作品タイトル不明
第146話 贅沢なパンをたくさん焼こう 7歳 晩夏
「昨日のパン、美味しかったわねえ!」
「そうだねえ」
「村で大麦をたくさん買うようになったら、毎日あのパンが食べられるのかしら?」
「贅沢パンを毎日は難しいんじゃないかなあ」
エリン姉は、よほどに母ちゃんが焼いた大麦贅沢パンの味が気に入ったのか、翌朝の馬での見回りの間も、ずっとパンの味の話をしていた。
「毎日は駄目でも、3日に1回なら大丈夫かも?」
パンの威力すごいなあ。小麦食ってる人類文明が尽くパン食になるわけだ。
「美味しいパンが造れたのは良いんだけど、あとはたくさん焼けるようにしないとね」
「頼んだら、お母さんがたくさん焼いてくれるじゃない?」
「いや、来年お客さんがたくさん来た時の話。何日間も海の上で過ごしてから、お腹を空かせた父ちゃんみたいな感じの大人が50人ぐらい一斉に上陸してきて、お酒と肉とパンを腹いっぱい食べたい!とか言うわけだから、家で焼いてたんじゃ間に合わないよ」
質が確保できたら、次は量に転換しないといけない。
それも人を大勢動員するのでなく、設備の力を使ってね。
◯ ◯ ◯ ◯ ◯
「大量にパンを焼けるパン焼き窯が必要だと思うのです」
僕は相談できる7歳児なので、ちゃんとシグリズ様のところへ相談に行ったよ。
相談というか、ほとんど提言だけど。
「水車の次は、パン焼き釜ですか。いえ。必要性はわかります。それにしても大勢の来客を迎えるというのは、本当にたくさんの施設が必要なのですね…」
「ただの村が、北方21村の中心になるのですから、やむを得ないとかと」
溜息を吐くシグリズ様に、残念な事実をお知らせするのも貴族の役目。
たしかに大変なことには違いないけれど、投資できる資産がある分だけマシなのだ。
「まったく、なぜこんなことになったのか…」
「ご同情申し上げます…いててっ!」
貴族言葉でちゃんと相槌をうてたはずなのに、なぜが凄い力でグリグリされた。
◯ ◯ ◯ ◯ ◯
北方社会でパン食が普及されていない理由はいくつかある。
一つには、大麦を粉に加工する際に労力を必要とすること。
大陸のように動力として利用しやすい大河が少ないこと、人口過密地帯でないため奴隷が少ないことなど、労力調達の難しさがその点に拍車を掛けた。
また体温維持の観点から、大麦をパンで食した場合と粥として食した場合では後者のほうが体が温まり体温維持に役立つ、という点も見逃せない。
冬の寒さが厳しい北方では、食事とはまずカロリーと体温維持が最優先されるものであり、味や食感は二の次であった。
パンを焼く際には粥を作るよりも遥かに大量の薪を必要とすることも、パンを主食とするには障害となった。北方は森林資源が豊富ではあったが、それらの薪は大人の男性が森に入り斧を振るって調達しなければならなかったし、同時に薪は厳しい冬の間に家を暖めて生存を確保するために必須の資源でもあった。
「つまりですね、パンは効率焼かないと駄目だと思うんです」
僕は半分涙目でこめかみを両手で隠しながら、シグリズ様に説明した。
北方で生きる人々にとっては、パン食は贅沢なのは常識。
なぜなら、パン作りで労力、薪、熱の無駄が発生するから。
それらを大規模設備の力でなぎ倒してやろう、というのが僕の提言の要旨なのである。
「シグリズ様は、我が家の塩作り設備の仕組みを憶えていらっしゃいますか?」
「もちろんですよ。海の水を沸かして、熱い煙で託児所の床と社交場のベンチと冷燻の施設を暖めているのですよね?」
「その通りです」
一つの熱源で複数の施設を運用することで熱効率の最大化を図る。
それが僕の考える北方社会の設備のあるべき姿だ。
薪の熱は最後の1キロカロリーまで取り出されるべきなのである。
「パン焼き窯でも同じように複数の設備を併設しましょう。パン焼き窯の熱を使って、サウナを熱します。パン焼き窯の煙は煙道を通して乾燥室を熱しましょう。冷えてきた煙を使い冷燻設備も稼働させられます。
パン焼き釜、サウナ、乾燥室、冷燻設備の4つの設備を一つの熱源で賄うんです。
実際の運用の流れはこうです。
フィヨルドの沖に、来航する船が見えたらパンを焼き始めます。同時にサウナと乾燥室が熱されます。
船が港についたら船員たちはサウナへ直行させて、服は脱がせて乾燥室で熱して消毒します。
サウナから出てきた船員に服を返したら、その足で酒場へと誘導し特製の大麦酒と焼き立て贅沢パンと冷燻の魚で酔わせて満腹にして銀貨を搾り取ってから、村営の宿屋へと放り込みます」
設備の運用イメージを語ると、シグリズ様は少し眉を上げて呟く。
「…効率的ですね」
「はい」
僕にとっては、この上ない褒め言葉なのである。
「すると、このパン焼き窯とサウナと乾燥室は浜の傍に建設することになりますね」
「そうなります」
運用のイメージからして、船着き場の隣に建設されるべきである。
なぜなら病気や機密の管理という観点から、上陸した船員たちが村の警備の外で歩き回る距離を最小化したいので。
「大麦粉の倉庫も船着き場の近くに必要になると?」
「そこは難しいですね。大麦を粉にすると保管の期間が短くなります。僕としては水車の方を常に空けておいて、必要に応じて大麦粉へ製粉するほうが良いと思います。もちろん、それは製粉水車の性能次第ですが…」
例えば一度に上陸する船乗りの数が50人だとすると、彼らがお腹一杯になるだけのパンの量はどのくらいで、その量のパンを作るにはどれだけの大麦粉の在庫を持つべきか重量を測る必要があるし、同僚の大麦粉を水車で製粉する時間についても測る必要があるだろう。
長い期間をかけて発展してきた港や大きな街であれば、そうした不意の客に対応するだけの食料資源の余裕があるのだろうけれど、僕達の村のような小さな所帯にとっては全てを計算し、ギリギリの余裕を保たなければならないのだ。
「いずれにせよ、建設の開始は村長《うちの人》が戻ってからになりますね。今は建設の予定地の目星をつけるだけにしておきなさい」
「わかりました…あ、忘れるところでした。こちらをどうぞ。母の焼いた贅沢大麦パンの試作品です」
母ちゃんに持たされた試作品の一つを籠から取り出した。
ちょっと冷えちゃったかな。
「これが…。では一緒にいただきましょうか。お茶を淹れさせましょう」
シグリズ様が合図をすると、侍女の人が銀の器に薬草茶を沸かして持ってきてくれた。
「蜂蜜がたくさん使えるというのは、良いですね。食生活が豊かになります」
そう言いながら、たぷりの蜂蜜を薬草茶に溶かし、贅沢大麦パンにも塗っていく。
僕が先日作った蜂蜜遠心分離機は改良されながら稼働を始めており、これまでの数倍の量の蜂蜜を村に提供するようになっていた。
その多くは試作大麦酒の方に回されることになるのだけれど、村長婦人の立場であればかなりの融通が効かせられるようで。
「あまーい!」
「…美味しい」
今生で感じたことのない甘さに、思わず声が出てしまう。
控えめにパンを口に含んだシグリズ様は、上品に口元を押さえた。
たっぷりの蜂蜜がかけられた、たっぷりバターと新鮮なナッツとベリー入りの贅沢な大麦パンは、高度な消費文化の味がした。