作品タイトル不明
夜が包むもの
原初の祭壇の先に、もう一つの空間があった。
セレスの原初の月光が、暗闇と共存しながら空間全体を照らしている。以前なら見えなかったものが、今は見える。暗闇の中に、暗い紫色の泉があった。水面が静かに揺れている。泉の周りに、小さな花が咲いていた。暗い場所で咲く花。宵の部屋で見たのと似た、色のない花。
「あの泉、ルーナの夜の力と同じ色ですね」タマキが泉を指差した。
「……うん。同じ色」ルーナが影の中から呟いた。「あれ、わたしの力に近い。すごく近い。呼ばれてる」
「セレスの時と同じだな。祭壇がセレスを呼んだように、泉がルーナを呼んでる」
「……トワ。行ってみてもいい?」
「ああ、行ってくれ」
ルーナが影の中から出てきた。原初の淵に入ってから、ルーナは影の中にいることが多かった。影がない場所では、身体を外に出すのに力がいる。だが、今は自分の意志で出てきた。
小さな身体。暗い紫の毛並み。長い耳。大きな瞳。月光の篭手を両手に嵌めたまま、泉に向かって歩いた。
「ルーナ、水に入るのか」ゼクスが聞いた。
「……入る。怖くない。この水は、わたしと同じものだから」
ルーナが泉に足を入れた。水面が波紋を描いた。波紋が暗い紫色に光った。
腰まで。胸まで。肩まで。ルーナが泉の中に沈んでいく。月光の篭手だけが水面に浮いている。
「ルーナちゃん……!」タマキが一歩踏み出しかけた。
「大丈夫だ。ルーナは自分で入った。信じよう」
水面が静まった。ルーナの姿が見えなくなった。
◇
泉の中。
ルーナは、暗い紫の水に包まれていた。息ができる。水ではない。夜そのものだった。液体の夜。自分と同じ性質のもの。温かい。
視界がなくなった。音もなくなった。自分の身体の輪郭すら、溶けていくような感覚。
夜の中に、夜の精霊がいる。境目がない。自分がどこまでで、夜がどこからか、分からない。
声が聞こえた。
自分の声だった。
「──わたしは、ずっと、影の中にいた」
自分の声が、自分に語りかけている。
「影の中にいた理由は、隠れたかったから。夜は、隠れるもの。暗い場所に身を潜めるもの。そう思ってた」
「……うん。思ってた」
「でも、それは違った」
「違う?」
「夜は、隠れるものじゃない。夜は、包むもの」
声が、少しだけ温かくなった。
「昼の間、みんなは動いてる。走って、戦って、笑って、泣いて。疲れる。そしたら、夜が来る。夜が、みんなを包む。休ませる。明日のために」
「包む……」
「影の中にいたのは、隠れてたんじゃなくて、みんなを包もうとしてたんだと思う。影から出られなかったんじゃない。影の中から、みんなを守ってた」
ルーナの目から、涙のようなものが流れた。泉の水と同じ色の涙。泉に溶けていく。
「わたしは、夜。みんなが疲れた時に、包んであげる存在。隠れるんじゃない。包む。守る。休ませる」
「……そう。それが、わたし」
泉の底から、光が湧いた。暗い紫の光。夜の光。月光とは違う、もっと穏やかな、眠りに誘うような光。
◇
泉の水面が揺れた。
ルーナが、浮かび上がってきた。
だが、姿が変わっていた。
身体が少しだけ大きくなっている。耳が長くなっている。毛並みに、暗い紫の模様が浮かんでいる。星座のような模様。夜空の模様。
そして、ルーナは影の中にいなかった。泉から出て、地面の上に立っていた。影に潜っていない。自分の足で、暗闗の上に立っている。
【ルーナが覚醒しました】
【「夜の精霊・覚醒形態」を獲得】
【効果:影の中にいなくても全力を発揮できます】
【真効果:「夜の帳」──周囲に夜の領域を展開し、味方の回復速度を倍化。敵の攻撃速度を半減】
【月光の篭手:最終進化「夜明けの篭手」に変化】
【効果追加:篭手の内部に「夜明け」の力を蓄積。解放すると広範囲に夜明けの光を放つ】
「ルーナ……立ってる」ゼクスが目を見開いた。「影の中じゃなくて、外に」
「……うん。立ってる」
ルーナが自分の足元を見た。影がない場所に、自分の足がある。それだけのことが、ルーナにとっては大きかった。
「……わたし、ずっと影の中にいた。外に出るのが怖かった。夜は、隠れるものだと思ってたから」
「今は?」
「今は、違う。夜は、包むもの。隠れるんじゃなくて、みんなを包む。だから、外に出ても大丈夫。わたしが外にいれば、わたしの夜で、みんなを包める」
「ルーナ」セレスが肩の上から、ルーナを見下ろした。「ルーナ、そとに、でた」
「……出た」
「セレス、うれしい。ルーナと、ならんで、たてる」
「……うん。わたしも、嬉しい」
二人の精霊が、初めて同じ空間に並んだ。セレスはトワの肩の上、ルーナは地面の上。月光と夜。光と暗闇。対立しない二つの力が、一つの場所に共存している。
メブキが頭の上で双葉を揺らした。
「ルーナ、おそと! めぶきといっしょに、おそと!」
「……メブキ。うん、一緒に外にいるよ」
「ぴこぴこ! さんにん、そとで、ならんだ! セレスと、ルーナと、めぶき!」
テンがブーツの上で明滅した。三回。三体の精霊全員が、それぞれの場所にいる。
タマキがトワの隣で、目を潤ませていた。
「ルーナちゃんが、影の外に出られたんですね」
「ああ……ルーナが、自分で選んだんだ」
「トワさん。わたし、思うんですけど。ルーナちゃんが影の中にいた理由、本当は隠れてたんじゃなくて、みんなを守ってたんですよね。影の中から、ずっと」
「そうだな。ルーナの夜の力は、影の中にいた時も、ずっと俺たちを包んでくれてた」
「……トワ」ルーナが振り返った。「ありがとう」
「何が」
「……わたしに、行っておいで、って言ってくれた。怖かったけど、トワが信じてくれたから、行けた」
「ルーナが自分で決めたことだ。俺は、信じただけだ」
「……それが、嬉しい」
ルーナの新しい篭手──夜明けの篭手が、暗い紫と淡い金色に光っていた。夜と、夜明けの色。夜の終わりは朝の始まり。終わりではなく、始まりの色。
◇
全員が揃った。
セレスは原初の月光を手に入れた。ルーナは覚醒形態になった。メブキとテンは変わらず頭の上とブーツの上にいるが、仲間の成長を見守ってきた。
「宵闇の回廊の最深部まで来た。セレスとルーナが進化した。これで、できることが増えた」
「次は何だ」ゼクスが聞いた。
「地上に戻る。紡ぎ直しの大地に一度帰って、宵闇の主のドロップとルーナの新装備を確認する。それから──」
「それから?」
「現実に戻る。少し休みたい」
「珍しいな、トワが自分から休みを言い出すとは」
「ここまで歩きっぱなしだったからな。タマキの薬も減った。セレスも限界まで月光を使った。全員、休む時間が要る」
「セレス、やすみ、さんせい! いちごジャム、たべる!」
「めぶき、おひるねする!」
「……わたしも、少し休みたい。覚醒したばかりで、身体が慣れてない」
「タマキは?」
「わたしも、賛成です。それに──久しぶりに、現実の空を見たいです」
「現実の空か」
「はい。今は、たぶん秋ですよね。──秋の空、好きなんです」
「そうだな。秋の空は、いい」
地上に向かって歩き始めた。セレスの原初の月光が道を照らし、ルーナが影の外で歩き、メブキが根を伸ばし、テンが光っている。
星巡りの靴の足跡が、帰り道を照らしている。来た時に残した光の点が、一列に並んで、地上への道を示していた。
長い旅が、一つの区切りを迎えようとしていた。