作品タイトル不明
一歩
アルキスが膝をついた。
統合形態は完全に消えていた。80%の世界データが全て剥がれ落ち、金色の光の粒になって外殻に散っていった。データは世界の糸に戻り、引き抜かれていた糸が元の場所に帰っていく。
見聞録にシステムメッセージが表示された。
【──────────────────────────】
【紡世の織機が完全に停止しました】
【世界の糸の復元が開始されました】
【糸の復元進捗:0% → 進行中】
【──────────────────────────】
外殻全体が変わり始めた。灰色だった糸が白に戻っていく。空白地帯だった穴が糸で塞がれていく。集糸塔が沈黙し、吸い込んでいた糸が放出されて元の位置に戻っていく。
竪穴の底から歓声が聞こえた。三千二百人のプレイヤーが、変化を目撃している。
フォーラムにも報告が上がっているはずだ。BCOの世界全体で、糸のほつれが塞がれ、裂け目が消え、世界が元に戻っていく。
だが、トワはフォーラムを見なかった。目の前のアルキスを見ていた。
アルキスは膝をついたまま、自分の胸に手を当てていた。金色の光の一欠片が、まだそこにあった。
「トワ」アルキスが顔を上げた。「一つ聞いていいか」
「何だ……」
「お前が最初にリベルタを歩いた時、何を感じた」
「何を感じた、か」
トワは考えた。一万時間前。BCOに初めてログインした日。リベルタの宿屋のベッドの上に立って、初めて外に出た時のこと。
「石畳が硬かった。噴水の音がした。NPCが挨拶してきた。空が青かった」
「それだけか?」
「それだけだ。特別なことは何もなかった。ただ歩いて、ただ見て、ただ聞いた……それが楽しかった」
「……楽しかった」
「ああ、最初の一歩が楽しかった。それが……全ての始まりだ」
アルキスが黙った。長い沈黙だった。
「わたしは、一歩も歩いたことがない。何百年もここにいて、記録を集めて、世界を見続けて、一歩も歩いたことがない」
「知っている」
「歩いたら、楽しいのか」
「分からない。歩いてみないと分からない。だが、俺は楽しかったぞ」
アルキスが自分の足を見た。紡世者の足。糸を紡ぐために作られた足。道を歩くために作られた足ではない。
だが、足はある。
アルキスが立ち上がった。
「歩いてみてもいいか」
「誰にも許可は要らない。歩きたければ歩けばいい」
アルキスが一歩を踏み出した。
足が床に触れた。外殻の糸の床。アルキスが紡いだ世界の裏側。
足跡が残った。
銀色ではなかった。金色でもなかった。白い足跡。データの色でもない。紡世者の色でもない。アルキスだけの、最初の一歩の色。
「……硬い」
「そうだ、床は硬い」
「音がする。自分の足音がする」
「ああ、足音がするな」
アルキスが二歩目を踏み出した。三歩目。足跡が三つ並んだ。
四歩目でアルキスが止まった。
「トワ。わたしは、ずっと間違っていた。記録を集めて世界を知ろうとした。だが、歩かなければ知れないことがある。最初の一歩を踏んだだけで、もう分かった」
「何が分かった」
「足の裏が、温かい」
アルキスの目から、光の粒が落ちた。
セレスがトワの肩からアルキスに向かって月光を送った。小さな光。アルキスの足元を照らす光。
「あるきす。あるいた。さいしょの、いっぽ」
トワはアルキスの横に立った。二人で、崩れた頂部の縁から外殻を見下ろした。世界の糸が白く戻っていく。引き抜かれていたデータが帰っていく。
「世界が戻っていく」アルキスが呟いた。「わたしが壊した分だけ、戻っている」
「全部戻る。時間はかかるが」
「わたしは、どうなる」
「分からない。紡世者に聞くしかない」
アルキスが空を見上げた。外殻の糸の天蓋の向こうに、何かの光が見えた。微かな、遠い光。
「紡世者たちが、見ている」アルキスが呟いた。「追放された日から、一度も感じなかった気配だ。見ている……わたしを」
見聞録にメッセージが表示された。
【──────────────────────────】
【世界の糸の復元進捗:38%】
【紡世の徒 首領「アルキス」が活動を停止しました】
【紡世の徒は解体されました】
【──────────────────────────】
アルキスの体が、薄く透明になり始めた。消えていくのではない。世界の糸に溶けていこうとしていた。
「お前……消えるのか」トワが聞いた。
「分からない。だが、紡世者たちが呼んでいる。帰れと……紡ぐ者は、紡ぐ場所に帰れ、と」
「それでも、お前が歩いた足跡は、残る」
「ああ……四歩だけだが、残るだろう」
アルキスがトワを見た。
「ありがとう。足跡の温もりを教えてくれて」
「礼は要らない。歩いたのはアルキス自身だ」
アルキスが微笑んだ。初めて見る、アルキスの笑顔だった。
体が糸に溶けた。銀色の髪が糸になり、白い衣服が糸になり、最後に瞳の銀色だけが一瞬残って、消えた。
アルキスがいた場所に、四つの白い足跡だけが残った。
消えない足跡。
戦いが終わった。