作品タイトル不明
秋の空
日曜日。現実世界。九月の終わり。
冬夜はベッドの上で目を覚ました。VRヘルメットは机の上に置いてある。昨夜、宵闇の回廊から帰還した後、ログアウトしてそのまま眠った。久しぶりの、ゲームの外での睡眠だった。
窓を開けた。
空が高かった。夏の間は近くに見えていた空が、秋になって遠くなっている。雲が薄く、青が深い。風が少し冷たくて、腕に鳥肌が立った。
スマホが鳴った。宮瀬からのメッセージ。
『おはよう。今日、お散歩の約束、覚えてる?』
『覚えてる。十時に駅前でいいか』
『はい! 秋の公園、行きたい! 落ち葉がきれいだと思うの』
『分かった。行こう』
◇
十時。駅前。
宮瀬がベージュのカーディガンにジーンズで立っていた。夏の間は半袖ばかりだったが、秋になって上着が増えた。
「久坂くん、おはよう」
「おはよう、宮瀬」
「ゲーム、大丈夫だった? 三日間、連絡なくて、心配したよ」
「すまん。宵闇の回廊の中は通信が途絶えた。連絡できなかった」
「ハルちゃんから聞いた。パーティチャットも途切れてたって。──でも、無事に帰ってきてくれて、よかった」
「宮瀬は、ゲームの外で心配してくれてたのか」
「当たり前でしょ。久坂くんがログアウトしないまま三日経ったら、わたし……」
宮瀬が言いかけて、少し唇を噛んだ。
「……心配するに決まってるじゃん」
「次からは、長期間潜る前に連絡するようにする」
「約束だからね」
「約束だ」
公園に向かって歩いた。銀杏並木は金色に色づき始めている。まだ完全には染まっていない。緑と金色が混ざった、秋の入口の色。
「久坂くん。宵闇の回廊、どうだった?」
「長かった。六つのエリアを全部歩いた。暗闇の中をずっと歩いて、最後まで行って、帰ってきた」
「セレスちゃんは元気?」
「元気だ。むしろ進化した。月光が強くなった」
「ルーナちゃんは?」
「ルーナも覚醒した。影の外に出られるようになった」
「影の外に……すごい。ルーナちゃん、ずっと影の中にいたのに」
「ずっと影の中にいたのは、隠れてたんじゃなくて、みんなを包んでたんだと、ルーナ自身が気づいた。それが覚醒のきっかけだった」
「包む、か。──ルーナちゃんらしいですね」
落ち葉が風に舞った。銀杏の葉が、二人の間を通り過ぎていく。
「久坂くん。わたし、ゲームの中でも現実でも、久坂くんの隣にいたいって思ってる」
「俺も、そう思ってる」
「……え」
「何が驚きなんだ」
「久坂くん、素直に言ってくれるの、最近増えたよね。前は、黙って横にいるだけだったのに」
「宵闗の回廊で、記憶の番人にいろいろ見せられた。一人で歩いてた頃の記憶とか、全滅した翌日の記憶とか。──その中で、仲間がいることのありがたみを、改めて感じた」
「仲間の中に、わたしも入ってる?」
「当然だ。タマキは最前線にいてくれた。薬が尽きかけても、瓶を投げて戦った」
「ゲームのわたしの話じゃなくて、現実のわたしのこと聞いてるんだけど」
「……現実の宮瀬も、当然、入ってる」
「ふふ。ありがと、久坂くん」
宮瀬の手が、冬夜の手に触れた。指が絡んだ。秋の風の中で、手のひらが温かかった。
◇
月曜日。大学。食堂。
蓮が冷やし中華の最後の麺を啜りながら言った。
「で、宵闇の回廊の中で何があったんだ。ミコトが速報出してたが、詳細がまだ出てないぞ」
「詳細は配信でミコトが語るだろう。俺は、必要なことだけ話す」
「紡世者の話は」
「知ってるのか」
「フォーラムで噂になってる。宵闇の回廊の最深部に、世界の真実に関わる情報があったらしい、と」
「噂が早いな」
「ミコトの速報が、憶測を呼んだんだろう。Lv1の旅人が三日間帰ってこなくて、帰還後に『紡世者』というワードがフォーラムに出た。みんな気になってる」
「紡世者のことは、いずれ話す。今はまだ整理中だ」
「急がなくていい。──それより、冬夜。もう一つ気になることがある」
蓮がスマホを見せた。BCOの公式サイトが開いている。
「これ、見たか?」
画面に、告知が表示されていた。
【BCO公式告知】
【大型アップデート──十月下旬に実装予定】
【新エリアが追加されます】
【詳細は後日発表】
【──紡世者の物語は、まだ終わっていません】
「大型アップデート……」
「十月下旬だ。あと三週間くらいだな。タイトルは未発表だが、最後の一行が気になる」
冬夜は画面の最後の一行を見つめた。「紡世者の物語は、まだ終わっていません」。常世島の終わりに運営が残したメッセージと、同じ言葉だった。
「常世島が終わった時に出た予告の回収か」蓮が腕を組んだ。「紡世者に関わる新エリアが来る。──宵闇の回廊で紡世者の情報を掘り当てた直後に、このタイミングか」
「偶然じゃないだろうな」
「偶然じゃないな。冬夜が宵闇の回廊で紡世者のメッセージを見つけて、その直後に運営がアップデートを告知する。──物語が、動き始めてる」
「蓮、小説家みたいな言い方だな」
「小説家志望だからな」
蓮がコップの水を飲み干した。
「冬夜。俺の新しい短編、出版社に送った」
「……本当か」
「まだ返事は来てないがな、いい出来だと思う」
「そうか。──いい結果が出るといいな」
「出なくても、次がある。お前の旅が続く限り、俺の小説も終わらない」
「俺の旅を材料にするのは、もう諦めたのか」
「諦めるわけないだろう。最高の素材だ」
冬夜はコーヒーを飲んだ。苦い。食堂のコーヒーは、いつも少し苦い。
◇
夕方。アパート。
冬夜は窓際に座って、秋の空を見ていた。夕焼けが始まっている。ゲームの中で見た夕焼けと、少しだけ色が違う。現実の空の方が、セレスが言った通り、淡かった。
スマホにメッセージが来た。ハルから。
『トワさん。アップデート告知、見ましたか? わたし、すごくワクワクしてます! 新しいエリアですよ!』
ミコトからも来た。
『告知来ましたね! トワさんは、どう見ていますか?』
ゼクスからも。
『紡世者関連がついに明かされるな。新エリアも罠の匂いしかしないが、行くんだろう?』
冬夜は全員に同じ返事を送った。
『行く。今度は、全員で』
VRヘルメットを手に取った。まだ被らない。今日は、もう少し現実にいる。
宮瀬から最後のメッセージが来た。
『今日の散歩、楽しかった。久坂くんの手、温かかったよ。──明日、大学で。おやすみなさい』
冬夜は返信した。
『おやすみ。明日、食堂で』
窓の外の夕焼けが暮れていく。秋の空が、夜に変わっていく。
影と夜の章が、静かに終わろうとしていた。
そして、次の旅が──もうすぐ、始まる。