作品タイトル不明
一人の旅人
記憶の街を、さらに奥へ。
影のリベルタを抜けると、景色が変わった。影の建物が減り、代わりに道が続いている。何もない道。街灯も看板もない、一本の灰色の道が、暗い空の下に伸びていた。
「道だけ、ですね」タマキが周囲を見回した。「建物がなくなりました」
「記憶の街って名前だったが、街がなくなってるんだな」ゼクスが眉を寄せた。
「……これも記憶、じゃないかな」ルーナが影の中から呟いた。「街じゃなくて、道の記憶」
トワは黙って、道を見ていた。
この道に、見覚えがあった。
BCOのフィールドではない。だが、トワが二年間……いや、七千時間の間に何度も歩いた風景だった。人のいない道。タマキも、仲間のいない頃の道。Lv1の旅人が、一人で歩いてきた道。
「……トワさん?」
タマキが顔を覗き込んだ。
「大丈夫だ。先に進もう」
◇
道を歩いて十分。
道の真ん中に、誰かが立っていた。
影のシルエット。だが、これまでの影のNPCとは質が違った。輪郭がくっきりしていて、立ち方に意志が感じられた。
【影読み起動】
【記憶の番人(Lv80)】
【HP:180,000】
【特性:対象の記憶を読み取り、精神攻撃として再構成する】
【弱点:記憶を直視し、受け入れること】
「記憶の番人……」
「弱点、面白いな」ゼクスが読み上げた。「記憶を直視し、受け入れること。──精神攻撃を受けたまま耐えろ、ってことか」
「回避じゃなくて、受け入れることが弱点なのか」
「たぶんな。記憶を拒絶すると、攻撃が強くなるんだろう」
記憶の番人が、片手を上げた。
道の左右に、影の壁が立ち上がった。影の壁に、映像が映り始めた。
◇
最初の映像。
Lv1の旅人が、荒野を歩いていた。装備は旅立ちの剣と初期装備だけ。パーティメンバーはいない。精霊もいない。一人きりの旅人が、風の音だけを聞きながら、地平線に向かって歩いていた。
全員が、それを見た。
「トワさん……これ、トワさんですよね」
「始めたばかりの頃だ。最初の三ヶ月は、こんな風に歩いてた」
「三ヶ月も……」
「誰もLv1の旅人と組みたがらないからな。ギルドの募集を見ても、最低Lv30以上、と書いてある。俺のLvは1だ。いつまで経っても、Lv1だ」
映像が変わった。
Lv1の旅人が、パーティ募集の掲示板の前に立っている。掲示板の文字は全て読める。「Lv50以上」「回復職優遇」「火力職のみ」。旅人クラス歓迎、と書かれた募集は、一つもなかった。
旅人は掲示板の前を離れて、また一人で歩き始めた。
「セレスも、いない」
セレスが、トワの肩の上で小さく呟いた。
「セレスが、トワのかたにいない。トワ、ひとりで、あるいてた」
「セレスと出会ったのは、もっと後だ。始めてから、しばらく経った頃だった」
「トワ、ずっとひとりだった?」
「ああ。ずっと一人で歩いてた」
「……さみしかった?」
トワが少し間を置いた。
「寂しくないと言ったら、嘘になる」
セレスの双角が、小さく下がった。悲しい時の仕草だ。
映像が、また変わった。
Lv1の旅人が、レイドに参加していた。だが、レイドは全滅で終わった。参加者が全員倒れた画面。死亡画面の赤い表示。パーティチャットに流れる悲鳴と怒号。そして、沈黙。
翌日の映像。
同じ旅人が、またログインしていた、一人で。誰もチャットに文字を打たないような早朝。全滅した翌日の、静かなログイン画面。旅人は装備を確認して、また歩き始めた。
何も言わずに、また歩き始めた。
「……トワ」ルーナが影の中から呟いた。「これ、本当の記憶?」
「本当だ。全滅して、翌日また歩き出す。それを何度も繰り返した」
「何度、繰り返した?」
「数えてない。だが、全滅しても、翌日にはログインしてた。やめようと思ったことは、一度もない」
記憶の番人が、もう一度手を上げた。
映像が、さらに変わった。今度は、もっと辛い映像だった。
Lv1の旅人が、ボスの前に立っている。一人では勝てない相手。パーティメンバーはいない。旅人は見聞録を開いて、ボスのパターンを読んで、一人で挑んで、負けて、また挑んで、また負けた。何度も、何度も。
そして、ある日、別のパーティが同じボスを五分で倒していく横を、旅人は黙って見ていた。
「……見てたんですか」タマキが、涙ぐんでいた。「ずっと、見てたんですか」
「見てたな。Lv1の俺では倒せないボスを、他のプレイヤーが簡単に倒していくのを」
「悔しくなかったんですか」
「悔しかったかもしれない。でも、悔しいよりも、そのボスの攻撃パターンが気になった。俺は戦えなかったが、見聞録で記録することはできた。だから、見ていた」
「……それが、見聞録の使い方の原点か」ゼクスが静かに言った。
「そうだな。戦えない代わりに、見て、覚えて、記録した。7000時間、ずっとそうしてきた」
記憶の番人が、一歩前に出た。
口のない顔の輪郭が、声を発した。
「辛い記憶だろう。忘れた方が、楽ではないか」
影の壁の映像が、ゆっくりと白くなっていく。記憶が薄れていく演出。白く塗りつぶされた記憶は、消える。
「忘れれば、痛みはなくなる。孤独の記憶を消せば、もう寂しくない。全滅の記憶を消せば、もう恥ずかしくない。戦えなかった記憶を消せば、もう悔しくない」
白い光が、トワに向かって伸びてきた。
精神攻撃だ。記憶を消す力が、トワの中に入ろうとしている。
「トワさん!」タマキが叫んだ。
「……大丈夫だ」
トワが、白い光の前に立った。避けない。
「消さない」
白い光が、トワの身体に触れた。
「消さない。一人で歩いた三ヶ月も、全滅した翌日の朝も、ボスの横で見ているだけだった日も。全部、俺の旅だ」
白い光が、弾かれた。
【精神攻撃:無効化】
【記憶の直視に成功しました】
【記憶の番人のHPが減少:180,000→90,000】
「HP、半分になった」ゼクスが驚いた。「受け入れただけで、半分か」
「弱点に書いてあった通りだ。拒絶すると強くなる。受け入れると、弱くなる」
記憶の番人が後ずさった。影の壁が崩れ始めた。映像が消える。道に、本来の暗さが戻ってきた。
「セレス」
「……うん」
「月光を頼めるか。あいつの残りHP、一気に削りたい」
「セレス、いく。セレスは、トワのかたで、ずっといる。トワが、ひとりだった、ころの、かわりは、できない。でも、いまは、いる。いまは、セレスが、いる」
「ああ、いまはセレスがいる」
セレスの角から月光が放たれた。記憶の番人の中心を貫いた。
【セレスの月光・収束ビーム】
【記憶の番人にダメージ:12,400】
ルーナの月光の篭手が追撃した。メブキの根が番人の足元を絡め取った。ゼクスが影から飛び出して斬った。タマキが攻撃強化薬を投げた。
トワが月光の鋏を構えた。記憶の番人の、顔のない顔に向かって走った。
「忘れない。一人で歩いた日も、仲間に出会った日も。全部、覚えている」
月光の鋏が、記憶の番人を貫いた。
【トワの攻撃:月光の鋏・旅路の極意適用・クリティカル】
【記憶の番人にダメージ:78,200】
【記憶の番人を討伐しました】
【ドロップ:記憶の欠片(旅人専用素材3/3)】
【ドロップ:番人の外套】
◇
記憶の番人が消えた後、道に静寂が戻った。
影の壁は消え、何もない灰色の道だけが残っている。
タマキが、トワの横に立った。
「トワさん」
「ん」
「7000時間の旅の中に、あんなに辛い時間があったって、わたし、知りませんでした」
「言わなかったからな」
「言ってくれても、よかったのに」
「タマキに心配をかけたくなかった」
「……もう、かけてください。わたしは、トワさんの辛い記憶も、一緒に覚えていたいです」
「……ありがとう。タマキ」
セレスが肩の上で、角をトワの頬にくっつけた。
「セレス、トワの、さみしかった、ころ、いなかった。でも、いまは、いる。だから、これからのきおく、ぜんぶ、セレスも、いっしょに、おぼえる」
「ああ……これからは、一緒に覚えよう」
メブキが頭の上で、双葉をくるくる回した。
「めぶき、トワの、きおく、ねっこで、おぼえてる。ねっこは、わすれない。ぜったい」
「メブキの根は、頼もしいな」
「くるくる」
ルーナが影の中から呟いた。
「……トワ。わたしは、トワの辛い記憶を見ても、逃げない。わたしも、同じだったから」
「ルーナも、一人だった頃があるのか」
「……うん。長かった。でも、今は、違う」
「ああ。今は、違う」
ドロップアイテムを確認した。
【記憶の欠片(旅人専用素材3/3)】
「旅人専用素材の3/3だ。月蝕の核、覚醒の角片に続いて、三つ揃った」
「何になるんだ」ゼクスが聞いた。
「分からない。だが、三つ揃ったことで、次のエリアで何かが起きるかもしれない」
道の先に、もう一つの影が見えた。金属の音。鎧の軋み。剣を引きずる音。
忘却の騎士。
次の試練が、もう、待っている。