作品タイトル不明
第145話 パンを食べたい、は贅沢だろうか? 7歳 晩夏
「パンを食べたい、って村のみんなが言うのよ」
と、母ちゃんが言った。
ああ、ついに来たか。
「やっぱりパンが足りない?」
「大麦はずいぶん作付けしたんだけどねえ」
北方料理系インフルエンサー母ちゃんの活躍もあって、蒸し料理に大麦パンを使うメニューは村の女衆に浸透し、家庭料理の定番となった。
結果として村における大麦の消費量は増大し、ついに大麦パンの不足が訴えられる事態へと至ったわけだ。
「大麦はたくさん輸入する予定だから、いずれは解消すると思うんだけど…」
今年の秋から、村では特製の大麦酒を大量に醸造する予定がある。
来年以降に村を訪れる北方21星の来客たちを饗すためだ。
大麦の代金は大麦酒を売って賄う予定なので、村の主食分の不足の大麦を購入することはできる、と思う。
「足りないのは、大麦というより大麦粉を挽く労力なのよ。村の女衆もたくさん仕事を抱えるようになっているし、毎朝のように石臼を挽くわけにもいかないでしょう?男衆も最近は外に行ってばかりだし」
「そうだよねえ。うちの村は粉挽きの奴隷も少ないしねえ」
粉を挽く奴隷の不足、という社会問題は他の村では発生していない。
大麦の穀倉地帯ではたいてい奴隷が大勢働いているし、人力が豊富なので大麦の粉挽きに必要な労力が不足することはない。
しかし近年、急激に発展しつつある僕の村では根本的に労働力が足りないのだ。
おまけに例え大勢の奴隷などを買ってきても養う土地がないし、そもそも奴隷を効果的に管理して働かせるノウハウがほとんどない。
村長の家では少数の奴隷を使っているみたいだけど、本格的な奴隷農場を運営しようと思ったら、たぶん2桁は管理する人数を向上させないといけないだろう。
奴隷を管理するノウハウとは、例えばだけど奴隷の中で奴隷頭を決めて、奴隷頭を管理する人員を置いて、奴隷のための家屋や奴隷が子供を産んだ時の扱いを定めたりとか…ああ、いやだいやだ。僕はそんなことを考えたり管理なんてしたくない。
「そうか…大麦のパンを食べたがるのは、村の人だけじゃないのか」
来年から村を訪れる大勢の客たちは、特製の大麦酒を飲むだけでなく、腹を満たす食事も求めるはずだ。長旅を終えて、サウナでさっぱりした後に冷えた特製の大麦酒を飲み、鰊と大麦パンを食べたがるに違いない。まさか来客に、北方でも粗食と見なされる大麦の粥を出すわけにもいかないし。下手をすると侮辱と取られて血を見る事態にもなりかねない。
「大麦パンも、たくさん造れるようにならないと駄目なんだねえ…」
「ええと、そうね。それが出来たら一番いいんだけど…」
また一つ、村が解決するべき問題が明らかになった。
来客のために、たくさんの大麦パンを造れるようにしなければならない。
しかも、酒に負けずに美味いやつを。
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村で美食が解る人、というのは極めて人数が限られる。
僕はいつもの如く、村長婦人の長屋敷を尋ねた。
「シグリズ様って、ひょっとして小麦のパンって食べたことがあります?」
「ええ。来客用にときどき焼きますね」
ひええ。セレブだ。
さすが村一番の有力者。
「まさか真っ白の雪のように、よく振るった小麦のパンだったりとかは…」
「まさか。そんな神々の叙事詩のような食事にはなりませんよ。この村では、小麦のパンをちゃんと焼ける料理人のいなければ、設備もありませんから」
なるほど。白い小麦パンは神々の叙事詩の食べ物か。
たしかにパン焼き職人もいなければ、酵母もパン釜もないものなあ。
「小麦のパンを出せたら大評判になると思ったんですが…」
「そうですねえ。ですが高価になりすぎて注文できる客は少なくなるでしょう。それに大人の戦士には小麦パンの軽い味は少し物足りないかもしれません」
「なるほど…贅沢品なら良い、というわけでもないんですね」
クナトルレイクに参加するような屈強な男衆には、小麦パンのようなオシャレパンよりも、大麦パン大盛りのような方向性の方が良いのかもしれないね。
食べ放題とか、バターマシマシ、ナッツとベリーのトッピング追加で、とかの方が喜ばれそう。
後で母ちゃんに試作してもらおうかな。
なにより小麦は南方の産物だ。南方に銀貨が出ていくのはあまり嬉しくない。
北方21星の大結束内の貿易は相互繁栄のために均衡させるべきだけれど、外の世界
に対しての貿易は出来るだけ不均衡にして銀貨を奪っておきたいのだ。
「となれば、大麦パンの味や食感を向上させる方向ですね…いよいよ水車の粉挽きをやらないと駄目ですかねえ」
奴隷の労力もないし大麦の粉挽きのニーズは高まるばかり。
となれば、機械設備で効率を上げるしかない。
「私のいた村には水車での粉挽きはやっていましたが…職人はいるのですか?」
「いやあ…どうでしょう…?」
村の木工職人は今や酒樽専門の製造工房のように殺気立って量産していて、いかに郎党で脅しつけたところで、さらなる追加作業は期待できそうもないし。
第一、水車開発の経験もないしね。
「兄を通じて水車の職人を送ってもらうように依頼はしておきますが…」
「お願いします」
北方21星の大結束が出来て良かったことの一つは、村に足りない技術を外から導入することができるようになったことだよね。
大結束の発足前であれば、技術は秘匿されるか法外なボッタクリ価格で買わなければならなかったところが、相互信頼が成り立っているので適正な価格で導入することが出来る。
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「トール、ここの川は?」
「うーん…ちょっと急すぎるかなあ」
僕はエリン姉にお願いして 馬(レット) に乗せてもらい、村の川を見回っていた。
村のフィヨルドには豊富な雪解け水による綺麗な川が至るところに流れているのだけれど、斜面は急だし水量も少な目で季節によって水量の変化も激しい。
大陸のように、ゆったりとした大河を利用した安定的な大水車を建設するのには地形的に不向きなのだよね。
「もしも水車を建設するとしたら、小さいダムも作らないとダメそうだなあ」
川を分岐させてため池を作り、ため池から川に水を戻す水路を掘削して水車を回す方式だ。
建設と水路のメンテナンスの手間はかかるけれど、水量が安定するので水車の器械的負担が減るメリットがある。
いずれにせよ、僕は土木工事や水車については素人に過ぎない。
村の今後の開発計画の一つとして、専門家が村に来たときに説明できるよう目星をつけて置くに留めることにした。
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その後、母ちゃんにお願いして、たっぷりのバターを大麦粉の生地に練り込んでもらい、砕いたヘーゼルナッツとドライベリーをまぶした贅沢大麦パンの試作をしたのだけれど、焼いているときからバターの焼ける良い匂いが家中に漂ってきて大変なことになった。
「エリン姉、ベーグルがパンを狙ってくるんだけど…」
「だめよベーグル!猫はパンを食べちゃ駄目!」
「あっ!ムニ!だめ!」
なにしろ、普段は家のどこかに隠れている猫のベーグルまでが目を見開いて飛びかかろうとしてきたり、ムニは肩に止まって横からパンを突こうとするし、馬のレットも板窓から顔を覗かせて野次馬になるし。
「バターの威力、凄いね」
「そうねえ…ちょっと贅沢すぎないかねえ」
「いいのよ!贅沢のパンなんだから!」
そうして母ちゃんが作った贅沢大麦パンは様々なアレンジが加えられていき、特製の大麦酒と並んで、村を訪れる男達の胃を鷲掴みにすることになるのだった。
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後に、村に製粉水車を設置しに来た職人集団と、回転機構に魅せられた村の鍛冶職人の間で活発な技術交換がなされ、北方全体で大麦の製粉効率の劇的な向上が果たされて、食文化にも大きな変化がもたらされることになるのだけれど、それはまた別のの話。