作品タイトル不明
(閑話)旅の終わり
ああ、まただ。
また、同じ夢を見ている。
少年は夢の中で、そう自覚する。
少年の視線の遥か先。
そこにその人は立っている。
優しい声で自分の名を呼んでいる、女の人。
優しさというものが、何かの現象になるのなら、きっとこういうものになるのだろう。
少年がそう信じる、彼への愛情に満ちた女の人の声。
その声は、はっきりと聞こえる。
なのに、その姿が見えない。
霧にでも包まれているかのように、顔も、身体も、ぼんやりとして少年の目には見えない。
背は高いのか、低いのか。
痩せているのか、太っているのか。
髪は長いのか、短いのか。
目は大きいのか、細いのか。
髪の色は、肌の色は。
何も分からない。
ただ、その優しい声だけがはっきりと少年の耳に届く。
そして、その声を聞くたびに、胸が張り裂けそうなほどの苦しさが襲ってくる。
喪失感。
少年にはまだそんな難しい言葉は分からないが、少年の感じる苦しさは、言葉にするならばそうとしか言えないものだった。
現実ではもう二度と、この人からこんな声で名前を呼ばれることはないのだという、絶望にも似た哀しみ。
なぜ二度と呼ばれることがないのか、その理由は少年にもはっきりとは分からない。
だが、もう呼ばれることはないのだという事実だけは、はっきりと分かっていた。
永遠に手に入ることのない、優しさ。
かつてそれは少年のもとにもあったのに、なくしてしまった。
否、奪われてしまった。
だからこその、喪失感。
少年には、その人のことをなんと呼んでいいのかも分からない。
ママ。
母さん。
母様。
どれもしっくり来ない。
自分はかつてその人のことを、何と呼んでいたのだろう。
物心もつかない頃の記憶をたどってみたところで、答えが出ることもない。
少年は夢の中で、その人に向かって必死で走る。
その人に抱き締めてほしくて。
その人の甘い匂いに包まれたくて。
その人に他愛もない話を聞いてほしくて。
それが叶わないならせめて、その人の顔を、姿を、この目に焼き付けたくて。
だが、少年がどんなに足を動かそうが、その人に近付くことはない。
夢の中で、少年が足を止めることはない。
いつも、いつだって、少年は最後まで諦めはしない。
なのに、その人の声はどんどん遠ざかっていく。
走ろうが、叫ぼうが、その声が近付くことはない。
そして、その人の声が途切れたとき、少年は疼くような喪失感とともに目を覚ますのだ。
長い旅を終えて、その少年がたった一人、ノルクの港に降り立った時、その顔はもう子供離れした精悍さを備えていた。
元々聡明な少年であったが、旅がさらに彼の全てを鍛え上げた。
まだ年端もいかない子供だ。
いくら平和な国とはいえ、こんな小さな子供が一人で旅をするなど、あり得なかった。
好奇の視線に晒されることを少年は好まなかった。
だから、少年は宿にも泊まらなかった。
馬車にも乗らなかった。
自分の足で、その大地を一歩一歩踏みしめて、歩いてきた。
それで構わなかった。
歩けば、歩くだけ目的地に近付く。それが旅だというのなら、そんなに幸せなことはないではないか。
走っても走っても届かない、あの地獄に比べれば。
この程度の終わりのある旅が、何だというのだ。
正門で衛士に自分の名前を告げ、少年は案内を乞う。
まだ年若い衛士は、少年が一人で旅してきたということに驚愕していた。
衛士の案内で、少年は学院の大きな校舎の学院長室に案内される。
その知恵の精霊のような老人を見るのは、何年ぶりになるのだろう。ろくに物心もつかない頃に会ったきりだった。
少年が自分の名前を告げると、老人が顔をしかめた。
「名前は変えろと言ったはずだが」
老人の言葉には有無を言わせぬ迫力があった。
理由がある。
少年の身体に流れる高貴な血。
かつて高貴な身分であった少年の名前は、今も高貴な身分である弟の名前に、あまりにも似ていた。
死すべきさだめを背負った少年を救い出してくれたその老人が、彼の安全のために名前を変えるよう命じたのは、当然のことだった。
「名前は変えない」
少年の高貴な血は、大貴族さえも屈服させると言われるその老人の威圧感を前にしても毫も怯まなかった。
「姓などお前たちの好きに変えればいい」
少年は学院長に言い放った。
「モズヴィルだろうがなんだろうが構わない」
望まぬ流転。それは受け入れる。
「なんなら姓などなくたっていい」
だが、受け入れることは屈することと同じではない。
僕は、誰だ。
「僕の名は、ウォリスだ」
記憶に残る、あの人の声。
ウォリス。
彼女は僕をそう呼んでいた。
姓など何でもいい。
この国を束ねる、あの姓であろうとも。
今、自分の名前の後ろに無造作にくっ付けられたこの姓であろうとも。
そんなものは、僕の中の大事なものを何一つとして表しはしない。
だが、名前は。
名前だけは変えられない。
自分が自分である証。
ウォリス。
二度と手に入ることのない、あの声。
あの人が呼んだ名前。
それが、それだけが、僕の名前だ。
この名前までが変わってしまうのなら、僕はこれから何を道しるべに生きていけばいいのか。
生きるために名前を変える。
それは受け入れることではない。
屈することだ。
自分の全てを捨てることだ。
そんな生に何の意味がある。
僕は屈しない。
「僕の名はウォリス」
少年はもう一度言った。
老人を睨み付けるその目は、真っ赤に充血していた。
「他の誰でもない。僕はウォリスだ」
老人は、しばらく彼の顔を見つめた後、ぽつりと言った。
「なるほど。それが君の形か」
そして、表情を少し和らげ、少年に頷く。
「分かった。名前はそのままで」
それから、重々しく宣言した。
「ウォリス・モズヴィル。君の入校を歓迎しよう」
ウォリス、9歳の春。
アルマークが、北の戦場で初陣を飾る頃の出来事だった。