作品タイトル不明
白い髪の少女
トワ、タマキ、ハル、ミコト。四人が、岬から島の中央に向かって歩いていた。
帳の間、アルダを迎えに行くのだ。
道中の景色は、これまでとは違っていた。
黄金棟のカジノ跡地に、プレイヤーが座って酒を飲んでいた。装備が戻ったので、誰もが本来の格好に戻っている。Lv87の聖騎士がフルプレートで、Lv90の魔法使いが上等なローブで、Lv78の弓使いが翠玉の弓を背負って、みんな笑っている。「やっと帰れる」「最後に一杯飲んでから帰る」「俺はもう少しここにいる」。
闘技宮の門の前を通った時、ギセルが大斧を背負って立っていた。
「旅人」
「ギセルか」
「見ていたぞ、お前が勝ったらしいな」
「何も特別なことはしていない」
「じゃあ、何をしたんだ?」
「ただ歩いた」
「バカ言え、歩くだけで勝つ奴がいるかよ」
ギセルが豪快な笑い声を響かせた。
「まったく、信じられねえ野郎だが……総主の奴は、消えたか」
「ああ、消えた」
「そうか。……俺たちはどうなる?」
「総主が言っていた。『やり直す機会を与えてやってくれ』と。お前たち六人は、追放された者だが、悪人ではないと」
「あいつ、最後にいいこと言いやがって」
ギセルが大斧を肩にかけ直した。
「俺は闘技宮を続ける。六万人の力は返したが、闘技宮そのものはまだ機能している。今度は没収じゃなく、賭け事の景品を出す形で。Lv1の旅人で殴り合いに来る奴も歓迎するぜ」
「お前、闘技宮のオーナーになるのか」
「セノンと話した。あいつは湯楽郷を続ける。マリスは宵市を、ヴァルタは黄金棟を、ルシアは星見座を。テオは奈落を……改造して、ちゃんとした地下競技場にするらしい。苦しみを記録する代わりに、技を記録する場所にすると」
「七繰りが、観光地の運営者になるのか」
「悪い話じゃないだろう。俺たちには行く場所がない。『紡世者』の世界には戻れない。総主も消えた。なら、ここで仕事をするしかない」
ギセルが闘技宮の奥を指した。
「来るか? お前のLv1と俺の本気で殴り合いたい。やり直しのできる試合場を作るんだ。最初の客はお前がいい」
「考えておく」
「考えるな。来い」
「考える」
ギセルがまた笑った。トワが先に進んだ。
◇
星見座の入口にルシアが立っていた。
「行かれるのですね」
「ああ」
「アルダを、よろしくお願いします」
「総主からも、そう預かった」
「私たち六人は、もう彼女に話しかけられないんです。総主が消えたから、彼女と私たちを繋いでいた糸も切れた。彼女と話せるのは、外から来た人だけです」
「外から、か」
「ええ。あなたや、あなたの仲間たち。偶然出会った人間だけが、彼女に新しい記憶を作れる」
ルシアが本物の微笑みを浮かべた。
「私は偶然を排除した罪で追放された者です。皮肉なことに、彼女を救えるのは偶然だけ――行ってください、旅人」
「任せろ」
◇
帳の間の門が、見えてきた。
以前は霧に包まれていた門が、今は晴れ渡った空の下に立っている。霧が消えていた。総主が消えたから、霧の維持装置も止まったらしい。
「霧、ないですね」ハルが言った。
「あの門は、相変わらずあそこにあるようですが……」タマキが目を細めた。
門前にプレイヤーは少なかった。ほとんどが封鎖解除を喜んで島の外側に向かっている。中央の帳の間まで来る者は、ごく一部だ。
四人は、門をくぐった。
以前あった石畳の道は変わっていなかった。だが、霧がない分、周囲の景色が見える。岩場の周りに、小さな草地があった。風が吹いている。鳥が飛んでいる。普通の島の風景。霧に包まれていた頃の、世界から切り離されたような威圧感は、もうない。
五分歩いて、円形のホールに到着した。
アルダが、椅子に座っていた。
白い髪。白い着物。前と同じ姿勢。だが、何かが違っていた。
彼女の周りに、光の粒が漂っていた。淡い、白い光。総主から放出されたアルダの感情が、彼女の身体に戻り始めている。だがまだ完全には統合されていない。光の粒が彼女の周りで漂っているだけ。
彼女が顔を上げた。
◇
「……来た?」
声は、前と同じだった。小さくて、表情もない。
「お前を、迎えに来た」
「迎え。──どこに?」
「俺たちの場所に。お前を、ここに置いていくわけにはいかない」
アルダが、しばらくトワを見た。それから、少しだけ首を傾げた。
「……『俺たちの場所』とは、どこ?」
「俺たちが歩いている場所だ。常世島でもいいし、原初の世界でもいいし、ソルシアでもいい。これからどうしたいか、お前が選んでいい」
「……選ぶ?」
「そうだ。これからの道を、お前自身で選べ」
アルダが黙った。彼女の周りの光の粒が、ゆっくりと回転していた。
「……わたし、選んだことがない。ずっと、ここにいるしかなかった」
「これからは、選べる」
「……選び方を、知らない」
「なら、教える」
アルダが、また少し首を傾げた。
「……教える、を、わたしは知らない」
タマキが前に出た。アルダの椅子の前に膝をついた。
「アルダさん」
「……」
「わたしはタマキ。薬師です。こうしてちゃんと顔を合わせるのは初めてですね」
「……はじめて」
「あなたが何が好きで、何が嫌いか、まだわからないみたいですね」
「……わからない」
「じゃあ、一緒に探しませんか。あなたが好きなもの。嫌いなもの。食べたいもの。歩きたい場所。たくさんあるんですよ、世界には」
アルダがタマキを見た。タマキの顔を、灰色の目が静かに見つめた。
「……あなた、優しい?」
「優しいと言われると照れますけど、……たぶん、優しい方だと思います」
「……」
「アルダさんも、これから少しずつ思い出していくと思います。総主さんから返ってきた感情が、まだあなたの中で落ち着いていないだけで」
アルダが自分の手を見た。光の粒が、手の周りを漂っていた。
「……これ、わたしのもの?」
「はい」
「……でも、どこにも入って、こない」
「焦らなくていいんですよ。少しずつ、少しずつ」
タマキが手を伸ばした。アルダの手に、軽く触れた。
「立てますか?」
「……立てる」
アルダが立ち上がった。トワとタマキより少し背が低い。細い。着物の袖が長くて、手が見えない。
「行きましょう」
「……どこへ?」
「外へ。そこから、少しずつ」
アルダが頷いた。僅かに首を動かしていたが、たぶん、それは頷いていた。
◇
ホールの外に出た。石畳の道を戻った。光の粒が、アルダの周りを漂いながらついてきた。
帳の間の門を出た時、アルダが立ち止まった。
空を見上げた。
太陽がある。雲が流れている。風が吹いている。鳥が鳴いている。
ずっと帳の間の中で、霧に閉じ込められていた少女が、初めて空を見た。
「……」
アルダが何も言わなかったが、灰色の目が、わずかに揺れた気がした。
「綺麗ですよね、空って」タマキが隣で言った。
「……うん。きれい」
石畳を歩きながら、アルダは何度も立ち止まった。鳥を見て立ち止まり、花を見て立ち止まり、雲を見て立ち止まる。
「……あれ、なに?」
「鳥です」
「……とり」
「飛ぶ生き物です」
「……とぶ」
「アルダさんは、空を飛びたいですか?」
「……わからない」
「わからないでいいんですよ。これから、少しずつ知っていけば」
ハルが後ろからメモを取っていた。
「『アルダさん、初めて鳥を見て立ち止まる。所要時間二十秒』」
「ハルちゃん、何のメモ取ってるんですか」
「アルダさんの記録です。総主さんから感情が返ってきた直後だから、変化が早いはずなんです。記録しておけば、後で本人に見せられます」
「……記録?」ハルの言葉に、アルダが反応した。
「はい、アルダさんが今、何を見て、何を感じたか、書いています。見ますか?」
アルダがメモ帳を覗き込んだ。
「……『初めて鳥を見て立ち止まる』」
「そうです」
「……わたしが、立ち止まった、と書いてある」
「はい」
「……これ、わたしの、こと?」
「アルダさんのことです」
アルダが、メモ帳をしばらく見つめた。
光の粒が、また一つ、彼女の手の中に吸い込まれた。
ミコトは配信を続けていた。
『皆さん見てくださってますか? アルダさんが、初めて空を見て、初めて鳥を知って、初めて自分の名前が書かれたメモを見て、ちょっとずつ感情を取り戻しています。ほら、また光が一つ吸い込まれました!』
配信のコメント欄も、いつもと違う雰囲気だった。
> なんかこれ……良いな
> ボス戦の後の癒し回みたいだ
> アルダちゃん、初めて世界を見てるんだな
> 紡世者って世界のルールを作る側だったのに、世界そのものは見てなかったってことか
> 切ない設定だな
> タマキさん優しい
> ハルちゃんのメモが効いてるのいいな
> トワは何してんの?
> ↑ 後ろで黙って歩いてる
> ↑ それでいいんだよ。トワはいるだけで安心感がある
> ↑ いるだけで安心感って、犬じゃん
> ↑ 旅人犬
ミコトがコメント欄を見て吹き出した。
「『旅人犬』だそうです、トワさん」
「おい……俺は犬じゃないぞ」
「でも、安心感はありますよね」タマキが頷いた。
「タマキは同調しないでくれ」
「えへへ……すみません。でも、トワさんがいると安心できるのは、本当です」
「まあ……俺もタマキがいると、安心する」
「こら、そこ! 公衆の面前でいちゃいちゃしない!」
「いちゃいちゃはしていないが――」
「「してます!」」
「……すまん」
◇
黄金棟の前に戻ってきた。ヴァルタが入口に立っていた。
「アルダさん」
ヴァルタが声をかけた。アルダが立ち止まった。
「……ヴァルタ?」
「私のこと、わかりますか?」
「……知ってる。同じ……追放された人」
「ええ」
ヴァルタが微笑んだ。
「あなたは長い間、一人でしたね。私たち六人も、それぞれの罪で追放されて、それぞれの場所で過ごしていました。でも、あなたは違った。あなたは、罪がなかった。生まれただけで、罪を着せられた」
「……うん」
「これから、私たちのところにも遊びに来てください。湯楽郷でセノンが温泉を用意します。星見座でルシアが芝居を見せてくれる。マリスが商売を教えてくれる。テオが地下競技場の落書きを見せてくれる。ギセルがたぶん、殴り合おうとしてくる」
「……ぜんぶ、たのしそう?」
「楽しいかどうかは、あなたが決めます」
アルダが頷いた。
「……行く。たぶん」
「お待ちしています」
ヴァルタが恭しく一礼した。スーツの袖を払うような、紳士の仕草だった。
光の粒が、また一つ、アルダの中に吸い込まれた。
◇
島の港に到着した。
港には、島から出る六万人のプレイヤーが集まっていた。最後のお別れをしている者、記念写真を撮る者、泣いている者、笑っている者。
仲間たちが、トワを待っていた。ゼクス、アストレア、ヴェノム、レナ、レクト、ダリオ、オーレン、バルト、カイン、リゼ、マルク、ソラ。〈深紅の牙〉も〈黒翼騎士団〉も〈聖銀の盾〉も〈黄金の燐光〉も〈白霧の進軍〉も〈蒼穹の翼〉も。
「トワ」レナが手を振った。「アルダさん、無事に連れてこられたんですね」
「ああ」
アルダがレナを見た。レナがにっこり笑って、手を差し出した。
「初めまして! 〈深紅の牙〉のレナです!」
「……アルダ」
「アルダさん、よろしく!」
アルダがレナの手を見た。手の差し出し方を知らない様子で、しばらく固まった。それからゆっくりと、自分の手を差し出した。レナがその手を握った。
光の粒が、また一つ、吸い込まれた。
ゼクスが少し離れた場所に立っていた。
「アルダ。〈黒翼騎士団〉のゼクスだ」
「……知ってる。糸蔵で、あなたはいた」
「いた」
「……あの時は、しゃべれなかった」
「今は喋れるか」
「……たぶん」
「なら、いい。多くを語る必要は無い」
ゼクスがフードを少し下げた。普段見せない素顔の上半分が見えた。ゼクスなりの「初対面」の挨拶らしい。
◇
アストレアが鎧の音を鳴らしながら近づいてきた。
「アルダさん。聖騎士アストレアです。あなたを守るのが、私の最後の仕事です」
「……守る?」
「これから外に出ますから。あなたは初めての外です。何があるかわからない。私の鎧の後ろに隠れてくれれば、安全です」
「……重そう、その鎧」
「重いです。矜持込みの重量です」
「……???」
「気にしないでください、アルダさん」ハルが横から囁いた。「アストレアさんの矜持発作です。発作が出たら、流すのが正解です」
「アストレアさんの、矜持発作」アルダが復唱した。
「それです」
「……記録、する?」
「お願いします」
光の粒が、また一つ、吸い込まれた。
◇
ログアウトの時間になった。
六万人が、それぞれの方向で空に向かって手を振った。「常世島よ、ありがとう」「最悪だったけど面白かった」「もう来ない、でも、忘れない」。
システムメッセージが空に大きく表示された。
【──常世島イベント終了──】
【参加者全員に「常世島踏破」の称号が付与されます】
【常世島は今後、低レベル帯の観光区画として開放されます】
【七幹部はNPCとして引き続き島で運営を担当します】
【お疲れ様でした】
称号付与のシステム音が、六万人分、同時に鳴った。光が島中で瞬いた。
プレイヤーたちが、一人また一人とログアウトしていった。光の粒になって、空に消えていく。
最後まで残っていたのは、トワとタマキ、それから仲間たち、そしてアルダだった。
「お前は」トワがアルダに聞いた。「どこに行きたい」
アルダがしばらく黙った。それから、答えた。
「……あなたたちと、いる」
「俺たちと一緒にいる必要はないぞ。ソルシアや原初の世界でもいい。お前は好きな場所に住める」
「……どっちも、知らない」
「なら、全部行ってみるか。気に入ったところに住めばいい」
「……うん」
彼女の周りに漂っていた光の粒は、ほとんど吸い込まれていた。残りはほんの数粒。完全に取り戻すには、まだ時間がかかる。だが、最初よりずっと、彼女は「人」に近づいていた。
――常世島の港には、夕日が差し込んでいた。
観光NPCとして残った七幹部だけが、それぞれの場所で、新しい仕事を始める準備をしていた。ヴァルタはカジノのテーブルを磨き、ギセルは闘技宮の砂を整え、ルシアは星見座の幕を上げ、テオは奈落の地下を改装し、マリスは宵市の値札を書き直し、セノンは湯楽郷の温泉を温め直していた。
そして帳の間には、もう誰もいない。アルダの椅子だけが、空のホールにぽつんと残っていた。
常世島、最終日の夕方となった。