作品タイトル不明
宵
二十メートル先に向かって歩いた。
セレスの月光が、一歩ずつ暗闇を押し開いていく。メブキの根が地面を先行して、足場の安全を確認してくれている。
十メートル。
月光の端に、輪郭が見えた。
人が、座っていた。
地面の上に、膝を抱えて座っている。体は小柄で、長い髪が地面に届いている。服のようなものを纏っているが、布ではない。暗闇そのものが、身体を覆っているような見え方をしていた。
顔が、こちらを向いた。
目があった。原初の蛇には目がなかったが、この存在には目がある。暗い紫色の瞳。光を反射しているのではなく、瞳そのものが色を持っていた。
「……来たんだ」
声は若かった。少女のような声。だが、年齢は感じられない。若いのか、古いのか、分からない。
「あなたは、いったい……」
「わたしは、宵」
【宵(???)】
【種別:原初の淵の住人】
【敵性判定:なし】
【対話可能】
「宵、というのは名前か」
「名前。──たぶん。わたしがここにいた時から、ずっとそう呼ばれてた。誰に呼ばれてたのかは、もう忘れた。でも、宵という音だけは覚えてる」
宵が、セレスの方を見た。
「光。──久しぶりに見た。すごく昔に、一度だけ見たことがある。それ以来」
「セレスの、つき」セレスが角を輝かせたまま、宵を見下ろしていた。「セレスの、つきの、ひかり。はじめてみる?」
「月、というの。その光の名前」
「セレスの、つきは、つき。まるくて、しろくて、よるにかがやくもの」
「夜に輝くもの」宵が、その言葉を反芻するように繰り返した。「……ここには夜もない。夜の前の暗さしかない。でも、あなたの光は、その暗さの中でも消えないんだね」
「セレス、けさない。ぜったい、けさない」
「……ありがとう。温かいね、その光」
宵が、ほんの少しだけ微笑んだ。微笑みの形を知っている存在だった。誰かから教わったのか、それとも、もっと昔から知っていたのか。
「ルーナ。気配を感じるか」
「……うん。この人、敵じゃない。それだけは分かる。夜の力で読んでも、敵意がまったくない。むしろ……安堵してる。誰かが来たことに」
「待ってたのか」
「……たぶん」
◇
「宵、聞きたいことがある。ここは、どういう場所だ」
「ここは、世界の一番下。光が来る前からあった場所。わたしは、ここに最初からいた」
「最初から、というのは」
「世界が紡がれる前から。──あなたたちの言葉で言うと、『紡世者』が世界を作る前から、ここにいた」
タマキが息を呑んだ。
「紡世者の、前から……」
「紡世者は、世界を糸で紡いだ。レベル、スキル、装備、記憶。全部を糸にして、世界を編んだ。でも、糸を編むには、土台が要る。糸を張る前の、何もない場所。──ここが、それ」
「世界の下地、ってことか」ゼクスが腕を組んだ。
「下地。うん、そんな感じ。──わたしは、下地の住人。世界が紡がれた後も、ここに残った。光が来た後も、暗闇のまま、ここにいた」
「なぜ、ここから出なかったんだ」
「出る場所がなかった。世界は紡がれたけど、わたしは糸じゃないから。糸で作られた世界に、糸じゃないわたしは入れない」
宵の言葉は淡々としていた。寂しさも、怒りもない。ただ、事実を述べているだけの声だった。
「ずっと、一人だったのか」
「ずっと。──原初の蛇がいたけど、蛇は話せない。虚無の群体がいたけど、群体は考えない。わたしだけが、言葉を持ってた」
「言葉は、誰から教わったんだ」
「紡世者の一人が、昔、ここに来たことがある。その人が、言葉を教えてくれた。名前も。『宵』って」
「紡世者が、ここに来た……」
「一度だけ。世界を紡いだ後、この場所を確認しに来た。わたしを見つけて、言葉を教えて、帰った。それきり」
トワは黙って聞いていた。
宵の話は、セレスの過去と少し似ていた。セレスも、長い間一人で月の中にいた。ソルシアが滅びた後、誰もいない月の中で、トワが来るまで待っていた。
セレスが、トワの肩の上から、宵をじっと見ていた。
「セレスも、ひとりだった。ながいあいだ。トワが、きてくれるまで」
「……そうなんだ」
「でも、トワが、きた。だから、いまは、ひとりじゃない」
「……わたしも、あなたたちが来た。だから、いまは、一人じゃない」
宵の暗い紫の瞳に、月光が映っていた。
◇
「宵。もう少し聞いてもいいか」
「聞いて。わたしは、話したいことが、たくさんある。ずっと、誰にも話せなかったから」
「紡世者のことを、もっと教えてくれるか。紡世者と、紡世の徒のこと」
「うん。──でも、長くなる。座って」
宵が、隣の地面を手で示した。
全員が座った。暗闇の中、セレスの月光だけが灯る小さな円の中で、宵が話し始める準備をしていた。
「わたしが知っていることを、全部話す。世界がどうやって紡がれたか。紡世者が何をしたか。紡世の徒がなぜ追放されたか。そして──これから、何が起きようとしているか」
「これから、何が起きようとしている?」
「うん。紡世の徒が、もう一度動き始めてる。あなたたちの世界で、大きなことが起きようとしてる」
宵がトワを見た。
「旅人。あなたが来たのは、偶然じゃない。でも、導かれたわけでもない。あなたが歩いたから、ここに着いた。──その違いは、大きい」
「違いがあるのか」
「導かれた者は、糸に沿って動く。歩いた者は、糸を辿りながら、自分の道を作る。あなたは、後者。だから、紡世者にもできなかったことが、あなたにはできるかもしれない」
「俺に、何ができるんだ」
「それは、わたしの話を聞いてから、自分で決めて」
宵が膝を抱え直した。暗闇の中で、語り始める姿勢になった。
「最初から話すね。──世界が、まだ何もなかった頃のこと」
セレスが肩の上で、角の光を少しだけ強くした。話を聞くために。暗闇の中で、小さな月光が、全員を包んでいた。
宵の語りが、始まろうとしている。