作品タイトル不明
第五話
グランツローゼに加入して数か月。
アイリーンは集会室の机に積み上がった書類の山を前に深く息をついた。
グランツローゼの仕事というのは思った以上に書類仕事が多い。
きらきらと行事を華やかに取り仕切るような組織だと思っていたが、現実は書類整理の嵐だ。
マリベルと二人でしみじみと書類の山を眺める。
そこへ自分の分の書類を淡々と処理していたオルガが顔を上げた。
「これは……今週末も作業が必要そうだな」
それを聞いてマリベルが顔を曇らせた。自分も同じ気持ちだ。
ああ。貴重な休日が……
「でも、集会室って休日は使えるんでしたっけ……?」
マリベルが首を傾けた。
「管理の先生に頼めばいいんじゃない?」
アイリーンが答える。
「いや、手続きが面倒だ。私の家で作業すればいい」
「……え?」
「クラレント家には作業できる部屋がある。学園の手続きを踏むより手っ取り早い」
「よ、よろしいのですか……?」
「構わない。その方が効率的だ」
アイリーンの心臓は破裂寸前だった。
(クラレント家に、行ける……)
ラルフに会えるとは思っていない。彼は王宮騎士団所属らしいから。
でも、ラルフが育った家に行ける。
ラルフが歩いた廊下を、ラルフが見ていた景色を、自分も見られるかもしれない。
「……じゃあ、お言葉に甘えちゃうわね!」
アイリーンは明るい笑顔で答えた。
「ありがとうございます、オルガ様」
マリベルが嬉しそうに言う。頬がほんのり赤かった。
週末。
マリベルとアイリーンはクラレント家の馬車に乗り込んだ。
そしてやがて、馬車が止まった。
クラレント家の屋敷だった。
重厚な石造りの門。手入れの行き届いた庭。均整のとれた建物の外観。
侯爵家の格式というものが、佇まいだけで伝わってくる。
「……すごいですね」
マリベルがぽつりと言った。少し背筋が固まっている。
玄関ではオルガが待っていた。
「ようこそ、クラレント家へ」
広い玄関ホール。高い天井。磨き込まれた大理石の床。
これがクラレント家……
通されたのは屋敷の奥の一室だった。適度な広さがあり落ち着いた内装の部屋だ。窓からは庭が見える。中央に大きなテーブルがあり、作業するには十分な広さだった。
侍女が三人分の椅子を整えていた。
「どうぞ」とオルガが言った。
三人が席に着くと、間を置かずに侍女がお茶を運んできた。繊細な模様の入ったカップ。小皿に添えられた焼き菓子。どれも品がある。
「わあ……」
マリベルが小さく声を上げた。
多分カップの持ち方とかで躊躇してるんだろうな……
アイリーンはさらっと受け取って一口飲んだ。
「とても美味しい紅茶ね!」
口調は明るく。しかし所作は優雅に。
マリベルのお手本になれただろうか。
マリベルはアイリーンを見てほっとした顔をした。それからおそるおそるカップを持ち上げた。
「……美味しいです」
「それはよかった」
オルガは短く答えた。
三人は書類を広げ始めた。
作業が一段落したタイミングで、アイリーンはさりげなく口を開いた。
「ねぇ、オルガ様はご家族と一緒にお住まいなの?」
これはただの世間話。令嬢らしい他愛のない質問。
「ああ」オルガが答えた。「両親は家を空けることが多いが、夕食は共にとっているよ」
「まぁ、素敵ですね」
マリベルがにこにこしながら頷いている。
アイリーンは書類に視線を落としたまま、さりげなく続けた。
「お兄様は……騎士団だから、あまり家にはいないのかしら?」
オルガの手がほんの少し止まった。
「……兄は」
声のトーンが変わった。グランツローゼ初日に見た、あの表情と同じだった。
「今は家にいる」
「あら、そうなの?」
「怪我をして……騎士団を退いた。今は屋敷で療養中だ」
アイリーンは顔を上げた。
オルガが静かに続ける。
「とあるテロ事件に巻き込まれてしまって。その際に足を負傷した」
「テロ……で、足を……」
マリベルが息を呑んだ。
「怪我自体は回復に向かっている。命に別状はない」
オルガは淡々と言った。でもその目は微妙に伏せられていた。
「ただ……表向きは明るく振る舞っているが、だいぶふさぎ込んでいる。騎士団を退かなければならなかったことが、きっと本人にとっては……」
兄を心配する弟の顔だった。
アイリーンは胸の奥で何かが痛んだ。
これはゲームの中では一切語られなかった話だ。設定として存在したのかもわからない。
画面の向こうの話ではない。
本当にあった話なのだ。
「……そう」
アイリーンは静かに言った。
それからほんの少し間を置いて、表情を切り替えた。
にっこりと、無邪気な令嬢の顔で。
「ねぇ、オルガ様。せっかくだから……お兄様にご挨拶できないかしら?」
オルガが顔を上げた。
「ほら、グランツローゼのOBなんでしょう? 一度お目にかかってみたいなぁって」
あくまで他意のない口調で言った。
好奇心旺盛な令嬢が有名な先輩に会いたがっているだけ、という顔で。
オルガが少し考えるような間を置いた。
「兄の気が向けば、になるが……」
「もちろん! 無理にとは言わないわ」
アイリーンはにこっと笑った。
内心では心臓が口から飛び出しそうだった。なんなら多分ちょっと出てた。
数分後、侍女が部屋に入ってきてオルガに耳打ちする。
オルガは微笑んで
「兄もぜひ会いたいとのことだ」と答えた。
「こちらへ」とオルガが案内する。
三人で廊下を歩く。向かったのは屋敷の奥。
ラルフ・クラレント。
ゲームで何十時間も画面越しに追いかけた名前。スチルの端に小さく映った姿を、目を凝らして眺め続けた。二次創作もほぼない。語られる場面も数えるほど。
それでも自分はあの人が好きだった。
オルガが立ち止まり、扉をノックした。
「兄上、入ります」
「ああ、入って」
声が聞こえた。
落ち着いた静かな声だった。
扉が開いた。
部屋は日当たりの良い穏やかな内装だった。
窓から午後の光が差し込んでいる。
大きなベッドに腰かけている人がいた。
アイリーンの視界が、そこで止まった。
「こんな格好で済まないね」
男性が苦笑した。寝間着に近いくつろいだ格好だった。
でも姿勢は真っ直ぐで声に張りがあった。
「兄のラルフ・クラレントだ。弟がいつもお世話になっているよ」
その微笑みでアイリーンの頭の中が、真っ白になった。
(いる)
本物がいる。
スチルの隅に小さく描かれていたあの人が、今、自分の目の前に座っている。画面越しではない。ガラス一枚も隔てていない。呼吸をして微笑んでいる。
「マリベル・ネージュと申します! オルガ様には大変お世話になっております……!」
マリベルが慌てて頭を下げた。
アイリーンは動けなかった。
愛嬌も、無邪気な笑顔も、令嬢としての所作も、今この瞬間だけは全部どこかへ消えていた。
アイリーンは絞り出すように言った。
「アイリーン・マーガレットと、申します」
ラルフが少し目を細めた。
「マーガレット家の。……よく来てくれたね」
再び微笑んだ。