さっきまでこんな色をしていただろうか。

それを思い出すことさえ、今はもう煩わしい。

「そのマルスの杖」

ライヌルは、まだアルマークの左手に握られたままのマルスの杖を優しく指差す。

「それが鍵だ。そして君を縛り付ける忌まわしい鎖でもある」

アルマークは自分の手元を見た。

マルスの杖。

それは今ではただの木の棒にしか見えなかった。

「私が砕いてあげよう」

ライヌルはそっと右手を差し出した。

「渡したまえ。そして、楽になるんだ」

この人は、さっきからずっと僕から杖を奪おうとしている。

アルマークはぼんやりと思った。

いろいろなことをして、いろいろな言葉を費やして、僕が自分から杖を手放すよう仕向けている。

きっと、僕がこの杖の所有者だからだ。

だからこの人はマルスの杖に手を出せないんだ。

そこまで考えたが、だからどうした、という気もした。

背後に倒れているウェンディのことを考えようとする。

しかし、もやがかかったようにうまく思考がまとまらない。

快、不快。

分かりやすい、原始的で単純な感情へと流されていく。

アルマーク。

僕の名前。

鍵を護る者。

なんだかひどく重荷で、苦痛だった。

渡してしまってもいいな。

そう思った。

こんな絶望の中にいるくらいなら。

この杖をこの人に渡して、楽になって。

何もかもきれいさっぱりなくして。

そこまで思ったとき、ふと気付く。

あれ?

でも、鍵を護る者がその鍵を渡してしまったら、もう何も残らないな。

空っぽだ。

僕は空っぽになる。

困ったな。

空っぽでは生きていけない。

何を入れればいいんだろう。

空っぽの僕の中に、何を。

もう父の顔は思い浮かばなかった。

黒い墨で塗りたくられたように、親子の思い出は闇に塗りつぶされていた。

空っぽの僕に、入れるもの。

アルマークはもやがかかったように回らなくなった頭で、ぼんやりと考えた。

その脳裏に、不意に去来したものがあった。

そうだ。空っぽの僕の中に入れるのなら。

ライヌルは自分の目の前で、アルマークがみるみるうちに気力を失っていくのを穏やかに観察していた。

言葉に、極上の闇を数滴垂らした。

あまりおおっぴらに闇を発散させれば、学院の教師連中に気付かれてしまう。

だから、純度の高い闇を数滴、自分の舌に載せて、転がして、アルマークに放った。

効果はてきめんだった。

子供離れした殺気はたちまちに萎え、荒れ狂う獣のようだった動きも見る間に衰えた。

所詮は子供だ。

学院長も甘い。

こんな子供をみすみす放っておいて、こちらの手の内に落とすとは。

さて、仕上げまでもう一息だ。

アルマークがなおも半ば無意識に握り続けるマルスの杖に目をやる。

あとは、鍵の護り手自ら、それを手放してもらう。

「さあ、アルマーク君」

ライヌルは目の前でうつむくアルマークに優しく声をかけた。

「いつまでもそんな棒っきれを握っていても仕方ないだろう。大丈夫、私がきちんと処分してあげるから」

ライヌルはもう一度手を差し出す。

「さあ」

しかしアルマークは動かなかった。

まだ葛藤しているのか。

いや。

アルマークの口が動いた。

何か、呟いている。

「何かね?」

呼びかけたが、答えはない。

当然だ。

とうに、会話する気力など奪ったはずだ。

しかし、アルマークの口の動きは止まない。

ライヌルは、顔をしかめて耳を澄ませた。

「……“双剣”のアーウィン」

アルマークのくぐもった声が聞こえた。

「……“火龍卿”グレイル」

「え?」

「“死神”ギール」

「何を言っている?」

ライヌルは尋ねたが、アルマークは反応しない。

「“黒き鋼”バイアン……“鉄騎士”マリスモーグ」

「……名前?」

それは、北の傭兵たちの名前だった。

アルマークは、北で名を馳せた傭兵たちの名を呟き続けた。

自分が戦場で見た、聞いた、気高い男たちの名を。

空っぽの自分の中に入れるのならば。

アルマークの心に無意識に浮かんだもの。

闇の中に浮かび上がったのは、北の戦場を疾駆する傭兵たちの姿だった。

彼らの強さを。

彼らの誇りを。

彼らのしぶとさを、僕の中に。

「“隻眼の虎”ゼナン……“斧の王”ゲルベルグ」

北で戦い続ける彼らの名を一つ呟くたび、その強さが、その気高さが、自分の中に満ちていくのを感じる。

「“大盾”のニナング……“龍眼”のファルク」

その雄々しさが。勇気が。生命力が。

「“灰の鎖”ディラン……“銀髑髏”ギザルテ」

そのしたたかさが。冷酷さと冷静さが。

ライヌルは、自分の眼の前でアルマークの目が力を取り戻していくのを、信じられない思いで眺めた。

「“剣の王”ガイゼナル……“陸の鮫”アンゴル」

アルマークが傭兵の名を呟くたび、その心をもう手中に収めていたはずの闇が力を失っていくのを感じる。

「なんだ、これは」

ライヌルが呟く。

「魔法でもない。呪文でもない。ただの、名前じゃないか」

「“黒狼”ジェルス」

呟いてアルマークの足が半歩前に出た。

「バカな」

ライヌルが一歩後ずさる。

「一体何なんだ、君は」

アルマークの左手がゆっくりと上がる。

マルスの杖の先端が、またぴたりとライヌルの目線を捉える。

アルマークの目が、完全に意思を取り戻していた。

「“影の牙”レイズ」

鳴りを潜めていた殺気が、再びその身体を覆う。

ライヌルはよろけるようにもう一歩下がって、小さく頷いた。

「なるほど。今ようやく分かった」

それから、確かめるようにゆっくりと呟く。

「君は、北の傭兵の息子、か」