作品タイトル不明
影の浅瀬
巌路の部屋。暖炉の光。壁の影に残った薄い線。
トワ、タマキ、ゼクスの三人が入口の前に立った。準備は整えてある。変動耐性の薬、回復薬、予備の装備。
「行くぞ」
影の線に足を踏み入れた。身体が沈んだ。床を通り抜けて、暗い空間に落ちていく。二秒ほどの落下感。足が床に着いた。
暗かった。
何も見えなかった。
完全な暗闇。鏡映の湖の音声消失とは違う。五感のうち視覚だけがゼロになっている。足元は固い。空気は冷たい。どこかから風が吹いている。だが、何も見えない。
「見えないな」ゼクスの声が聞こえた。近い。
「暗すぎます」タマキの声も近い。
「見聞録を起動する」
トワが見聞録を使った。視界に、薄い青色の線が浮かび上がった。輪郭だ。壁の輪郭。床の輪郭。天井の輪郭。青い線だけで描かれた世界。中身がない。線画のような空間が、どこまでも続いている。
「見えた……通路がある。幅は三メートル。高さは四メートル。右に曲がっている」
「俺たちには何も見えないんだが……」ゼクスが言った。
「セレス。月光を点けてくれ、弱めに」
「よわめ。わかった」
セレスの角が光った。銀色の月光が灯った。ごく弱い光。蝋燭の半分くらいの明るさ。
世界が見えた。
影でできた世界だった。
壁も床も天井も、全てが影の素材でできている。黒い。だが月光を受けて、微かに輪郭が浮かんでいる。石造りのような質感の壁。だが触ると冷たくて、固体と液体の中間のような手触りだ。
「すごい」タマキが周囲を見回した。「影で構造物が作れるんですね」
「BCOの裏側だろう。表の世界に建物があれば、影の世界にもその影がある。ただし、ソルシアとは違う裏の世界か」
ルーナが影の中から声を出した。
「……ここ、居心地がいい。わたしの力と同じ質の空間。息がしやすい」
「ルーナにとっては快適なのか」
「……うん。普段は影の中にいて窮屈だけど、ここは広い。影の海の中にいるみたい」
メブキが頭の上で双葉を回した。
「くるくる……めぶきのねっこ、ここではとどかない。じめんがかげだから、ねっこがはれない」
「根が張れないのか。お前は不利なエリアだな」
「めぶき、やくにたたない?」
「頭の上で見張っていてくれ。上から何か来るかもしれない」
「みはり、できる! めぶき、みはりやく!」
通路を進んだ。見聞録で先を確認しながら、セレスの月光で足元を照らしながら。
五分ほど歩いた時、セレスが月光を少し強くした。
月光が強くなった瞬間、壁の一部が揺らいだ。影の壁が、光に触れて薄くなっている。溶けかけている。
「まずい……光が強いと影が消える。壁が溶けているようだ」
「あ、ごめん」セレスが慌てて月光を弱めた。壁が元に戻った。
「光の加減が重要だな。強すぎると、地形が崩壊する」
「セレスの月光だけが光源で、セレスが加減を間違えると全員死ぬのか」ゼクスが言った。
「そういうことになる」
「……精霊の責任が重すぎないか」
「セレス、だいじょーぶ。がんばる。もうまちがえない」
「頼むぞ」
「セレス、しょーめーたんとー」
通路の先が広くなった。部屋のような空間に出た。天井が高い。床に何かが張り巡らされている。
見聞録で確認した。
糸だ。
床一面に、極細の糸が張られていた。影でできた糸。通常の視覚では見えない。月光を当てても見えない。影読みでだけ、青い線として表示される。
「止まれ」
全員が止まった。
「床に糸が張ってある。影の糸だ。見聞録でしか見えない」
「罠か」ゼクスが足元を見た。何も見えていない。
「踏んだらどうなるかわからない。俺が先に確認する」
トワが見聞録で糸の配置を読んだ。格子状に張り巡らされている。間隔は不規則だ。広い隙間もあれば、一センチ間隔で密集している場所もある。
そして、糸の中心に何かがいた。
蜘蛛だ。
影でできた巨大な蜘蛛。八本の脚が床に張り付いて、糸の中央で待ち構えている。
【モンスターを検知しました】
【影紡ぎ(かげつむぎ):Lv58】
【HP:12,000】
【特性:影の糸を紡ぐ。糸に接触した対象の属性を「影」に上書きする】
【糸に触れた状態で光属性攻撃を受けると、ダメージが自分に跳ね返る】
【弱点:糸は「見聞録」でのみ可視化可能。本体の腹部が弱点】
「影紡ぎ。蜘蛛型のモンスター。Lv58。糸に触れると属性が影に上書きされる」
「上書き、ですか?」タマキが聞いた。
「火属性の武器を持っていたら、影属性に変わる。その状態で光属性の攻撃を受けると、自分にダメージが跳ね返る。つまり、セレスの月光と相性が最悪だ」
「セレスのひかりで、みかたがしぬ?」
「糸に触れた仲間に月光が当たるとな。糸に触れなければ大丈夫だ」
「じゃあ、いとにさわらなければ、いい」
「だが糸は俺にしか見えない」
ゼクスが舌打ちした。
「つまり、お前の指示がないと、俺たちは糸を避けられない」
「そういうことだ」
「……お前がいないと、攻略不可能なモンスターか」
「文句は運営に言ってくれ」
トワが見聞録の情報をパーティ表示に転送した。糸の配置図が、タマキとゼクスの画面にも青い線で表示された。
「これで糸の位置はわかる。だが糸は影紡ぎが随時張り替えてくる。配置が変わったら俺がリアルタイムで更新する」
「了解です」タマキが薬を構えた。
「行くぞ。ゼクス、右のルートが広い。そこから回り込め。タマキは後方から支援。セレスは月光を維持。弱めのまま。糸に触れた奴がいないことを確認してから、必要に応じて光量を上げる」
「トワさんは?」
「正面から行く。糸の間を抜けて、本体の腹を叩く」
「正面から糸の間を抜ける? 見えてるんですか、隙間が」
「見えてる。行くぞ」
トワが走った。
影の糸の間を、走り抜けた。一センチの隙間、五センチの隙間、十センチの隙間。影読みに映る青い線の間を、身体をひねりながら通過していく。糸に一本も触れない。
影紡ぎが反応した。新しい糸を吐き出した。トワの進路上に。
見えている。
糸が到着する前に通過した。影紡ぎの腹の下に滑り込んだ。果ての道標を構えた。弱点の腹部。白銀の一閃を叩き込んだ。
【トワの攻撃:果ての道標・白銀形態】
【影紡ぎに4,100ダメージ(弱点部位:1.5倍)→6,150ダメージ】
ゼクスが右から回り込んでいた。糸の配置を見ながら、隙間を通って影紡ぎの背後に出た。影潜りで影の中に沈み、影紡ぎの真下から切り上げた。
【ゼクスの攻撃:影潜り・斬り上げ】
【影紡ぎに8,400ダメージ】
影紡ぎが崩れた。影の蜘蛛が散って、糸が全て消えた。
【影紡ぎを討伐しました】
【ドロップ:影糸×2】
【新スキルを習得しました:「影読み」】
【効果:影の中の構造物、モンスター、アイテムの情報を可視化する。糸読みの影版】
「新スキル……【影読み】がスキルとして登録された」
「見聞録の派生種ですか?」
「糸読みの影版だろう。これで影の中の情報が読める」
セレスがトワの肩で拍手した。
「トワ、かっこよかった! いとのあいだを、するするって!」
「見聞録で見えていただけだ」
「みえてても、あのうごきは、すごい」
ゼクスが剣を収めながら言った。
「糸の間を正面から抜けたのは、お前だから成立するんだぞ。普通のプレイヤーなら、突破できない」
影紡ぎがドロップした影糸を拾った。装備の素材になりそうだ。
宵闇の回廊の最初のモンスターを倒した。先はまだ長い。
セレスの月光が、影の世界を静かに照らしている。弱く、優しく。月の番人の光が、道を示していた。