作品タイトル不明
四月の終わり
現実の土曜日、朝七時。
久坂冬夜は自室のベッドの上で、VRヘルメットを外した。
頭が重い。目の奥が痺れている。これまでの疲労が、現実の身体に降りてきたような感覚だ。
「……腹、減ったな」
当然だが、ゲーム内で食べたものは現実の腹を満たしてくれない。ここ十数日、ろくに料理を作らなかった。コンビニのおにぎりとカップ麺で繋いでいた。
スマホが鳴った。宮瀬からのメッセージ。
『久坂くん、お疲れ様! いま起きてる?』
『朝ご飯一緒にどう? たぶんずっとカップ麺とかだったよね、ちゃんとしたの食べないとだよ』
冬夜は短く返した。
『ご飯に行こう。場所は……どこがいいか』
『疲れてるでしょ、家でいいよ。冷蔵庫にも、何か残ってると思う』
『それじゃあ、頼む』
『はーい、三十分後に行きますね!』
『あと、コンビニで何か買ってきます!』
冬夜は布団から這い出して、三十分かけて部屋を片付けた。床に転がっていたカップ麺の容器を捨て、ペットボトルを潰し、洗濯物を畳んだ。宮瀬が来る前に、急いで片付けねば。
◇
宮瀬がコンビニ袋三つを抱えて来た。
「お邪魔します……綺麗になってる。急いで片付けたの?」
「片付けた」
「もっと荒れてると思ったから、意外」
「まあ……前までの俺も、この部屋を見たらそう言うだろうな」
「そもそも久坂くんって、一人暮らし始めてから片付けたことある?」
「……たまには、まあ」
「たまにって、何ヶ月に一回?」
「答えないでおく」
宮瀬が袋の中身を出した。卵、牛乳、食パン、ベーコン、コーヒー、サラダ、ヨーグルト。普通の朝食セットだ。
「今日はちゃんとした朝ご飯にしよ。久坂くん、まともに食べてないでしょ」
「カップ麺は食べたぞ」
「それはまともじゃないよ」
宮瀬がキッチンに立った。
「卵焼き、甘いのとしょっぱいの、どっちが好き?」
「どっちでもいい、宮瀬の好きな方で頼む」
「じゃあ、甘いの作るね!」
卵の焼ける匂いがした。久しぶりの、宮瀬が作る食事の匂いだ。
◇
二人で食卓についた。
卵焼き、ベーコン、サラダ、トースト、ヨーグルト、コーヒー。普通の朝食。だが冬夜には、最近の中で一番ちゃんとした食事だった。
「いただきます」
二人で手を合わせた。
「ねえ、久坂くん」
「なんだ」
「常世島、すごかったね」
「……すごかったな」
「最後の徒歩レース、遠くから見てたよ。とっても、ハラハラした」
「時間を掛けてすまないな」
「ううん、久坂くんを応援するためなら、時間なんかに困らないよ」
卵焼きを口に運んだ。甘かった、宮瀬の味だ。
「久坂くん」
「なんだ?」
「ゴールデンウィーク、何するの?」
「そう言えば、何も考えてなかった」
「明日から五連休だよ。五月三日まで」
「レポートの期限は……いつまでだったか」
「ちゃんと終わらせないとだよ? ゲームも大事だけど、現実の方もサボっちゃダメ」
「サボったわけじゃない。島に閉じ込められていたんだ」
「教授に『ゲームに閉じ込められました』とは言えないよ」
「蓮が何とかしてくれてると思う」
「蓮くんに甘えすぎですよ」
「持つべきものは友だ」
「それは、まあ……否定しませんけど」
窓から見える景色は、四月の終わりの桜。花はもう散りかけている。
「桜、もう終わりだね」
「ああ」
「花見、もう一回行きたかったな」
「この前行ったじゃないか」
「この前はこの前。今回は今回。季節は一回きりですよ、久坂くん」
「宮瀬は、花見にいきたいか」
「久坂くんとなら、どこへでも!」
「なら、歩きに行こう」
「うん、行く!」
宮瀬の返事が速かった。
◇
午前十時。二人で川沿いを歩いた。
宮瀬がスニーカーで歩いている。冬夜もスニーカー。パーカーとジーンズ。VRヘルメットもない、武器もない、精霊もいない。今は、お互いただの大学三年生だ。
「風、気持ちいいですね」
宮瀬が深呼吸した。
「ゲームの風と全然違います。こっちの方が、鼻の奥まで来る感じが……」
「現実には、現実の匂いがあるからな」
「川の匂いや草の匂い……あと、久坂くんの匂い」
「俺のって、どういうことだ……?」
「柔軟剤にも、個性って出るんですよ。だから、これが久坂くんの匂いなんだなって」
「俺だけに限った話じゃない。宮瀬も良い匂いがすると思うぞ」
「私の匂い、ですか?」
「……待て。やっぱり、この話はナシにしよう」
桜の木の下を通った時、風が吹いた。花びらが何枚か舞い上がっているが、大半はもう地面に落ちている。
「桜、もう終わりだな」
「来年も、一緒に見たいですね」
「来年も見に来よう。今日と同じ場所で。……桜が綺麗だったからな、この道は。それに――」
冬夜は一瞬宮瀬の方に視線を向けて、逸らした。
「どうしたんですか、久坂くん?」
「いや……何でもない。ただ、桜も綺麗だっただけだ」
「……桜『も』?」
「……日本語は、難しいな」
「照れ隠しのつもりですか、久坂くん」
「何でもない。さっさといくぞ」
宮瀬はあえて冬夜の照れ隠しを追求せず、にっと笑った。
冬夜は花びらを指で弾いた。我にもないことを言ったと気づいたのは、その少し後だった。
◇
午後、冬夜は一人でアパートに戻った。
部屋はすっかり片付いている。宮瀬が手伝ってくれたから。
机の上にVRヘルメットが置いてある。
今日は、もうログインしない。
スマホが鳴った。宮瀬からのメッセージ。
『今日はありがとう。久坂くんと食べた朝ご飯、美味しかったです』
『散歩も楽しかった。久坂くんと一緒に見る桜も綺麗でした』
『明日も何かしませんか? せっかくのゴールデンウィークなので!』
冬夜は直ぐに返信した。
『明日も歩く。場所はどこにするか、決めておく』
『楽しみ! 今日は無理せず休んでね、久坂くん』
『あっ、あと! ちゃんとご飯じゃ食べてね。カップ麺は禁止です!』
冬夜はスマホを置いた。
宮瀬を心配させないために、今日は食材の買い出しにスーパーへ行こうと思う。
これもまた自分に似つかわしくないが、今日はそれでいいと思った。