作品タイトル不明
湯けむり
十二月。冬休み。
箱根の温泉旅館。冬夜と宮瀬の二人で来た。
電車を降りた時、宮瀬が深呼吸した。
「空気が冷たい。でも、気持ちいいです」
「山の空気だな」
「ゲームの中で山に登った時を思い出しますね。でも、現実の方が鼻の奥が痛くなる」
「ゲームの空気には温度のデータはあるが、湿度のデータは粗い。現実の冬の空気は、湿度が低いから鼻が痛い」
「久坂くん、旅行中にデータの話しないで」
「……すまない」
旅館に着いた。一部屋取ってある。二部屋にしようかとしたが、宮瀬に「お部屋はひとつがいいです」と言われたので、一つに。
荷物を置いて、露天風呂に行った。男女別だ。
冬夜は露天風呂に浸かった。熱い湯が体に染みた。目の前に山の稜線が見えた。冬の空が澄んでいる。星が見え始めていた。
ゲームの中の温泉とは違った。データの湯ではなく、本物の湯だ。体が芯から温まる感覚は、VRでは再現できない。
湯から上がって、ロビーで宮瀬と合流した。宮瀬が浴衣を着ていた。髪を後ろにまとめていて、うなじが見えた。
「久坂くん。顔、赤いよ」
「湯あたりだ」
「嘘。湯あたりなら、もっとふらふらしてるはずでしょ」
「医学的に正確な指摘だな」
「わたしは薬学だけどね」
「ああ、そうだったな」
夕食を食べた。部屋に運ばれてきた懐石料理。焼き魚と煮物と茶碗蒸し。二人で向かい合って食べた。
「久坂くん」
「何だ?」
「こうやって二人で旅行するの、初めてだね」
「ゲームの中では一緒に旅してるが、現実では初めてだな」
「ゲームと現実、どっちが楽しい?」
「どっちも楽しい。比べるものじゃない」
「久坂くんらしい答え」
食後に、旅館の庭に出た。冬の夜空。星が多かった。都心では見えない星が、ここでは見えた。
「星、綺麗だね」
「ああ……きれいだ」
「セレスちゃんにも見せたいね。この星」
「セレスが宵に約束した。外の星を見せに来るって」
「いつか、見せられるといいね」
二人で星を見上げていた。冷たい空気が頬に当たった。宮瀬の肩が震えた。
「寒いか」
「少しだけ」
冬夜は自分のマフラーを外して、宮瀬の首に巻いた。
「久坂くん……」
「寒いなら、巻いてくれ」
「でも、久坂くんが寒くなるでしょ」
「俺は平気だ」
「嘘。鼻が赤くなってる」
「気のせいだ」
宮瀬が笑った。マフラーに顔を埋めて、笑っていた。
「ねえ、久坂くん。わたし……やっぱり思うんだ。わたしは本当に、久坂くんのこと……」
「知ってる」
「……えっ?」
「言わなくても分かる。宮瀬が、何を言おうとしてるか」
宮瀬が黙った。マフラーの上から、目だけがトワを見ていた。
「俺も、同じだ」
冬夜が星を見たまま言った。短い言葉。でも、宮瀬には十分だった。
「……うん」
宮瀬が頷いた。好意の再確認はいまさら不要だ。ただ、二人とも知っていることを、言葉にしただけ。
マフラーの端を、宮瀬が冬夜の首にも回した。一本のマフラーを二人で巻いた。距離が近くなった。
「久坂くん。これからも、一緒に歩いてくれる?」
「ゲームの中でも、外でも、か」
「両方」
「両方、歩く」
「社会人になっても?」
「なっても」
「忙しくなるよ。久坂くんはソフトウェア会社、わたしは調剤薬局。平日は会えない日も増えるかもしれない」
「ログインはできる。夜に一時間でも歩けば、一緒に歩ける」
「一時間でいいの?」
「一時間で十分だ。一歩でも足跡は残る」
宮瀬が笑った。マフラーの中で、小さく。
「久坂くんらしい答え。じゃあ、わたしも毎晩一時間、薬を作るね。トワさんのために」
冬の星空の下で、二人は並んで立っていた。
ゲームの中では、トワとタマキとして一万時間を歩いた。現実では、冬夜と宮瀬として大学生活を共に過ごした。春からは、社会人として歩き始める。
これからも、歩く。両方で。