作品タイトル不明
いちごじゃむのつぎに
七月に入った。梅雨が明けた。
冬夜のゼミ発表・第二回が終わった。テーマは「仮想空間における移動行動の分析と最適化」。三十人分の匿名移動ログを追加したサンプルデータで、教授からの評価は「だいぶ論文らしくなった。もう少しだ」だった。もう少しが遠い。
蓮と学食で昼飯を食べていた。冷やしうどん。
「レイドのフォーラム記事、まだ伸びてるぞ」蓮が言った。「紡ぎ手の影との対話の文字起こしが出回ってる。あの世界が俺たちのBCOの試作品だったって話、みんな色々考えてるみたいだ」
「考えるのは自由だ」
「お前はどう思ってるんだ」
「何をだ?」
「紡世者が見てるかもしれない、って話。俺たちの世界も捨てられるかもしれない、って」
「捨てられるかどうかは知らん。だが、捨てられても歩いてる」
「お前らしい答えだな」
「お前はどう思う」
「俺? 俺は単純だよ。お前が歩くなら、隣を走る。〈黄金の燐光〉のギルドマスターとして」
「走るのか。歩けよ」
「お前に合わせてたら遅すぎる。Lv1の歩行速度に付き合えるか」
「称号補正込みだと結構速いぞ」
「それでも俺の方が速い」
蓮が冷やしうどんを啜った。
「で、夏休み、どうするんだ」蓮が聞いた。
「ゲームだな」
「現実の予定は」
「宮瀬が花火大会に行きたいと言っていた」
「お。進展か」
「進展じゃない。花火を見に行くだけだ」
「二人で?」
「二人で」
「それを進展と言うんだよ、冬夜」
「……冷やしうどん、もう一杯もらえるか」
「逸らすな」
「暑いから冷たいものが飲みたいだけだ」
「うどんは飲み物じゃないぞ」
◇
午後。BCOにログイン。
始まりの町リベルタの裏路地に来た。壁に手を触れて、旅人にしか見えない扉を開けた。暖炉の部屋。壁一面の地図。
巌路が椅子に座っていた。茶を飲んでいる。
「おう、トワ。久しぶりだな」
「巌路。報告がある」
「グランでいいと言っただろう。……まあいい、座れ。茶を入れる」
セレスの分の小さなカップも出てきた。メブキには葉っぱ一枚。
「このはっぱ、おいしい! まえとおなじあじ!」
「前と同じだからな」巌路が笑った。
トワが綻びの大地のことを報告した。五つのエリア。五人のNPC。紡ぎ手の影。試作品の世界。ほつれの話。全部。
巌路が黙って聞いていた。茶を啜りながら。報告が終わってから、しばらく黙っていた。
「試作品の世界、か」
「この世界が、その試作品をもとに作られた完成版だと、影が言っていた」
「わしもか。わしも、試作品から引き継がれた設計で作られたということか」
「かもしれない」
「ふん、だがわしには名前がある。お前がくれた名前だ。巌路。揺るがぬ路。試作品だろうが完成版だろうが、名前があれば揺るがん」
「ああ、その通りだ」
「紡世者が見ているかもしれん、と言ったな」
「ああ、その可能性が高い」
「見せてやれ。この世界がどういう場所か。わしが門を守り、ボウケンが歩き、ナギが子供たちを世話し、お前が歩いてきた世界だ。捨てるには惜しいだろう」
「惜しいかどうかは、紡世者の問題だ」
「だが、見せることはできる。お前が歩くことが、見せることだ」
セレスが小さなカップのお茶を飲みながら、二人のやりとりを聞いていた。
「トワ。グランさんのおちゃ、おいしい」
「あまり飲み過ぎるなよ」
「グランさんも、ほつれ?」
「ほつれだろうな。名前を持って、自分で考えている。立派なほつれだ」
「じゃあ、セレスも、ほつれ」
「お前はほつれじゃない。お前は精霊だ」
「せ-れーの、ほつれ」
「何だそれは」
「じぶんでかんがえて、じぶんでえらんで、トワのかたにいる。それが、セレスの、ほつれ」
「……いい意味で使ってるんだな」
「いいいみ。ほつれは、せかいをなおすちから。トワが、いった」
「俺が言ったのか」
「いった。セレス、おぼえてる。だいじなことは、ぜんぶおぼえてる」
グランが茶を啜りながら笑っていた。
「いい精霊を持ってるな、お前は」
「持ってるんじゃない、一緒にいる」
「前にも同じことを言われたな。鍛冶師に」
「リルクトか。あいつも同じことを言った」
「この世界のNPCは、みんな同じことを思うのかもしれんな。いい精霊だ、と」
セレスがグランに向かって胸を張った。
「セレスは、いいせ-れ-」
「ああ、わしが保証する」
「ほしょう、ふたり! リルクトと、グランさん! にんのほしょう!」
「二人の保証で十分か」
「じゅうぶん。でも、いちばんだいじなほしょうは、トワ」
「俺は保証なんてしてないぞ」
「してる。まいにち、してる。セレスをかたにのせてるのが、ほしょう」
「……否定できないな」
「できない。セレスがいうんだから、まちがいない」
◇
グランの部屋を出た。
始まりの町の大通りを歩いた。夕方のリベルタ。プレイヤーたちが行き交っている。露店が並んでいる。酒場から笑い声が聞こえる。普通のMMOの、普通の夕方だ。
セレスがトワの肩の上で、町の景色を見ていた。
「トワ。このまち、すき」
「俺も好きだ」
「このせかい、すき」
「俺も同じくらい好きだ」
「トワも、すき」
「……ありがとう」
「ぜんぶ、いちごじゃむのつぎにだいじ」
「いちごジャムが一番なのは変わらないのか」
「かわらない。いちごじゃむは、いちごじゃむ。でも、つぎにだいじなものが、ふえた」
「増えたのか」
「まえは、すこしだけだった。いまは、いっぱい。トワと、あるいてるうちに、いっぱいになった」
「いい思い出だな」
「トワは? トワのだいじなもの、ふえた?」
「増えた。一万時間分、たくさん増えた」
「いちまんじかんぶん。いっぱいだね」
夕日がリベルタの屋根を染めていた。星巡りの靴が、石畳に光の足跡を残している。
メブキが頭の上で双葉をぴこぴこさせた。
「めぶきのだいじなものも、ふえた! トワと、セレスと、ウルと、ねっこ!」
「根が大事なのか」
「ねっこは、めぶきのいのち! ぴこぴこ!」
ルーナが影の中から、ふっと笑った。聞こえるか聞こえないかの小さな笑い声だった。
「……わたしの大事なものも増えたよ。トワの影の中にいる時間が、全部」
「ルーナは、たまにいいこと言うな」
「……たまにじゃない。いつも思ってる。言わないだけ」
テンがブーツの上で、ぽかぽか光った。テンは喋らないが、光り方が少しだけ強くなった。
紡ぎ直しの大地は終わった。だが、旅はまだ続く。紡世者がどこかで見ている。次の物語が、どこかで始まろうとしている。
トワは歩いた。いつも通りに。足跡を残しながら。